サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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5:天然天才少女

5-1

 

本試験の初日,8歳くらいにしか見えないヒカルは受験者全員の注目を集めた。こんな小さな女の子が予備試験を勝ち抜いたとは・・・・しかも,その振る舞いは年相応というか年以下なくらい子供っぽい。そして,かねて天才少年との噂の高い塔矢アキラがそんなヒカルに付き添うように世話を焼いている。これだけでも注目の的となるのに十分すぎるほどだが,さらに加えて,ヒカルは初日の対局を午前中に終えた。打掛けの前に,相手が投了したのだ。

プロ試験には実力の伯仲した受験者が集まる。だから,一方的な勝負になることは少ない。どちらかが大きなミスをしたとしても,それでも打掛け前に終わることはほとんどない。初日の相手は決してミスをしたわけではない。むしろ,試験初日の緊張にのまれず,自分の実力を発揮できたと思っている。それでいて,圧倒的な負け。何が何だか分からなかった。

ヒカルは控え室で棋譜集を見ながらアキラを待つ。打掛けになると,アキラと一緒に,明子が作って持たせてくれたお弁当を食べる。午後の対局が再開されると,ヒカルはまた棋譜集を見ながらアキラを待つ。もちろん,実際に棋譜集を見ているのは佐為であって,ヒカルはただその黒白模様を眺めているだけなのだが。

アキラの対局が終わると,二人で帰宅する。ヒカル一人だと迷子になることを心配する明子の指示だし,アキラも同じ心配をしている。ヒカルは対局を終えたアキラに結果を聞くことはない。勝ったと信じている。そして,アキラもヒカルの結果を聞くことはない。こうして初日から9日目まで,二人は連勝を続けた。

9日目まですべて,ヒカルは打掛け前に中押し勝ちし,棋譜集を見ながらアキラを待っていた。佐為の姿が見えない周りの人たちには,ただヒカルが熱心に棋譜集を見ているとしか映らない。知的障害のことは知られている。試験の初日にアキラが

「・・・・こういう事情なので,しばらくボクが彼女に付き添います。ご了承ください」

とあいさつしていたから。知的障害を負っていながら神業と思えるほど碁が強い少女。周りは興味深げに眺めるが,敢えて言葉を掛ける勇気のある者はいない。ただ,9回の対局でヒカルの奇妙な癖は知れ渡るようになった。対局中,時おりニコニコしながら左を見る癖。そして,対局に臨むヒカルの表情。緊迫した勝負に臨む表情ではない。楽しいことに夢中になっている子供のような生き生きした表情。

10日目。注目のアキラ・ヒカル直接対決。結果はあっけなかった。打掛けが告げられた時,中盤戦が終わる頃,アキラが投了した。思わず「まだいけると思いますが」と声を掛けた人もいるが,「もう終わってます」とアキラは涼しい顔で答えた。手をつないで対局室を出る二人。

「お弁当は家に持ち帰って食べようか。あと1時間くらい,ヒカルちゃん,がまんできる?」

「うん,できるよ」

こんな会話が聞こえる。いたいけない妹としっかり者の兄の会話としか思えない。

その日は家で明子を交えて3人で昼食を摂った。

「ヒカルちゃん,もうそろそろ,うちから試験場までの道のりを覚えたんじゃない? 明日は,ヒカルちゃんの対局が終わったら一人で帰ってこない?」

と明子が尋ねる。佐為もそれに同調する。

《そうですよ。ヒカルちゃん,もう一人で帰って来れますよ。それに,わたしも行き方を覚えました。ヒカルちゃんが忘れていたら,わたしが教えてあげますよ》

「じゃあ,明日からヒカルは一人で帰ってくる」

「それじゃあ明日からお弁当はアキラだけでいいかしらね」

と明子が言うと,ヒカルは不服そうな顔をする。それを見て明子が

「ヒカルちゃんもお弁当を作ってほしいの?」

ヒカルはコクコクとうなずく。アキラは笑っている。

「まあ,一人分も二人分も作る手間はたいして変わらないから」

ということで,11日目もヒカルとアキラはそれぞれ弁当をもって試験に出かけた。その日も午前中で対局を終えたヒカルは,打掛けまで控え室で棋譜を見て過ごし,アキラと一緒にお弁当を食べ,それから佐為に案内されて帰宅した。

