2-1
翌日,アキラは放課後,ヒカルたちの家に向かった。〔早すぎたかな〕と思ってドアホンを鳴らすと,ドタドタと階段を駈け降りる足音がして,ドアが開いた。
「アキラちゃん!」
「ああ,ヒカルちゃん。ひとり?」
「ううん。あかりちゃんは,上にいるよ」
とヒカルが言い終わる間もなく,あかりが部屋を出て階段の上に現れた。
「アキラさん,早いですね」
「うん。でもキミたちも」
「だって,卒業式の予行演習しかないんだもん」
「それはボクも同じなんだ」
こんな会話を交わして,アキラはまたヒカルに声を掛ける。
「これからすぐ行ける?」
「うん」
出かけようとするヒカルをあかりが呼び止める。
「ヒカルちゃん,お昼ご飯は?」
「あ,お昼はうちで用意してます」
とアキラが返事をする。
「あっそうだ。晩ご飯もうちで出すことになると思います。ご両親にそう伝えておいてくれますか?」
「はい。分かりました・・・・じゃあ,ヒカルちゃん,いってらっしゃい」
「いってきまーす」
と元気に外に出たヒカルは,歩き出すとごく自然にアキラの手を握った。アキラは一瞬戸惑ったけれど,昨日も手をつないで碁会所から家まで歩いたんだなと自分を納得させる。駅まで来て,碁会所には行かず,地下鉄への階段を降りる。
「電車に乗るの?」
「うん。2つ先だよ」
「わたし,お金を・・・・」
「心配しなくていいよ。ボクが二人分もってるから」
2駅目で降りて10分ほど歩く。それまで黙っていたヒカルが,どうしても聞きたいというふうに話しかけてきた。
「お昼ご飯,何かなあ・・・・」
「そうだねえ,何かなあ・・・・ヒカルちゃんは何が好きなの?」
「ハンバーグ!」
ヒカルは元気よく答える。
「それじゃあ,晩ご飯はハンバーグを作ってもらおうかな」
「ほんとう? うれしい・・・・」
こんな他愛もない会話をしているうちに,塔矢邸に着いた。塀で囲まれ門構えのある立派な邸宅。ヒカルの目にはお屋敷に思えた。
「わー,大きなおうち」
ヒカルは思わず横にいる佐為を見る。
《・・・・》
佐為はなんと声を掛けてよいのか,戸惑った。そんなヒカルのしぐさをアキラは見逃さない。
〔また,隣に誰かいるようなしぐさだな・・・・まあ,今は気にしないでおこう〕
門をくぐり,引き戸を開け,アキラが「ただいま」と声を掛けると,奥から「テーブルにかけて待ってて」と女の人の声がした。
二人がダイニングルームのテーブルにつくと,すぐに明子が顔を出した。
「ヒカルちゃんね。初めまして。アキラの母の明子です」
こんなきちんとしたあいさつに慣れていないヒカルは固まってしまった。そんな子供っぽい様子を見てアキラと明子は微笑む。
「ヒカルちゃん,そんなに緊張しなくていいのよ。アキラから話は聞いてます。今日はよく来てくださいました」
「おかあさん,ヒカルちゃんはお昼ご飯がなんなのか,気になるみたい」
「女の子のお客様だから,パスタを用意してます・・・・ヒカルちゃん,パスタは嫌いじゃないのよね?」
「はい,好きです」
思わず「よそ行き言葉」で答えるヒカルだが,パスタが出され,食事が進むうちに緊張もほぐれてきた。
食事を終え,アキラが
「じゃあ,ヒカルちゃん,そろそろ対局,いいかな?」
と声を掛ける。
「うん」
「じゃあ,こっち」
アキラはヒカルを碁盤のある居間に案内しようとして,明子に声を掛けた。
「そうだ。ヒカルちゃんはハンバーグが好きなんだそうです」
「じゃあ晩ご飯はハンバーグにしましょう」
「わあ,うれしい」
・・・・対局は中盤にさしかかっている。アキラは軽い驚きを覚えていた。昨日対局して,強さとは別に手筋の古さを感じた。それは今日も同じなのだが,昨日の対局で自分が打った手から学んだと思われる新しい手を時おり打ってくる。
