サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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4 :胎動

4-1

 

春休みが終わり,アキラが中学に通うようになると,ヒカルは暇な時間が増えた。4人そろった夕食時,行洋はくつろいだ口調で

「アキラがいなくて,弟子たちも対局に来ない時間は,ヒカルさんはネット碁に夢中なのかな」

とつぶやいた。ヒカルの代わりに明子が

「そうでもないんですよ。このところ気候も暖かくなったから,午前中はよく散歩に出かけてるわ。ねっ,ヒカルちゃん」

と答えると,ヒカルは笑顔でうなずく。

「散歩?」

「まだ子供なんだから,散歩でもして外で体を動かす時間も必要でしょう。むしろ,碁漬けのアキラさんこそ見習ってほしいくらいですよ」

アキラは,〔なんで急にボクに話が振られるんだ〕という思いで下を向く。

 

ヒカルもだが佐為も散歩が好きだった。毎日のように出かけるのは,塔矢の家から歩いて2~3分のところにある線路脇。そこは落差2~3メートルの崖になっていて,谷底に4路線くらいの線路があり,電車が走っている。転落防止用のフェンス越しに,斜め下を走る電車を見るのが佐為もヒカルも好きだった。

塔矢家で過ごすようになってほぼ1ヶ月,対局のあいまにアキラは現代文明のさまざまな利器について簡単に説明してくれる。それで,最初の頃の驚きや戸惑いはずいぶん減ったが,それでも佐為にとって,触ることもできなければ見ることもできない電気という摩訶不思議なものが,何百人もの人を乗せた鉄の塊を動かすのが驚嘆の的だった。だから,目の下を電車が走るたびに佐為は歓声を上げる。ヒカルも一緒に。

電車でさえ驚くのだから,飛行機はまさに奇跡と思える。鉄の塊が何百人ものお客を乗せて空を飛ぶとは! 線路を見る視線を時おり上に向ける。空高く飛ぶ小さな機影を見つけるとヒカルに話しかける。

「ごらん,ヒカルちゃん,飛行機ですよ!」

ヒカルも目を輝かせて空を見上げる。

それから,線路の上を跨ぐ橋を渡る。途中で立ち止まって,橋の上から電車が走るのを見下ろすこともある。あるいは,線路の上に大きく広がる空を見上げることも。そして3~4分歩くと,「小さな公園」がある。ヒカルはそこを,佐為と出会ったあの小さな公園と勘違いしている。佐為は,ヒカルと出会ったのは藤崎の家の近くの公園だから,ここではないことが分かっているが,敢えてヒカルの勘違いを訂正しないでいる。確かに,似ている。ここにも2本の梅の木がある。もう花は散ってしまっているけど,来年の早春にはまた咲くだろう。紅梅と白梅であればいいと佐為は期待する。たまに,近くの小学校の生徒らしき子供たちが遊んでいる。

そこからさらにしばらく歩くと霊園に着く。霊園といっても陰気くさい場所ではなく,あちこちに樹木があり,花も咲いている,緑の多い公園のような所。ヒカルはここを「大きな公園」と呼んでいる。この時季,花を開いた桜の木もあちこちにあるが,佐為がとりわけ気に入っているのは広く高く枝を伸ばした楠の大木。佐為はその樹頂を見上げながら

《神が宿りそうなみごとな楠ですね》

とヒカルに語りかける。

ヒカルにとってこの「大きな公園」は猫の楽園だ。至る所に野良猫がいる。人になれていて近寄っても逃げない猫もいる。ヒカルはそんな猫を撫でるのが楽しい。猫が寝そべる地面には,雑草が小さな花を咲かせている。佐為は,猫を撫で,小さな花を見つめるヒカルを慈しみを込めて見守る。ただ,ふと悩みが心をよぎることがある。ほんの一瞬だが,虎次郎のことを考えてしまう。たまに,ヒカルがそれに気づく。

