心の中のつぶやきは〔 〕
佐為とヒカルの間の声に出さない会話は《 》
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なお,投稿サイトPixivにも投稿しています。ハーメルンとPixiv,どちらサイトの作品も読んでいますが,読者層がかなり違うようなので,それぞれのサイトでどんな反応が得られるか,興味深いというか「怖いもの見たさ」というか,そんな気持ちです。
1-1 佐為視点
〔満開の梅が散り始めた頃ですね。よかった,5~6日遅れたら,散り終えていたかもしれない〕
佐為は心の中でつぶやく・・・・
虎次郎が34歳の若さで亡くなってからずっと碁盤に取り宿っている我が身であるけれど,神の計らいで年に1日だけ外に出してもらえる。今年で何度目だろう,100回は越えたと思うけれど,もはや数え切れない。さほど遠くまでは行けないけれども,毎年この時季,梅が咲きほこる頃に出歩く。華やかな桜より清楚な梅の方が好きだった。今もその好みは変わらない。何年か前に見つけた小さな公園。紅梅と白梅が1本ずつ植えてある。満開の梅の花びらがかすかな風に散る。そして,我が身をすり抜けて落ちていく。我が身をすり抜けて・・・・。それは一抹の悲しみを感じさせる。花の散る悲しみと,実体を持たぬ者の悲しみ。
そんな思いから我に返ると,目の前に幼い女の子がわたしを見上げている。
〔この子,わたしが見えるのか?〕
まさか,そんなことがと思うけれど,この子は確かにわたしを見ている。あどけない表情で。試みに声を掛ける。
《わたしが見えるのですか?》
その子は,こくんとうなづく。
《わたしの声が聞こえるのですね?》
その子は,またこくんとうなづく。
〔神よ,感謝いたします。わたしはもう一度人の世に戻り,碁を打てるのですね。神の一手を探求できるのですね〕
こんな感慨にふけっているわたしに,その子が声をかけた。
「女の人? 男の人?」
《ああ,わたしは男ですよ》
「男の人なんだ・・・・おにいさん,きれいだね」
〔おにいさん・・・・まあ確かに,この子よりずっと年上ではあるけど・・・・〕
《お嬢さん,わたしは藤原佐為ともうします》
「フジワラノサイ?」
《はい。長すぎるなら佐為と呼んでくださってもいいですよ》
「サイ,でいいの?」
わたしはうなずく。その子は笑顔をたたえてわたしを見上げる。「美しい」わけではないけれど,ふっくらした何とも愛らしい笑顔,そして無垢な眼差し。わたしは思わずその子の頭を撫でた。撫でたからとて,感触はないのだろうが,その子は笑顔のままわたしを見上げている。我が身があれば,梅の花を手折って髪に挿してあげたい。そんな思いが通じたのか,その子は背伸びして手の届く枝から紅梅を1輪手折って自分の髪に挿した。
《ああ,きれいですよ。梅の花の紅が黒髪に映えますね》
そう言ってわたしはまたその子の頭を撫で,その子はわたしに笑みを見せる。そして,その場にしゃがみ込んだ。
「サイ,見て」
その子は梅の根元の周りに生えている雑草を指さす。
「ここにも花が咲いてるよ」
確かに,その子の指さす先に小指の爪よりも小さい可憐な花がいくつか咲いている。
《ほんとう,きれいな花ですね。なんという名前なのですか?》
「知らない」
《そう,名も知らぬ花なんですね。でも,名前を知らなくても,その美しさを愛でることはできますね》
その時,すぐそばから声がした。
「ヒカルちゃん,何してるの?」
声を聞いて,その子は立ち上がった。
「あっ,あかりちゃん。見て! とてもきれいなおにいさん。サイって名前なんだって」
あかりちゃんと呼びかけられた女の子は,その子を不思議そうに見ている。無理もない。わたしはこの子にしか見えないのだ。ヒカルという名前なのだろう。この子にしかわたしの姿は見えず,わたしの声は聞こえない。あかりと呼ばれる,ヒカルより頭一つくらい背の高い女の子には,さぞかし不思議なことだろう。
