心の中のつぶやきは〔 〕
佐為とヒカルの間の声に出さない会話は《 》
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3-1 明子視点
卒業式の翌日から,ヒカルちゃんは朝から我が家に入り浸るようになった。泊まり込むこともある。家の人たちにはちゃんと話してあるから心配しなくてもいいのだけど,それでも,十代の女の子が春休みに碁を打ってばかりでいいのかしらと,気にかかる。それで,
「ヒカルちゃん,碁を打つばかりじゃなくて,ほかのお友達と遊びたいとは思わないの?」
と尋ねたら,ヒカルちゃんはうつむいて,ちょっと寂しそうな声で
「お友達はいないの。あかりちゃんだけ。あかりちゃんだけはわたしと遊んでくれるけど・・・・ここにいるのが楽しいの。ここにいるのが一番楽しいの」
と答えた。わたしはヒカルちゃんの境遇を思いやって胸が痛んだ。おじさん,おばさんの家で邪険に扱われてはいないにしても,外では仲間はずれにされていたとは。ひょっとしていじめられたこともあるのかしら・・・・。確かに,ここなら,みんながヒカルの相手をする。もちろん,対局が目的ではあるけど,それでも仲間はずれにされるよりずっとうれしいことだろう。
最近になって,佐為という優しい幽霊さんがいつも一緒で,寂しさがまぎれるとは思うけど,その幽霊さんがほかの誰より碁が好きなら,そして佐為が碁を打つのを見ているのがヒカルちゃんも好きなのなら,なおさらうちが一番楽しい場所なのかもしれない。
そして,本心を言えば,わたしも毎日ヒカルちゃんが来てほしい。あの子がいるだけで,我が家の雰囲気が和むから。
〔いっそ,うちの子になればいいのに〕
と思うようになったのは,1週間くらいしてからかな。最初は,否定した。そんなこと考えるべきじゃない。ちゃんとしたおじさん,おばさんがいて,もう4年近く一緒に暮らしているのに・・・・きっと,おじさん,おばさんだって情が移っている。もちろん,あかりちゃんは誰よりヒカルちゃんのことを思っているだろう。それを引き離すなんて・・・・。
そう思う一方で,おじさんもおばさんも仕事があって,ヒカルちゃんにそうそうかまっていられないだろうし,あかりちゃんだって,ヒカルちゃんの世話だけじゃなくて自分のこともしたいだろうし・・・・今の境遇は不幸とは言わないけど,うちの子になる方がヒカルちゃんはもっと幸せじゃないかと,自分に都合の良い方に考えてしまう。
結局,行洋さんに相談した。彼も,それは考えたことがあるようだった。
「もちろん,わたしたちの気持ちよりも先に,親代わりになっているおじさん,おばさんの気持ちが大切だということは,分かっていますけど」
と語るわたしに,彼は腕組みして
「それよりも先に,ヒカルさんの気持ちだろう」
わたしは虚を突かれる思いだった。確かに,肝心の本人のことを隅に追いやっていた。知的障害を負っていても,自分の気持ち,自分の希望はあるはずだし,ヒカルちゃんの気持ちが最優先のはず。
その日,行洋さんは朝から手合に出かけ,アキラはどうしても断れない用事で外出し,門弟たちはまだ来ていない時間帯,ヒカルちゃんは書斎に入って本を読んでいる。もちろん,ヒカルちゃんが読んでいるのではなく,佐為が見ているのだろう。棋譜や碁の解説書。わたしは声をかけた。
「ヒカルちゃん,ちょっとお話ししたいんだけど,いい?」