《サイ,どうしたの? なんだか悲しそうな顔してる》

《・・・・えっ・・・・いえ,そんなことありませんよ。悲しくなんかありませんよ。ヒカルちゃんと一緒にいて,悲しいはずがないじゃありませんか》

〔だめじゃないか,ヒカルちゃんに悲しい顔を見せたりして。ヒカルちゃんの幸せにわたしが影を差して,どうする・・・・〕

散歩をする時,ヒカルはたいてい佐為と手をつなぐ。手をつなぐといっても,ヒカルの手は佐為の手をすり抜け,ヒカルが自分の手を握るだけなのだが,それでもヒカルはうれしい。自分の握った手の中に佐為の手を感じる。佐為も,ヒカルの手のぬくもりを感じる。

 

4-2

 

ネット碁の世界ではsaiの名前が徐々に広まりつつあったが,リアルの碁の世界ではヒカルの名前はほとんど知られないままだった。行洋はとりたてて箝口令をしいていたわけではないが,弟子たちは天才少女ヒカルの存在を部外者に話すことはほとんどない。小学生くらいの女の子に大敗したのが恥ずかしくて話したくないというだけではない。弟子たちはヒカルに何か神秘的なもの,神がかり的なものを感じ,気安くほかの人たちに話すのがはばかられるのだ。ヒカルの普段の生活での子供っぽい振る舞いを知らず,対局の時の様子しか知らなければ,そんな思いを抱くのも,無理からぬことではある。

 

アキラは電車や飛行機についてばかりでなく,棋界の状況や制度などについても佐為に説明する。佐為はちゃんと理解できているようだが,一緒に聞いているヒカルにはあまり理解できない。ふだんは,よく分からないなりに,おとなしく聞いているのだが,たまに口を差し挟む。とりわけ,複数のタイトルが存在していることが,ヒカルにはよく理解できない。今日は,行洋も交えて,こんな会話になった。

「けっきょく,どれが一番強いの?」

「いや,どれが一番強いと聞かれても,簡単には答えられないよ」

と答えるアキラにヒカルは

「だって,対局すればいいじゃない」

と疑問をぶつける。

「対局?」

「たとえば,ホンインボーと名人とか,ホンインボーとキセイとかが対局してどっちが強いか決めればいいじゃない」

このやりとりを聞いて行洋は思わず笑ってしまう。

「確かに,素朴な疑問だな」

「おとうさん!」

ヒカルの非常識な発言の肩を持つような行洋の言葉にちょっとあきれながら

「そういう対局はないんだよ」

と答えるアキラにヒカルは

「どうして,ないの?」

と食い下がる。

「どうしてと言われても・・・・」

アキラはヒカルの素朴な疑問に答えることができないが,ヒカルも,納得はできないままで,それ以上の追及はしない。アキラは素朴な疑問に答える代わりに,別の説明を加える。

「一番強いかどうかは分からないけど,一番歴史があって権威があるのは本因坊だろうね」

「ケンイ?」

「まあ,簡単に言えば,一番えらいということ」

ヒカルは「えらい」という言葉には敏感だ。

「じゃあ,コーヨーさんはホンインボーなの?」

「いや,おとうさんは本因坊のタイトルは持っていない」

「じゃあ,一番えらいんじゃないのね,コーヨーさんは」

行洋はまた笑った。それで機嫌よくなったのか,ヒカルは佐為に語り掛ける。佐為の存在を受け入れている塔矢家の人だけと一緒の時には,ヒカルは声を出して佐為に語り掛けることもある。