「ヒカルちゃん。サイって,どこにいるの?」
「ここにいるよ」
そう言って,ヒカルはわたしの体を手で触ろうとする。手はわたしの体をすり抜ける。ヒカルは不思議そうにわたしを見上げる。
《ヒカルちゃん,わたしはヒカルちゃんにしか見えないんです。わたしの声はヒカルちゃんにしか聞こえないんです。わたしの体は触れることができないんです》
「どうして?」
ヒカルは素直にそう問いかける。わたしは,答えるのにためらう。だけど,言わずに済ますことはできないでしょう。
《わたしは幽霊だからです》
「うそ!・・・・幽霊はこんなきれいじゃないよ。こんなに優しくないよ」
「ヒカルちゃん,どうしたの?」
あかりはヒカルの両肩を揺する。無理もない。
「だって,いるんだよ。ここにちゃんといるんだよ。とてもきれいな人なんだよ。優しい人なんだよ」
《ヒカルちゃん,よーく聴いてください。ヒカルちゃんにはとても不思議に思えるでしょう。でも,あかりちゃんの言ってることも正しいんです。あかりちゃんにはわたしが見えないんです。あかりちゃんにはわたしの声が聞こえないんです。だから,あかりちゃんには,今ヒカルちゃんが独り言を言ってるようにしか見えないんです》
ヒカルは不思議そうにわたしを見る。その表情に悲しみも混じっているかも。こんな善良そうな子を悲しませるのは,わたしも辛い。だけど,いかんともしがたい。
《ヒカルちゃん,いつかきちんと説明します。とりあえず,今は,わたしはヒカルちゃんにしか見えないんだということだけ,分かってください。それと,ヒカルちゃんは声を出さなくても,わたしと話ができます。わたしに話そうと思ったことは,ヒカルちゃんが声に出さなくてもわたしには分かります。だから,わたしと話す時は声を出さなくていいんですよ。不思議なことと思うでしょうね。でも,ほんとうにそうなんですよ。試しに,わたしに何か話そうと思って,思うだけで,声に出さないでみてください》
ヒカルはまた不思議そうにわたしを見る。そして
《よく分からない》
と声に出さずにわたしに語りかけた。
《ヒカルちゃん,今ヒカルちゃんは「よく分からない」と言おうとしましたね》
《うん》
《そう,ヒカルちゃんとわたしはこんなふうにお話ができます。声を出さなくてもいいんですよ》
《うん。分かった》
「ヒカルちゃん,だいじょうぶ?」
あかりは,どこか遠くを見ているようなヒカルの顔を見つめる。
1-2
あかりはヒカルの手を引いて家に戻る。
〔ヒカルちゃん,どうしたんだろう。ガス中毒の後遺症が今頃になって出るのかな。また具合が悪くならないといいけど〕
ヒカルはうつむいて歩いている。佐為はその後ろからついて行く。ヒカルが怪しまれるような振る舞いをしないよう,声は掛けないでおいた。
家に戻ってからは,ヒカルの言動に特に異常なことはなかった。
その夜,佐為はヒカルの夢に現れた。
《ヒカルちゃん,お昼はびっくりさせましたね。怖かった?》
《ううん,怖くなんかないよ。サイは優しい人だもん》
《ありがとうございます。わたしはこれからずっとヒカルちゃんと一緒にいます》
《わあ,うれしい》
《わたしもうれしいです・・・・ヒカルちゃん,碁というものを知ってますか?》
《知らない》
《碁,囲碁とも言います・・・・》
そう言って夢の中の佐為はさっと手を振る。すると碁盤が現れた。
《これは碁盤というものです》
《ゴバン?》
《そうです。この上に黒石と白石を交互に並べるんですよ。こんなふうに》
佐為が手を振ると,碁盤の上に黒石と白石が交互に並べられ,黒白模様が作られていく。ヒカルはそれを眺めている。
《きれい・・・・》
