「やあ。随分と遅かったんだね」
二人の前で、一匹のスライムが薄笑いを浮かべながらそう言った。二人とも、随分と度胸のあるスライムだと思ったが、あれだけ恐怖と好奇心を煽られた分、逆に目の前の弱小生物に対する侮りと嘲りが湧き上がってきた。トルネコは、このとき目の前のスライムが一番最初に逃したスライムだと気付きもしなかったし、これからも気づくことはなかったのだが。今の二人には、窓ガラスについた鳥のフン程鬱陶しい、この青いゼリーを早々に始末することしかなかった。
「商人さん、僕のこと覚えてくれてた?」
「さあ、何のことかね~、へへへ……」
暗に指名されたことで久々に銃を撃てる……(最近はライアンの弓ばっかしだからな)
人類最強の兵器を最弱のモンスターに撃ち込む快感に、それを実行する前から思わず笑い声が漏れてしまう。『何のことかね~』も、トルネコにとっては挑発しているつもりはなく、本当に何のことか覚えていないだけのことだった。仮に、目の前のスライムについて誰かが説明してくれて、何とか記憶の片隅の地層から当時の記憶を掘り起こすことに成功したとして、それでも「それがどうした? いつものことじゃねえか」と同じ笑顔で返事することだろう。この程度は日常会話の範疇だ。こんな性格だから勇者のパーティーでも補欠だったのかもしれない。
「そうか、僕はちゃんと覚えていたのに、残念だな」
「うれしいねえwwこんな、いち商人をわざわざご記憶あそばしてくださってww」
スライドを引きながらおもむろに一歩ずつ近づいてゆくトルネコ。照準をつけ引き金を引いた――と共に反動と破裂音がする。まともに弾丸を喰らったスライムは地面に青いしみを作ってきれいさっぱり弾け飛んだ――はずだったのに。
実際には真後ろにいるライアンの足元へ向けて発砲していた。撃ってからしばらくの間、トルネコは独楽のように高速で回転し続けた。
回転板上で一人フィギュアスケート状態の商人をこんな場所で目撃したライアンだったが、長年軍隊で鍛えた精神はすぐさま弓で反撃するように手足を動かした。
しかし、スライムはこのわずか1秒に満たない激動の瞬間にすでに通路の奥に走り去っていたため、矢はライアンの操作にもかかわらず、壁に突き刺さっただけだった。
「ウェ…オウウウウェ…!!」
450回/sの強烈な回転が生み出す遠心力は、トルネコの三半規管をズタボロにする。そのひずみが生み出す気分の悪さ――皆も十分経験したことがあると思う――がトルネコに惨めな声を上げさせた。
「オウゥエエエエ!!グゥアアア!ヴアアアッ!!」
まだ続いているようだが、幸い食事前だったので口からは涎が糸を引いているだけである。
とりあえず、ライアンは近くの罠を踏んでしまわないように慎重にトルネコに近づくと、その背中をさすってあげた。
「大丈夫か?」
ライアンの手には、冷や汗がにじんでじっとりとした感触が伝わってきた。油ぎった手を眺めながら、滑って武器の扱いに影響が出ないように拭いておこうと思った。だが、それよりも拭い去るべき恐怖が先にやってきた。
バーサーカー(Lv9)がこちらの様子をうかがっていたのだ。
とはいえ、ライアンの精神は崖の上で後輪だけで踏ん張る車のごとく、ギリギリの状態でなんとか崩壊を免れていたので、すぐに黄金の弓を引き絞っり3本の矢を放った。
3本の矢はバーサーカーの急所に向かって飛ぶはずだったが、さっきのトルネコの油がアダになった。ヌルリと滑った矢は、それでも一本だけはバーサーカーの急所へ向って飛んで行き、命中した――はずだったが、目の前でバーサーカーはその矢を掴んだのだ。
もうこれで、次の弓攻撃はできない。間合いが近すぎるからだ。
ライアンの精神が最後のエンジン音を上げて抵抗している最中、2発の銃声が響いた。その内、一発はライアンの兜をかすめて(そのとき短くチリッと音がした)全く見当違いの方向へ飛んで行った。もう一発は天井への最短距離を突き進んでいった。
このときトルネコはすでに、えずきは収まったものの、依然として深い酩酊・混乱状態にあった。駅にいる酔っ払い同様、見える世界のすべてが変形し、重力が壊れた歯車のように回転している中で撃つ銃は、威嚇どころか危うく同士討ちになるところだった。
とにかく、前後に挟まれてはどうしようもないので、ライアンは持っていた回復の杖をトルネコに向けて振った。
またもや2発の銃声がしたが、今度は正確にバーサーカーの方へ飛んでいくと、一発は盾を貫通した。トルネコ達はその隙に通路に逃げ込むと、手榴弾で通路を完全にふさいだ。