「そういえば,サイはホンインボーだったよね」

《はい,そうですよ》

「サイがまたホンインボーになればいいのに」

アキラはヒカルあまりに気安く言うので,おかしくなった。

「でも,そのためには佐為が,つまりヒカルちゃんがたくさん碁を打たないといけないよ」

「そんなの,平気だよ」

「それにまず,プロにならないといけない」

「じゃあ,わたし,プロになる」

「そのためには試験を受けないといけないよ」

このアキラの言葉を聞いて,ヒカルの表情はとたんに暗くなった。

「試験を受けるの? ヒカル,勉強はできないよ・・・・」

《ヒカルちゃん,碁のプロになるための試験はお勉強ではなくて,対局なんですよ。碁を打って勝てばいいんです》

「それなら,簡単じゃない! 対局ならぜったい受かるよ」

行洋とアキラは2つのヒカルの発言の間にあると思われる,彼らには聞こえない佐為の説明を想像できた。アキラは,ちょっと考え込み,それまでの気楽な口調からまじめな口調でヒカルに問う。

「ヒカルちゃん,本気でプロになりたいと思うの?」

「うん」

「アキラ!」

行洋はそれ以上の会話を制した。

 

その日の夜,アキラと二人だけの場で,行洋はアキラに問いただす。

「お前は,本気でヒカルさんにプロの道を勧めるつもりか?」

「彼女が本気なら,手助けしたいと思います。今日は冗談みたいな話の流れから,あんな話題に発展しましたが,ボクは前々から,機会があれば彼女にプロの道を勧めたいと思っていたんです」

「それが彼女のため,彼女の幸せのためだと,信じているのか?」

アキラはちょっと考えて,返事をする。

「それは,なってみないと何とも分からないでしょう。なってみて,やはりヒカルちゃんのためにならないと分かったら,休業も廃業もできるはずです。試みもせずに『無理だ』とは言えないと思います。それと,彼女のというか佐為の才能が埋もれたままなのが残念なんです。日本の棋界にとって残念です。そして,佐為が才能を発揮するには,やはりプロになるのが一番いいと思います。それだけじゃありません。『神の一手を極める』という佐為の念願のためにも,強い相手と打つ機会を今以上に作るべきです。ネット碁にも強者はいます。でも,何と言ってもプロを相手にするのが,とりわけタイトル戦に参加するのが一番だと思います」

「わたしもそれは常々考えている。ただ,問題は,佐為が打つというのはヒカルさんが打つということなのだ。佐為の能力,才能を発揮させるということは,ヒカルさんを表舞台に引っ張り出すということなのだよ。彼女を周囲の人たちやメディアの好奇の目にさらすのが・・・・」

「それは,案外だいじょうぶな気がします。対局の時の彼女の表情,ご存知でしょう。真剣勝負の顔ではありません。佐為は真剣な顔をしているのかもしれないけど,ヒカルちゃんは,そんな真剣勝負に臨む二人の対局者をはたでおもしろがって見ているような表情です。周りの好奇心も同じようにさらりとかわす,あっさりと流すんじゃないでしょうか。ボクたちの世代の言葉で『天然』というのがあるのですが,ボクはヒカルちゃんをみていると『天然』とはまさにヒカルちゃんのためにある言葉かも,と思うんです。」

「ヒカルさんはその『天然』で周囲やメディアの好奇心もさらりとかわせるということか?」

「ボクはそう思います」

「そうかもしれない。それを期待していいかもしれない。しかし,もしそうならなかったら・・・・」

「その時は,ボクが全力で彼女を守ります・・・・もし,ヒカルちゃんが今年プロ試験を受けるなら,ボクも受けます。一緒にプロになり,プロの世界の中で,彼女を守ります」

行洋はアキラを鋭い視線で見る。

「本気だな? 間違いないな?」

「はい」

行洋はアキラの気持ちを肯定するように深くうなずく。

「お前の気持ち,お前の意志はよく分かった。ただ,お前は,年の割に大人びているとはいえ,まだやっと中学1年生。ヒカルさんを守る上で,力不足なこともあるだろう。これから,そんな状況に立ち至ったら,隠さず,迷わず,ためらわず,わたしに相談しなさい。いいね」

こんどは,アキラが深くうなずいた。

 