《きれいでしょう。じゃあ,もう1つ》
佐為が手を振ると碁盤の石は一瞬にして消え去り,新たに黒石と白石が並べられ,新たな黒白模様が作られる。こうやって,夢の中で佐為は数え切れないほどの黒白模様をヒカルに作って見せた。ヒカルはうっとりして眺めている。
《ヒカルちゃん,明日の朝起きたら,あかりちゃんに『碁を打ちたい』とお願いしてみてください。夢の中で碁を打つのがとても楽しかったと》
《うん》
明けて日曜日,遅めの朝食を摂っている時,ヒカルはあかりに話しかけた。
「あかりちゃん,わたし,碁をしたいんだ」
「ゴ?」
あかりは突然「ゴ」という言葉を聞かされて,なんのことだか分からない。
「うん。夢の中で碁を見てたの。楽しかったよ。黒い石と白い石が並んでいくの。きれいだよ」
それをはたで聞いていた父が
「ああ,囲碁のことか。ヒカルちゃん,おもしろい夢を見たね。囲碁なんて」
あかりも「黒い石,白い石」という言葉と「イゴ」という音を聞いて「囲碁」という言葉が思い浮かんだ。
「確か,駅前に碁会所があるはずだ。あかり,特に用事がないのなら,お昼頃からでもヒカルちゃんを連れて行ってあげなさい」
1-3 あかり視点
わたしはヒカルちゃんを碁会所に連れて行く。迷子にならないよう手をつないで,学校とは反対方向,駅の方に10分くらい歩くと,「碁会所」という看板のあるビルが見えた。
エレベーターで5階に上がると,すぐ前に入り口がある。中に入ると,若い女の人が受付に立っている。
「あのー,碁を打ちたいんですけど」
「あら,女の子二人連れって,珍しいわね」
と声をかけられた。確かに,まだ時間が早いせいかお客は少ないけど,そのほとんどは中高年の男。子供は一人もいない,と思って店内を見渡したら,入り口の脇のへこんだような区画にある席におかっぱ頭の子がいる。あの子に相手になってもらえるといいな・・・・。
「ここは,初めて?」
「あっ,はい・・・・あの,わたしはこの子を連れてきただけです。この子が打つんです」
ヒカルちゃんは受付の人を見てにっこり笑う。
「ああ,あなたは見ているだけね。それなら子供一人分,500円です」
「えっ,お金が要るの?」
「・・・・それは,まあ,碁会所ですから・・・・」
わたしは財布を出す。
「あかりちゃん。お金が要るのなら,いいよ。あかりちゃんのお小遣いを使わせるのは,よくないよ。わたし,帰る」
「いいのよ。そんなこと気にしないで。ヒカルちゃんがとても楽しそうに碁を打ちたいって言ってたんだから。せっかくここまで来たんだから,碁を打ちましょう」
「いいの?・・・・ごめんね」
こんな話をしていたら,背後から声がした。
「市河さん,子供なんだし,初回なんだし,碁会所に入るのも初めてみただから,今日はサービスしてあげてよ」
振り返ると,さっきのおかっぱの子。こちらに向かって歩いている。
「あら・・・・アキラさん・・・・アキラさんがそう言うのなら」
受付の人はちょっとドギマギしている。わたしもちょっとびっくりしたけど,ヒカルちゃんは平気でおかっぱの子に話しかける。
「おねえさん,ありがとう」
ヒカルちゃんはうれしそうに笑顔を見せる。その子もつられたように笑顔を見せた。
「ボクはね,男の子なんだよ」
「そうなの! すごくきれい!」
ヒカルちゃんは,こういうところ「天然」なんだよなあ。その子も,笑っている。
「ボクは塔矢アキラ」
「わたしは進藤ヒカル」
「ヒカルちゃんだね」
「うん。わたしと打ってくれるの?」
「えっ・・・・アキラさんは・・・・」
受付の人が横から口を挟む。
「いいんだよ。こんな小さな女の子,おじさんに相手させるのは,かわいそうでしょう。ボクが相手してあげるよ」
ヒカルちゃんはうれしそうに頭を振ってうなずいている。受付の人は,「仕方ないわねえ・・・・」というような顔をしている。
