あれはどのくらい前だったのか、あまりに昔のことなのでバーサーカー自身ですらよく覚えていない。体中から血を噴き出し、瀕死になりながらもまだ立っている――しかしそれすら、すぐに平衡感覚を失って地面に激突したから、多分そうだったのだろうという推測でしかないが。倒れた時も痛みの感覚はほとんどなかった。ただ、不思議と地面の異常な冷たさだけは感じた。
「もう終わりか」
本当は真上で喋っているはずの声が、ずいぶんと遠くから聞こえるような気がする。
「今回の勇者どもは少しくらい楽しませてくれると思っていたが……まあこの程度か」
ああ、俺は確かゾーマとかいう奴を倒そうと勇者たちと一緒に遠くの町から遥々やってきて今ここにこうして倒れているでもゾーマというのは俺の主人なのにその主人を倒す?俺はなにを言ってるんだ――?
「ほぅ。その傷で立ち上がるとは驚きだな。他の3人もおぬしくらい強ければなあ」
当たり前だ俺は最強の戦士だ武道家を極めて戦士に転職して剣技を極めた戦士なんだお前を倒すし倒すまで俺は絶対に倒れない倒れられない――
主人を倒す? どういうことだろう? 俺にはこいつの言ってることがよく分からない。でもこいつは間違いなく俺自身だ、なぜなんだろう。
「このまま死なすには惜しいな」
もう目に映る光景はぐちゃぐちゃに絵具をぶちまけたようになっていてほとんど何も見えてないそのうえ右半分には真っ赤なカーテンがかかってる――
ザッ、ザッ、ザッ
ゾーマが近づいてくる足音大丈夫耳はまだちゃんと聞こえるからゾーマがやってくるだいたいの方向は分かるあとは右腕が動いてくれるかどうかだけだがさっきから全く感覚がない剣を握っているのかすら分からないでもたぶん大丈夫まだ動くはずだだって俺は今日このときのために生きてきたんだからこいつを殺すために殺す殺すコロス剣で首を一撃でコロス。
ああ、なんて気持ち悪い夢なんだ。よりによって俺が主人を殺そうとしている夢だなんて。それにこの旅の扉の中に飛び込んだ直後のような、グニャグニャした視界にもだんだんと気分が悪くなってきた。だいたい、俺が殺すべき敵はひとりだけのはずだ。
――ザッ!
足音が止まったので俺は振り向きざまに剣を渾身の力で叩きこんだ俺の右腕はどうやらうまく動いてくれたらしいこの距離で獲物を外すことなんてありえないしゾーマもまさか俺がまだこんなに動けるとも思っていなかっただろうどうだ!勝った!これで故郷へ帰れる仲間と家族の待つ故郷に――
「本当に惜しいな」
なぜだ?なぜ喋れるんだたった今おまえは俺に首を斬り飛ばされたはず――
「とっくに死んでいてもおかしくない傷を負いながら、それでも最後の一太刀を浴びせかけてくる。弱っているから見切れたものの、全快状態ならそこそこのダメージくらいは与えられただろうな。もちろん、人間の普通の攻撃を喰らったところで余は死なぬが」
ああクソ俺はもう駄目だこのまま死んでしまうんだでもまだ死にたくないせめてこいつを道連れにしなくてはさぁ俺の右腕もう一回動いてくれ――
がちゃん。
「ついに剣を落としたか。もうずいぶん前から感覚など無くなっているはずだからな。おまえは充分によく戦ったよ。これはお世辞でもなんでもないぞ。余が心の底から、本心でそう言っている。おそらく、世界樹の花が咲くくらい珍しいことだ」
おお神よ俺に死ぬ前に最後の力を与えてくれよく戦っただけじゃ駄目なんだ――
「すごい執念だったよ。おまえの魂はもうすでに人間の領域を超えている。そこでひとつ提案がある。魔族にならないか? おまえ程の者がこんなところで無駄死にする必要はない」
いやだ!だれがおまえと同じ魔族なんかになるかそれならいっそ殺してくれ――
