祭りが終わって1時間ほどたった頃だと思う。外では、まだまだ町の人たちによる馬鹿踊りが続いている最中、父さんは家に帰って来た。暗くなって、マトモな人間なんていなくなったこの家に。でも、きっと祭りから帰って来たんじゃないだろう、てことは直感的に分かってた。祭りから帰って来たにしては、すごい大きくなったカバンを背負っていたから。きっと、明日のダンジョン探索の準備をしていたんだと思う。なんたって、今回は『デッカイ山』みたいだからね。だけど、その『山』の正体を知っているのは、まだこの時は父さん一人きりだった。
僕は、暇つぶしに持ち歩いていたPSPでモンスターハンターをしていた。もちろん、一階の部屋で。2階には――思い出したくもないけど――例の神官と筋肉姫がいるから、容易に近づくことはできない。だいぶ静かになったから、きっと二人とも疲れて寝ているんだと思うけど、それでも起こしたら後々めんどうだ。
父さんが帰って来たのは、僕がそんなことを考えながら、ゲリョスを狩りに出かけたときだった。いつものように、互いに「ただいま」も「お帰り」も何の挨拶も会話も交わすことなく通り過ぎるだけだと思ったけど、このときは違った。
「お前に渡しておきたいものがある」
こんなときに父さんが、わざわざこうやって渡す物だから、クリスマスケーキやその類のものでないことは分かっていた。
だから、机の上に六連発リボルバーを放りだされても、あまり驚かなかった。
ただ、リボルバーの銃身は黒く焦げていた。きっと、前の探索のときに持っていって唯一残ったのが、この焦げたリボルバーだったのだろう。
僕はPSPをわきに置くと、その銃身に手を伸ばした。
「ちょっと黒くなっちまったが、まだ十分使える。機能に支障はない」
銃については、初めて触るし、僕にはよく分からなかったが、父さんがそういうのだから特に問題はないのだろう。
「まあ、モンスター使いのお前には、あまり必要のないものかもしれねえが、万が一ということもある。お前はまだ剣をうまく使えない。使い方は知っているな?」
僕は銃を手に取ると、父さんに銃口を向けて引き金を引くマネをした。(もちろん、この時はまだ弾は入っていない)
「ほう、よく分かってるじゃねえか」
こんなのちょろいよ。
「だが、惜しいな。撃鉄が上がったままだぜ」
父さんはにっこり微笑んでそう言い残すと、二階の自分の部屋へ帰っていった。
その頃、クリフトは扉の外にいる異形の姫に、夢の中でも怯えていた。
何もすることがなく、クリフトはついついうたた寝をしてしまったのだ……
ちょうど、教会が免罪符を売り出して3年ほど経った頃だった。クリフトはまたしても夜中のバーで泥酔するまで酒を飲んでいた。その様子は、酒は命の根源とでも言いたいようであったが、迎えに行ったブライからすれば、このまま墓地にでも埋めてやりたい気分だった。
いくら忍耐強いブライでも、こんなことが毎晩のように続けば、そう思うようになるのも無理はなかった。
「クリフトはどこに行きよった?」
「多分……また酒屋にでも行ってるんじゃないですか。一応止めたのですが……」
司祭は朝の仕事の一つである、ロウソクに火を灯しながら、申し訳なさそうにブライに言った。
「何か彼に用でも?」
「大事な要件がある。今の時間なら大丈夫だと思ったんじゃが。今度は朝から堂々と飲みに行くとは――それ相応の罰を与えねばならんな」
「そのことなのですが――
司祭は教会のロウソクを、一旦わきに置いた。
「あまり彼に厳しく当たるのは止めて頂けませんか。別に彼の行為を擁護している訳ではありませんが」
「理由を聞こうかの」
「彼が酒を飲むのは……その、罪悪感からなのです」
教会のステンドグラスを通り抜けた朝日は、信者たちを様々な色に照らし出していた。一時期から見ると、朝の参拝客も随分と減った。
「朝から仕事をさぼって酒を飲むことには、罪悪感を感じないのかの?」
「それはもっともですが、彼にとってはこの教会で免罪符を売るという仕事に……これ以上耐えられないのです」
「つまり」
杖を構えなおして言う。
「免罪符を売るという仕事の苦しみから逃れるために、酒に逃げていると」
