あれから数日が経っていた。
時雨の頬の傷は、もう塞がっていた。
龍田は医務室で二日、過ごした。体に異常はなかった。でも明石が「念のため」と言って聞かなかった。
提督も何も言わなかった。だから龍田も、何も言わなかった。
三日目の朝。
龍田は桟橋に出た。海を見た。波が静かに揺れていた。いつもと同じ海だった。
でも。
あの夜のことが、まだ胸に残っていた。天龍の声が。時雨の涙が。提督のあの一言が。
「龍田さん」
時雨が来た。
「時雨ちゃん」
「もう出てきて大丈夫なんですか」
「ええ」龍田が微笑んだ。「明石のお墨付きよ」
「...そうですか」
時雨が隣に立った。二人で海を見た。
「時雨ちゃん、ありがとね」
「こちらこそ」
波が揺れた。お互いにもう、言葉は要らなかった。
ーその日の朝
龍田が天龍を連れて執務室に来た。
提督が書類から顔を上げた。天龍を見た。天龍が提督を見た。
提督がしゃがんだ。目線を合わせた。
「初めまして」提督が静かに言った。
天龍がじっと、提督を見た。長い間、見た。
「...てとく」
「ああ」
「おかあさんが、まもった、てとく?」
提督が少しの間、黙った。
「詳しくはわからない。でも」提督が静かに言った。「お前のお母さんを探す。それは約束する」
「...ほんとに?」
「ああ」
「うそじゃない?」
「うそじゃない」
天龍はしばらく、提督を見ていた。それから龍田を見た。龍田が小さく頷いた。
「...うん」
天龍が龍田の服をぎゅっと掴んだ。離れなかった。
天龍が鎮守府に現れてから、半日も経たないうちに噂が広がっていた。
食堂に全員が集まった。というより、天龍を見に集まってきた。
天龍がきょろきょろと食堂を見渡した。人が多かった。にぎやかだった。龍田の服をもう少し、強く掴んだ。
最初に近づいたのは曙だった。近づいた、というより気づいたらそこにいた。
天龍が曙を見た。曙が天龍を見た。二人で、見合った。
「...なに」曙が言った。
「...なに」天龍が言った。
曙がため息をついた。懐から煎餅を取り出した。天龍の前に差し出した。
「食べる?」
天龍が煎餅を見た。龍田を見た。龍田が頷いた。
天龍が煎餅を受け取った。かじった。固かった。
「...かたい」
「そういうもんよ」
「...でも、おいしい」
曙が前を向いた。顔が少し赤かった。
「別に深い意味はないから」
金剛が天龍の前にしゃがんだ。
「ハーイ! ウェルカム、ウェルカム!」
天龍がびくっとした。
「こわくないよ!私は金剛デース!」
「...こんごう」
「そう!金剛ネ! 覚えてね!てんりゅう!」
天龍が龍田を見た。龍田が頷いた。天龍がまた、金剛を見た。
「...うん、こんごう、覚えた」
「グッド!!」
金剛が立ち上がった。
時雨が天龍の前に、静かにしゃがんだ。
「天龍さん」
天龍が時雨を見た。時雨の頬を見た。傷を見た。
「...ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」時雨が静かに言った。「かすり傷です」
「でも血が」
「もう止まっています」
天龍が俯いた。
「じろうちゃんを、きずつけた」
「時雨です」
「...じろうちゃん」
時雨は苦笑した。
「天龍さん」
「うん」
「龍田さんをずっと、守ろうとしていたんですね」
天龍が顔を上げた。
「...うん」
「それはわかっていました」時雨が静かに言った。「だから、大丈夫です」
天龍は時雨を見た。長い間、見た。それから小さく、頷いた。
赤城が遠くから、天龍を見ていた。体が反応していた。訓練された本能が、警戒を叫んでいた。
でも目の前の子供は龍田の服を掴んで、小さな角をぴくぴく動かしているだけだった。
赤城は静かに息をついた。
敵意がない。それだけで十分だった。
明石は天龍を見ていた。じっと、見ていた。
他の全員が天龍の反応を気にしている中、明石だけが別のことを考えていた。
「...精神エネルギーが物質に転換された」
独り言だった。小声だった。でも聞こえた。
「半透明の腕の部分、艤装に近い構造をしている。自律的に生成された艤装もどきか、それとも深海特有の物質化現象か」
手帳を取り出した。メモを取り始めた。