「じゃあ,こっちに」
と言って,アキラくんはヒカルちゃんを連れて奥の席に行く。わたしもついていく。二人は,碁盤を挟んだ椅子に座る。わたしは,その脇にある席に座らせてもらった。
1-4
アキラは目の前に座っている小柄な女の子に尋ねる。
「ヒカルちゃん,棋力はどれくらい?」
「キリョク?」
ヒカルは思わず左隣にいる佐為の方を向く。
《棋力というのは,碁の強さのことです。そうですね「かなり強い」と答えてください》
「かなり強いよ」
「そう?」
アキラは不思議そうな顔をする。それを見て,佐為はほほえむ。
〔そうですよね。こんな女の子から「かなり強い」と言われると,不思議ですよね。でも,この子が打つんじゃないんです。わたしが打つんです。藤原佐為すなわち本因坊秀策が打つんですよ〕
「それじゃあ,置石は5子くらいにしようか」
〔「かなり強い」と言う相手に5子の置石をさせるとは,このアキラという少年,よほど強いのか,それとも「かなり強い」というヒカルの言葉を信用していないのか・・・・まあ,どちらでもいい。ここは一気に粉砕して,わたしの棋力を理解させ,2局目を互先で申し込むのが一番でしょう〕
《では,ヒカルちゃん,これからわたしが扇で示す場所に黒石を置いてください。分かりましたか?》
《うん。分かった》
《ヒカルちゃん,一々わたしの方を向かない方がいいですよ。怪しまれますから》
《うん。分かった》
《じゃあ,いきますよ!》
佐為は碁盤の位置を扇で示す。ヒカルはそこに黒石を置いていく。中指と人差し指と親指の3本の指で石をつまむヒカルをアキラはあきれたように見ている。
〔まるで初心者の持ち方だな・・・・だけど,置く場所はきちんと理にかなっている・・・・それにしても,横に誰かいるように時々左に顔を向けるのは,どうしてなんだろう?〕
そんな疑問を明らかにする間もなく,アキラは10分くらい打つうちに相手の棋力を認識した。
〔これは,とても置石させる相手ではない。互先でも勝てるかどうか・・・・〕
アキラは率直に自分の不明を認めた。
「ヒカルちゃん,ごめん。キミの棋力を見誤っていた。キミはとても置石させる相手ではないことが分かったよ。対局の常識に反することだけど,この対局はここで打ち切って,あらためて初めから互先で打ってくれないか?」
「タガイセン?」
《互先というのは,置石をしないふつうの碁のことです。アキラさんに「いいですよ」と答えてください》
「うん,いいよ」
その返事を聞いて,アキラは石を片付け始める。横で見ていたあかりは驚いた。碁のことはよく分からないけど,ともかくたった10分で,ヒカルは実力を相手に認めさせたのだ。
〔ヒカルちゃん,いつの間に碁を覚えたの?〕
そんな疑問を抱くあかり。アキラは,石を碁笥に戻し終わり,ヒカルに話しかける。
「ヒカルちゃんが黒石だから,握って」
ヒカルは「握る」と言われても,何のことだか分からない。
《ヒカルちゃん,碁石を適当に,そうですね10個くらい,握ってください》
ヒカルは言われたとおりにする。アキラは白石を2個,碁盤に置く。
《ヒカルちゃん,じゃあ,握った黒石を碁盤においてください》
アキラは黒石を数える。
「10個だね。じゃあボクが先攻だ。碁笥を取替えよう」
ヒカルは言われるままに碁笥を取替える。
「コミは5目半でいいね?」
《コミって,なに?》
《わたしも分かりません。アキラさんに聞いてください》
「コミって,なに?」
「えっ,キミ,コミを知らないの?」
ヒカルは悲しげにうつむく。
「ごめんなさい」
「いや,別に謝らなくてもいいんだよ・・・・コミというのはね,黒石を持つ側は先攻で有利だから,それを補うために白石の側,つまりこれからの対局だとヒカルちゃんの側に初めから5目半をあげるんだ。分かる?」
《サイ,分かる?》
