夕闇を通り越し暗闇に移り行く重い色の空に、白いひび割れが走っていた。誰もが驚きと不可思議を感じ、ざわめきながら空の様子を窺っている。
「ほー……これくらいの魔法を使える者ならいるのだな。何処から誰当てだ、お前らか?」
「……恐らく我々だ。本国からの監視だろう」
「ほーほー。このアイテムで防御どころか制御権を喪失して逆探知もされている辺り、精々が単発の第八位階魔法……それでも今までよりはずっとマシな部類だな」
フィーネは耳から下がる金のイヤリング──小さな剣に似たデザイン──に触れながら呟く。
フィーネの装備するマジックアイテムの一つの能力によって、ニグンの本国からの情報系魔法は完全に露見し固定化されている。最早向こう側からは切る事も出来ない。
「私がそこら辺適当で良かったな。もっと常識的な輩が相手だったら攻性防壁からの攻撃魔法との連動で今頃向こうは吹っ飛んでいただろうよ。──しかし、これは嬉しい誤算だ……過信は禁物だがやっぱりいる処には強い奴もいるのだな……」
フィーネは意地の悪い笑みを浮かべると、わざとらしくニグンに問う。
「おい、どうしてほしい? ニグンよ。私はこっち系統は得意じゃないが、それでもやろうと思えばこの情報系魔法を通り道として使用し、向こう側に致死の呪いを撒き散らす事も出来るぞ? お前たちの仲間にそれを防げる者はいるか? お仲間がみーんな死んじゃうかもよ?」
「──ま、待て!」
「冗談だよニグン、そんなつまらない事はしないさ。それにしても、お前のその反応は気になるな。私の機嫌を損ねない様にしていたお前であるのに、こうして未だ、私の残虐さに対して反発を露にする余裕がある」
フィーネの顔に広がる再度の笑み。今度のものはわざとらしくもなく、意地が悪くも無く、怖くも無い。自分の望みは叶うかもしれない、と希望を見出した子供の笑みだ。
「いるんだな、ニグン。お前の国には強者がいるんだな。私と私の軍勢を目の当たりにしたお前をしてなお、希望となり得るだけの強者がいるのだな!」
フィーネは激しい笑いを爆発させた。背をのけぞらせて大いに笑った。誰も彼もを置き去りにして、ただ一人歓喜に沸き上がり、嬉しい楽しいとただ笑った。
「やっぱりそうだよな! そうだそうだ、雑魚しかいない世界で好き放題暴れた所で何も楽しくない、そうじゃなきゃいけない! 貰った力で有象無象を見下しただ君臨するだけなど最悪だ、死に臨み、死に打ち勝つ! 強敵を打ち破る! そうでなければ生きている意味がない! やっと楽しくなって来たなぁ!」
タガの外れた様な大音声は、ただ大きい声だというだけでなく、何か超自然的な力でも籠っているかのように周囲を威圧する。
威風か、気迫か、それとも魔力か。フィーネの身体から放たれる不可視の波動に草木はざわめき、生きとし生ける者は背筋に怖気を走らせ、本能的に一歩離れた。それは敵である人間たちだけでは無く、味方である筈のフィーネ軍すら同じであった。
「離れよ、全員森まで下がれ! フィーネ様が……なんだか分からんがご機嫌でいらっしゃる、何が起きても巻き込まれんよう下がるのじゃ!」
指揮官の様な地位にあるのだろうナーガが叫ぶと、その指示にモンスターたちは従い──言われずとも近寄ろうなどという者はいなかっただろうが──自分たちが出てきた森まで下がった。
一方力の波濤に叩き起こされた戦士が、陽光聖典の隊員たちが、『逃げろ』という有無を言わさぬ本能の命令に従いかけるが、周囲は化け物だらけで既に日は落ち視界は効かない。
この場に居ても命は無いと本能は叫ぶが、逃げても死ぬだけでは無いかと理性が待ったをかける。板挟みにあった彼らは結局、自分たちの長──ニグンと意識を取り戻したガゼフ・ストロノーフの傍に集った。怖がりな子供が、両親の懐に飛び込む様に。