「ヒカルちゃん,ちゃんと一人で帰って来れたのね。えらい!」

と明子が褒める。ヒカルはとてもよろこんだ。このパターンが最終日まで続いた。

 

結局,プロ試験をヒカルは全勝,アキラは1敗で合格した。塔矢家の人たちや門弟たちには初めから分かっていた結果であるけど,棋界やメディアは騒がしかった。以前から天才少年と噂されていたアキラはまだしも,突然彗星のように現れたヒカルは,その圧倒的な棋力と,それに反比例というか極端なコントラストをなすような子供っぽい「天然」の振る舞いでメディアのかっこうの標的になりかけたが,

「まだ未成年であり,かつ知的障害を負っているから」

という棋院の自粛要請を受け入れ,積極的な取材は手控えられていた。ただ,プロ試験終了後に合同記者会見を開くのは,棋院としても受け入れざるを得なかった。

試験の全日程が終了する前,ヒカルとアキラの合格が確定した時点で,棋院から記者会見の事前打ち合わせのため,日本棋院に来てほしいと連絡があった。その日,ちょうど自分も棋院に用事があった緒方が車で送ってくれることになった。

棋院のスタッフの中には,この日初めてヒカルを目にする者もいる。確かに,この小さな女の子が,プロ試験での対戦相手をみな午前中で投了させているとは,それどころか塔矢名人に半目差で勝ったとは,信じがたい。しかし,事実なのだった。

アキラは,「ヒカルちゃんは問い詰められるとパニックを起こすので,記者との応答は基本的にボクが引き受けます」と強力に主張した。「パニックを起こしたら,その責任を取ってくれるんですか」と迫られると,棋院としてもアキラの主張を受け入れざるを得ない。先に自分の用事が済んだ緒方もその席に加わってアキラを援護した。

こうして事前の打ち合わせが終わり,棋院を出ようとしていると,入ってくる桑原本因坊にばったり出くわした。

「これはこれは,緒方先生に塔矢のお坊ちゃん,それに,この子は例の塔矢家の秘蔵っ子かな?」

緒方は〔いやなヤツと顔を合わせてしまった〕というような表情になり,アキラは緊張した面持ちになったが,ヒカルは至って平気。

「おじいちゃん,だれ?」

こう素直に問いかけられると,桑原も笑顔で対応せざるを得ない。

「ん?・・・・わしは桑原というものじゃ。これでも本因坊をやっておる。お嬢ちゃん,覚えておいておくれ」

「わー,おじいちゃん,ホンインボーなんだ。一番えらい人なんだね。こんど,わたしがホンインボーになるんだ」

このせりふには,さすがの桑原も目を丸くした。現役本因坊に向かってここまであっけらかんとこんなことを言ってのけるとは。緒方とアキラは笑いたくなるのを懸命でこらえ,

「では失礼します」

とあいさつし,ヒカルの手を引いて急いで棋院を出て,そのまましばらく早足で歩き,もう大丈夫と思われるところで,緒方は大声で笑い出した。アキラも一緒に笑う。ヒカルはそんな二人を不思議そうに見ている。

《サイ,どうして二人はあんなに笑ってるの?》

《それは・・・・》

佐為も説明に困った。

笑いが収まりかけたところで,緒方は近くに駐車してあった車に乗り,二人を後部座席に乗せたが,それからまたハンドルにうつ伏して笑い出した。

「ごめん,ちょっと待ってくれ。笑いながら運転して事故を起こしてはたいへんだから,笑いが収まるのを待ってくれ」

ヒカルは,こんな緒方の様子を首をかしげながら見ている。そのヒカルを見てアキラは,

〔大丈夫だ。きっと大丈夫だよ。ヒカルちゃんの周りは振り回されるかもしれないけど,ヒカルちゃん自身はこの「天然」でプロの世界をすいすい泳いでいく。きっと,そうだよ〕

と安心する。

 

そして記者会見当日。記者の質問はヒカルの碁歴に集中する。たった13歳,いや,まだ誕生日前だから12歳の少女がどうやってそれほどの棋力を養ったのか?