「うん,いいよ」
わたしは,余計な言葉をまじえず単純明快に問いかけた。
「ヒカルちゃん,うちの子にならない?」
「うちの子?」
ヒカルちゃんは意味が分からないような表情を浮かべる。隣にいるはずの佐為は理解したのだろうか。
「つまり,これからずっと,うちに泊まるようにしない? 藤崎さんのおうちのヒカルちゃんの部屋にあるものを全部こっちにもって来て」
「わたしのお部屋はないの。あかりちゃんのお部屋に二段ベッド置いて寝てるの。わたしが下なんだ。落ちると危ないからって」
「えっ?」
話が脱線しかけているけど,おかげでヒカルちゃんが自分の部屋を持っていないことが分かった。
「そうなの。じゃあ,ここのおうちなら,ヒカルちゃんだけの部屋も用意してあげられる」
わたしは,ずるいことをしている。個室でヒカルちゃんを釣ろうとしている。そんな
「わたしのお部屋があるの? それはいいなあ・・・・」
という言葉を聞いて,喜ぶわたしがいる。
「そうよ。ここの家にヒカルちゃんのお部屋を作ってあげる。そこでこれからずっと寝泊まりするといいわ」
「でも・・・・」
ヒカルちゃんはちょっと考え込む。
「そしたら,もうあかりちゃんと会えなくなる」
「そんなことはないのよ。ヒカルちゃんが会いたいと思えば,いつでも会いに行けるし,会いに来てもらうこともできるのよ」
「それなら,ヒカルはいいよ」
あまりにあっけない返事に,わたしの方があわてた。
「ほんとうに,いいの?」
「うん,いいよ」
ヒカルちゃんは事の重大さを分かっていない。そう思いながら,ふと別のことも思いつく。よく考えてみると,これはそんなに重大なことなのか? 火事で両親を失ったヒカルちゃんにとって,藤崎の家で養われるのと,塔矢の家で養われるのと,さほどの違いはないのかも。わたしが勝手に重大な事と思い込んでいるのかも・・・・いや,これこそ,自分に都合の良い考えだろう・・・・わたしの思いは乱れた。
ともあれ,この日の夜,わたしは行洋さんにヒカルちゃんの話を伝えた。
その週の土曜日の夜,いつものようにヒカルちゃんを送り届ける車に,行洋さんも乗っている。藤崎のおじさん,おばさんと話をするために。その3日前,「ヒカルちゃんのことで相談したいことがあるので時間をいただきたい」と電話し,この日の夜を指定された。ひょっとしたら,先方も話の内容を予想しているかもしれない。
車は15分ほどで着く。玄関で形ばかりの挨拶をし,すぐにダイニング・リヴィングルームに通された。
テーブルの向かいにはおじさんとおばさん,それにあかりちゃんもいる。こちらには,行洋さんとわたし,そしてヒカルちゃん。3人ずつだからこんなふうに席に着いたのだけど,まるでもうヒカルちゃんが塔矢の人間になっているかのようにも見える。着席して間を置かず行洋が口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。ヒカルさんを当家の養女にお迎えしたい」
これだけ言って,深々と頭を下げた。わたしも一緒に。つられてヒカルちゃんも頭を下げたのが,ほほえましいというか,藤崎の人たちの気持ちを考えると,痛ましいというか。しばしの沈黙の後,意外なことに,まずあかりちゃんが口を開いた。
「ヒカルちゃんが,それでいいと言うのなら,それでいいんじゃない」