「ええ。もちろん、それが到底許されないことは分かっています。しかし、彼の苦しみは私にも分かりすぎる程なのです。せめて他の仕事を任せるとか、そういうふうには出来ないものでしょうか?」
「出来んな」
即答だった。
「なにせ、免罪符を考えたのはクリフト本人だからの」
町に出てみると、幸いにもすぐにクリフトの姿を見つけることができた。
路上に犬みたいに寝転がっていれば、誰でも発見できる。恐らく、金がなくなって酔ったまま店から追い出されたに違いない。
ボロボロになった法衣をまとったクリフトだったが、その腹には大切そうに酒瓶を抱えている。砂漠で遭難したものが、最後の水を必死で守っているかのようだった。
「おい、クリフト」
ちらっと顔を上げてブライの顔を見ると、ニタリと笑みを浮かべた。
「よお。ツケ払ってくれよ。んで、俺はまだまだ飲める、て言ってやってくれよ」
「さあ、早く立つんじゃ」
やれやれ。こいつは面倒なことになった、とブライは思った。今日は大事な話があるからやってきたのに、これではまず泥酔神官を家まで運びこんで酔いが覚めるのを待つしかないではないか。
「肩を貸してやろう。とりあえず、家でしばらく頭を冷やしてろ」
「肩より金を貸して欲しいね」
軽口を無視して、ブライは老体に鞭打ってクリフトの体を持ち上げた。だが、肝心の足は中々帰ろうとする家の方向に進まない。
「おい、クリフト、そっちは酒場じゃ! いいか、家に帰るんじゃ。今日は大事な話がある。家に戻るんじゃ!」
「嫌だ!俺はまだまだ飲めるんだぜ? それに何が大事な話だ。どうせカビ臭え説教話だろ」
「何をいうか。本当に大事な話じゃ!」
「うるせえ! とにかく俺はまだ飲めるんだ。だから酒場に行くんだ」
クリフトの肩に回した腕が、ブライを強靭な力で締め付ける。そのまま無理やり酒場の方へと引っ張っていこうとするので、ブライの首はおかしな角度に曲がってしまう。
「とにかく、酒場に行くならその腕を放せ! ワシはお前のツケまで払う気はないぞ」
「は? 何シケたこと言ってんだ。俺と一緒に飲み明かそうぜ。さあ、楽しいカクテルパーティの始まりだ!」
「もう朝じゃ! 今から飲み明かしてどうするんじゃ!」
「いいから来いって。とてもとても楽しいよ」
「行かん! どうせツケを払わせようって魂胆じゃろう」
「いいから来いって言ってるだろ。付き合い悪いな」
「とにかく、家に戻れ!」
「嫌だ。さぁ、酒場に行こうぜ」
「断る!」
「来い!」
「行かん!」
「来い!」
ブライがキレることは、特に歳をとってからは滅多に少なくなったが、それでもこの状況だけは耐え難かった。首を絞めつけているこの腕は、もはやブライの力ではどうしようもなかったが、酔っ払いの不安定な足元をすくうくらいのことはできる。
足を取られたクリフトは、雲から落ちてゆく酒神のごとく、もんどりうって地面に転倒した。
「へへ……後一杯だけ、いいだろ?」
大事そうに抱えていた酒瓶(この時初めてそれが空だと知った)をちらつかせながら、全く悪びれるそぶりもない。
「いいか」
今や倒れたまま壁にもたれかかるクリフトより身長が高くなったブライは、背を曲げ、あごひげを突き出して顔を近づけて言った。
「金が欲しければ免罪符を売って自分で稼ぐんじゃ。それ以上ワシから言うことはない」
そして乱された法衣の裾を正しながら、杖を傾けて付け加えた。
「家に帰るか? なら大歓迎だがな」
そう言ったブライの頬を突然、紙の束が襲った。
「くれてやるよ! こんな紙切れ」
クリフトが投げつけた紙切れには聖典の一句と教会の捺印がなされている――免罪符だった。
「それでカマのケツでも拭いてやりな」
「いいか、クリフト、よく聞くんじゃ」
ブライはしゃがみ込むと飛び散った札の一枚を取り上げ、目の前に突きつけながら言った。
「確かに、免罪符は忌まわしいものじゃ。教会としてもこんなものに頼りたくなかった」
「だったらどうしてこんなもの売ってんだよ。俺はこんなこと望んじゃいなかった……今でもそうだ」