ガゼフからすれば何から何まで訳が分からずただ困惑するばかりであった。死の寸前に助けられたかと思えば恩人は人類の天敵を名乗り、今は生かして返すがやがて戦場で殺すとのたまい、自らはいつの間にか気を失って起きたかと思えば身体は全快していて目の前には只ならぬ威圧を放つ問答無用の怪物がいるのだ。
事ここにあって、ニグンとガゼフは敵対者では無くなっていた。二人は、陽光聖典と戦士団は『人間』という利害を共有するか弱き同志であった。言葉を交わすまでも無く、二者は意思疎通が成立する立場の者として肩を並べる。
「あれは──あれはなんだ!」
「知らん! ただ、我々人類にとって良くないものである事だけが確かだ!」
幾多の恐れの視線の先、フィーネは上空のひび割れに向けて傲然と歯を剥いた笑みを向け、そして紅の魔剣を振り上げ、叫んだ。
「丁度良い、宣戦布告だ! 人族よ、己らが何を敵に回すか見てみるといい……!」
魔剣が閃く──しかしその切っ先が向かう先は周囲の誰でも無く、己の心臓だった。
フィーネは深々と己の身体に刃を突き立てた。一気に背中まで貫通し──次いで、フィーネの全身から炎が溢れ返る。
炎は一瞬一瞬ごとにより大きく激しく、更に熱量を上げ、僅かな間に天を焦がす大火となって太陽を失った周囲を明るく染め上げた。
有象無象の者共が上げる悲鳴はますます高くなり、暗い空が絶叫で溢れ返る──そして、ニグンは見た。ガゼフも見た。遥か見上げる巨大な炎の内から何かが出てくるのを。
それは大きな生き物だった。巨大で、力強く、強大なる王者であった。
それは六肢の生物だった。
一対の紅翼はどんな天幕よりも広々としていて、小山すら覆うだろうというほど。太く頑強で筋肉が隆々とした四肢は森の古老と言われる大樹に勝るとも劣らない。
全身は紅蓮の鱗で覆われていた。一枚一枚がこの世のどんな盾よりも尚勝る堅い鱗。
一切の武装も装飾品も纏わぬのは、その身そのものがどんな武器防具よりも財宝よりも勝るが故。
その体躯はこの場で最も古き竜たるオラサーダルクよりずっと太く大きく逞しく、遥かに暴力的で、この上なく猛々しい。長剣に匹敵する牙がずらりと並ぶ口は紅蓮の焔を吹き荒れさせ、まるで火山の火口か地獄の洞穴であった。雄大なる巨角は両側頭部を守るように捩くれて渦を巻き、先端が二股に分かれて前方と天を指している。
知らぬ者はこの世にいないであろう余りにも知名度の高い、しかし誰も知らない強大さの怪物に、ニグンは自然と全てを理解して苦鳴を漏らした。
人の天敵。人の世に仇名す者。人族の歴史に終わりを齎す赤い悪夢──破滅の担い手。
「破滅の、竜王……!」
全身が暴力を体現していた。巨大な体に隙間なく武力を詰め込んでいた。ただただ強大な力が最も破壊に適した姿を選んだようで──それは正に赤き大竜であった。
「グルゥオオオオオオオ!」
『人間形態』であった時のフィーネとは似ても似つかぬその咆哮は天地を揺るがし、特に敵対者である人間の心胆を寒からしめた。幾人かが本能的な恐怖に負け、心臓を停止させて地に横たわる。
ただ叫ぶだけで生物に死を選ばせるその存在、フィーネの『竜化形態』は文字通り、規格外に巨大なドラゴンのものに相違なかった。
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この世界に来てから初めて竜化したフィーネを包んでいたもの、それは圧倒的な快楽──解放の快感であった。
四肢には力が、腹の内には尽きぬ炎が、脳の奥には無限の闘争心が。人に近い姿をしていた時とは比べ物にならない己の力がこの上なく心地良い。人間であった現実の時は比べ物にならない、ゲームであった竜の時とも比べられない。