ご両親とわたしたちの視線が彼女に注がれる。ヒカルちゃんももちろん彼女を見ている。でも,彼女はそれからもう一言も発しない。その表情に悲しみはないけど,もちろん喜んでもいない。怒り? それもない。ただ,何かに耐えているように唇を引き締めている。それからまたしばしの沈黙。そして,おじさんが口を開いた。
「この場でお答えしないといけませんか?」
「いえ,とんでもございません」
わたしはすぐに返事する。
「重大な事でございます。ゆっくりお考えください」
「じゃあ,しばらく時間をいただきます」
そして,おばさんがそっと尋ねた。
「それで,今夜は,ヒカルちゃんはどっちに泊まるの?」
ヒカルちゃんは藤崎のおじさん,おばさんとわたしを交互に見る。そして,
「塔矢さんち」
と無邪気に答えた。この言葉で,それまでの緊張が崩れた。・・・・そう,緊張が「ほぐれた」のではない。緊張が「崩れた」。藤崎の人たちの,落胆とも諦めともつかない気持ちが伝わる。
ヒカルちゃんが席を立つ。それにつられて,ほかの5人も席を立った。
「それでは,お返事をお待ちしています」
と挨拶して帰ろうとするところ,おばさんが呼び止めた。
「これからまた何日か泊まるのなら,着替えが要るでしょう。ちょっとお待ちください」
おばさんはあかりちゃんとヒカルちゃんの部屋のある2階に駆け上がり,10分ほどして手提げ袋を持って戻ってきた。
「どうぞ,お持ちください」
「ありがとうございます」
わたしはお礼を言って,藤崎の家を出た。
3-2 あかり視点
わたしは,二段ベッドを見ている。もう,ヒカルちゃんと一緒に寝ることはないかもしれない二段ベッド。塔矢のお父さんが「ヒカルさんを当家の養女にお迎えしたい」と言った時,わたしは瞬間的に「やった!これからはまた自分の部屋を一人で使える」と思った。次の瞬間,そんなことを考えた自分に腹が立った。それから,次から次といろんなことが思い浮かんだ。ヒカルちゃんと過ごした楽しい思い出。そして,ヒカルちゃんを世話するために諦めないといけなかったこと。友達との外出。一人で本を読む時間・・・・。
ヒカルちゃんはとてもいい子。アキラくんに言ったことはウソじゃない。本心からそう思っている。素直で,無邪気で,他愛もないことに喜んで・・・・かわいい妹。でも・・・・でも,世話の焼ける妹なんだ。一人ではどこにも行けない。ヒカルちゃんが出かける時は必ずわたしがついていないといけない。わたしだって一人の女の子,ヒカルちゃんに付きまとわれずにやりたいこともあるんだ・・・・ヒカルちゃんが突然,囲碁に興味を持って塔矢さんのところに入り浸るようになって,わたしは正直ほっとした。別に,ヒカルちゃんが憎いわけじゃない。ヒカルちゃんが嫌いなわけじゃない。ただ,ヒカルちゃんに束縛されないのがうれしかっただけ・・・・ううん,それだけじゃない。ヒカルちゃんのためにもうれしかった。ガス中毒の後,ヒカルちゃんがこんなに生き生きしてることはなかったから。なんで碁に夢中になったのか,理由は分からないけど,碁を打つようになってヒカルちゃんは明るくなった。いや,以前から明るかったけど,明るさの中身が違う。ほんとうに,自分の好きなことを見つけたような明るさ。塔矢アキラくんには感謝だわ。
でも,そうは言っても,おかあさんが「ヒカルちゃんはどっちに泊まるの?」と聞いて,ヒカルちゃんが「塔矢さんち」と答えた時,わたしは悲しかった。裏切られたような気分?