「でもしょうがない。信仰心など消えうせたこの世界で教会が生き残ろうと思えば、これしかない。お前もそう思って言いだしたんじゃろ?」
「そうじゃない。たまたま思いついたから会議でそういったら、アンタらおえら方が勝手に採用して話を進めて……気がついたら免罪符販売部長にされていた」
「もう割り切るんじゃ、クリフト」
「割り切ってやるよ。酒をくれたらな」
「汚く稼いできれいに使う。金はそういうもんじゃ」
「きれいに使うって? 笑わせるのもいい加減にしろよ。全部てめえら腐った神官の生活費だろうが。そんなことに自分を犠牲にする気はねえからな」
「生活費で何が悪い? 少なくとも、誰かさんの酒代よりは遥かにましな使い道だと思うが」
「うるせえよ。教会がこんなくだらないところだとは思わなかったぜ。それでも、ウジ虫を生かしておくぐらいなら飲んだほうがマシだ」
「だが、お前はいつまでこんな生活を続ける気なのじゃ。成程、神官の中には腐った性根のやつもいる。そのことは認めよう。しかし、今のお前はそれ以下じゃ。他人のことを貶す前に、神官なら神の与えた試練に耐えてみよ」
「は? 何が神だって? 笑わせんなよ。俺はこんな試練、望んだ覚えはこれっぽっちもありませんが?」
「神は決して乗り越えられない試練を……」
「ガタガタうっせえんだよ! そんじゃあ、その神ってやつを今ここに連れて来なよ。ご自慢のゲロビームで歓迎してやるからよ」
今のクリフトなら本当にやりかねない。クリフトが飲み込んだ様々なアルコール類と胃液の混ざりあった混合酒のシャワーが描く放物線は、正に天国への虹の架け橋というわけだ。
「これ以上話あっても無駄なようじゃな」
「ああ、そうだな。説教したいならご愁傷さま。酔いが覚めたんで、別の酒場いってくるからよ」
「酔いがさめた? それならちょうどいい。ひとつだけ最後に言っておく」
「なんだよ。酒をやめるっていうのは無しだぜ」
「1週間後、アリーナ姫と面会することが決まった。まあ、その酒臭いまま姫に会いたいというのなら、無理に止めはせんがの」
「おーい、クリフト~」とサントハイム城の窓から叫ぶアリーナを見て、クリフトは本当に一週間前から酒を断って良かったと思った。だが、それも王の間でアリーナと直接会うまでの短い時間に過ぎなかったのだが……
「クリフト~、ちゃんと僕のこと覚えていてくれた?」
声と顔には確かに見覚えがあった。だが、体つきは勇者と旅したときと比べて異常なまでに筋肉が発達していたし――何より身長が2メートルもなかったはずだ。
そこにクリフトが会うのを楽しみにしてきた可憐な少女の面影はない。
筋肉の塊にアリーナの顔だけとりつけたような、そんなフランケンシュタインの化物にしか見えなかった。
「え? あ……アリーナ姫…随分と……その、お元気なようで」
クリフトはどうにかそれだけの言葉をひねり出した。
「はぁ~、クリフトってば、相変わらず辛気臭いなぁ……よぉし! それじゃあ、ハグしてあげるよ。そしたらすぐに元気になるよ」
「え? ちょ、待って……ぐぅっ……!!」
それはクリフトの認識では、ハグというよりヘッドロックに近いものだったが、本人はじゃれているつもりなのだろう。しかし、クリフトの体は限界だった。
さっき、首からゴリッという変な音が聞こえた。そして感触も、見た目と変わらぬ鍛え抜かれた筋肉そのものだった。
山のように盛り上がった筋肉のついた腕が、大蛇のごとくクリフトの首を絞めあげているせいで、さっきから呼吸ができずにいる。クリフトはなんとか抜け出そうと、自らの持てる限りの力で手足をばたつかせ、必死に脱出を図るが――ダメだ!抜け出せない!
「あ、クリフト、元気出てきたみたいだね!」
――死にかけてるんだよ! いい加減はなせ、筋肉ダルマ!
「ハッハッハ、やはり若者は元気なのが一番ですな」
ブライが当事者以外にとっては微笑ましい光景に思わず笑いだした。
「あぁ、私のアリーナもちょうど相手がいなくて困っておったところだ。二人とも楽しそうで何よりだ。ハッハッハ!」
国王がそれに応えて笑う。
――おい、笑ってないで、止めろ! 死ぬ前に早くこいつを止めてくれ! それとブライ、ワザと言ってるだろ!!