あらかじめ棋院の担当者が,「塔矢ヒカルさんは問い詰められるとパニックを起こすので,基本的に応答は塔矢アキラくんが代行します」と案内したとおり,アキラが答える。

「今年の3月,ボクが小学校を卒業する間際,彼女が父の碁会所にやって来て対局したのが始まりです。ボクとの対局の始まりというだけでなく,そもそも彼女が碁を打つのが,その時が最初だったんです。その時から,彼女は圧倒的に強かった。その後,彼女が話してくれたところでは,その前の晩に碁を打つ夢を見て,とても楽しかったから,碁を打ちたいと思ったとのことです。彼女の家族に聞いても,彼女がそれまで碁を打っているのは見たことがないとのことです。そんな彼女がなぜこれほど強いのか,ボクたちにとっても謎です。ただ,サヴァン症候群という,知的障害を負いながら特定の分野に天才的な才能を発揮する例があるとのことで,ボクたちは彼女がそうなのだろうと思っています」

メディアの中には,アキラの説明でなく本人の説明を聞きたいと食い下がるところもあるが,あらかじめ「佐為のことは話さないように」と言われているヒカルの説明も似たようなもの。

「夢を見たの。わたしがきれいな男の人と碁を打ってるの。碁盤に黒石と白石が並ぶのがきれいで,それを見てるのが楽しかったの。それで,次の日にあかりちゃんに碁会所に連れて行ってもらって,そこでアキラちゃんに会ったんです」

「その,『きれいな男の人』というのは,塔矢アキラさんですか?」

ヒカルは首を振る。

「ううん,違う」

「では,どんな人でしたか? たとえば,タレントにたとえるなら,どんな人?」

「うーん・・・・」

ヒカルは答えられない。ここでアキラが割って入る。

「これ以上問い詰めないでください」

仕方ないから記者は質問を変える。

「どうして,初めからそんなに強かったんですか」

ヒカルはちょっと左を向き,

「わたしも分からない」

と答える。これ以上の答えは出てこない。

結局,ヒカルの棋力は謎のままだった。ただ,月日が過ぎるうちに謎が謎のまま当たり前になっていき,不思議なこともいつも目の前にあると慣れてしまう。たとえば,佐為が電車や飛行機という不思議な存在に慣れたように。そんなふうに棋界もメディアもヒカルの存在に慣れていく。もちろん,周りが「天然」の振る舞いに振り回されることは変わりないにせよ。いつしかヒカルに「天然天才少女」というあだ名が(たてまつ)られることになる。

 

5-2

 

そんな記者会見の騒動も収まった11月の半ば,明子はヒカルに問いかける。

「来年春の新入段免状授与式,ヒカルちゃんは何を着ようか?」

一緒にいるアキラが

「今からそんな心配しなくても」

と言うと,

「あら,今から分かっていることだから,手配してもいいでしょう」

と反論された。ヒカルはうつむいて小さな声で

「セーラー服」

とつぶやいた。明子は聞き逃さない。

「ヒカルちゃん,セーラー服がいいの?」

「うん・・・・あかりちゃんと同じセーラー服が着たいの」

明子とアキラはそれぞれにヒカルの気持ちを思いやった。

「そうね。ヒカルちゃんはほんとうなら中学生だからね。セーラー服を着て,何もおかしくないわ。今から採寸して注文すれば,年内にはできあがるでしょう。新初段戦にも着れるわね」

ヒカルの顔がぱっと明るくなったが,アキラはあわてて会話に割り込む。

「お母さん,いくらなんでも新初段戦にセーラー服は・・・・」

「あら,悪くないでしょう。中学生の制服なのよ。いうなればフォーマル・ウェアじゃない。男の人のスーツと一緒よ。公式の場で着て何も不都合はないはずじゃない」

そう言われると,アキラは反論できない。せいぜい

「でも,真冬なんだからセーラー服の上にコートを着ますよね」

と言うのが精いっぱい。

「そうね。コートも必要ね。ヒカルちゃんにお似合いの素敵なコートも作らないと」

明子はなおさら気合いが入る。

「明日にでも,採寸に出かけましょうね。ヒカルちゃん」

ヒカルはよろこんでうなずいた。

 