おかあさんとおとうさんは,なんて返事をするんだろう・・・・決まってる。きっとOKする。今日のあのヒカルちゃんの答えを聞けば,「これからもずっとうちで育てます」なんて言えるはずはない。それに,その方が我が家も助かるはずなんだ。裕福な家ではないんだから。
・・・・今でもよく覚えている。3年生の秋,ヒカルちゃんたちが住んでいたアパートが焼けて,両親は死んで,ヒカルちゃんは病院に運ばれた。何日も意識がなくて,目が覚めた時,何も分かっていないようにボーッとした顔をしていた。一時的なショックなんだろうと思っていたけど,そうじゃなかった。ヒカルちゃんは変わってしまった。明るくて,元気で,頭も良くて,同級生のわたしの宿題をいつも手伝ってくれていたヒカルちゃん・・・・。退院する時,ガス中毒の後遺症で知的障害が残ると言われた。わたしは,これからヒカルちゃんのためにできるだけのことをしようと思った。ウソじゃない。本心からそう思ったんだ。両親だって同じだったはず。施設に入れられるのはかわいそうだといってうちに引き取った。その時は本心からヒカルちゃんに同情していたはず。でも,知的障害の子を世話するのはたいへんなんだ。ヒカルちゃんはまだ障害が軽い方だけど,それでもふつうの妹よりは手がかかる。うちは両親とも働かないといけないし・・・・。塔矢さんちのおかあさんは専業主婦みたいだから,うちにいるよりはヒカルちゃんもていねいに世話してもらえる。結局,塔矢さんちに引き取られるのが,みんなにとってハッピーエンドなのかな・・・・でも,そしたら,そのうちヒカルちゃんはわたしのこと忘れてしまうのかな・・・・。
3-3
自分をめぐる塔矢家と藤崎家のやりとりは,ヒカルの頭の上を通り過ぎ,心に波風を立てなかった。事情を理解するのは,ヒカルにとって難しすぎる。あの土曜日の夜以来,ヒカルはずっと塔矢家で過ごしている。そうしているうちに,それがヒカルにとって当たり前になっていく。
佐為も,あまり気に留めていない。平安時代と江戸時代を生きた佐為にとって養子縁組はごくありふれたことだった。秀策自身,桑原の家から本因坊家の養子となり,世嗣となったのだ。まして両親に死なれた孤児が他家の養子になることは,ごくありふれたことで,むしろ当然そうなるべきこととさえ思っている。それに,佐為と出会った2日後からヒカルは塔矢の家に入り浸るようになったから,佐為にとって藤崎の家より塔矢の家の方がずっと親しみが深い。
塔矢の家に居着くことになったヒカルは,自分の居場所についての藤崎の家の人たちの思いも,塔矢の家の人たちの思いも理解できないまま,春休みの楽しい日々を過ごした。
ヒカルが塔矢の家に泊まる日に使っていた書庫のような部屋がそのままヒカルの部屋になった。片側の壁は作り付けの本棚になっていて,囲碁関係の本が並んでいる。2つある一間の押し入れにも箱に詰められた本がある。押し入れの本はよそに移し,片方の押し入れは寝具を入れ,もう片方の押し入れはクローゼットにリフォームされた。作り付けの本棚は,仕方ないからそのままになっている。
「たまに,本を取りにヒカルちゃんの部屋に入るけど,がまんしてね」
とアキラが申し訳なさそうに言う。ヒカルはぜんぜん気にしていない。そして佐為にとっては,この部屋はまさに天国だった。本棚を占める囲碁関係の書籍。とりわけ塔矢行洋が監修した『現代囲碁定石-集成解説』という分厚い本はその名の通り現代の定石を集め,詳しく解説したもので,佐為にとって宝の山と思え,暇があれば読みふける。もちろん,ヒカルにページを開いてもらうのだが。ヒカルは,文章が読めないけれど,黒石と白石が並んだ棋譜が主で,そのあいまに解説文がはさまっているこの本は見ていて楽しかった。
佐為は学んだ新しい打ち方をすぐに対局で実践する。ほとんど毎日対局しているアキラは,一日ごとに佐為が強くなるのを実感した。