「しかし」クリフトの酸素欠乏症を無視して、国王が急に真剣な表情で何やら話しだした。
「ふたりは本当にお似合いのカップルだ。周辺の国の王子はどうもアリーナの良さが分からんようなのだ。この際、昔から共に育ち、良き理解者でもあるクリフトにもらってもらおうと思ってな。今日はその話もあってお主らを呼んだという訳なのだよ」
――理解不能、理解不能!
「おお、そうですか、陛下。ちょうどワシもクリフトに大臣の座を譲ろうと思っておったところです。こういうのはどうでしょう。大臣に就任すると同時に挙式、というのは」
――他人のくせに保護者気どりか?!
「確かに名案だ。与も結婚する以上はクリフトにはゆくゆくは国王になって欲しいと思っておる。そのためにも、大臣になって経験を積んでおくことは、この国にも二人の将来にとっても、有益だ」
「それでは、今日この場では“婚約”という形にしておいて、また細かいことは後日じっくり話し合うとしましょう」
「まさに与が言いたいことをお主が言ってくれた」
――………
すでにクリフトの体からは意識の光が消え去ろうとしており、二人の会話も、鼓膜を震わせるだけで何も聞こえてはいなかった。
「え、ひょっとしてクリフトと結婚?!」
突然の(アリーナにとって)うれしい話に、思わず腕の締め付けもゆるんだ。
「ああ、そうだ。そしてゆくゆくは国王になってもらう。だから、お前もクリフトをしっかりと支えてやってくれ」
「やったー!お父さん、大好き!」
城の広間の一角では、異常な筋肉以外は普通の光景が繰り広げられていた。そして、片方ではやっとその筋肉から解放された若い神官が、膝をついてゼーゼー、ヒューヒュー、息を荒げていた。
――空気ウマー
久々に鼻腔を満たす酸素の感触に、クリフトは一瞬そう思った。だが、次に考えたのは
――すぐにここから逃げ出さなくては……
「あぁ、それはそうと、ブライ」「何でしょうか?」
「クリフトに大臣の座を譲ってからも、しばらくの間は参謀長として与のそばにいてくれぬか。正直、お主程の人間をそうやすやすと手放したくはないのだ」
――ハァ、ハァ、ハー、ハァ、ハァ、ハー……
何とか呼吸を整えつつ、今までにない速さで城門への最短ルートを検索(レミラーマ)し、逃げる算段を巡らせる。
「願ってもないことです、陛下。ワシも、クリフトが国王になるまでは心配なので、この目でしっかりと見届けたいのです。そして立派な王となった暁には……どこかに隠居して、二人で湖に船でも浮かべて極上の酒を楽しむのですよ!」
「あと将棋もだ。1045勝1046敗で負け越しておるからな」
「将棋といえば、トルネコもかなりの腕前と聞きますぞ。彼も一度は招待して、是非ともその棋力を見て頂きたい」
「ブライがそう言うのなら相当の腕なのだろう。あぁ、早く一局指してみたくなったではないか」
「ははは……お気の早い。あとは、世界樹が見渡せる小高い丘の土地でも買って、好きな花を育てるのもいいですな」
「もちろん、天気のいい日には気球も用意して、晴れた日には――
「ちょっとぉ、それよりボクたちの結婚式についても考えてよね。今日はそのためにクリフトにも来てもらったんだからぁ」
「すまんすまん、つい熱が入ってしまったようだな。そう言えばクリフトは……」
国王、アリーナ、ブライがクリフトがいた場所に視線を移したときには、すでにそこに人影はなく、広間の扉はいつの間にか開け放たれていた。
すぐにアリーナが追いかけようと廊下に出たが、そこには窓から差し込む夕日で、長く伸びた影があっと言う間に遠ざかってゆくのが見えただけだった。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…」
元々、武闘派ではなかったが、普段ならこの程度の走りでここまで息が荒くなることはない。それも、さっきの“ハグ”のダメージが回復し切っていないせいだろう。
「ク・リ・フ・ト~」
化け物(少なくともクリフトからすれば)の声が自分の名前を呼んでいる。窓の外に見える夕日も今のような状況でなければ、もっと違ったものに見えたのだろう。ガクガク震える膝に鞭打って足を動かすと、次の曲がり角を右に曲がった。本当は直進した方が近かったのだが、このままではすぐに追いつかれてしまう。どこかに隠れながら体力が回復するのを待ち、少しづつ城門に近づいて行かなくては……