ヒカルは明子とアキラに挟まれて歩いている。両手をつないでうれしそう。その日は冬の前触れのような冷たい風が吹く寒い日。コートを着込み,マフラーを巻いている人も多い。ちょうどすれ違ったカップルが長いマフラーを2人で巻いていた。ヒカルは振り返ってそのカップルを見送る。

「いいなあ・・・・ねえ,おかあさん,あんな長いマフラーを買って。アキラちゃんと一緒に巻くの」

アキラは

「えっ?・・・・」

と引くが,明子はよろこんだ。

「それはグッドアイデア。うん,マフラーも買いましょう」

という話の流れで,セーラー服とコートの採寸の後,3人で冬物衣料の売り場に行き,ロングマフラーを買った。外に出てヒカルは

「ここで巻いていい?」

と尋ねる。

「もちろん,いいわよ」

アキラは観念したように,マフラーを巻かれるままになっている。それから明子は,アキラの身長くらい残っているマフラーをヒカルに渡す。ヒカルは自分の首に巻き付け,残った部分を垂らしている。そして,アキラをうれしそうに見上げる。その笑顔を見ると,アキラも〔まあ,これくらいはいいか〕という気になる。わきで明子が

「とてもお似合いよ。仲良しの兄と妹」

と声を掛けた。それを聞いてうれしくなったヒカルは「キャッ」と言って駆けだそうとした。アキラは引っ張られてしまう。

「ヒカルちゃん,ちょっと待って」

 

12月に入って,ヒカルのセーラー服とコートが出来上がってきた。セーラー服はあかりが通う葉瀬中学の制服と同じスタイルに仕上がっている。コートはふくらはぎまでかかる長さの濃緑の厚手のコート。これなら,下がセーラー服とスカートでも寒くない。小柄なヒカルが着るとお人形のようだ。ヒカルは部屋の中で何度もセーラー服を着てはしゃいでいる。そんなヒカルを明子はうれしそうに見守っている。

こうやって,疾風怒濤のようなさまざまな出来事のあった年も暮れていき,新しい年が明けた。

 

年が明けるとすぐに,新初段戦。初戦はヒカル対森下九段,次がアキラ対座間王座という対局が組まれている。

ヒカルの新初段戦の朝。ヒカルはセーラー服を着て,その上からコートを着る。ボタンを一番上まできちんと留めれば,下に着ているセーラー服はぜんぜん見えなくなる。そんなヒカルの手を引いてアキラは棋院に向かう。自分の新初段戦は来週だが,その前にヒカルの付き添いとして出かける。新品のセーラー服とコートを着てうれしそうに歩くヒカルの姿を見ながら,

〔棋院でコートを脱いで,ヒカルちゃんのセーラー服姿が見えた時の,棋院の人たちの反応が楽しみだな。みんなびっくりするだろうな。一番びっくりするのは対局相手の森下九段だろうな〕

と内心ほくそえんでいる。明子が新初段戦にセーラー服を着せると言った時は猛反対したけど,その日が現実にやって来ると,むしろワクワクしている自分がいる。

 

棋院の前で記念撮影。外だから当然,ヒカルはコートを着ている。森下と並んで何枚か写真を撮られ,

「じゃあ,中に入ってください」

と言われた時,ヒカルは

「ここでコートを脱いで写真を撮りたい」

と言い出した。カメラマンが

「寒いですよ。大丈夫ですか?」

と当然の心配をするが,ヒカルは

「だいじょうぶ,がまんする」

と言い張る。アキラは,驚きながらも,期待に胸を弾ませる。

〔さあ,どんな反応が見られるか。特に森下先生の反応は・・・・〕

カメラマンが

「じゃあ,すぐに済ませますから,コートをとってください」

と言うと,ヒカルはいそいそとコートを脱いだ。森下は度肝を抜かれたような顔をした。カメラマンも一瞬唖然とした。それから,「こんなまたとないシャッターチャンスを逃すものか」という表情になった。

「じゃあ,もう一度並んでください。森下先生,お願いします」

ヒカルは満面の笑顔を浮かべて立っている。その横で森下は無理に笑顔を作る。アキラは笑いをこらえるのに苦労した。

〔ヒカルちゃん,やってくれるね!〕

カメラマンはパチパチとシャッターを切る。

「ありがとうございました。いい写真が撮れました。じゃあ,寒いから急いで中に入ってください」

ヒカルが中に入ると,当然のことながら,棋院にいるすべての人の視線がヒカルに集まった。

 