佐為もヒカルと語り合う。

《ヒカルちゃん,本気でプロを目指すのですか?》

《だめ?》

《だめとは申しません。そもそも,わたしも今の時代のプロの世界をよく知っているわけではありません。ただ,それが,碁を打つだけでは済まない厳しい世界だろうとは想像できます》

ヒカルはうつむく。

《ヒカルはただ,サイがホンインボーになればいいのにって思うだけなんだ。サイはこんなに強いんだから。コーヨーさんにも勝ったんだよ。碁で一番えらい人になれるはずじゃない》

佐為はヒカルを慈しむように見る。ヒカルの気持ちはうれしい。本因坊の座は取り返したいと思う。そして何より,神の一手を極めるために強者と対局したいと切実に思う。だけど,そのためにヒカルが苦労を背負うことになるとしたら・・・・こんな思いを胸に秘めて佐為はまた別の問いを発する。

《ヒカルちゃん,碁を打つのが好きですか? わたしが扇で示す場所に碁石を置くだけでも,ヒカルちゃんは碁を打つのが好きですか?》

《好きだよ。だって,黒石と白石できれいな模様ができていくの,見てて楽しいもん。それにね,サイが碁を打つ時の顔を横から見てるのも好きなの》

佐為はちょっとはにかんだ。はにかむ顔を見られないようそっと横を向き,それからまたヒカルの方を向いて言葉を継ぐ。

《それは良かった。ヒカルちゃんが碁を打つのが好きなのは,何よりです》

 

4-3 あかり視点

 

わたしは地下鉄の出口を出て,地図を見ながら歩いている。今日はわたしが塔矢さんの家を訪れる。ヒカルちゃんが「セーラー服を着たあかりちゃんを見たい」と言うから,放課後,家にカバンを置いて,着替えをせずにそのまま行くことにした。あの碁会所のそばの駅から2つ目の駅で降りて歩いて10分はかからないと言われ,前もって地図を送ってもらっている。〔セーラー服か,ヒカルちゃんも着たかったのかな・・・・〕こんなことを考えながら歩いている。

一応話題になった時のために調べておいたけど,日本の囲碁にはタイトルが7つある。そのうち行洋さんは4つのタイトルを保有している。半分以上じゃない。そしてアキラくんは「天才少年」と呼ばれているらしい。すごい一家にヒカルちゃんはもらわれたんだな・・・・。こんなことを考えているうちに,それらしい家の前に着いた。「塔矢」という表札がある,門構えのある立派なお屋敷。門構えの向こうに庭があって,その先に玄関がある。さすが,4冠のタイトルホルダー・・・・ドアホンを押して「今日お伺いすることになっていた藤崎あかりです」と言ったら「ああ,ちょっとお待ちください」という明子さんの声がして,すぐに玄関が開き,庭を通って門を開けてくれた。

「アキラは中間試験でお昼前に帰ってきて,昼食を終えてすぐにヒカルちゃんと対局を始めてしまったんですよ。今,対局の真っ最中だけど,まったく,お客様を呼んでおいて・・・・対局を中断させて連れてきますね」

そんな話をしながら玄関を入る明子さん。

「あっ,そういうことなら,その対局を見ています。邪魔するのも悪いし,わたしもヒカルちゃんが碁を打ってるところを見たいので」

「ああ,そうしていただけるなら」

と言って,明子さんは対局をしている部屋に行こうとして,ふと何かを思いついたように,足を止めた。

「その前に,10分くらい,あかりちゃんとわたしでお話しさせてほしいんだけど,よろしい?」

「えっ・・・・もちろん,かまいませんけど・・・・」

明子さんはわたしをリヴィングルームに通した。そして,わたしが椅子に座るとすぐ話し始めた。

「今,ヒカルちゃんをプロにするという話が出てるの」

「ヒカルちゃんが,プロって,プロの棋士に?」

「そう。ヒカルちゃんはプロ棋士の苦労が分からないから,気楽に『わたし,プロになって本因坊になるんだ』って言ってるの。アキラは乗り気だし,行洋さんも慎重だけど引き留めはしないという立場なの。でも,わたしは反対なの。プロの苦労はよく分かっているから,ヒカルちゃんにそんな苦労をさせたくないし,プロの世界の人間関係に巻き込むのはかわいそうなの。ただ,碁のことになると,二人とも頑固だし,ヒカルちゃん自身は気楽に考えているみたいだし・・・・それで,ヒカルちゃんはあかりちゃんの言うことはよく聞くと思うから,あかりちゃんからプロになるのはやめるよう話してほしいの」