「なんだ、泣いているのか。おまえには誇りがあるからな。だがそれは本当に命を賭けてまで守るようなものなのか? どうして数多いる人間の中からわざわざ数人を選びだして余のところへ送り出すのだ? 要するに、やつらは生き延びたいだけなのだ。おまえらを生贄にして、自分らはぬくぬくと生き延びたい。おまえたちを最初に送りだした国王が何をしてくれた? 僅かなゴールドと貧弱な装備。それだけではないか。でも自分の城にはレベルの高く高価な装備をした兵士を配置する。そんなくだらないやつらのために自分の命を犠牲にする必要はない」
いやそれでも俺はお前を倒さなければならないなぜならそれは人間全ての希望であり俺たちがやらなきゃならないから――
ああ、こいつはきっとひどく疲れているんだな。だから何を言っても何も理解できないだろう。
「まだ首を縦に振らんか。まあいい。それなら反抗する権利も与えよう。魔族になればおまえならいくらでも強くなっていけるだろう。いつでも殺しに来ていいぞ。もし余を倒すことを途中で諦めたとして、魔族として生きていくのに苦痛を感じるのなら、死ぬ権利も与えよう。もちろん、ザキでなんの苦しみもなくあの世へいける。これが余にとっても、おまえにとっても、最もベターな案だと思うがどうかな? 少なくとも、ここで犬死するより余程マシだと思うが」
ここから先は“俺の人生”だからだんだんと記憶もはっきりしている。前世の“人間としての生”を捨てて、魔族として生きていくことになった瞬間。
この後も俺はささやかな抵抗を試みようとしたが、結局はゾーマの言うことを受け入れるしかなかった。いや、今思うと、表面上拒んだつもりなだけで、本当のところはむしろ嬉々としてこの提案を受け入れたのかもしれない。
これで犬死だけはしなくて済んだ。そう考えながらも、このときはいつかゾーマを倒そうと思っていた。だが、もしかしたら、ただ生への執着からそうしただけかもしれない。
このあと、俺はゾーマの言うとおり果てしなく強くなっていった。だがゾーマは俺の強さの比なんかじゃなかった。
俺は途中から、心の中ではゾーマを倒すことなど完全に諦めていたにも関わらず、あの“死ぬ権利”を行使することすらしなかった。ただただ己の強くなった力と、主人となったゾーマの圧倒的力に陶酔しきっていた。
「もうおまえに喋る力は残ってないだろう。だから余の提案を受け入れたいのなら、そのまま少し首を縦に動かすだけでいい」
俺はゾーマの言うとおりにした。多分、泣きながらだったと思う。
歓喜と苦痛が入れ混じった涙。赤子が生まれてくるときに流すような。
ダンジョンが僅かに揺れた衝撃で目が覚めたのだろうか、通路の隅でうずくまっていた バーサーカーが首を持ち上げた。
おそらく、スラ吉のいう『やつら』がやってきたのだろう。気配から察するに、今回は仲間をたくさん引き連れているみたいだ。だが、そんなこともこのダンジョンでは関係ないだろう。バーサーカーには壁を掘る能力がある。通路からいきなり奇襲を仕掛けるのはわけないことだ。
自分にとって一番有利な場所。だからここでヤマを張って待っていた。
バーサーカーは、ポケットの中の小さな石の像に手を伸ばした。そこらへんで拾った適当な石を、待ち伏せしている間に彫ったものだ。ヤスリをかけてないので表面はゴツゴツしたままだが、だいたいの形はできている。
ゾーマ。かつての自分の主人。だが、ダンジョンにやってきた商人と戦士によってあっけなく倒された。いくら一度勇者に倒されて封印されていたとはいえ、あのゾーマがあんなやつらに、簡単に負けてしまうものなのだろうか? あの商人はありない武器や道具を使ったが、それでも全盛期のゾーマを傍で見てきたバーサーカーには信じられないことだった。
多分、魔王の存在が次の世代に移っていったので、ゾーマ自身が魔王ではなくなっていたのだろう。あるいは――できればこちらの考えが的中して欲しいと願いながら――ゾーマはいまだに魔王という存在で、灰になりながらもなお生きているのではないだろうか?
それにしても、俺はなぜゾーマなんかに生きて欲しいと思っているのだろう?