だが、通路を完全に塞いだところで、二人に時間がある訳ではなかった。バーサーカーには壁を掘る能力がある。その上、このフロア全体の地理もおそらくは把握しているだろう。二人が進んだ先にはまたしても部屋が――そこには予想通り、あのスライムが何とも言えない微笑を浮かべながら鎮座していた。
「どうしたの? けっこう遅かったみたいだね」
「調子に乗るんじゃねぇよ、青うんこが」
「へぇ~ここら辺の豚はよく喋るんだね」
ライアンの目の前では、魔物と人間の微笑ましい言葉の応酬が繰り広げられていたが、今まさにそれにも飽きたトルネコによって一方的な幕が引かれようとしていた。
「お前とはもう少しお話したかったが、こっちは今急いでいるんでね。あばよ」
トルネコが引き金を引いた。だが、そこにあった銃は、いつの間にか消えているではないか。
「……!?まさか」
装備外しの罠か、ゲリ糞ウンチがシャレたことしてくれるじゃねえか、だがその無駄な抵抗はお前のその無駄な命を無駄に数秒長引かせただけに過ぎないがな、ヒャハハハハと言おうとしたが、それはスラ吉の次の一言によってこの世に発声される機会を永遠に失ってしまう。
「そろそろ自分の身の安全を考えたらどうかな? それとも何かなりたい豚肉料理でもあるの? あ、でもトンカツだけは勘弁して欲しいけどね。これ以上油っぽくしたら食べれないでしょ?」
トルネコはすかさず銃を再装備した。もはや、頭の中には目の前の青うんこを撃ち抜く以外になかった。
「その銃は自分を守るために使ったほうがいいんじゃないかな? そろそろ……」
「奴が来た……!」
ライアンが後方を振り向くと、そこには焼け跡のついた斧を持つバーサーカーがいた。あのときも、この斧で壁を掘って難を逃れたのだろう。
「な……! もう来たって言うのかよ」
「じゃ、ゆっくりしていって。僕はこの辺で」
「あっ、待て、コラ、逃げんじゃねえぞ」
トルネコはこのとき未練がましくスライム一匹にこだわったことを、後々激しく後悔することとなる。それも、ライアンが、トルネコの隙をついてバーサーカーが投げた斧から身を守ってくれたおかげだろう。もし、ライアンがトルネコを押しのけていなければ、いかにトルネコの肉の鎧といえども命はなかったろうし、ライアンが助けたからこそ、より一層自責の念、スライムの挑発に乗って冷静な判断力を失ってしまったことが悔やまれたのだった。
とはいえ、そう思ったのはもっと後のことで、この時点ではそこまで考える余裕はない。
ライアンのとっさの判断で押し出され、トルネコの肩ロースの付近を斧がかすめた後、トルネコの足は転び石をもろに踏みつけ――そこで記憶は途切れている。次に記憶のフィルムが継がれたのはトルネコの自宅で、だった。
ただ、転び石を踏んづけた瞬間に――これじゃあ犬の糞を踏んだ方がまだマシだ――そう思ったことだけは鮮明に覚えていた。
暗い通路を駆け抜けていると、背後で低い爆発音が轟いた。音の大きさから判断するに、大型地雷×5を踏んづけたのだろう。
まさかここで終ってしまうとは……2次爆発(おそらく商人の持つ銃砲火器に引火したのだろう)の音を聞きながら、スラ吉は少しあっけない気分を感じた。復讐を成し遂げた充実感はあまりない。結局のところ、あの商人を倒したところでかけがえのない仲間たちは誰一人として戻ってこないのだから。それでも、これを人生における一つの区切りとすることは可能だ。
幸い、スラ吉は今や完全に一人ぼっちな訳ではない。族長やリリパがいるし、できれば誰か他のモンスターとも一緒に破壊されたダンジョンを再建するという目標も芽生えつつあった。
そう考えている途中に、もはや使う必要のなくなった第3の部屋に到着した。本当はここで倒す予定だった。あの、初めて奴と出会った日―部屋の隅へ追い詰められたときを再現し、罠にはめて見事に逆転してみせるつもりだったのだ。あの左隅に鉄球を作動させるスイッチがある。奴が追い詰めたと思ったところで罠を発動、鉄球で吹っ飛んだ奴は、部屋の地雷原へ放り込まれる――後はさっき、第2の部屋で起こったことと同じだ。
バーサーカーの出現で、計画は前倒しになったが、もうそんなことはどうでも良かった。
この第3の部屋に入ってきた、もう一人の人間と目が合うまでは。
はぁっ、はぁっ… …
体中から嫌な汗が噴き出していた。そいつとは1,2秒の間目を合わせていただけだっ たが、状況を悟ると僕はすぐに元来た通路を駆け戻った。
――あいつは、一体なんだったんだ……?