明子さんは真剣な表情でわたしを見つめている。

「ヒカルちゃんが,プロに・・・・」

わたしは考え込む。聞いた瞬間は,〔そんなの無理〕と思った。でも・・・・わたしが勝手にそんなこと思っちゃいけない。「ヒカルちゃんには無理に決まってるじゃない。そんなことやめておきなさい」なんて言うべきじゃない・・・・。

「おばさんの心配はよく分かります。去年までの,今年の3月までの,碁に打ち込むようになる前のヒカルちゃんしか知らなかった頃のわたしなら,同じことを考えたと思います。でも,碁を打つようになって生き生きしているヒカルちゃんを見ていると・・・・」

明子さんは,真剣な表情になってわたしを見ている。わたしの話の続きを待っている。

「・・・・これまでいつもそうだったんです。知的障害だという理由で,なにかにつけて『無理よ』,『できないわよ』,『かわいそうよ』と言って,ヒカルちゃんに何もさせないでいたんです。でも・・・・」

わたしは何と言えばいいのか迷った。そして,ふと思いついた言葉を語った。

「ヒカルちゃんに,チャレンジさせてください」

明子さんはじっとわたしを見つめている。

「みんな,これまでヒカルちゃんからチャレンジの機会を奪ってきたんです。『そんなの無理』って言って。確かに,ヒカルちゃんがチャレンジできることは,少ないです。でも,碁ならチャレンジできるはずです。強いんでしょう? わたしはよく分からないけど,アキラくんって天才少年って言われてるんですよね。そのアキラくんに勝つんです。・・・・ヒカルちゃんにチャレンジの機会を与えてください。ひょっとしたら,それで傷つくかもしれない。でも,なにもさせてもらえず,ただ保護されるだけの人生より,その方が幸せじゃないですか? ヒカルちゃんにとってまたとないチャンスなんです」

明子さんは,まだわたしを驚いたように見ている。そして,ゆっくりうなずいた。

「あかりさんの気持ちはよく分かりました。子供の頃からずっと一緒だったあかりさんそう言うのなら・・・・」

明子さん,わたしを「さん」付けした・・・・それから明子さんは気持ちを切り替えるように,明るい声で

「じゃあ,ヒカルちゃんとアキラの対局を観戦しましょうか」

と言って,二人のところに連れて行ってくれた。

障子越しに

「あかりさんがいらっしゃいましたよ。対局を見たいとのことですから,通しますね」

障子を開けた瞬間

「わー,あかりちゃん,セーラー服かっこいい!」

というヒカルちゃんの声がした。ヒカルちゃんと,アキラくんもわたしを見てる。ちょっと恥ずかしいけど,そのまま中に入って,碁盤のそばに座る。

「あかりちゃん,すぐに終わるから待ってて」

というヒカルちゃんにアキラくんが

「ヒカルちゃん,その言い方はひどいよ」

と言い返す。それで,4人声を合わせて笑ってしまった。わたしが一番笑い声が大きかったかも。

〔ヒカルちゃん,そうよ。それでいいの。その『天然』で・・・・プロの世界だってへっちゃらよ〕

わたしは,なんだかうれしくなった。

対局はそれから20分くらいで終わった。「すぐ」と言えるかどうか,微妙。それから,明子さんは夕食の支度。わたしたちはリヴィングルームで他愛もないおしゃべり。ヒカルちゃんは「セーラー服,よく似合うね」といいながら,わたしが着ているセーラー服を何度も触った。やがて藤崎の両親や小学校時代の同級生の話になると,アキラくんはついて行けない。