ユグドラシルにおいて王の位にまで上り詰めたドレイクの竜形態は、プレイヤーに許された範囲では最大級の大きさと力を持っていた。しかし、同時に人間とは全く体型が異なる六肢である事、現実の肉体と比べて数十から数百倍の大きさを持つ事などが、その力を十全に発揮する上で壁となって立ちはだかってもいたのだ。
四つ足で駆け、背の翼で羽ばたく。其処まではまだいい。しかし、プレイヤーが操作できる種族中最大級の、人間の数十数百倍の体躯で。此処が問題だった。余りにも大きすぎるのだ。強いのだがそれ以上にデカすぎて的になりがちだった。それに、動かしづらい。
ただ単純なこの事実がドレイクのドレイクたる力を発揮する壁となり、人間以外の身体に対して異常な適応を示した極一部の特異なプレイヤーだけが身体の十全な操縦を実現化させ、殆どの高位ドレイクプレイヤーは竜化形態を死に体にしない為にフィジカルマスターの職業を得てシステムのアシストを手厚く受けるか、竜形態をロマン形態と割り切って人間形態を生かす職業構成を詰めるかの実質二択を迫られた。
この、ゲームシステム上の制限は無くとも人間が操作する以上実質的に外せない制限が存在するという状態が、こと戦闘に限っては随一と言える高位ドレイクの枷と言えば枷だっただろう。
そもそも蛮王は到達すること自体が困難を極める最上位種族であるが、ドレイクから蛮王に至った以上ドレイク種族の枷からは逃れられない。フィーネも例に漏れず、計三十レベルを割いてフィジカルマスター、ハイ・フィジカルマスター、ハチメンロッピという職業を得て竜形態の能力を強化し、身体操縦のアシストを受け、様々な特殊能力を得ている。
だがそれもゲーム時代の話だ。今のフィーネはなんの問題も無く、人間形態から竜形態の比較するのも馬鹿らしいサイズの変化、文字通り桁違いの自重の変化に問題なく対応していた。リアルで人間だった時と同じくドレイクの人間形態を操り、それと同じ次元で竜形態の身体を操る事が出来るのだ。
今のフィーネはこの小山の如き大いなる身体で、一人の人間相手に問題なく肉弾戦を行う事が出来る程身体操作に卓越している。人がネズミと格闘戦をするに等しい体格差に問題なく対応できるのだ。
今まさに己は蛮王たるドレイク──全てを破壊し尽くす蛮族の頂点だ。今ならどんな敵にだって勝つことが出来る。
ふと一瞬、フィーネは悲しみに囚われる。
何故この身を殺し得る敵がいない。ユグドラシルで鎬を削り合った友よ、戦士の頂点たるワールドチャンピオンよ、超攻撃特化魔法職であるワールドディザスターよ、その他様々な強者たちよ──何故今目の前にいないのだ。
もし彼らのうち一人でもいてくれたら、こんな面倒な真似はしなくて良かった。どのワールドチャンピオンであっても皆フィーネより圧倒的に強い。職業的種族的な相性はあれど、戦って勝率が五割を上回る事は絶対にないだろう。
ワールドチャンピオン・ニブルヘイムなどは相性的にもプレイヤースキル的にも最悪の敵だ。十回戦って一度でもフィーネが勝てば賞賛されてしかるべき偉業と言えるくらい。つまり最高の敵だ。
彼ら彼女らのうちたった一人でも目の前にいてくれれば、それで無聊は慰められ、死に臨む熱き闘争に全てを捧げる事が出来るのに──フィーネは悲しみ、人間大の存在であった時より遥かに近付いた空の割れ目へと視線を移した。
いない敵の事を嘆いてもしょうがない、今は目の前の敵が大事だ。もしかしたら、自分が思うより遥かに強いかもしれない。殺し尽くせないほど大勢であるかも知れない。そうであったら良い、と希望を抱いて、フィーネは竜の咢を開き、再度咆哮した。
華々しく暴れ回ろう。飽きる程に敵兵を殺し、幾多の戦場で数え切れぬほどの首級を上げよう。戦って戦って戦って──立ち塞がる全てを打ち倒そう。
世界が敵に回り、我を倒し得る者が現れるまで。骸の山を天高く積み上げ続けるのだ。