「この原理が解明できれば精神エネルギーの物質転換装置に応用できる。いや待って。そもそも精神と物質の境界がどこにあるのかを先に定義しないと。分離機の作動原理とも関係しているはずで——」
「...明石」曙が言った。
「ちょっと待ってください今大事なところで——」
「明石」
「——あかし」
天龍が言った。
明石が顔を上げた。天龍が明石を見ていた。
「じろうちゃんを、たすけてくれた?」
「...時雨さんを、はい」
「ありがとう」
明石が固まった。手帳を持ったまま、固まった。
しばらくして小さく言った。
「...どういたしまして」
手帳をしまった。頬が少し、赤かった。
曙が明石を見た。
「さっきまでの分析はどこ行ったの」
「...うるさい」
四、龍田と天龍
夜。
龍田と天龍が部屋にいた。二人きりだった。
天龍が自分の手を見た。握ったり、開いたりした。
青白い手だった。半透明の部分が灯りに透けていた。
「たつた」
「なに」
「からだが、ある」
「ええ」
「...ふしぎ」天龍が続けた。「ゆめのなかとちがう」
「そうね」
「あたたかい? さむい?」天龍が自分の手を見た。
「少し冷たいわよ」龍田が天龍の手を握った。「でも、ちゃんとある」
天龍が龍田の手を、握り返した。
「たつた」
「なに」
「なまえ」天龍が静かに言った。「てんりゅう、というなまえ、どこからきたの」
龍田は少しの間、黙った。
「お姉ちゃんの名前よ」龍田が静かに言った。「もういない、お姉ちゃんの」
「...いない?」
「ずっと前にいなくなったの」
天龍が龍田を見た。
「かなしい?」
「...ええ」龍田が微笑んだ。「でもあなたにその名前をつけた時。少しだけ、楽になった気がした」
天龍が龍田の手を、もう少し強く握った。
「たつた」
「なに」
「ありがとう」天龍が静かに言った。「なまえ、くれて」
龍田は答えなかった。ただ、天龍の手を握り返した。
灯りが静かに揺れていた。
五、提督と龍田
翌朝。
執務室で提督が書類に向かっていた。
龍田が入ってきた。
「少しいい?」
「ああ」
龍田が椅子に座った。しばらく黙っていた。
「...いつから、気づいていたの?」
提督が少し、間を置いた。
「最初から何かおかしいとは思っていた」
「...最初から」
「記憶が飛んでいる様子。訓練中の空白。笑顔がいつもと違った」提督が続けた。「日に日にぼうっとしている時間が長くなっていた。笑顔が戻るまでの時間も、少しずつ遅くなっていた」
龍田は黙った。
「確信が持てなかった。だから明石に相談した」
「明石に?」
「ああ。お前に気づかれないように」
龍田はしばらく、黙った。
装置のことが頭をよぎった。試作品だった。でも最初から、準備していた。
この人は。何も言わなかった。笑顔で流してくれていた。でもずっと、見ていた。
「...やはり」龍田が静かに言った。「提督には、隠し事はできませんね」
愛想笑いではなかった。作ったものではなかった。気づいたら笑みが、溢れていた。
龍田自身も少し、驚いた。こんな笑い方をしたのは、いつぶりだろう。
提督がその顔を見た。少しの間、見た。それから。
龍田の頭にぽんと、手を置いた。
「まあ、お前が無事でよかった」
それだけだった。言葉は、それだけだった。
龍田は前を向いた。
最初から見ていた。最初から動いていた。何も言わずに。ただ、隣にいた。
胸の奥で何かが、静かに揺れた。頬が少し、温かかった。
視線を窓の外に向けた。波がきらきらと光っていた。いつもと同じ海だった。でも今日は少し、眩しかった。
「次からは言え」提督が静かに続けた。「それだけだ」
「...わかったわ」
「約束だ」
「...約束よ」
天龍が扉を開けて入ってきた。龍田の隣にぴたりとくっついた。
「てとく」
「なんだ」
「おかあさん、いつさがす?」
「もうすぐだ」提督が静かに言った。「みんなで、一緒に行く」
天龍が目を輝かせた。
「...ほんとに?」
「ああ」
「ぜったい?」
「ぜったいだ」
天龍が龍田を見た。
「たつた」
「なに」
「いっしょに、いく?」
「もちろんよ」龍田が微笑んだ。「一緒に行くわよ」
天龍がまた、龍田の服を掴んだ。今度は少し、緩やかに。安心したように。
提督が二人を見ていた。何も言わなかった。