アキラが検討室に入ると先客が二人いる。緒方は予想の範囲内として,もう一人は桑原本因坊。

「おや塔矢のセガレ。お主は来週じゃろう」

「今日は,ヒカルちゃん・・・・ヒカルさんの付き添いです。彼女は世慣れないところがあるので」

「それは親切な兄貴分じゃ」

「桑原先生はどうして?」

「ワシに向かって『ホンインボーになる』とぬかしおった小娘の初舞台じゃ。見に来ないわけにはいくまい」

と言いながらアキラと緒方を見渡した桑原は

「どうじゃ,一つ,賭けをせんか? 小娘と森下九段,どっちが勝つか」

と持ちかけたが,

「ボクはもちろんヒカルさんに賭けます」

「わたしも,ヒカルさんに賭けますよ」

というアキラと緒方のせりふを聞いて

「それじゃあ,賭けにならんのう」

と笑った。

 

新初段戦が行なわれる幽玄の間に入ったヒカルに佐為が話しかける。

《ヒカルちゃん,今日はぜひ,森下九段に本気で打ってほしいんです。だから,対局が始まる前に,こう言ってください「逆コミじゃなくて,ふつうのコミで勝つ気で打ちます」》

《うん,分かった》

碁盤をはさんで森下と向き合ったヒカルは

「わたし,逆コミじゃなくて,ふつうのコミで勝つ気で打ちます」

と言い放った。森下は怒るよりあきれた。いくらプロ試験全勝合格とはいえ,無鉄砲すぎる。そして,

〔オレはプロ試験の受験者じゃないんだぞ。プロの力を見せつけてやる〕

と闘志をかき立てた。佐為の作戦は,対局の前から的中した。

「お願いします」

「お願いします」

二人は礼をする。

《さあ,ヒカル,行きますよ》

《うん》

黒を持つ佐為=ヒカルは最初から積極的に攻める。5目半のコミを跳ね返すには,積極的に攻めるべきなのだ。森下の棋譜は研究済み。確かに強いが塔矢名人ほどではない。負ける気はしなかった。実際,押してくるヒカルを森下は手堅く守るが,反転攻勢に出る機会をつかめないまま対局が進んでいく。森下に大きな失着はないものの,じりじり押されていき,結果は黒69目,白60目。逆コミ5目半を入れて,黒が14目半の勝ち。

「ふつうのコミでも,3目半の負けだ」

森下が苦虫をかみつぶしたような顔でつぶやいた。

ふだんは囲碁のことなどほとんど報じない一般メディアにも「セーラー服,九段を破る」という見出しが踊った。

以来,森下の研究会では「塔矢をなんとかせい!」という掛け声に「ヒカルをなんとかせい!」という掛け声が加わることになる。

 

5-3

 

その掛け声を聞かされる森下の門弟に,師とヒカルの棋譜を見て考え込んでいる者がいる。その門弟,まだプロになる手前の院生である和谷は思い切って師に尋ねた。

師匠(せんせい),saiというネット碁の打ち手をご存知ですか?」

「いや,オレはネット碁はしないから」

「そうですか・・・・」

「そのsaiがどうかしたのか?」

「塔矢ヒカルにそっくりなんです」

「・・・・?」

「つまり,この新初段戦の塔矢ヒカルの手筋とネット碁のsaiの手筋がそっくりなんです。ひょっとしてsaiは塔矢ヒカルなんじゃないかと思えるくらい」

「ほんとうかい?」

と,もう一人の門弟が話に加わる。そして,新初段戦の棋譜をあらためてたんねんに見ながら,

「確かに,言われてみれば・・・・」

「オレ,saiとはこれまで3回対局してます。どれも完敗,ボロ負けです。saiはオレより強い相手にも圧倒的な強さで勝ってます。これまで,オレの知る限り負け無しです。去年の3月頃ネット碁に現れてから,何百回もいろんな相手と対局しているけど,1敗もしてません。しかも,チャットもメッセージもせず,対局するだけだから正体が分からないんです。ネット碁ではすでに生きた伝説になってます・・・・オレ,去年のプロ試験で塔矢ヒカルとも対局しています。その時,どっか見覚えのある打ち方だとぼんやり感じたんだけど,中盤で中押し負けしたから,はっきりしなかった。師匠の最後まで打ち切った棋譜を見て,はっきり分かりました。これ,saiの打ち方ですよ・・・・ということは,ネット碁のsaiは塔矢ヒカルなのかな?・・・・」