〔昨日の1局だけで学習できるとは,すごい能力だ〕
形勢は明らかにアキラが不利。もう巻き返しは不可能と思われるが,今日は最後まで打ち切りたい。
「ヒカルちゃん,ボクの負けはもう見えてるんだけど,最後まで打ち切りたいんだ。ボクの勉強のために」
ヒカルはきょとんとしている。それからちょっと間を置いて,
「うん,いいよ」
と答えた。
〔この反応の遅さは何なんだろう。碁の応手はあきれるほど早いのに〕
アキラがこんなことを考えている時,障子の向こうから
「アキラ,ヒカルさん,入ってもいいかな」
と声がした。
「どうぞ」
とアキラが返事をすると,障子が開いて,和装の男が入ってきた。ヒカルは思わず見つめる。その人が醸し出す威厳はヒカルにも感じられる。そして,佐為にも。
〔この者,お城碁で首席を争う者のような威厳と気迫を身にまとっている〕
「父の行洋です」
「コーヨー・・・・さん?」
ヒカルは緊張した表情で問い返す。行洋は黙ってうなずき,碁盤の脇に座って盤面の状況を見る。
「ボクの負けは分かっているのですが,最後まで打ち切ってもらっています」
「それがいい。その方がアキラの勉強になるだろう」
この会話を聞きながら佐為は思う。
〔わたしも勉強になります。秀策が死んでからおそらく100年を超える歳月が過ぎ,碁の打ち方は進歩したはず。昨日の対局でもいくつか窺われました。今日のアキラの打ち手からも学ぶものがあります〕
《ヒカルちゃん,行洋殿のことが気になるかもしれませんが,盤面に集中しましょう。さあ,続けますよ》
《うん》
結果は,アキラの15目半負け。
「ヒカルちゃん,今日は時間があるから,検討しよう」
「ケントー?」
〔検討も知らないの?〕と言おうとして,アキラは言葉を飲み込んだ。昨日,あかりから言われたことを思い出したのだ。
「検討というのはね,前に戻って,『ここで,こう打たずに,こんなふうに打っていれば,良かったんじゃないか』とか,いろいろ考えるというか反省することなんだよ」
「ふーん」
ヒカルはちらりと左に座っている佐為を見る。佐為はうなずいている。
「うん。じゃあ,ケントーしよう」
「わたしも加わらせてもらうよ」
と行洋が言う。
アキラと行洋が提案する別手に対して佐為はそれへの応手を扇で示し,ヒカルがそこを指で示す。こうして,アキラの失着がいくつか明らかになったが,ヒカル=佐為の側にも,現代の碁の打ち方からすると不適切な手があることも明らかになった。ただし,この検討の間,ヒカルはきちんと石を打つ場所を示すのに,それについての説明は一言も発しない。それは,アキラにも行洋にも奇妙に思えた。
「では,次はわたしと対局してもらうよ。ヒカルさん」
そう言って行洋はヒカルの向かいに座る。佐為は先ほどにもまして気迫を感じる。その眼差しから,並々ならぬ棋力が窺われる。
〔この世に立ち戻ってすぐ,あなたのような人と対局できるとは,幸せです〕
佐為は,アキラとの時のような早差しはせず,じっくり考えて打っていく。行洋も同じ。ヒカルは碁盤に少しずつ出来上がっていく黒白模様を眺めている。
攻防も終盤にさしかかる頃,障子の向こうから声がかかった。
「そろそろ晩ご飯の時間ですよ。ヒカルちゃん,お昼からずっとで,お疲れでしょう。ちょっとお休みを入れないと」
行洋は現実に引き戻されたような顔で時計を見る。
「ああ,もうこんな時間だ。確かに,ヒカルさん疲れただろう・・・・だが,あとおそらく1時間くらいで終わるのだが・・・・」
《ヒカルちゃん,あと1時間くらいがんばれますか?》
《うん,だいじょうぶだよ》
《それでは,行洋殿にそう言ってください。このまま最後まで続けましょうと》
「だいじょうぶだよ。あと1時間くらいがんばれるよ。最後まで続けよう」