「アキラくん,こんな話題だと退屈?」

とわたしが聞くと,アキラくんはちょっと間を置いて

「もし,差し支えなければ,ボクは棋譜の勉強でもしていたいんだけど」

と答える。〔えっ,中間試験中なのに試験勉強じゃなくて棋譜の勉強?〕と思ったけど,口には出さない。ほんとうに,碁のことしか頭にない人なんだ,アキラくんって。ヒカルちゃんはちょっとふくれっ面したけど,左の方に顔を向けて,それからアキラくんの方を向いて,

「うん。じゃあ,アキラちゃんは勉強してて」

と言った。それからは二人で他愛もない女の子どうしのおしゃべり。やがて行洋さんも帰ってきて,夕食。

・・・・夕食も終わりかける頃,わたしはヒカルちゃんに話しかけた。

「ヒカルちゃん,プロになるの?」

「うーん,まだ分かんない・・・・あかりちゃんはどう思う?」

「わたしは,ぜひチャレンジすればいいと思うよ」

明子さん,行洋さん,アキラくんの視線がわたしに集まるのが痛いくらいだけど,ここで話をやめるわけにはいかない。

「だって,ヒカルちゃんは強いじゃない。天才少年と言われているアキラさんより強いんでしょう。ぜったいプロになれるし,プロになってタイトルを取れるよ」

「うん。ホンインボーになりたいんだ」

「ホンインボー?」

「うん,碁で一番えらい人だよ。ヒカル,それになるんだ」

「そうよ。ヒカルちゃんは碁で一番えらい人になるのよ。みんなもヒカルちゃんを褒めるよ。わたしも,おかあさんもおとうさんも,小学校の時の同級生もみんな。『ヒカルちゃん,えらい』って褒めるよ」

「あかりちゃん,ほめてくれるの?」

「もちろん,わたしは一番最初に褒めるよ」

ヒカルちゃんはうれしそうな笑顔をわたしに見せてくれた。

3人がわたしを見つめている。それぞれの思いを胸に秘めているんだろう・・・・でも,これでよかったはず。

 

明子さんはわたしを車で送ってくれる。途中,「おばさん・・・・」と言いかけたけど,明子さんは「何も言わなくていい」というように首を振った。

家の前でわたしが降りる時,明子さんが声を掛けてくれた。

「あかりちゃん,ありがとう。今日は,ほんとうにありがとう」

 

4-4

 

6月になると,塔矢アキラと塔矢ヒカル,2人そろってプロ試験を出願した。院生を経ない外来受験者なので棋譜を2枚添えて出願する。

アキラの棋譜は,父行洋と緒方九段を相手に対局した棋譜。どちらもアキラが負けた棋譜だが,相手が相手であり,この2人との対局でこれだけの碁を打った棋譜は,アキラの棋力の高さを示すものと言える。

ヒカルの棋譜は,アキラと行洋を相手にした棋譜で,どちらもヒカルが勝っている。とりわけ塔矢名人を相手に半目差で勝った棋譜は棋院事務局の担当者を驚かせた。最初の反応は「その棋譜は本物か」というもの。しかし,棋譜の偽造など前代未聞だし,仮に偽造だとしても,これだけの棋譜を偽造できるとしたら,それだけでも相当の棋力のはず。〔ひょっとして塔矢名人自身が偽造した?〕という疑問を浮かべる者もいたが,すぐに自分で否定した。名人ともあろう人が棋譜を偽造するなど,それはあり得ない。

添付された戸籍抄本によれば塔矢ヒカルは今年の3月に塔矢家の養女になったばかり。年齢はアキラと同じ。わずかに誕生日が遅いので,アキラの義理の妹になっている。こんな天才少女を塔矢名人はどこで見つけてきたのか?