《はい,分かりました。そうなんですか,今はそういう規則になったんですね・・・・大丈夫です。さっきと同じようにわたしの扇が示す場所に白石を置いていってくださいね》
《うん》
「ヒカルちゃん,じゃあ,始めるよ。いいね?」
「うん,いいよ」
「お願いします」
とアキラは礼をする。それをまねてヒカルも
「お願いします」
と頭を下げた。
10手,20手と局面が進めば,相手の棋力は見えてくる。100年以上を隔てて初めての対局である佐為にとって,アキラの打ち手に戸惑うこともあるが,棋力は明らかに自分がまさっていると判断できる。ただし,アキラの棋力も相当なものということも分かる。秀策の時代ならば初段くらいか。全力を出して圧倒的な差で勝つか,それとも2目か3目くらいの差をつける指導碁にするか・・・・佐為は初回は実力をしっかり見せることにする。
・・・・アキラは,目の前にいるヒカルという女の子,おぼつかない手つきで石をつまむ子供の棋力にめまいを感じている。
〔自分で「かなり強い」と言うだけのことはある。ボクを遥かに上回る棋力だ。ただ,なぜか手筋が古くさい〕
ヒカルは佐為に言われるままに石を置きながら,碁盤に黒と白の模様ができていくのを楽しそうに眺めている。その眼差しは,おもしろい遊戯をしているように楽しげにきらめいている。そして時おり自分の左に座っている佐為の方にその楽しげな眼差しを向ける。
中盤から終盤に進む頃,アキラは自分の負けを認めた。
「ありません」
「・・・・?」
ヒカルはなんのことだか分からず,きょとんとしている。
《ヒカルちゃん,アキラさんが負けを認めたんです》
《わたし,勝ったの?》
《そうですよ》
「わーっ」
ヒカルは歓声をあげてあかりに話しかける。
「あかりちゃん,わたし,勝ったんだって」
あかりはびっくりした。
「ヒカル,えらい?」
「・・・・うっ,うん。えらい。ヒカルちゃんはえらいよ」
そう言われて,ヒカルはうれしそうな笑顔になったが,向かいのアキラがうつむいて黙っているのを見て,笑顔が消えた。
「アキラちゃん,悲しいの? 負けたのが悲しいの? わたし,悪いことした? ごめんね」
アキラは顔を上げる。心配そうに自分を見るヒカルの目。
「・・・・いや,そんなことはないんだよ。キミは何も悪いことなんかしていないよ。強い方が勝つ。当たり前のことなんだ」
ヒカルはなお,心配そうな顔をしている。アキラはさきほど耳に挟んだヒカルとあかりの会話を思い出した。
「ヒカルちゃん,ボクに勝つなんて,えらいね」
それを聞いてヒカルの表情が明るくなった。
「あかりちゃん,アキラちゃんがわたしのこと『えらい』ってほめてくれたよ」
「そう,よかったね」
そう言って,あかりは立ち上がった。
「アキラさん,今日はどうもありがとうございました」
「えっ,もう帰るの? もう1局お願いしたかったんだけど」
「わたし,このあと用事があるので」
「そうですか・・・・それじゃ,明日は? 明日,学校の後に来れませんか? もう授業は午前で終わるでしょう?」
「明日も,わたしはほかに用事があるから・・・・ヒカルちゃんは一人じゃ来れないんです。迷子になるから」
「それじゃ,ボクが迎えにあがります」
「えっ?」
あかりはアキラの強引さにあきれたような顔をするけど,アキラは気づかない。佐為は,明日も対局できるかもしれないと知ってよろこんだ。
《ヒカルちゃんは,明日は用事がないの?》
《うん。なにもないよ》
《じゃあ,アキラさんに明日も来れると答えてくれませんか?》
「アキラちゃん,わたしは明日来れるよ」
「ヒカルちゃん!」
あかりはびっくりしてヒカルに話しかける。
「だって,碁を打ちたがってるんだもん」