「そうか,ありがとう・・・・明子,今のヒカルさんの声,聞こえたかな」
「はい,聞こえました。ではもうちょっとお待ちしています」
・・・・勝負は最後までもつれたが,最終的に行洋が1目半差で勝った。
《サイ,負けたの?》
《はい。わたしが負けました。でもヒカルちゃん,がっかりしないでください。行洋殿はとても強い。この人に負けるのは少しも恥ずかしいことではないですよ》
《ふーん,そうなんだ》
《そうなのですよ》
「検討は夕食後でいいだろう。ヒカルさんも疲れただろう,まず夕食にしよう」
と行洋が立ち上がり,ヒカルとアキラも立ち上がってダイニングルームに向かう。ダイニングルームには明子が待っている。入ってきた3人を見て,ヒカルに声を掛ける。
「リクエストにお答えして,ハンバーグですよ」
「わー,うれしい! おばさん,大好き」
そう言ってヒカルは明子に駆け寄り,抱きついた。行洋とアキラはあっけにとられたように眺めているが,明子は〔あら,ヒカルちゃん,わたしに慣れてくれている〕とむしろ喜んでいる様子。
「さあ,腰掛けて」
2-2
ヒカルは明子が作ったハンバーグをおいしそうに食べている。
「これ,ほんもののハンバーグだね。レストランで食べるみたいな高級なハンバーグだね」
目を輝かせてうれしそうに語りながら,あっという間に食べてしまった。
「おかわり」
「えっ,ヒカルちゃん,もう1個食べるの?・・・・おいしいって言ってくれるのはうれしいんだけど,そんなに食べるとお腹をこわすわよ」
そう明子にさとされて,ヒカルは残念そうにうつむく。その子供っぽい反応が塔矢親子の微笑みを誘う。
〔確かに,先ほど見せた練達した棋力と,この子供っぽい所作の対比は不思議だ〕
と行洋は思う。
「じゃあ,ヒカルちゃん,デザートにしましょう。アイスクリームでいい?」
明子にそう言われて,ヒカルはさきほどの残念そうな表情から一転してうれしそうな表情になった。デザート皿に乗った1カップのアイスクリームをうれしそうに食べている。ヒカルがアイスクリームも食べ終えた頃,行洋とアキラは食事を終えた。食後の寛いだ雰囲気の中で行洋が語る。
「ヒカルさんの棋力は素晴らしい。ただ,時おり古い手筋が見える。古いから悪いとは限らないのだが,やはり一般的に言えば,日々新しい手筋が考案されている中,古い手筋にこだわっていては勝ちを逃すだろう」
父の言葉にアキラが続ける。
「ボクは,ヒカルちゃんの打ち方,なんとなく秀策を思わせるなという気がするんです」
行洋は先ほどの対局を思い起こし,なるほどとうなずく。
「ヒカルちゃん,秀策を詳しく勉強したの?」
「シュウサク?」
ヒカルは何のことか分からず,聞き返す。その時,佐為が
《まさにそのとおり。わたしは本因坊秀策その人だったのです》
と思わず返事をした。佐為はとてもうれしそうな表情でそう語る。それを見てヒカルも思わず,
「サイはホンインボーシュウサクだったんだって」
と言葉にした。その瞬間,3人の視線がヒカルに集まる。ヒカルは事態を理解していない。ただ,それまでの和やかな雰囲気が変わったことを感じている。佐為は自分の軽はずみな発言を悔いた。しかし,ちょっと考えて,覚悟を決めた。
《ヒカルちゃん,この方々にはこれからも永くお世話になるでしょう。この方々には,わたしのことを話しておく方がいいと思います・・・・ヒカルちゃん,これからわたしの言うことをそのまま声に出して,この3人に話してください》
《うん》
《難しい言葉もまじるかもしれませんが,がんばってね》
《うん,がんばるよ》
《それではまず,「これから佐為の言葉をそのまま伝えます。『わたし』というのは佐為のことです」と言ってください》
「これからサイの言葉をそのまま伝えます。『わたし』というのはサイのことです」