「クリフト~、どこに行ったの? いい歳してかくれんぼなんて」
逃げ入った部屋の内側から、扉に耳を当てる。
「クリフト~! もう、どこに行ったんだろ」
カツ、カツ、カツ……アリーナの重量を感じさせる靴音が響く。扉の下のわずかな隙間から足がつくる影が見える。
カツ、カツ、カツ……
ふぅ~、どうやら通り過ぎたようだ。
もう少しアリーナが向こうに行き去るのを待ってから、さっきの曲がり角で最短距離を爆走しよう。今回は十分逃げ切れるだけの余裕があるはずだ。とにかく、0.1秒でも早く城を抜け出さなくてはならない。城門が閉じられる時間は刻一刻と迫って来ているのだから。
それにしても……ブライといい、国王といい、最終的に面倒なことは全部クリフトに押し付けて当の本人たちはハッピーリタイアするつもりらしい。
――冗談じゃない。なぜ俺がやつらのスケープゴートにされなきゃならんのだ。
もし、国王やブライの言ったとおりになれば、この国(負債5兆ゴールド付き)とアリーナ(筋肉山盛り)はクリフトのものとなる。昼間は仕事に追われ、夜はアリーナの熱い抱擁、もとい絞め技、関節技の実験台とされる日々が続くのだ。それも、自分が死ぬか、新たな犠牲者を見つけるまでは。
クリフトは床の一点のシミを見つめながら、生唾を飲んだ。何としても、今ここで逃げ切らなければならない……もうこれ以上荷物を背負わされてたまるか。
完全に足音が消えたことを確認すると、クリフトは勇気を振り絞って、ゆっくりとドアを押し開けた。
よし、これで後は城門まで逃げ切るだけだ。
そう思ってドアをそっと閉めたとき、ドアの死角になっていた場所に人影が映った。それは、明らかに筋骨隆々としており、顔だけとってつけた仮面のように少女のものだった。
「あは、やっぱりここにいたんだね」
「うあーーーっ!」
クリフトは閉めたばかりのドアを、今度はアリーナの方へぶつけるようにして思いっきり開け放った。しかし、アリーナの拳はドアを薄紙のごとく貫通し、クリフトのみぞおちへ(ドアで視界が遮られていたにも関わらずだ)吸い込まれるようにして命中した。
その瞬間は、クリフトは痛みを感じなかった。だが、次に周りの世界がボミオスにかかったようにスローモーションに見え――同時に吹き上がった体が廊下の天井にぶつかり、3m程背中をこすりながら進み―今度はそのまま地面へ落下し―回転しながら2、3回バウンドして――最後は壁に背中をぶつけて止まった。
「グガバッァ! ガバァ……ッァ……ガハッ!」
遅れて全身の筋肉が自ら受けた苦痛を報告してきた。
クリフトの脳が報告書の処理に忙殺されている間、アリーナは蝶つがいが外れて昆虫の羽根のように見えるドアの残骸を腕から外している真っ最中だった。
「さぁ~、もう年貢の納め時だよ」
一歩ずつノシノシと近づいてくる。だが、クリフトは諦めない。歯を喰いしばるとそのまま走りだしたのだ。
「全くもう、往生際が悪いんだから」
もうほとんど沈みかけた夕陽に照らされながら、異形の姫はそう呟いた。
「ゼーゼー、ヒューヒュー……」
さっきから5分と経っていないにもかかわらず、すでにクリフトの呼吸は肺が破裂しそうな程に激しくなっていた。
石造りの窓の外を見ると、もうわずかな光が差し込むだけで、空には白い月が浮かび上がっている。きっと目の前に広がる城下町では仕事から、遊びから、学校から帰って来た人たちが夕飯の前のお祈りをしているのだろう。だが、たった一人の切実な(まさに一生のお願いだ)、まことに切実な祈りは、無残にも無視され、もうすぐ異形の姫の手に落ちようとしている。
……!?物音がした。だが、大丈夫だ。今はすでに廊下に飾ってある騎士をかたどった鎧の中にいる。
「あっれ~、おかしいなぁ……確かこっちに行ったはずなんだけどな。そんなに遠くに行けるわけないし」
鎧の隙間から見える。頼む……アッチに行ってくれ!必死に祈るクリフトの耳には、自らの心音と呼吸音だけが聞こえていたが、それすらもアリーナに聞かれてしまうような気がして余計に怖くなり、その恐怖がさらに呼吸と心拍を乱していった。
――神よ!もしおられるのならば、我を無事にここから逃がしたまえ!