「ほんとうに,佐為は日ごとに強くなるね」
《アキラさんも,日ごとに強くなっていますよ。こうやって対局していて,よく分かります》
「アキラちゃんも強くなってるって,サイが言ってるよ」
「ありがとう。でもそれじゃあ,佐為とボクの差は縮まらないね。ボクだって,いつかは佐為に追いつき,追い越したいと願っているんだ。今のボクの実力でこんなことを言うのは冗談にもならないけど,自分より圧倒的に強い相手にいつかは追いつき,追い越したいと願うのは,碁打ちにとって当然の気持ちだろう?」
疑問形で語るけど,アキラは答えを期待してはいない。アキラの声は佐為に聞こえるけど,佐為の声はアキラに聞こえない。この状態に慣れて,アキラは自然に佐為相手に一人語りするようになった。でもそれは,壁に向かって話しているのとは違う。ヒカルの左に座っている佐為。その存在は感じられる。その存在が自分の言葉をちゃんと受け止めてくれていることも感じる。時には,その存在がアキラの言葉を肯定するようにうなずく雰囲気を感じることもある。この時もそうだ。
〔それにしても,佐為はいったいどこまで強くなるんだろう。これなら,ほんとうに,いずれ父を負かすかもしれない。いや,ひょっとしたら今でも・・・・本因坊秀策が現代の定石を身に着けたとしたら,少しも不思議じゃない〕
ただ,そうなるとなおさら,ヒカルの石の持ち方の
「ヒカルちゃんは3本の指を使って碁石をつまむけど,こうやって人差し指と中指の2本だけでつまむ方が,かっこいいと思わない?」
「うん,思う」
「じゃあ,ヒカルちゃんもこうやって持てるよう練習しよう」
「ヒカルはできないよ」
そう言ってヒカルはうつむく。そして小さな声で
「バカだから・・・・」
「そんなことないよ」
アキラは思わず大声を出した。〔しまった,こんな大声,ヒカルちゃんは
「そんなことないよ。ヒカルちゃんだって,練習すればできるようになる。誰だって,最初できないんだから。ね,やってごらん」
そう言われてヒカルは2本の指で碁石を持とうとするが,碁石はすり落ちてしまう。そんなヒカルの様子をアキラは根気強く見守る。
「焦らなくていいよ。何回も何回も練習していくうちに,できるようになるんだ」
そんなアキラとヒカルを佐為は黙って見守っている。アキラの親切心と忍耐には頭が下がる。
そうやって何回も何十回も練習しているうち,ついにヒカルは2本の指で碁石を落とさずにつまんでいることができた。
「ヒカルちゃん,できたじゃない。じゃあ,そのまま碁盤の上に持っていって・・・・」
だけど,ヒカルが2本指ではさんだ碁石は碁笥と碁盤の間で落ちてしまった。また,悲しそうにうつむくヒカル。
「ヒカルちゃん,すごいよ。こんなに早く,碁石を2本の指でつまめるようになったんだ」
ヒカルはアキラを見る。
「ほんとう?」
「ほんとうだよ。ヒカルちゃん,筋がいい。ほかの人より早くできるようになった。もうちょっとがんばってみよう」
そう言われてまた何度か試して,ついに2本指で碁石を碁笥から碁盤まで落とさずに持っていくことができた。
「ヒカルちゃん,できたじゃない」
ヒカルも喜んでいる。
「ヒカル,えらい?」
「うん,ヒカルちゃん,えらいよ」
ヒカルはにっこり笑う。
それから何日かするうちに,ヒカルの石の打ち方もさまになってきた。
同じ頃,緒方はネット碁を教えた。ヒカルに直接教えるのではなく,明子に教える。
「先生はタイトルホルダーとしてお忙しいし,アキラくんも碁会所に出向くこともあっていつも相手してあげられないし,弟子たちも毎日来るわけではない。そういう時,ネットで対局できるといいでしょう」