もうすでに主従関係はなくなっている。やはり、圧倒的力に対する憧れだろうか。それとも悪のカリスマだろうか。
いいや。
だいぶ前からうすうす感づいていたが、考えないようにしていただけだ。本当は気づいていた。自分を騙しながら魔族として生きていくうちに、心から魔族になってしまったのだと。
それなのに何の後悔も感じないどころか、むしろそれでよかったかもしれない、と思っているのだから、本当にそうなってしまったんだろう。人間だけがもつ、後悔、罪悪感。それがほとんどなくなっている。代わりにそこの台座に収まっているのは、破壊と戦闘への歓喜、強さへの渇望。そういった感情は、いまや女王様のようにふんぞり返ってバーサーカー自信に命令してくる。今すぐ武器を取って『やつら』を倒しに行きなさい。成功したらわたしの足をなめさせてあげるから。
バーサーカーは言われたとおりに武器を取ると、立ちあがって暗い通路を進んでいった。
トルネコがこのフロアの正式な君主である女王アリに火炎放射を浴びせかけている間、ポポロはひとりで逃げたももんじゃを追いかけていた。
ももんじゃ自身の戦闘能力はどうでもよかったが、このフロアから出るにはももんじゃの記憶が役に立つかもしれない。連れてこられる時に階段を通ったはずだから、思い出して案内してくれればさっさとこのアリの巣から抜けられるかもしれない。
ついに行き止まりまでももんじゃを追い詰めた。逃げ場所はない。
「さあ、怖くないから、こっちにおいで」
しゃがみ込んで、ももんじゃを驚かさないように、そっと肉を差し出す。実は今ポポロがももんじゃに渡そうとしている肉は、疫病で処分された家畜の肉をそのままタダでもらってきたものだった。人間が食える代物ではないが、使い捨て用のモンスターに食わすにはこれでも十分すぎるくらいだった。それにこのももんじゃは、きっとここに連れてこられてから全く何も食べてないだろうし、こんな肉でもなおさら喜んで食べるはずだ。
ももんじゃは、しばらく通路の端でうずくまっているだけだったが、やがて頭を上げると視線は肉にくぎ付けになった。そして、飢えの恐怖が人間への恐怖を上回ったとき、ももんじゃは態勢を低くしながらゆっくり近づいてきた。
「そうそう、こわくないんだ。一緒にここから出ようよ」
ももんじゃのくちばしが肉に触れ、そこで動きが少しの間だけ止まった。この肉に毒でも入っているんじゃないのか――そんなことを調べている感じだったが、すぐに食欲に屈した。最初の一口こそ慎重だったが、口の中に肉汁が広がるとあとは怒涛のごとく。ポポロが保存の壺から肉を出すのも間に合わないくらいの早さでむさぼり食った。
「だいじょうぶだって、まだまだあるからね」
ももんじゃがとりあえず胃袋を満たし終わったあと、ポポロはゆっくりと手を伸ばした。ももんじゃはいまだ警戒してはいたものの、ポポロの手が頭に触れ、毛並をなでると明らかに安心した様子だった。ポポロの手にも、ももんじゃの体から徐々に緊張のこわばりが抜けていくのが感じられた。
すでに、ももんじゃはほとんどポポロのことを信用していた。
「もうぼくたちはともだちさ。分かる? ともだち」
ももんじゃはポポロの言ってることがよく分からないのか、少し首をかしげてこちらを見つめているだけだった。
まあ、ともだちが何かは分からなくてもいいよ。それより肝心なのは、こいつがこのダンジョンの出口を知っているかどうかということ。
下の階に無事脱出できたら、そのときはももんじゃをギガンテスかグレイトドラゴンの餌にしようと考えていた。
モンスターと戦うときに最も頼りにしてきたパートナー。真の友達。かれらはきっとポポロが用意した生餌を喜んでくれるにちがいない。ギガンデスならこん棒でミンチにしてから食べるだろうし、グレイトドラゴンは炎で焼いてから、火のついたまま踊り食いだろう。
「じゃあ、そろそろ案内してくれないかな。出口はどっち?」
ももんじゃはまた首をかしげてつぶらな瞳で見かえしてきた。
「出口だよ。分かる? 出口」