3人はさらに食い入るようにヒカルを見つめる。その3人にヒカルは抑揚のない口調で語り始める。
「わたしは
わたしの
その碁盤は縁あって,本因坊家の墓のある本妙寺にほど近い,家の蔵にしまわれていました。そして,神の計らいで年に1日だけ,外を出歩くことを,許されていました。わたしは毎年梅の花の咲く頃に,出歩いておりました。今年は2日前のことです。そしてそこで,満開の梅の木の前で,ヒカルに出合いました。ヒカルは,ヒカルだけは,わたしの姿を見ることができ,わたしの声を聞くことができるのです。わたしは,ヒカルにお願いしました。わたしに代わって碁を打ってくれるようにと。そうしたら,昨日,あの碁会所に連れて行ってくれて,塔矢アキラさんと対局したのです。ヒカルの打つ碁はわたしの碁です。わたしが扇で示す位置に,ヒカルが石を置いていくのです」
ヒカルは語り終えた。
《ヒカルちゃん,お疲れ様。よくがんばってくれました》
《うん》
《ヒカルちゃん,えらいね》
ヒカルは佐為の方を向いて明るい笑顔を見せる。
3人は黙ってヒカルを見ている。今,ヒカルが語ったこと,ヒカルの口を通して佐為という人物が語ったことは,信じがたい。荒唐無稽とさえ言える。しかし,実際に対局し,ヒカルの棋力を実感した者にとっては,そして恐るべき棋力を備えながら,知的障害を抱えた子供っぽいヒカルの振る舞いを見ている者にとっては,説得力がある。この子に宿っている幽霊が碁を打っている,碁を打たせている・・・・。
数分間の沈黙を破って行洋が口を開いた。
「話は分かった。いや,簡単に受け入れがたい話であるが,ヒカルさんの棋力を実感した者として,納得できる部分はある」
ここで一息ついて,話を続ける。
「ところで,佐為そしてヒカルさんにお尋ねしたい。今日この場で話してくれたことは,この3人だけに打ち明けた秘密なのか,それともほかの人にも話しているのか,今後話すつもりはあるのか」
「誰にも話してないよ・・・・あかりちゃんには幽霊がいることを話したけど,信じてもらえなかった。ほかには誰にも話していない」
《これからも,誰にも話すつもりはありません,と伝えてください。ヒカル》
「これからも,誰にも話すつもりはありません」
行洋はうなずく。
「その方がいいと思う。・・・・この話についてはとりあえず,これで打ち切りにしましょう。夕食前の対局の検討がまだだ。まず,それを終わらせよう。そして,ヒカルさんをおうちに帰してあげないと」
検討は30分ほどで終わり,明子がヒカルを車で親元に送っていった。
明子は地図と住所,そしてアキラがした説明を頼りに車を運転する。この辺かなと思うあたりを徐行していると,ヒカルが
「あっ,あの家だよ」
と指さしたので,その家の前で車を停め,念のため表札を確認したが,「進藤」ではなく「藤崎」となっている。
「ヒカルちゃん,ここは藤崎さんの家よ。ヒカルちゃんの家じゃないでしょう?」
ヒカルは首を振る。
「ううん。ここだよ。わたしはここに住んでるの。あかりちゃんたちは藤崎なの。わたしだけ進藤なの」
その声はちょっと寂しそうだった。明子は事情を理解した。
明子がヒカルを送っている間,行洋とアキラはヒカルのこれからのことについて語り合っていた。
「ヒカルさんに宿っている佐為という幽霊のことは,確かに,ほかに話さない方がいいだろう。ただ,先ほどの話からすると,ヒカルさんというか佐為はわたしたち二人だけでなく,ほかの多くの棋士とも打ちたいのだろう。佐為のことを話さないとしたら,ヒカルさんが碁を打っているということになるのだが,ヒカルさんの驚異的な棋力をどうやって説明すればいいのだろう」
そう問われて,アキラも答えが見つからない。