明子もそれは名案と思われるので,さっそくリヴィングに置いてあるパソコンで緒方に教えてもらったWorldGoというサイトにアクセスし,アカウントを作成した。アカウント名はsai,パスワードはhikaruchan。ヒカルには対局するために必要最小限の操作を教えた。チャットとかメッセージなどの機能は使わない。ただ,相手を見つけて対局するだけ。ていねいに説明したら,何とか分かってくれた。さっそく対局している。佐為は「こんな箱でどこの誰とも分からぬ相手と対局できる」ことを不思議がっているらしい。かといって,明子にしても,パソコンの仕組みやインターネットの仕組みをきちんと説明できるわけではない。
「とにかく,できるものは,できるの」
という説明で終わってしまう。佐為もそれ以上の説明は求めなかった。こうして,「不敗無敵のネット棋士sai」の伝説が始まることになる。
石の持ち方を教わり,ネット碁に馴染み始めた頃,ヒカルは突然,「あかりちゃんに会いたい」と言い出した。いや,ヒカルにとっては「突然」ではない。あかりちゃんのことはいつも考えていた。ただ,藤崎の家に戻ることなく塔矢家に寝泊まりする日々が1週間あまり続いたこの頃,その思いを口にしただけのこと。思い立ったらすぐに電話したけど,誰も出ない。
「ご両親はお仕事でしょう。あかりちゃんも出かけてるんですよ。またしばらくしてかけ直しましょう」
そう明子に言われ,ヒカルは1時間おきくらいにかけ直す。3回目であかりが出た。
「あっ,あかりちゃん。ヒカルだよ。あかりちゃんに会いたいの。こっちに遊びに来てもいいし,わたしが遊びに行ってもいいけど・・・・」
結局,2日後の午後にヒカルがあかりのうちに出かけることになった。夕食時にその話をきいたアキラは
「じゃあ,ボクが送っていくよ。ボクはそのまま碁会所に顔を出す。このところご無沙汰ぎみだから,たまには顔を出さないとね」
3-4 あかり視点
〔そろそろヒカルちゃんが来る頃だな〕
わたしはそう思って,2階の自分の部屋の窓から外を見る。アキラくんが送ってくるというから駅から歩いてくるのだろう。だとしたらこの方向,と思う方を見ていると,それらしい二人連れが曲がり角を曲がって視野に入った。ヒカルちゃんはアキラくんと手をつなぎ,うきうきした様子。
〔なんだか,アキラくんになついているなあ〕
と思いながら,わたしは二人を出迎えるために階下に降りた。ドアホンがなり,ドアを開けると,ヒカルちゃんが飛び込むように抱きついた。
「あかりちゃん!」
ヒカルちゃんはわたしの肩に額を押しつける。
〔ヒカルちゃんはぜんぜん変わっていない〕
わたしはうれしいような,ほっとしたような気持ちになった。
「それじゃあ,ボクはこれから駅前の碁会所に行きます。帰りは,うちに電話してくれれば,母が迎えに来ます」
と言ってアキラくんは戻っていった。わたしはヒカルちゃんを連れて2階の部屋に戻る。二段ベッドがそのままになっている部屋で,ヒカルちゃんと他愛もないおしゃべりをしている。
〔何も変わっていない。何も変わらないんだ。余計なことに悩むことはなかったんだ。ヒカルちゃんと会えば,以前と同じ気持ちが戻ってくる。ふだんは塔矢さんちにいる。たまに遊びに来る。わたしが遊びにいってもいい。それでいいんだ。そうすれば,わたしはいつも優しい気持ちでヒカルちゃんの相手ができる〕
「塔矢さんちでは毎日碁を打ってるの?」
「うん,アキラちゃん,毎日相手してくれるの。コーヨーさんも時々相手してくれるし,コーヨーさんのお弟子さんたちも相手してくれる。楽しいよ」
「そう,よかったね・・・・それにしても不思議ね。なんでヒカルちゃん,急に碁が好きになったんだろう」
「だって・・・・」
ヒカルちゃんは答えに迷っている。ああ,こんなふうに問い詰めちゃいけないんだ。こんなふうに問い詰められるとヒカルちゃんはパニックを起こしてしまう。
「・・・・ああ,ヒカルちゃん,無理に答えなくてもいいのよ。ともかく,ヒカルちゃんが碁が好きで,好きな碁を毎日打てるんなら,それでいいの」
ヒカルちゃんは時々左を向くようなしぐさをしている。そして説明を始めた。