「ん~どっちに行ったんだろ?」
――神様!ここで私の願いを聞き入れてくれるのならばもう免罪符売りませんから……
「こっちかな~?」
と言ってクリフトの鎧の方へ一歩踏み出す。
――あぁ、神様、神様! 神様、神様!! このまま通りすぎろ!
「あ、ひょっとして、またさっきみたいにどこかの部屋に隠れているのかも。一回戻って調べてみよ」
アリーナはすぐに踵を返してまた元来た通路を走って行った。
一瞬、ひやりとしたがこれでしばらくは戻ってこない。といって。ここにずっと隠れていてもすぐに見つかってしまうだろう。幸い、アリーナはあらぬクリフトの幻影を求めて後戻りしている。たとえ気づいたとしても追いつかれるまでに時間はかかるはずだ。
クリフトは物音がしないように慎重に鎧を内側から開けて通路にでた。
とそのとき――
カーン……カラン、カラン、カラン……
どうやら足が鎧のひざ当てに引っかかって外れたみたいだった。不気味なくらい静かな中、廊下中に金属音がキンキンと反響している……
しばらくたっても反応がないところから、アリーナはすでに音がしない程遠くへ行ったのだろうか。クリフトはふと窓の外に広がる城下町をチラリと見やった――ようやくあそこへ帰れる……おっと、もたついてはいられない、あと少しだ――
そう思って一歩踏み出したとき――
「や~っぱりそこにいたんだね」
聞き覚えのある声に背すじが震える間もあればこそ、アリーナが背後の武器庫の壁をブチ破ってクリフトに向かって突進してきた。当然、不意を打たれ満身創痍のクリフトにかわす術はなく、そのまま二人は窓枠もブチ抜いて、城内中庭へと落下していった。
――ここは、どこだ? 暗くて、冷たい。それに……息も苦しい! 空気は? 空気はどこだ!?
そう思ったクリフトは地球上の貴重な資源を求めてまたもや手足をばたつかせた。そのとき、手首を誰かがガッシリと掴んで引き揚げた。
――空気ウマー
クリフトを池から引きずりあげたのは紛れもなく、あの異形のアリーナ姫だった。それだけは朦朧とする意識のなかでもハッキリと分かった。左手の手首を掴んで、片手だけでクリフトの体を宙へ持ち上げている。
「やっと捕まえた」
クリフトにはもう逃げる体力は完全になくなっていた。だが、MPならまだ残っている。やるか? 殺人魔法(ザキ)を? だが、結末はあっけなくやってきた。アリーナはそのまま手を放し、クリフトはどさりと芝生の上に落ちた。
「それじゃ、今度はボクが逃げる番だね。ちゃんと10秒数えてから追いかけるんだよ」
そう言うと、アリーナはクリフトを残し、城内へ戻っていった。
10秒後、クリフトはすでに陽が落ちて真っ暗になった城下町を、痛みが残る体に鞭打ちながら全力疾走していた。
そこから先の転落は早かった。
まず、面会の日の翌日に、クリフトはカジノのそばで泥酔して倒れているところをブライに発見された。
しばらくの間、クリフトの唯一の慰みは酒しかなかったが、そこにやがて麻薬が加わるようになったのは何も驚くべきことではない。
最初は免罪符を売る罪悪感から逃れるためだったが、程なくして麻薬を買うために免罪符を売るようになっていった。
あの日以降も、クリフトをアリーナに会わせようという、無駄な努力は続いた。
マヒャドでクリフトを凍らせて運んだりもした。
だが、氷が融けてアリーナと会った瞬間にパルプンテを連発、空からは獅子座流星群が雨あられと降り注ぎ北極海の氷が消滅し住処を追われた北極グマの難民がイムルに流入し山は動き魔人が復活してムーンウォークを披露したと思ったらそれは幻で住民はメタルスライムに姿を変えて凍りついたかと思うと大きなドラゴンに姿を変えて炎を吐きながら住処を求めてデモ行進を行ったが突如として光の竜が現れ全員を連れ去りついにサントハイム中が霧に包まれ地面が揺れて大混乱に陥り、ブライと国王はその後片付けのために新たに500兆ゴールドの赤字国債を発行し、事態はようやく収拾したのだった。