窓口で願書の受付を担当した者が呼ばれ,どんな人だったのか質問されたが,その答えがまた驚きを生んだ。

「背丈は塔矢アキラさんの肩くらいしかない,見た目は小学校2年生か3年生くらいの小柄な女の子です。塔矢アキラさんの話では軽い知的障害があって,一人では迷子になりそうなので,しばらくはアキラさんが付き添って棋院に一緒に来るらしいです」

ただ,あまりに信じがたい話なので,棋院の者たちも部外者に語ることはなく,ヒカルの存在が世間に知られることはなかった。

 

予備試験が始まると,少女と見まがうおかっぱ頭の美少年と,その美少年に寄り添われた小柄な女の子の二人組は人目を引いたが,どちらもあっさり3連勝して予備試験を通過した。

 

4-5 (間奏曲)

 

予備試験は7月下旬に終わり,本試験が始まるのは8月下旬。そのあいまの8月上旬,行洋は新潟でのイベントに参加する。明子が行洋に話しかける。

「新潟は海がありますよね」

「ああ。日本海側では有数の港町のはずだ」

「じゃあ,みんなで一緒に出かけませんか? アキラとヒカルちゃんを海水浴に連れて行きます。いつも部屋にこもって碁を打つばかりじゃ,体に良くないでしょう。成長期なんですから。たまにはお日様を浴びて海で泳ぐのもいいでしょう」

「ああ,それは良いことだ。新幹線を使えば2時間くらい。湘南や千葉方面に行くより近いくらいだ。アキラはともかく,ヒカルさんは喜ぶだろう」

 

イベントの前日に会場であるホテルに着いて宿泊するため,塔矢一家はお昼過ぎに新幹線に乗った。ヒカルは藤崎の家のそばから新幹線が走るのを見ていたことはあるが,乗るのは初めてなので,はしゃいでいる。明子も,

「4人だから,2人座席の向きを変えて向かい合い4人のボックスにできるから,いかにも家族旅行って感じですね。これまで新幹線に乗る時はいつも3人座席で一列にならんでいたから」

と明るい声で語る。

「お前が一番はしゃいでいるみたいだね」

と行洋にからかわれた。

実は佐為もはしゃいでいる。アキラから新潟とは昔の地名で越後だと聞いて,〔江戸から越後まで2時間で行けるなんて信じられない〕と思っていたが,実際に乗ってみて,その早さに驚いた。

《ヒカル,ほんとうに,外の景色が飛ぶようですね。すごい・・・・》

この頃には佐為も電車に不思議を感じなくなっていたが,新幹線の速さにはまた不思議を感じる。ヒカルは窓に顔を押しつけるようにして外を見ている。赤羽台トンネルを抜けて,高崎を過ぎるまで,トンネルは1つもなく,関東平野の景色が広がっている。

「冬の空が澄んでいる頃なら富士山が見えるんだけどね」

とアキラが説明する。残念ながら南西の方向の地平線付近は夏空の湿気を帯びた靄がかかり,それらしい山の姿は見えなかった。

「じゃあ,今度は冬に乗ろう」

「うん,そうだね」

こんなヒカルとアキラの会話を明子と行洋はほほえましく見ている。

〔ほんとうに,アキラさん,すっかりお兄さん・・・・〕

やがて群馬・新潟県境の山岳地帯に入りトンネルが続く。新潟県内でもしばらく盆地を縫うようにトンネルの多い区間だったが,新潟平野に入って視界が開け,じきに新潟駅に着いた。

 

翌日の朝,明子は2人を連れて海水浴に出かける。

「お父さん一人仕事させて,わたしたちだけお出かけなんて,なんだか申し訳ないですね」

「そんなことはない。子供たちにはこういうことも必要なんだから」

新潟から電車に20分ほど乗り,タクシーで5分くらい。海の家で水着に着替えて二人は波打ち際に手をつないで歩く。この頃になるとアキラも人前でヒカルと手をつなぐのに抵抗を感じなくなっている。そんな二人を海の家のロッキングチェアに座って見送る明子は,〔どう見ても仲良しの兄妹(きょうだい)だわ〕と思う。