「こういうことはおかあさんに相談したらどうでしょう。碁バカのボクたちより,おかあさんの方がこういうことなら知恵があるかも」
「それはそうだな」
行洋は苦笑した。
明子は30分ほどして戻った。行洋はさきほどのアキラとの話を明子にした。明子もちょっと考え込んだが,名案が浮かんだようだった。
「山下清みたいなものだ,と説明すればいいんじゃない?」
「山下清?」
「まあ,二人とも山下清を知らないの?」
と明子はいささかあきれたが,碁バカの二人に説明した。
「知的障害だけど天才的な絵を描いた人。有名よ。そういう,知的障害を抱えながら一芸に秀でた人はほかにもいるらしいわ・・・・そういう分野のことに詳しい友人がいるから,明日にでも相談というか知恵を借りに行くわ」
2-3 明子視点
翌日,わたしはさっそく心理学を専門にしている友人に相談しに行った。友人は「サヴァン症候群」という,うってつけの症例を教えてくれた。その友人いわく,
「知的障害がありながら,特殊な能力を備えた人たちのこと。たとえば,内容を理解していないのに本を最初から最後まで丸暗記できるとか,すごい桁数の暗算ができるとか,ちらっと見ただけの景色や映画の場面を記憶して絵に描けるとか」
「それなら,たとえばちらっと見ただけの棋譜を丸暗記できるとかも,あり?」
「まあ,そういうことがあっても,おかしくない・・・・さすが碁の名人の奥さんね。すぐに棋譜を思い浮かべるなんて」
それ,ヒカルちゃんにぴったり。わたしはうれしくなった。
帰宅したら,もうアキラがヒカルちゃんと対局している。
〔まったく,親子揃って碁バカなんだから。それにしても,相手させられるヒカルちゃんの身にもなって少しは遠慮しなさい〕
対局中は声を掛けないのというのが我が家の基本ルールだけど,この場合は破らせてもらうわ。わたしは居間の障子を開け,声を掛ける。
「アキラさん,少しはヒカルちゃんのこと考えてあげなさい。あなたは朝から晩まで碁を打って平気な人だけど,ヒカルちゃんはまだ小学生の女の子なのよ。疲れさせちゃだめよ」
「おばさん,だいじょうぶ。わたしも碁を打つの好きなの。黒石と白石がならんできれいな模様ができるのを見てるの,楽しい」
「あら,そうなの」
そう言ってくれるのはうれしい。だけど,もう1つ気になることがある。
「アキラさん,ヒカルちゃんにお昼ご飯は出したの?」
「うん。パン焼いて,目玉焼き作って,あと,適当に野菜をのっけて」
「そんな粗末な・・・・」
「おばさん,おいしかったよ。アキラちゃん,お兄ちゃんみたい,優しいの」
〔あらあら,すっかりアキラになついちゃって〕
わたしまで気持ちがほっこりする。
「まあ,ヒカルちゃんがそう言うんなら,いいけど・・・・おやつ用意しておくから,その対局が終わったらこっちにおいで」
「はーい」
アキラの代わりにヒカルちゃんが返事する。
〔まだ2日目なのに,ヒカルちゃん,すっかりうちになじんでくれた〕
おかしいような,うれしいような気持ち。
〔あんな素直で可愛い女の子がうちにいれば〕と思った,これが最初かもしれない。
お皿にクッキーを並べ,いつでもミルクティーを作れる用意をしておく。30分くらいしたら二人がやってきた。
「わー,おいしそうなクッキー」
「あっ,ヒカルちゃん,いまミルクティーをいれるから,ちょっとだけ待ってて」
「うん」
ヒカルちゃんは素直に返事する。いい子だ。
ミルクティーができあがり,二人の前に置く。
「おばさん,もうクッキー食べていいの?」
「いいわよ」
さっそく食べ始めたヒカルちゃん,「わあ,おいしい」と歓声をあげる。
クッキーがなくなる頃,ヒカルちゃんはアキラに質問した。
「アキラちゃん,ホンインボーシュウサクって,何年くらい前の人なの? サイが知りたがってるの」