アキラは,明日も来れるというヒカルの言葉によろこびながら,「打ちたがってる」という言い回しに違和感を覚える。〔何だか,自分じゃなくてほかの誰かのことを話してるような言い方・・・・〕
「まあ,ヒカルちゃんがいいって言うのなら,いいけど・・・・でも,アキラさん,わたしたちのうちを知らないでしょう」
「じゃあ,これからおうちまで送っていきます」
「えっ・・・・」
あかりはここでもアキラの強引さに驚いたが,悪い人ではないようだし,ヒカルも碁を打ちたがっているのなら,むしろありがたいことかも,と思うことにした。あかりがそんなことを考えているうちに,アキラは立ち上がる。背後でお客たちが,「アキラくんが負けたのか?」とざわついているのが聞こえるが,気にする様子もない。
「市河さん,これからボクはこの子たちを送っていきます」
そう声をかけ,碁会所を出た。エレベーターを待つ間,エレベーターの中,そして外を歩きながら,アキラはヒカルに話しかける。
「ヒカルちゃん,ほんとうに強いね。できれば毎日でも対局してほしい。もう学校は午前で終わりだし,もうすぐ春休みだよね。ほかに用事がない日は,毎日来てくれない?」
「うん。わたしはいいよ」
佐為はこの会話を聞いて飛び上がらんばかりによろこぶ。〔すばらしい。これから毎日この子と碁を打てる・・・・〕
ヒカルは,両側を歩いているあかりとアキラに
「手をつないで」
と両手を伸べる。あかりはいつものことなので慣れたように手をつなぐ。アキラは一瞬戸惑ってから手をつないだ。ヒカルは二人を交互に見ながらニコニコしている。そんなヒカルを見て,あかりはアキラに話しかける。
「これからしょっちゅう碁を打ってもらうなら,ヒカルちゃんのこと,説明しておきます。ヒカルちゃんの事情を知っておいてもらう方がいいと思うから」
アキラはあかりを見る。確かに,ヒカルはちょっと変な子だ。1度対局しただけでも,それは分かる。どんな事情があるのか,できれば知っておきたいと思っていた。
佐為も同じことを考えている。昨日,ヒカルに宿って,何となく普通とは違う子供だと思っているが,きちんと事情を説明してもらってはいない。
「ヒカルちゃんはわたしのいとこです。年下に見られるけど,同じ年です。3年前,いや,もう4年前になるのかな,ヒカルちゃんのうちが火事になり,ご両親は逃げ遅れて死んだんです。ヒカルちゃんも煙に巻かれて倒れているところを間一髪で救助されました。ただ,ガス中毒で脳に障害が残ってしまったんです」
アキラは〔ああ,そういうことか〕と納得した。
「知的障害なんですけど,それまで習ってたことを忘れただけじゃなくて,文章を理解するのがほとんどできなくなったんです」
「話は理解できるの?」
「普通の会話ならだいじょうぶなんですけど,難しい話になると・・・・」
「そう・・・・」
「それと,体の成長もほとんど止まったみたいで。今ではどう見てもわたしの妹にしか見えないんです。顔立ちも幼いままだし」
「今,何歳なの?」
「こんど中学生になります。わたしは地元の中学に通うんだけど,ヒカルちゃんは養護学校に行くことになってます」
「そうなんだ・・・・一緒に住んでるの?」
「はい。火事の直後は施設に入れられる話もあったんですけど,うちの親が『それはかわいそうだ』ということで引き取ったんです。ただ・・・・」
あかりは話しにくそうだったが,
「うちもそんなに裕福じゃないから,ヒカルちゃんにあまりお小遣いをあげられないんです。だからさっき,碁会所の・・・・」
「ああ,それはいいんだよ。さっきも話したとおり,お金は要らないから」
それからアキラはふと思い直した。
「でも,そんな事情なら,碁会所よりもうちに来てくれる方がいいかも」
「アキラさんのうち?」
「うん。ボクの父はプロの棋士なんだ。自慢じゃないけどタイトルホルダーだよ。碁会所より,うちの方がいろいろ世話してあげられると思う。母も,そういうこと嫌いな人じゃないから」