全く分かっていないようだった。ポポロはももんじゃの反応に少しいら立ちを覚えた。
なんならこの場で生餌にしてやろうか――そうも思ったが、もしかしたら途中で思い出すかもしれない。今は腹いっぱいになって、とりあえず安心しきっている状態だからなのかも。
ポポロはまたももんじゃの頭に手を伸ばした。もうももんじゃは全く怖がる素振りを見せていない。むしろ、なでてもらうのを期待している風にも見えた。
しかし、実際にそのときポポロの手がももんじゃに触れることはなかった。
手が触れる直前に、ポポロの横の壁が大きな音をたてて吹き飛んだからだ。バラバラと飛び散る石の破片を、腕を上げて防ぎながら通路に思わず尻もちをついた。
いったいだれがこんなことをするのだろう――アイアンアントか? いや、アイアンアントは壁を掘るのであって、こんな風に吹き飛ばすようなことはしない。考えられるのは父さんが爆薬を使ったか、マーニャのイオ系の魔法くらいか。たぶん、通路越しに自分の声が聞こえたから、壁を壊して助けに来てくれたのだろう。それにしても、荒っぽい壊し方をするもんだな。せめて声でもかけてくれればよかったのに。あともう少し威力が強ければ爆風で自分も怪我をしたかもしれない。
ポポロは咳き込みながら服に飛び散った破片を払い落して立ちあがった。
――あともうちょっとでミンチになるところじゃないか――
そう言おうとした言葉を、ポポロは思わず飲み込んだ。
もうもうと立ちこめる粉塵が収まると、ポポロの想像したトルネコやマーニャの代わりに、闇の中で光るバーサーカーの目がそこにあった。
それはまっすぐにポポロを見つめていた。
バーサーカーにしては、ずいぶんと澄んだ目――なにか悟ったような目――をしているな。そんなことをポポロはふと思ったが、そう思えるのはさっきクリフトの目を見ていたから、なのかもしれない。
「じいじ、歩くのおそーい」
天井スレスレからアリーナが声をかけてきた。ブライは、老人の中ではまだまだ自分は元気な方だと思っていた。足腰も割としっかりしている方だし、記憶力もそれほど衰えていない。だが、さっきのアイアンアントの襲撃で転んだとき、どこか変なところがぶつかったのだろう。歩くたびに足のつけね辺りがズキズキと痛んだ。一刻も早く、クリフトに回復してもらいたいところだ。
「早くしないと、日が暮れちゃうよ~」
「そう年寄りを急かすもんでない」
だいたい、日が沈もうが爆発しようが、この穴の中ではどうでもいいことだ。
「もう。そんなこと言ってたらいつまでたってもここから出られないよ」
ブライは頼むから黙って歩いてくれ、と願った。今にして思うと自らの人生の転落は、アリーナからも相当の影響を受けているのではないだろうか。アリーナは異形に変化してまで戦闘力を手に入れたが、それによって隣国との婚姻はご破算になった。現在の国王も年齢的にそろそろ後継者を決めておかねばならないし、そこで候補に挙がったのがクリフトだった。もちろん、ブライは必死になってそれを止めようとした。酒びたりで国務に耐えうるタマではないし、所詮は平民の出でアリーナとは身分が違った。
ブライの説得に、国王も最初はその通りかもしれない、ブライが言うならやめておこう、と引きさがったが、他の王子とアリーナとのお見合いが次々と破談になってゆくうちに気が変わった。
幼馴染でもあるし、やはりクリフトがいいのではいか。国王に足りない部分は、今から我々が教育してゆけばなんとかなるのではないか。何といっても勇者と共に魔王を倒した、国内では英雄とも称えられる人物なのだし、素質は十分にあるはずだ。
ブライは必死に考え直すように言ったが、今度ばかりは国王も決心が堅かった。国王はブライにクリフトを連れてくるように命じた。
結果は、おおむねブライの予想通りだった。ひとつ違ったのは、クリフトの高尚な趣味に麻薬が加わったことだった。
まあ、仕方のないことだ。もし自分がクリフトの立場だったとしても――目の前に見えるアリーナの大きくたくましい背中を見ながら思った――やはり断っただろう。