「そんなこと,本人に直接聞けばいいじゃないか」

と,ネット碁の世界で流布している伝説の重みが分からない森下は気軽に言ってのける。和谷の方がたじろいだ。

〔そんなこと,していいのかな・・・・聞いたとして,本人は正直に答えるのかな・・・・相手はなんたって天然天才少女なんだ〕

それともう一つ。塔矢の家を訪れるのが,気が重い。和谷は塔矢アキラに対して複雑な思いを抱いている。自分より1歳年下。それでいて碁はめっぽう強い。天才少年の噂は否応なく和谷の耳にも入った。そして,プロ試験で見せつけられたその実力。もちろん,和谷も完敗を喫した。碁が強いだけなら,まだいい。試験場で対局が始まる前,ほかの受験生は緊張しているのに,アキラは悠然と棋譜集などを読んでいた。あの態度が癪に障った。それでいて,中学1年生なのに礼儀作法は完璧で付け入る隙がない。妹の方はまだしも「天然」で可愛げがあるけど,兄の方は・・・・。もともと森下門下は塔矢門下にライバル意識を持っているけど,単純なライバル意識だけではない,もっと屈折した思いを和谷は塔矢アキラに抱いている。そして,ヒカルに会うとなれば,その保護者のように振る舞っているアキラにも会わざるを得ない。

 

それでも結局,その週の土曜日,和谷は塔矢邸を訪れた。アキラへの反発も,ネット碁の伝説の重みへのたじろぎも,好奇心,探究心に逆らえなかった。恐る恐るドアホンを押して来意を伝えると,通された。

「ヒカルちゃんは今アキラと対局中です。対局中は,よほど緊急の用事でないと,途中で席を立つことはありません。今の対局が終わるまで,待っていただけますか?」

とていねいに対応する明子。和谷は,

「もちろん,待たせてもらえるなら,待ちます」

と緊張して答えた。明子は和谷をリヴィングルームに案内してから,二人が対局している居間に行き,障子越しに声をかけた。

「ヒカルちゃん,院生の和谷という人が尋ねておいでです。その対局が終わったら,ちょっとリヴィングルームに顔を出して」

「うん,分かった」

と元気なヒカルの声が返ってきた。

 

和谷が塔矢家のリヴィングルームで緊張して待っていると,30分ほどしてヒカルとアキラが入ってきた。和谷は思わず立ち上がって

「院生の和谷義高です。本日は,ヒカルさんにお尋ねしたいことがあって,伺いました」

としゃちこばったあいさつをした。アキラは

「そんなに緊張しないでください。どうぞ,掛けてください」

と言ってから和谷に尋ねる。

「それで,ヒカルちゃんに尋ねたいことって,なんでしょうか?」

「はい,それは・・・・」

和谷はちょっとためらい,思い切って正面から質問した。

「ヒカルさん,ネット碁のsaiですか?」

「うん」

ヒカルは屈託ない口調で答えた。アキラも佐為も止める暇がなかった。

和谷は,あまりに簡単に返事をされて,逆に戸惑っている。そんな和谷を見ながらアキラは,

〔ボクが止める間もなくヒカルちゃんが答えてしまった。今日,明日のうちにネット碁の世界に知れ渡るだろう。でも,考えてみると,ヒカルちゃんがsaiだということが知れ渡ったとしても,ヒカルちゃんに不都合はないんだ。いずれ,プロ棋士として手合が始まればヒカルちゃんの圧倒的な強さは周知のことになるのだし,ネット碁ではsaiの名前で打っていることが分かったとしても,佐為の存在がばれるわけではないのだから,別にかまわないのか・・・・〕