浜辺はそこそこの賑わいだけど,湘南など東京近辺の海に比べれば人が少ない。アキラとヒカルは浮き輪をもって浜辺を海に向かって歩く。アキラは泳げるのだが,ヒカルと一緒に遊ぶのなら浮き輪がある方がいいだろうと思って持ってきた。

波打ち際に来ると,ヒカルは,波が来ると水に浸からないよう後ろに走って逃げ,波が引くとそれを追っかけて海に向かって走る。そんなことを何度も繰り返している。アキラもそれに付き合う。そんな波との鬼ごっこに満足したら,波が引くとぎりぎり海水がかからなくなるあたりまで歩いて,そこで立ち止まっている。波が寄せるとふくらはぎくらいまで水に浸かり,砂が足の甲を薄く覆う。波が返す時,足の周りの砂が運び去られる。流され去る砂粒のくすぐったいような感触。それがヒカルにはおもしろくてたまらない。

やがて二人は,ヒカルの胸,アキラの腰まで水に浸かるくらいの所に進む。アキラはヒカルの手をしっかり握る。万が一にも溺れるようなことがあっては悔やんでも悔やみきれないから。そんなアキラの心配など知らぬげに,手をしっかり握ってもらってご機嫌なヒカルは,足を海底から離し,浮き輪につかまり,プカプカ浮かぶ感じを楽しんでいる。波が押し寄せると水面が上がり,それと一緒に体も持ち上げられる。波が去ると体も下がる。それがまたヒカルにはおもしろいようで,キャッキャとはしゃいでいる。

「ヒカルちゃん,楽しい?」

「うん,とっても楽しい」

そんなヒカルがアキラにはいとおしい。

〔仮に,ほんとうに仮に,佐為が,突然現れたのと同じように突然消えて,ヒカルちゃんが碁を打てなくなっても,それでも,ボクはこの子をいつくしむ。この子はボクの大切な妹なんだ。この世でただ一人の,いとしい妹〕

 

佐為は,水に浸かりはしないが,海の上から二人を見守っている。ヒカルの楽しげな姿は佐為の心も温める。

〔塔矢家の方々,感謝いたします。ヒカルの幸せは,わたしの力などよりはるかに,あなた方の力によるものです。これからも末永く,お願いします。もちろん,わたしもできる限りのことはします〕

それからさらに佐為の思いは続く。

〔わたしは神の一手を極めるために,虎次郎に続いてヒカルに宿ったと信じていた。今も,それは信じている。これからも,碁を打つ場面になればほかのすべてのことを忘れて碁に集中するだろう。でも,それだけではないのかもしれない。今,わたしはヒカルを幸せにするためにもヒカルに宿っているのかもしれない・・・・そしてそれは・・・・かつての過ちを償うためなのか・・・・かつて,虎次郎の碁を封印し,虎次郎の才能を潰してしまった過ち。その過ちを償うために,神はわたしにもう一度この世に立ち返らせ,ヒカルに宿らせたのか?・・・・もしそうであるのなら,わたしはヒカルの前では幸福の霊となろう。過ちを犯した身であることを偽って,幸福の霊を演じよう〕

 

明子は海の家のロッキングチェアから海の中でじゃれ合う二人を眺めている。ヒカルちゃんは佐為の棋力なら間違いなくプロ試験に合格する。アキラの合格も間違いない。来年も夏は巡り来るけど,プロの棋士になれば二人してあんなに無邪気に海で遊ぶことはできないだろう。二人にとって最初で最後の夏。そう思うと,何かかけがえのないものが失われるような気がする。

ヒカルちゃんがプロになるという選択。あかりちゃんに背中を押されて明子も賛成した選択。それを悔いてはいない。悔いてはいないけど・・・・

〔仕方ないわ。何かを選ぶということは,それ以外の何かを捨てる,諦めるということなんだから・・・・〕

 


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