――遅い……まだ帰ってこないの?
そう考えていたのはまだ若いリリパットの母親だった。つい先日、夫に緊急招集がかかり、従軍していった。日数はそれ程かからないとは言っていたが、それでも心配だ。以前、魔王軍に従軍したときは奇跡的に生還したものの――やはり多くのリリパットが死んだ。確か、前の族長もそれで死んだ。
「不~思議のダ~ンジョン~♪ 手~ごわいシュミレ~ション♪」
隣の居間から聞こえてくる調子外れの歌は、二人いる子供の内、下の息子が歌っているものだ。リリパット族にしては珍しく、将来吟遊詩人になりたいのだという。
父親は一族の掟通り、息子をいっぱしの狩人として育てるつもりだと言っているが、もし才能があるのなら―このリリパットの母親は、吟遊詩人でもいいと思っていた。
まあ、今のところ子供は幼く、まだまだ先の話であり、また、いつまでも歌に興味を持ち続けるとは限らない。そして重要なのは、今日の晩御飯の準備をし、夫が帰ってくるまで子供たちを守ることだった。
「ねえ、母さん、さっきのどうだった?」
「そうねぇ…なかなか良かったんじゃない?」
本当はかなり幼稚な歌だと思ったのだが、そこは息子への愛情があるためか、逆にその幼稚さがよかったりする。
だいたい、こんな子供がプロのオペラ歌手並みの歌唱力でヴェルディやモーツァルトの曲なんて歌った日には、うっとうしくてしかたがない。成長過程を見守るのが子育ての大変なところであると同時に、それ以上の喜びでもある。
しかし、上の長女にとっては不満だったようだ。
「母さんってば、あまりほめないでよね。また調子に乗ってうるさくしだすんだから」
他の大半のリリパットたちに代わって姉が苦情を申し立てる。
「まあ、いいじゃない、リリパも前よりだいぶ上達したんだから。この調子でいけばホイミンみたいになれるんじゃない?」
晩御飯の準備をしながらそう返事をしたときだ。
玄関のドアを暴風のように激しく叩く音がした。
こんな時間に……一体だれ? 知り合いならこんな乱暴にドアを叩かないはず……
様々な考えが頭を巡ったが、とにかく、ドアのレンズから覗いてみようと、ドアの近くに寄った。
その瞬間、落雷のような音がしたかと思うと、扉は大剣によって真っ二つにされ、そこからピンク色の鎧を装着した人間が家に悠然と侵入してきた。
「ちょっと……なんなの!? あなたは……」
言葉に窮するリリパットの主婦とは対称的に、ライアンは何の躊躇もなく弓を構えると取り出した矢をつがえた。
「お金ならあげるわ。だから何もしないで、黙って出て行って―――
これがこのリリパットの最期の言葉となった。もし許されるのなら、家族に『さよなら』の一言もあっただろうが、残念ながら死神というのは何の挨拶もなしにやってくる、そういうものなのだ。
ライアンは一度に3本の矢を放ち、それはまだセリフを喋り終えていないリリパットの心臓部に全て命中した。
リリパットの主婦は十数秒の間、胸を掻きむしりながら、陸揚げされた魚のように床の上をのたうつと、すぐに血を吐いて絶命した。
「おい」
静まり返って誰もいない空間に呼びかける。
「居るのはわかっている。早く出て来い。出てこなければ、家に火を放つ」
あの二人、歌っていた少年とその姉はどこかへ隠れていたのだろう。
このまま隠れていれば、二人とも殺されるかもしれない……
少女は一人決心すると、弟に絶対に音を立てずにこのクローゼットの中に隠れているように言い残し、ライアンの前に歩みでた。
「出てきたから、火をつけるのはやめて」
姉は全身の震えを必死に抑えながら何とかそれだけの言葉を吐き出した。
「よし」
ライアンが一歩近づいた。
少女は一歩下がる。
ライアンがもう一歩近づく。
少女がもう一歩下がった時点で、かかとが壁にぶつかった。
なおもライアンは一歩づつ、床をコツコツ鳴らしながら近づいてくる。
このまま殺される―しかし、ライアンはそのまま恐怖に立ちすくむ少女の前を通りすぎると、勝手口の方へ歩いて行き、そこのドアを蹴り破った。
「10秒やる。ここから全力で逃げろ」
――この人間は何を言っているのだろう?
少女は液体窒素をかけられたかのように硬直した。何のために? 本気なの?
「1、…2、…3、…」
ヒゲの奥から聞こえる時報に、少女は先のセリフが本気であることを悟ると、固まった足を全力で動かして兎のように駆けだした。
チラリと後ろを振り返ると例の戦士は矢を取り出し――ここまで見ればもう何をするつもりなのかは十分推理できる。少女は矢を避けやすいように、ジグザグに走りだす。
だがすぐに地面に倒れた。目で見て初めて、ふくらはぎに矢が刺さっていることが分かった。それほど鮮やかな弓術だった。遅れて、脈打つ筋肉に刺さる冷たい矢の感触が伝わってくる。まだ走れるだろうか。
窒息寸前の肺魚のような呼吸と早鐘のような心音であっても、まだもう少し――もう少しだけなら走れそうだ。
すぐ目の前にある林まで行ければ――そう思って手をつきながら、体を重機で鉄塔でも起こすように持ち上げた時――今度はもう一方の足に矢が突き刺さった。
少女がそれでも何とか痛みに耐えながら体を起こす間もあればこそ、天から降り注いだ幾本もの矢が次々と急所へ襲いかかってきた。
薄れゆく意識の中で弟の無事を祈りながら、リリパットの少女は絶命した。
「ふむ、まあ、久々にしては上出来だろう」
数十メートル先に転がっている痛ましい肉塊を眺めてそう呟くと、すぐに松明を取り出した。もうここに用はない。
――それにしても、ずい分と高価なテーブルだ――ライアンは場違いにそう思ってしまった。同じ猟師でもライアンはもっと質素だった。こうまで生活水準が違うというのはおかしい。族長の家か? もしかしたら、トルネコの言っていたダンジョンの秘密と関係あるかもしれない――そう推理しながら、火打ち石を取り出す。
「うああああああ!!」
突然の鬨の声に振り返ると、そこには一本の矢を掴むリリパットの子供がライアンへ襲いかかってくるではないか。しかも、この距離とタイミングでは弓の先制攻撃は間に合わない。並の戦士なら防弾チョッキでも着てない限り、この攻撃を防げなかった(それだけこのリリパットの攻撃はよかった)だろうが、黄金の弓に選ばれるだけの力量を持つライアンは、やはり子供には過酷過ぎる相手だった。
竜巻の速さで剣を抜くと、リリパットの顔面を横に払った。その純粋な、まだ誰かのために流す涙を持つ目を巻き込んで。
「ぎぃや゛ああああああ!!」
両目を押さえて床を転げまわる。
「ぐぎ…ぐ……」
止めは刺さなかったが、代わりにくるりと反転し、まだ途中だったカーテンに火を点ける計画を実行した。そして火が燃え上がるのを確認すると、侵入してきた表口の方へつかつかと歩いて行った。
「どこに……どこにいったんだあああ」
「どこにも行きはしない」
ライアンは火の回り始めた家を後にしながら、ボソリとそう呟いた。
もはやどっちがモンスターか分かんねえな、これ・・・