ここまで考えていたところで、アリーナの動きが急に止まった。
さっきまで他人に急げと言っていたのに、何をしとるんじゃ。
「ねえ、じいじ。もうちょっと奥の方の通路を照らせない?」
アリーナの指さす方に目を凝らしたが、ブライの老眼のかかった目では何も見えなかった。
「何か見えたのか?」
「はっきりとは見えなかったけど、たしかに何かいるよ。気配もするし」
仲間だろうか? だが仲間なら向こうから近付いてくるはずだ。何か嫌な予感を感じながら、ブライは杖の先を通路の先へと向け、今まで放射状に広がっていた光を調節して、前方へ集中して放射するようにした。
そこにはももんじゃが一匹、ポツンと立ってこちらを見つめていた。
「ねえ、なんでこんなところにいるのかな?」
「おおよそ、さっきのアリンコどもが餌として運んで来たんじゃろ」
「それにしても、なんか言いたそうな顔をしてるよね」
アリーナの言うとおり、ももんじゃは明らかにこちらに対して訴えかけてきていた。闘うわけでもなく、かと言って逃げるわけでもない。
「ちょっと近づいてみようよ」
アリーナが一歩前へ踏み出す。ももんじゃは耳をピンと立てただけで、まだ動かない。
もう一歩。
そこでももんじゃも少し後ろに下がった。
またもう一歩。
今度は通路を曲がっていった。
「ねえ、ちょっと追いかけてみようよ」
やれやれ。面倒なことになった。昔から、アリーナは一度言いだすとブライが止めても聞きはしなかった。
だが、このまま当てもなく暗い通路を進むよりは見込みがあるかもしれない。
足の痛みを我慢しながら、ブライはアリーナについて歩いていった。
俺たちは女王アリとその親衛隊とちょっとしたバーベキューパーティーをしたあとで、丸焼きになった女王(と思われる)の死骸の上に腰をおろした。
ライアンが嫌な予感がすると言った直後、松明をつけたら目の前にデッカイ女王様の御尊顔が浮かび上がったから、このダンジョンなれしてる俺でも正直言ってけっこうビビったし、不安も感じた。だが、実際に戦ってみると火炎放射器でほとんど一撃だった。
兵隊アリが女王を守るように密着していたので、いったん火がつくと勢いが止まらない。やつら、焦って尻から蟻酸を出して必死に火を消そうとしていたが、俺が火薬壺を投げつけたらもはやそれでフィニッシュだった。運よくもえさかる火炎をまぬがれたヤツも、逃さずライフルで撃ち殺していった。中には勇敢にも最後の賭けに出てこちらに向かってくるツワモノもいたが、すぐにライアンの昆虫標本のコレクションと化した。
「意外とあっけなかったな」ライアンが言った。
「まあ、何にせよ、アンタの“嫌な予感”が外れてくれてほっとしてるぜ。それにしても、今のでずいぶんと倒したみたいだな。まだファンファーレが鳴ってやがる」
レベルアップの例の音楽が、すでに1分は鳴り続けていた。あの女王アリは意外と経験値が多かったのかもしれないな。同時に普通のアリンコも相当倒したしな。コンボボーナスでも入ったのかもしれねえ。たぶん、この戦いだけで20~30くらいはレベルが上がったんじゃねえか。
だが景気のいい音楽もずっと鳴り続ければいい加減うんざりしてくる。やっと鳴りやんだときには、ライアンもホッとしてたと思う。さっきまでは耳がイカレちまうんじゃないかと思うほどの静けさも、そのときは十年ぶりくらいになつかしく感じられた
「他のやつらはどうしてるんだろうな? まあ、多分元気でやってると思うが」
「ここのボスは倒したことだし、もう何の心配もいらないだろう。それよりトルネコ殿。少しききたいことがある」
下の女王アリの死骸はまだ温かった。
「ダンジョンの奥に油田があるという情報、どこから入手したのだ?」
「教えたくないと言ったら?」
「まあ、それなら無理にききはしないが」
俺だって、別に本当に教えたくないわけじゃなかった。こんな穴倉の中よりも秘密の話をするのに最高の場所は思いつかない。ここなら聞いてるのはライアンと虫ケラの死骸だけだしな。