「碁盤に黒石と白石が並んできれいな模様ができるんだ。それを見てるのが楽しいの」
「ふーん,模様がきれいだから楽しいんだ」
「それに,勝つのもうれしいよ。みんなほめてくれるから」
「うん。それはそうだね。みんなほめてくれるよね」
こんなふうに1時間くらいおしゃべりしていると,ヒカルちゃんが
「ねえ,あの公園に行こう」
「あの公園?」
「うん・・・・」
わたしは思い当たった。ひょっとして,ヒカルちゃんが幽霊が見えるみたいなことを言った,あの公園? ちょっと不安を感じる。
「ヒカルちゃん,また具合が悪くなったりしない? だいじょうぶ?」
「うん,だいじょうぶだよ」
そう言われると,断ることもできない。わたしはヒカルちゃんと手をつないで出かけた。うちから5分くらいのところにある小さな公園。ヒカルちゃんは,もうすっかり花が散ってしまった2本の梅の木のところに駈けていった。花の散った枝を見上げたり,しゃがみ込んで木の根元の地面を見たりしている。この前,この公園に遊びに来て,その次の日から急にヒカルちゃんは碁を打ち始めたんだ・・・・何があったんだろう・・・・。まあいい。余計なこと考えなくてもいい。ともかく,今のヒカルちゃんは塔矢さんちで幸せそうだから,それでいいじゃない。わたしが相手してあげられない時は,一人でぼんやり時間を過ごしていた昔のヒカルちゃんより,今の方がずっと幸せなんだ。わたしはそう考えることにした。
「ヒカルちゃん,そろそろおうちに帰りましょう」
「うん」
わたしはまたヒカルちゃんと手をつないで家に戻る。何も特別なことをするわけじゃないけど,これでいいんだよね。それからまた1時間くらい部屋でおしゃべりしていたら,「今日は早めに帰ってくるから」と言ってたおかあさんが戻ってきた。
「おばさん,ただいまー」
「ああ,ヒカルちゃん,お久しぶり。元気にしてた?」
そしてわたしは塔矢さんちに電話した。すぐに明子さんが出た。
「ああ,あかりちゃん。今日はありがとうございました。ヒカルちゃんも喜んだでしょう。それじゃ20分くらいして,伺います」
送り迎えはいつもおかあさんだな。おとうさんは忙しいのかな。そういえば,アキラくんが「父はタイトルホルダーだ」って言ってた。碁のタイトルホルダーって,よく分からないけど,きっと忙しいんだろうな。でも,だから奥さんが専業主婦でいられるんだろう。
3人でおしゃべりしているうちに,明子さんがやってきた。
「今日はほんとうにありがとうございました」
と言って帰ろうとする明子さんをおかあさんが呼び止めた。
「塔矢様,これからも末永くヒカルちゃんをお願いします」
そう言って,おかあさんは深々と頭を下げている。明子さんは,それで分かったみたい。
3-5
翌日,明子はさっそく区役所に養女縁組みの手続きについて相談に出かけた。話を聞くと,意外に簡単なようだった。それで,ついでに学校のことも問い合わせた。アキラがあかりから聞いた話では,この4月からヒカルは養護学校に通うことになっている。それについて,担当者はパソコンを操作して情報を呼び出し,
「ああ,進藤ヒカルさんは就学免除になってますね」
とあっさり説明した。
「就学免除? つまり,学校に行かなくていいということですか?」
「そういうことです」
「では,養護学校に通うというのは」
「ああ,もちろん,ご希望であれば通えます。義務ではないということです」
明子は,力が抜けるような気がした。家に戻った明子はヒカルに尋ねた。
「ヒカルちゃん,学校に行きたい?」
「いや」
「どうして?」
「だって,あかりちゃんと同じ学校じゃないんだもん」
〔確かに,あかりちゃんのいない学校に通っても寂しい思いをするだけかも〕
明子はそう思って,この話は終了にした。もちろん,行洋には伝えたが。
ほどなく,法律上の手続きが完了し,「進藤ヒカル」は「塔矢ヒカル」になった。そしていつの間にか,ヒカルは明子を「おかあさん」と呼ぶようになった。行洋を「コーヨーさん」,アキラを「アキラちゃん」と呼ぶことは変わらなかったが。