おそらく向こうも同じことを考えているに違いない。でも、出会った瞬間はとにかく逃げることで一杯一杯だった。
通路の暗がりの中、何度も背中に人間の視線を感じた。そんなことはないのだけど、頭の中の幻想では、人間はすぐ後ろまで迫って来て、今まさに掴みかかろうと手を伸ばそうとしている……
急に明るく熱い部屋に出た。さっきの第2の部屋だ。
「どうした? そんなに息切れしよって。地獄の商人はこの通り、きれいに吹っ飛んでくたばりよったわ。ハハハハハ!」
「それどころじゃないんだ」
絶対に出てきては駄目だと言い残してきたのに、パトリックの背中には金色に光る弓が傾げられていた。使うことは無理でも、一族の象徴を取り返したことで、パトリックは今までにない位上機嫌だった。でも今はそれどこじゃない。新たな脅威が現れた以上、とにかく早く撤退しなくてはならない。
僕は今起こったことと、もうすでに切り札は全て使い尽くしたことを説明し、早く逃げるように言った。
「そうか、分かった。」
だが、次の一言は僕をイラ立たせることになる。
「お前は先に行け。わしはこの商人にまだ用事がある」
「何言ってるんだよ! 早く逃げてよ」
そのとき、ふと商人とピンク色の戦士のすぐ傍に、もう一人倒れている人間がいることに気づいた。いや、人間じゃなくて、バーサーカー(Lv9)だ。
「…………」
そのつもりはなかったとはいえ、巻き込んでしまったことに僕は言い知れぬ罪悪感を感じていた。あたりには地雷に引火して燃え盛るナパームが所々にあったけど、それを避けながら近づくと、口でバーサーカーの腕をくわえて、引きずって行った。今なら、まだ何とか助かる。
「おひさん、てつはってよ」
「ん? 何だ、今なんて言った?」
「おじさん! そんなことをしているなら早く逃げるか手伝ってよ! もうやつが来るかも知れないのに……」
「ふん、お前にとっては『そんなこと』でもワシにとっては重要なことだ。一族の尊厳に関わる大事なことだ!」
「おじさん……」
僕はもう、誰にも死んで欲しくなかった。このまま放っておけば、僅かに残った命すら、さっきの人間に始末されてしまう。
「それにな、バーサーカーは基地外だ。戦いだけが楽しみの修羅だ。そんなもん、助けるだけそっちの方が無駄だぞ。きっと、目覚めれば躊躇なくお前を殺す」
そう言いながら商人の道具袋(もう焼け焦げてボロボロだ)を漁る。
「あった、これだ」
どうやら、あの壺――商人が最も大事にしていた死体入れだ――を見つけたようだ。
だが、見た目と違ってかなり重たかったようで、(それもそうだろう、膨大な量の死体が入っているのだから)残った右腕だけでは引きずるようにして運ぶのが精いっぱいのようだった。
「頼む、手伝ってくれ!」
壺の中にはたくさんの死体が入っている。僕の仲間やスラ美ちゃん、そしておじさんやリリパの一族たち……でも、所詮みんな死者でしかない。壺をうまく取り返したところで、誰も復活したりはしない。せいぜい墓でも作って供養することくらいだ。それなら、目の前の命を助けることの方が余程大切じゃないか。もうこれ以上誰にも死んで欲しくはない ――こんなささやかな願いすら神は聞き入れてくれないのだろうか……僕の中に虚脱感が芽生えたときだった。
「スラ吉さん……ぼくが手伝います。どっちに運べばいい?」
リリパがバーサーカーのもう片方の腕を掴みながら、見えないはずの目で僕を見た。
「リリパ、いいところに来た! こっちだ、こっちを手伝うんだ!」
「………」
リリパは何も答えなかった
「何をボーッとしとるんだ。早く手伝わんかい」
「………」
リリパは何も答えられなかった。僕はそっと呟いた。
「別に、無理しなくていいよ。君にとっておじさんは大切な族長だから気持ちは分かる……おじさんの言うとおり、バーサーカーなんて助けても意味はないかもしれない。でも、僕はもう誰にも犠牲になって欲しくないだけなんだ。君は、君の好きなようにしていいよ。僕はそれで君を恨んだりなんかはしないから」
「おい、早くしろと何回言えば分かるんだ!」
パトリックは焦っていた。肝心のリリパは自分ではなくスラ吉の方を手伝っている。一人ではもう一人の人間が来るまでに壺を安全な場所に運ぶのは、到底不可能だった。
「くそっ、うおおおおおーーーー!!」
こうなれば、せめて破壊して二度と使えないようにしてしまうしかない。パトリックは残った右腕に力を入れると、壁へ向って壺を放り投げた。壺の重さからして、壁の半分の飛距離も到達しなかったのは別に驚くことでもない。壺は意外と頑丈にできていたのか、ちょうどいい角度で落ちたのか、ヒビが入っただけで割れることはなかった。パトリックは最後の抵抗が無駄に終わったことを見届けると、悔しさに歯ぎしりしてその場から立ち去った。
しかし、パトリックが壺を投げたのは完全に無為な行為という訳でもなかった。
とにかく、この時はそれを知っているのは壺の中にいるモノのみだったことは確かではある……(マッド・トルネコ、プロローグ完)
まだまだ続くんじゃ!