「えっ,それは詳しくは知らないけど・・・・佐為,だっけ,その頃のことで記憶に残っている大きな出来事って,何かない?」
ヒカルちゃんは左隣にいる誰かの声を聞くようなしぐさをしている。きっとそこに佐為という幽霊がいるんでしょうね。
「ペリーという人が黒船に乗って・・・・」
「ああ,それなら,だいたい150年くらい前だね・・・・昨日,父も話していたけど,佐為の棋力は素晴らしいけど,秀策が死んだ後も碁は発展してるんだ。新しい打ち方もいろいろ考案されている。それを勉強すると,もっと強くなるよ。今でも,これまで5局くらいしか打っていないのに,佐為はそれからしっかり勉強しているけどね。それはすごいと思う」
ヒカルちゃんは自分が褒められたようにうれしそう。佐為のことを自分のことのように思っているのね。
「ボクも,意識的に新しい打ち方を見せるよう心掛けているんだ。ボクが教えるなんておこがましいけど,新しい手を覚えて,もっと強くなってほしいんだ」
「サイが,ありがとうございますって」
わたしはヒカルちゃんに寄り添っている佐為という幽霊のことをもっと知りたくなった。
「ヒカルちゃん,佐為はいつもヒカルちゃんの左にいるの?」
「うん。たいてい左にいる。碁を打つ時は扇で石を置く場所を指してくれるの」
なるほど,右手に持った扇で碁盤の場所を示すには,ヒカルちゃんの左に座る方が都合がいい。
「どんな人? 若い人? お年寄り? どんな服を着てるの?」
「アキラちゃんよりは年上だけど,若い人。初めて見た時,『おにいさん』って呼んだの。すごくきれいな人だよ。碁を打つ時は真剣な顔になるけど,横から時々見てるの。碁を打つ時の顔も好きだよ・・・・服は昔の服。なんていうのかな・・・・」
ヒカルちゃんは左を見上げている。きっと佐為が説明してるのでしょう。
「カリギヌっていうんだって」
「かりぎぬ,どんな字を書くの」
ヒカルちゃんはまた左を見上げ,それからテーブルの上に,隣の人の書く文字をなぞるように指で字を書く。わたしは紙と鉛筆を渡した。ヒカルちゃんはその上に子供っぽい字で「狩衣」と書いた。
「サイはとても優しいんだよ。初めて会った時,わたしの髪に梅の花をさしてくれた」
「えっ,体のない幽霊さんが?」
「あっ,そうじゃない。わたしが自分で花をさしたんだけど,なんだかサイがさしてくれたような気がしたの」
そう言いながら,ヒカルちゃんは左にいるらしい人の肩や腕をなでるような仕草をする。わたしは,面と向かって褒められて恥じらう美青年の姿を想像する・・・・だめ,だめ,変な妄想はしないこと。
「おかあさん! おかあさんこそ,ヒカルちゃんを質問攻めにして疲れさせているじゃないですか」
アキラさんが怒ったふりをして会話に割って入るけど,目は笑っている。そして
「じゃあ,再開しようか」
とヒカルちゃんを促した。
「うん・・・・あっ,サイは闘志満々」
と言って,「キャッ」と声を出した。
「サイに頭はたかれた」
二人はそれからさらに2局打ち,夕食を終えて,昨日と同じようにわたしが車でヒカルちゃんをおうちまで送ってあげた。昨日とおなじように,ヒカルちゃんのおばさんからていねいにお礼を言われた。こちらこそ,お礼を言いたいくらいだわ。アキラさんの碁の勉強になるだけじゃなくて,何というのかしら,ヒカルちゃんが来てからうちの雰囲気が和やかになった。これからも毎日来てほしい。春休みになったら,泊まりがけでも・・・・。
家に戻って,しばらくして行洋さんも帰ってきたから,さっそく「サヴァン症候群」について説明した。友人の話の受け売りだけど。わたしの話を聞いてアキラさんが
「じゃあ,たとえば,ちらっと見ただけの棋譜を暗記できるとかもあるのかな」
「わたしも同じこと考えたわ。友人の言葉では,それもあり得るって」