なんということだろう。夢の中にまで出てくるとは。
結局、クリフトは睡眠を何時間か取ったものの、悪夢で全く疲れはとれなかった。
早朝の霧の中、昨日と同じ面々が祭り明けの誰もいない広場に集まっていた。
ようやくアリーナの恐怖から解放された神官はふらつく足をなんとか踏ん張って広場に駆け付けた。
「やっほー」
この声は……いや、そんな訳がない。姫は帰ったはずだ。それにいくらなんでも一国の姫なんだぞ。ダンジョンにまでついて来るはずがない。そうだ、しっかりしろ、クリフト。よく寝てなくて疲れてるから、こんな幻聴が聞こえるんだ。気をしっかり持て、まだ冒険は始まったばかりだぜ。
「ああ、クリフト」
トルネコがこの世で最もみたくないものの一つである、アリーナ姫を指して言う。
「こいつも一緒に連れていくことになった。戦力になるしな。一応止めたんだが、お前のこと心配だからどうしても、てな」
これが悪夢だったらまだどんなにマシだろうか。だが、残念ながら目の前の筋肉の塊は、クリフトの徹夜明けで充血した目と麻薬に朦朧とした脳であっても、それが紛れもなく現実だと思い知らせるに十分な実在感を備えていた。
「これで全員そろったわね」
マーニャが催促も兼ねてポツリと言った。もちろん、ダンジョンの秘密のことである。これ以上待ち切れるものは誰もいなかった。
「もう、ここまで来ればどちらも後には引けまい。トルネコ殿も我らも。そろそろ教えてくれぬか」
クリフトがまたもやアリーナのハグによる酸素欠乏症にあえいでいる中、皆の眼はトルネコの口髭へと注がれていた。
「分かった。なあに、大したものじゃない。油田があるのさ、ダンジョンの奥には。それも馬鹿デカイやつがな」
それを聞いた途端、皆の眼がそれぞれにとって都合のいい取り分で描かれたバラ色の未来を見た。もはや分け合うことは完全に頭の中になかった。
ダンジョンから戻ったら、ライアンは山の別荘で悠々自適の生活をし、町の商店街は復活し、教会は立ち直り、姉妹は元の豪華な生活を送り――トルネコはネネと決着をつけ新しい人生を歩むのだろうか。
旅の終着駅がどのようになるかは、まだ誰も知らない。
ただ一つ明らかなのは、そこへ到る道はいずれにしろ血みどろだということだ。
「皆さん、到着したようね」
朝霧の中から現れたのは、黒紫の衣装――三角帽にマントとローブという典型的な魔法使いの装い――に身を包んだ太った中年女性だった。
「よお、レミ、遅かったじゃねえか。頼んだ通り、早速ダンジョンの奥に送ってくれ」
「何が遅かったよ。時間は、確か朝日が昇る前でしょ。東の方はちょっと明るいけど、まだ太陽なんて上ってないじゃない。ダンジョンに潜っていたせいで、時差ボケしたんじゃないの」
「そうかもしれねえな。それより、ちゃんと出来るんだろうな、8人全員を一度にダンジョン奥地に送り込むなんてよ」
「送り込むことはそんなに難しくない。ちょっと骨が折れるけど、いつも通りのバシルーラ(の強化版)で何とかできる」
「その言い方だと何か不都合があるようだな」
全員が不安を隠しきれないでいた。もしかしたら、冒険の最初でつまづくかもしれないのだから、当然の不安だった。
「ダンジョンの50階に送り込むのは問題ないけど……あんた達、強さには自信ある?」
「あるに決まってるじゃねえか。デスピサロを倒したメンバーだぜ」
「それなら問題ないわね。実はね、フロア内にランダムに送り込まれちゃうの」
「というと」
「そう、もしかしたら、全員が孤立してしまう可能性がある。もちろん、ランダムだから逆もありうるけど……それでも、いくらあんたらでも――50階で孤立しても大丈夫なの? それだけ念を押しておきたかった」
全員が一度に同じことを思った。大丈夫だ、と。むしろ、金のためなら地獄の底から死体を掘り起こすのも厭わない連中なのだから。
太陽が地平線から完全にその頭を出したとき、朝霧の晴れた広場には仕事を終えたレミの姿しか見えなかった。
ようやく出発しましたね!