佐為も事情を理解した。
〔なんと不憫な子。そういうことならわたしも力になってあげたいけれど,幽霊の身では・・・・いや,わたしの棋力で手助けできるかもしれない。それに,この塔矢アキラという少年。父も棋士だとのこと。きっとヒカルを手助けしてくれる〕
ヒカルは,自分のことを話している二人をおもしろそうに交互に眺めている。どちらも,自分のことを心配してくれていることはなんとなく分かる。そんなヒカルにアキラが話しかける。
「ヒカルちゃん,明日,学校が終わってボクが迎えに来るから,ボクのうちで碁を打とう。それでいい?」
「うん,いいよ」
こんな話をしているうちに,あかりとヒカルの住む家に着いた。
「ボク,一応お母様とお父様にご挨拶しておこうと思うのだけど」
「父は出かけていると思うわ。母はいると思うけど」
「じゃあ,お母様だけにでも」
あかりは玄関を開ける。
「ただいま。おかあさん,いる?」
「うん,いるわよ」
「おかあさんに挨拶したいって人がいるんだけど」
と言いながらあかりはヒカルと一緒に靴を脱いで玄関を上がる。
「えっ,わたしに挨拶?」
とけげんな顔で出てきた母は,目の前に立っている整った顔立ちの子を見てびっくりする。その子はていねいにお辞儀して挨拶の言葉を述べる。
「塔矢アキラともうします。駅前の碁会所を運営している塔矢行洋の息子です。今日,ヒカルさんに対局していただきました。そして,ヒカルさんの強さに感嘆して,これからも,時間がある限り対局していただきたいとお願いしました。明日もよろしいとのことなので,ボクがお迎えに上がります。明後日からも,ヒカルさんの事情が許す限り我が家に来ていただいて対局していただきたいと思っております。よろしくお願いします」
アキラはもう一度ていねいにお辞儀する。母親は自分の娘と同じくらいの年頃と思える子供があまりに礼儀正しい挨拶をするので,驚いてしまい,
「こちらこそ,よろしくお願いします」
と答えるのがやっとだった。アキラの挨拶を一緒に聞いていたあかりは
「今日はいろいろとありがとうございました」
とお辞儀する。
「いえ。たいしたことではありません・・・・じゃあ,ヒカルちゃん,明日,お迎えに来るからね」
「うん」
その返事を聞いて引き返しかけたアキラは
「あっ,そうだ」
というあかりの声に,足を止めた。
「大事なことを言うのを忘れてた。ヒカルちゃんは『こんなことも知らないの』とか『こんなこともできないの』と言われるとすごく悲しみます。反対に,『えらいね』とか『よくできたね』と言われると,とてもよろこびます。なるべくそうしてあげてください。ほんとうに,いい子なんです」
アキラは,対局中にコミについて尋ねられて「コミを知らないの?」と聞き返した時のヒカルの悲しそうな顔を思い出した。そして対局を終えてあかりから「えらい」と言われた時のうれしそうな顔も。
「分かりました。ヒカルちゃんを傷つけるようなことはぜったい言いませんから」
こう約束して,アキラは碁会所に引き返す。その途中,一番大きな謎が残っていることに気づいた。
〔まだ小学生で,しかも知的障害のある子供が,どうしてあんな棋力を持っているんだ?・・・・まあ,明日から毎日うちで碁を打つんだ。尋ねる機会はあるだろう〕
碁会所に戻ると,お客たちの視線がアキラに向く。先ほどの対局について尋ねたいのはやまやまだが,面と向かって尋ねるのも気が引ける,そんな雰囲気が伝わってくる。アキラは敢えて無視する。あの子のことは,ここでは話したくない,話さない方がいいだろう,あの子のためにも・・・・。
父と母と夕食を囲むテーブルで,アキラは今日の不思議な体験を語った。対局の内容から,ヒカルの不思議な挙動,そしてヒカルの事情に至るまで。