こんな会話を聞きながら行洋さんもうなずいている。
「では,こんどの金曜日の研究会でヒカルさんをお披露目するか」
「金曜日というと,卒業式の日ですね」
2-4
金曜日,研究会に集まった10人ほどの門弟たちを前に,行洋はヒカルを紹介した。
「わたしの隣におられるのは進藤ヒカルさん。今日,小学校を卒業なさった。詳しい事情はおいおい話されると思うが,4年ほど前に事故に遭い,その後遺症のために体と知能の成長が障害されている。ただ,サヴァン症候群というらしいが,そんな知的障害を負っていながら一芸に秀でておられる。画家の山下清をイメージしてもらうといいだろう。ヒカルさんの場合,その一芸というのが碁なのだ。とにかく,強い。わたしも今週の月曜日に対局させてもらったが,かろうじて1目半差で勝った」
ここで,門弟たちの間からどよめきが起きた。
「しかもそれは,彼女が古い定石しか知らなかったからだ。その後,アキラが現代の新しい定石を教え,彼女は驚くべき速さでそれを吸収している。今日対局したらわたしが負けるかもしれない」
ここでまた,どよめきが起きた。
「まあ,そんな,いうなれば天才少女だ。今日から研究会に参加してくれる。せいぜい鍛えてもらってくれ」
どよめきが続く中,白いスーツを着込んだ30歳くらいと見える男が
「できることなら,今日これから対局をお願いしたいのですが」
と申し出た。ヒカルはその男をニコニコしながら見ている。
「ヒカルちゃん,この人は緒方さんといって,ここでは父の次に強い人だよ」
その言葉を聞いて,佐為は大喜び。
《ヒカル,ぜひ打ちましょう》
「じゃあ,打ちましょう」
というヒカルの返事で,塔矢親子と門弟たちが周りを囲んで見守る中,対局が始まった。緒方はヒカルの眼差しが変わったのに気づいた。とはいえ,それは勝負師の鋭い視線でも,気迫を感じさせる視線でもない。もっと明るく,キラキラした,まるでこれからとても楽しいことが始まるのを期待するような,心ときめく遊びを始める時の子供のような眼差し。気迫がこもっていないことに,緒方はかえってたじろいだ。
アキラの「父の次に強い」という言葉どおり,緒方は強い。それでも佐為=ヒカルにはかなわない。終盤の小ヨセに入って,
「わたしの負けは見えているのだが,門弟たちの勉強のために,もちろんわたしの勉強のためにも,最後まで打たせてくれませんか」
「うん,いいよ」
ヒカルは軽い口調で答える。この口調の子供っぽさと,目の当たりにする桁外れの棋力のギャップに誰もが戸惑っている。
結果は,緒方の2目半負け。小学校を卒業したと紹介されたが,見た目には10歳以下にしか見えない小さな女の子が,九段の実力を持つ緒方を打ち負かした。あらかじめ「強い」と紹介されていたにしても,その衝撃は大きい。
「では,検討を始めよう」
と行洋が声を掛けた。検討の会話を聞き逃すまいと門弟たちがさらに碁盤に近寄った時,
「ここはだめ」
とヒカルの厳しい声が響いた。すぐ左に座ろうとした門弟の一人を手で追い払うような仕草。門弟はびっくりしたが,「わたしに近づきすぎないで」という意味に理解して,一歩下がった。
この夜,ヒカルはまた佐為の夢を見た。
夢の中で,ヒカルは佐為と碁盤をはさんで向かい合っている。そばに満開の紅梅と白梅の木がある。時おり梅の花びらが舞い落ちる中,ヒカルと佐為は明るい笑い声を響かせあいながら,笑顔を見せあいながら石を置き,碁盤に黒白模様が作られていく。だけど不思議なことに,ここに石を打てば,あちらの石が消え,あちらに石を置けば,こちらの石が消え,碁盤にはいつまでも余地があり,二人の碁はいつまでも勝ち負けが着かないまま続く。まるで永遠の祝祭のように。笑い声と笑顔は終わることがない。