「いや、おしえるよ。ライアン、アンタにだけはちゃんと教えるよ。実はな、ネネの会社の中からそういう情報を盗んできたんだよ」
「大変だったのではないか? あのネネ殿のことだからな。そういう情報は厳重に保管しているだろう」
「ところがどっこい、そうでもなかったんだな。たしかに警備は厳重だったがよ、俺は小指一本で崖っぷちにぶら下がってるとはいえ、一応ネネ社長の戸籍上の夫なんだぜ。社内に入り込むのは簡単さ。あとはセキュリティガチガチのパソコンの中からデータを引っこ抜くだけだが、これも今までの冒険で手に入れた盗賊の壺で一発さ」
「やはりトルネコ殿は一流の冒険者だな」
「おいおい、まるで商人としては二流みたいじゃねえか」
「いや、商人としても一流だ。ただ、その中でも特に冒険者の方が向いているということだ」
それからライアンはヒゲをいじって何か言おうとしたみたいだが、結局それは言葉になることはなかった。代わりに出てきたのは今までの人生をなげいているのか、戦闘が終わっていっぷくしている安堵なのか分からないため息だけだった。
それから私は「ネネ殿があんなふうにさえならなかったら」と言おうとしたが、やめておいた。人生のある地点まで戻ってやり直したいと思うのは、人間誰でもよくあることだ。だが、ここでそれを言うのは負けを認めるようで嫌だった。それを言うべき時は、油田を発見して地上に戻ってから。どこかに別荘でも買ってふたりで夕陽を見ながら晩餐をしているときにでも言うのがふさわしいだろう。夕陽は私たちの今までの苦痛や悔恨を連れて、地平線の下へと沈んでゆく。沈みきる瞬間に夕陽はいっそう輝きをまし、空の淵を濃いオレンジからダークブルーのグラデーションに染め上げる。陰影で大理石の塊のようになった雲は、重力法則をあざ笑いながら優雅に横たわる。そして何ものかが息を吹きかけたかのように突然最後の陽光が消え、頭上ではさっきまでいなかったはずの星が瞬きはじめる。そこでやっとトルネコ殿は口を開くだろう。
「これを見ずに仕事なんかしてるヤツは哀れ極まりないな。ネネと違って、俺たち幸せ者だぜ」
私たちふたりは声をあげて、それこそいつ以来かもわからない、心の底からの笑い声をあげる。他人を貶めるための笑いではなく、純粋に自分を祝うための笑いを。
おそらく、それは人生最良の日になるだろう。
「それにしても俺たち、けっこうエゲツナイところに来ちまったな」
暗い洞窟の中で、トルネコ殿が口を開いた。
「誘ったのはトルネコ殿だぞ?」
「ハハッ、よく言うぜ。アンタら全員、飛びついてついてきたじゃねえか」
私は少しだけ抗弁しようとしたが、無駄に終わった。商人の口のうまさに、私はほとんど抵抗できずに言いくるめられた。これが店の中だったら、たいして欲しくもなかった武器を買わされていたところだ。さっきは「冒険者の方が向いている」と言ったが、根は商人なのかもしれない。
それからしばらくの間、私たちは消し炭になった女王アリの上に座って話をしていた。意外にも、これほど悪臭立ちこめる場所でも話は弾んだ。私もそうだったが、トルネコ殿もそうだったと思う。早くここを立ち去りたい――だが話が盛り上がってなかなか離れられない。
このとき、私たちはやまびこの帽子でも被っているかのように喋り続けた――国王に対する愚痴(接待麻雀や接待将棋の話から裏金、汚職の話まで)、家族に対する愚痴、臆病で他力本願な癖に他人からもらった恩はすぐに忘れてしまう一般大衆に対する愚痴、勇者に対する愚痴、仲間に対する愚痴、魔王に対する愚痴(もう一回復活して世界を恐怖のどん底に沈めて欲しい、など)、といった調子で話は大いに盛り上がった。
たぶん、話の途中でやつが現れなければこの愚痴は人類が滅び世界が終ったあとも続いていただろう。
そう、あいつが通路の暗闇から赤い目を光らせてやってこなければ。
私の嫌な予感はどうしてこんなによく当たるものなのだろうか。自分でもうんざりしてくるほどだ。