と考えている。

和谷は落ち着きを取り戻し,

「なんで,これまで隠していたの? そしてなんでこの場で,こんなに簡単に認めたの?」

と尋ねる。和谷としては当然な疑問なのだが,ヒカルは和谷がなぜこのようなことを聞くのか,理解できない。その様子を見てアキラが代わりに答える。

「別に隠してたわけじゃないんだ。これまで誰からもそんな質問されたことがなかったから,話さなかっただけだよ。ボクたち,ボクや父や,父の門下の人たちは知っているけど,敢えて言いふらすことでもないからね」

和谷は,あまりにあっさり謎が解けたので,脱力した。そんな和谷にアキラが逆に質問する。

「それにしても,なんでヒカルちゃんがsaiじゃないかと思ったの?」

「それは・・・・オレ,これまで3回saiと対局してる。もちろん3回とも完敗だけど,saiの完璧な手筋が好きで,ほかの対局も見るし棋譜を集めてもいて,それなりにsaiの打ち方の癖は分かってるんだ。それで・・・・あっ,そうだ,オレは森下先生の門下なんだ。それで先生の新初段戦の棋譜を見て,塔矢ヒカルの打ち方がsaiにそっくりだなと思って・・・・」

「ああ,そういうことだね。ヒカルちゃんは確かに,これまで塔矢門下以外の人と対局したことがほとんどないんだ。プロ試験とこないだの新初段戦くらいかな。だからヒカルちゃんの手筋はあまり知られていないから,saiとの関係も分からなかったんだろうね」

ヒカルは,アキラと和谷の対話を,いつものように屈託ない笑みを見せながら眺めている。そんなヒカルに佐為がささやく。

《ヒカルちゃん,この和谷という人,そんなにsaiのファンなら,これからヒカルちゃんが対局してあげれば?》

《うん。サイもこの人と対局したい?》

《それはもちろん》

「ねえ,これから対局しない?」

「えっ?・・・・」

突然そんな話を切り出されて和谷はあわてた。

「アキラちゃん,いいでしょう?」

アキラも,一瞬驚いたが,異存はない。

「もちろん,ヒカルちゃんが対局したいんなら」

そうやって始まった佐為=ヒカルと和谷の対局はもちろん和谷の完敗に終わったが,和谷は生きた伝説であったsaiと直接対局できた満足感の方が大きかった。それだけでなく,saiとの対局は負けても気分がいいのだった。言い換えればsaiは勝ち方が美しい。

「どうも,突然押しかけてきて,対局までしてもらって,ほんとうにありがとう」

ぎこちなく礼を言う和谷。帰り際に,ダメもとでヒカルとアキラに尋ねる。

「オレ,さっきも言ったように森下先生の門下で,森下先生と塔矢先生はライバル同士で,と言うか,オレたちが勝手にライバル意識燃やしてるだけかもしれないけど・・・・ともかく,そういうことなんだけど,オレ,これからもたまに対局させてもらえないかな?」

「うん,いいよ」

ヒカルはいつもの屈託ない口ぶりで答える。

「ありがとう」

和谷としては,まさに感謝感激という気持ちだった。それから和谷は,毎週とは言わないまでも,2週に1回くらい塔矢邸を訪れヒカルと対局するようになる。

何度か塔矢邸を訪れるうちに和谷のアキラへの感情が変化していった。障害を負った妹,それも去年の3月から縁が生まれたばかりの妹を純粋に気遣う兄としてのアキラ,そして碁へのひたむきな情熱と向上心を抱く棋士としてのアキラ,そんなアキラを見ていて反発が薄れていった。「冷たい」とか「傲慢」とか言われるのは,碁に没頭するあまり人付き合いに関心が向かないアキラの態度が誤解された結果だろうと思える。

〔なんだ,オレたち,勝手にアキラのイメージをでっち上げて,それを嫌ってただけなのか・・・・〕

 

ネット碁の生きた伝説saiが塔矢ヒカルであることは,「今日,明日のうち」とは言わないまでも,1週間足らずのうちにネット碁の世界に広まった。日本の事情に疎い外国の参加者が“Who is Hikaru ?”と質問を発すると,英語のできる日本人の参加者が英語で説明する。「天然」という日本語の説明には手こずるようだが(“natural”はもちろん,“innocent”とか“naive”といった単語も使われた),要するに知的障害を負っていながら碁だけは神がかり的に強いまだ13歳の天才少女という説明が行き渡る。

“Is it possible?”(そんなの,あり?)