春休み最後の日,対局のあいまの休憩時間にアキラはヒカルの隣にいるはずの佐為に話しかけた。
「ヒカルちゃんが初めてうちに来た日,佐為が自分のことを話してくれたね。最善の一手,神の一手を極めたいという佐為の気持ちは,同じ碁打ちとしてすごく共感できるし,そのためにたくさん碁を打ちたいってこともよく分かるんだ。ただ,ボクの心に引っかかっていることがあるんだ。虎次郎のことだよ。明日から学校が始まるとゆっくり時間を取れなくなるかもしれないから,今日話しておきたいんだ」
ここでアキラは気持ちを引き締めるように一息入れる。
「虎次郎はヒカルちゃんと違って,佐為が宿った時にすでに碁を打っていたんだよね。でも,佐為が宿ってからは自分の碁を打つのをやめ,佐為の碁を打つようになった。虎次郎は自分の碁を打ちたいと思わなかったのかな? ふだんはその気持ちを抑えていても,何かのきっかけでその気持ちが抑えきれなくなるようなことはなかったのかな? 今もしボクが虎次郎の立場に立たされたら,ボクは自分の碁を打ちたいと主張すると思う。たとえ,佐為の方がボクより圧倒的に強くて,佐為の言う通りに打つ方がボクが自分で打つより勝てると分かっていても,それでも自分の碁を打ちたいと思う。そして,いつかは自分の碁で佐為を打ち負かしたい,佐為を乗り越えたいと願うと思う。それは碁打ちとして自然な気持ちじゃないかい? 虎次郎はこの自然な気持ちを持っていなかったのかな? それとも,持っていてもそれを佐為のために死ぬまで抑え込んでいたのかな?」
佐為は意表を突かれる思いだった。佐為は,ただ碁を打ちたい,それを願っていた。そして,自分が打つことで虎次郎の碁が評判となり,ついには本因坊家の世嗣に迎えられたことを単純に喜んでいた。「虎次郎は自分の碁を打ちたいと思わなかったのか? 虎次郎はわたしを乗り越えたいと思わなかったのか?」・・・・思ったかもしれない。アキラの言う碁打ちとしての自然な気持ちは佐為にも分かる。
「佐為,ボクは非難とか批判するつもりじゃないんだ。佐為が碁を打ちたいという気持ちもよく分かる。ボクが佐為の立場でも,同じようなことをしてしまったと思う。でも,ほんとうにそれでよかったのかな,とも思うんだ」
佐為はアキラの聡明さをあらためて認識する。アキラは佐為と虎次郎と両方の立場が分かっている。分かった上で,碁打ちのごく自然な気持ちを述べている。
〔虎次郎はその自然な気持ちを抑え込んでいたのか? そうだとしたら,いくら謝っても謝りきれないほど申し訳ないことをした。あるいは,まだ幼子だった虎次郎は自分の碁を佐為の碁に比べて取るに足りないものとして捨ててしまったのか? だとしたら,わたしは秘められた優れた才能を殺してしまったことになる。なんと,罪深い所業なのか・・・・〕
佐為は,アキラと語り合いたかった。しかしそれは叶わぬ願い。佐為はアキラの声を聞けるが,アキラは佐為の声を聞けない。そして自分の悩みをヒカルの口を通してアキラに伝えることもためらわれる。
〔この悩みはわたし一人が秘めておこう。わたしの悩みをヒカルちゃんに悟られないようにしよう。今のヒカルちゃんの幸せに影を差すようなことはすべきでない。今は,わたしが碁を打つことがヒカルちゃんのためでもあるのだから〕
ヒカルは,アキラの話を理解できず,佐為の悩みに気づくこともなく,いつものにこやかな表情で二人を見ている。
「さあ,もう1局お願いするよ。ヒカルちゃん」
アキラはヒカルに声を掛けた。
その夜,佐為は4度目となる行洋との対局に臨んだ。佐為は,昼間の悩みを吹き払うように,神の一手を極めようとするように,全力を込めて碁を打つ。そしてついに,行洋を半目差で破った。終局した石の流れを眺めて行洋は
「まさに,現代の定石を使いこなす秀策だな」
と感想を述べる。