という当然の問いかけには

“But, it’s real.”(だって,あるんだもん)

という返信が寄せられる。

チャットをしないsai=ヒカルは何も知らないままだが,このところ外国,とりわけ中国,韓国の強者からの対局申込みが増えたとは感じるようになった。そして,それらの挑戦をことごとく退け,saiの不敗神話は続く。

インターネット情報に敏感なメディアにもその状況は伝わり,ヒカルへの注目度が増した。

 

5-4

 

3月の初め頃,「小さな公園」の梅の花が咲き始めた。佐為とヒカルは毎日散歩にやって来る。来るたびに,つぼみが膨らみ,開く花が増えていく。佐為の願ったとおり,紅梅と白梅の1対。ただ,ヒカルにとって残念なことに,手の届く高さに花がないから,去年のように花を髪に挿すことができない。佐為は,自分の身がないのがじれったかったが,〔そうだ,アキラと一緒に来ればいい〕と思いついた。それで,さっそくアキラを誘って散歩に出かける。アキラはちょっと渋ったが,明子から「たまには散歩くらいしなさい」と言って出された。

ヒカルは右手をアキラと,左手を佐為とつないで,いつも以上にご機嫌に歩く。入り口に着くと,何人かが公園の清掃をしているのが見える。アキラが

「入ってもいいですか?」

と声を掛けると,リーダーらしき人が

「ええ,どうぞ」

と言ってくれた。それで3人で梅の木のそばまで歩いた。

「アキラちゃん,花をわたしの髪に挿して」

とヒカルがねだる。アキラは〔ほんとうは,公園の花を折ってはいけないんだよね〕と思いながら,周りを見渡して,誰も見ていない時を見計らって紅梅の花を1輪折ってヒカルの髪に挿してあげた。ヒカルはうれしそうにアキラを見上げ,そして佐為の方も見上げる。その顔が可愛くて,アキラはヒカルの頭を撫でた。

〔ひょっとして,佐為も一緒に撫でているのかな?〕

その通り,佐為も一緒にヒカルの頭を撫でている。そして,初めて出会った時のことを思い出している。

〔ちょうど1年くらいですね。1年前,ヒカルが自分で手折った紅梅を挿した髪を,こうやって撫でてたんです。この1年,いろんなことがありました。これからもいろんなことがあるでしょう。でも,これからもわたしはずっとヒカルのために幸福の霊を演じましょう。わたし自身,そうすることで自分の魂が浄められるような気がします〕

そんな佐為の物思いに気づくすべのないアキラは,「そろそろ帰ろう」と声をかける。

来た時と同じように,ヒカルは佐為とアキラに挟まれ,両方の手をつないで公園を通り抜ける。ちょうど,清掃している人の前を通りかかったのでヒカルは

「きれいにしてくれて,ありがとう」

と声を掛けた。声を掛けられた側は,そのようなことに慣れていないのかちょっとびっくりしたような顔でヒカルを見る。そばにいたリーダーが代わりに軽く頭を下げてあいさつしてくれた。その時,ヒカルの髪の紅梅の花が目に入ったはずだけど,特に見とがめられることはなかった。

 

そして,新入段免状授与式。ヒカルはもちろんセーラー服を着て出席する。ほかの2人の新入段者の肩ほどの背丈しかないセーラー服姿は否応なく人目を引くが,ヒカル自身はそんな演出効果などまるで意識していない。式の後,何人かの記者に取り囲まれた。この頃になると,ヒカルがどうやって棋力を身につけたのかという質問は出されなくなっていた。その代わり,新初段としての抱負を聞かれた。

「ホーフ?」

ヒカルは理解できない言葉を聞き返す。アキラはほかの記者につかまって手助けできないので,佐為が説明する。

《つまり,これからプロとして何をしたいか,ということです》

ヒカルはうなずいて

「ホンインボーになる」

と答えた。それを聞いた記者は

「率直なお答えをいただき,ありがとうございます」

とお礼を言った。翌日の紙面に

「セーラー服新初段,夢は本因坊」

という見出しが躍ったのは言うまでもない。

 

そして4月。いよいよ正式にプロ棋士としての活動が始まる。

 




oki_f様のご指摘により,訂正を加えました(2018年11月5日)
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