サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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6:変わるもの,変わらぬもの

6-1

 

公式の初手合,ヒカルもアキラも順当に勝った。次の手合は5月なのだが,その前にゴールデンウィーク。この時期,囲碁関連のイベントもいくつか催されるが,ヒカルはあちこちから出演依頼が殺到していた。アキラは,

「知的障害があるので大盤解説は無理です。ほかのお仕事も難しいのですが」

と説明するが,判で押したように

「出ていただくだけでいいんです。ステージに座っていてくれればそれでけっこうです」

と返事される。

「つまり,人寄せパンダってことですか?」

といささかムッとして反論するが,

「囲碁人気が低迷している折,塔矢ヒカルさんの抜群の話題性と人気を活用させていただきたいんです」

と頼まれると,むげに断れない。仕方ないと思って引き受けると,

「ヒカルさんはぜひセーラー服を着てきてください」

と要求を上乗せされる。もちろん,ヒカル自身もこの点は何の異存もないのだが。

結局,この期間中3カ所のイベントに出演することになった。依頼する側としては,ヒカルを呼べば必ず付き添いとしてアキラも来るから,一石二鳥の思惑もある。そしてどのイベントもふだんの倍以上の人出があった。

ヒカルは,出演した初めてのイベントで失敗を演じた。いや,ヒカルの失敗というより司会者の失敗と言うべきなのだが。イベントでのエグジビジョン対局。ヒカルが対局するわけではない。ヒカルはゲストとしてステージに座っている。イベントなので対局者も長考は避けてスピーディーに打ち合うのだが,それでもたまにちょっと考え込むことがある。そこで司会者が気を利かせたつもりでヒカルに「ここで,黒はどこに打ち込みましょうか?」と質問を振った。ヒカルは佐為もアキラも止める間もなく席を立ち,大盤の前に行く。こうなると佐為も黒が打つべき場所を示さざるを得ない。

「ここ」

とヒカルが指さす。確かに,それは大盤解説者をうならせる妙手だったが,まだ対局者が差す前にうかつなことは言えない。ただ,観衆は思わず「ヘー」とか「ほー」という声を漏らし,それが対局者に聞こえる。それだけでも気が散ることは確かだ。やがて黒が打ち込んだのは,佐為=ヒカルが示したのとは別の場所。見る人が見れば,失着とは言わないまでも,けっして最善の手ではない。大盤解説者は決まり悪そうな表情になり,その大盤解説者の反応を見て観衆の間には白けたような空気が広がった。そしてその雰囲気は,対局者にも伝わる。

以後,ヒカルに意見を求めてはいけないという申し送りがされることになった。当然,指導碁などもっての外。ヒカルに指導碁を打たせたら,その実力を遠慮なく発揮して,相手を蹴散らしてしまう・・・・と誰もが信じた。結局,ヒカルはまさに人寄せパンダとしてステージに座って顔を見せるだけになった。

 

そんなゴールデンウィークの最後の休日。イベント出演の依頼はあったが,断った。この日は,あかりが塔矢の家を訪ねてきてくれることになっている。これは,どんなイベントよりも優先される。ヒカルはあかりを大歓迎した。もちろん,明子もアキラも。

あかりも喜んでいる。ヒカルたちがこんなに自分を歓迎してくれることを。塔矢家の養女になって1年以上が過ぎても,ヒカルが自分を「あかりちゃん」と慕ってくれることを。1年前の今頃,ヒカルがプロに挑戦するのを後押しした。そしてヒカルはプロになり,メディアの注目の的になっている。それでも,ヒカルはあかりの前では少しも変わらない。会えば「あかりちゃん」と言ってまとわりつく。それが,あかりにはうれしい。

〔ヒカルちゃん,わたしの前ではぜんぜん変わらないな。わたしの知らない部分では変わってるのかもしれない・・・・きっと変わってるよね。成長してるよね。そうでなきゃ,プロにチャレンジした意味がないから。でも,わたしの前では変わってないのが,わたしにはうれしい。自分勝手かもしれないけど,これからもずっと,わたしの前では以前のままのヒカルちゃんであってほしい・・・・〕

こんなことを考えながら,あかりはヒカルと他愛もないおしゃべりをしている。その中で中学の囲碁部のことが話題になった。

「ヒカルちゃん,わたしが囲碁部に入ってるって話,したっけ?」

「うん,知ってるよ」

「こんど,中学囲碁大会に出るんだ」

「わー,すごい」

「すごくはないの。去年は部員が足りなくて出れなかったの。今年は新入部員がいて,男女とも3人ずつのチームを組めるから出場できることになったの」

それを聞いた佐為がヒカルに話しかける。

《それなら,あかりちゃんたちに指導碁に行ってあげましょう》

《シドーゴ?》

《はい。碁が強くなるよう指導する対局です》

《ふーん》

《あかりちゃんに話してごらんなさい》

「あかりちゃん,わたしシドーゴに行くよ」

「えっ!・・・・ヒカルちゃんが指導碁に来てくれるの?・・・・それはうれしいけど,わたしたち,ど下手よ。下手すぎて指導碁にならないんじゃない?」

ヒカルは左を見る。佐為は自信たっぷりにうなずいている。

「大丈夫だよ」

「そう,それなら・・・・あっ,そうだ,それと,プロが指導してくれていいの?アマチュアの大会よ」

ヒカルはまた左を見るが,この手のことについては佐為もよく分からない。アキラが助け船を出した。

「それは問題ないよ。プロが出場してはいけないけど,指導するだけならかまわないんだ」

「それはよかった・・・・でも,ヒカルちゃん,プロになって忙しいんでしょう?」

「もちろん,毎日というわけにはいかないけど,週1回くらいなら大丈夫だよ」

と,これもアキラが代わって答えた。

「あかりちゃん,わたし,セーラー服着ていっていい?」

「うん,もちろん」

 

というわけで,さっそく翌日にヒカルは葉瀬中囲碁部に指導碁に出かけた。

3時半に校門で待ち合わせ。明子が車で送ってくれた。

「おばさん,いつもありがとうございます」

「いいのよ,お礼なんか。あかりちゃんはヒカルちゃんのたった一人のお姉さんのような人なんだから。帰りは電話してちょうだい。迎えに来るから」

「いえ,いくらなんでもそこまでは。帰りはわたしが送っていきます」

こんなやりとりの後,あかりはヒカルを部室に案内する。部室と言っても,理科の先生の好意で理科実験室を使わせてもらっているのだが,ヒカルが入ると部員たちが口々に

「かわいーっ」

と言った。自分たちと同じデザインのセーラー服なのだが,小学校3年生くらいの背丈しかないヒカルなので可愛く見える。ヒカルはうれしそうに笑顔を見せた。

《ヒカルちゃん,あかりちゃんたちは3人ずつ2チームならあわせて6人ですね。では6面打ちしましょう》

《6面打ち?》

《6人,同時に対局するんです》

《そんなこと,できるの?》

《できますとも。あかりちゃんに言ってください》

「あかりちゃん,6面打ちしよう」

「6面打ち?」

「うん,6人同時に対局するの」

部員たちは驚いた。ただ,6人分の碁盤がない。

「いくつあるの?」

「3つ」

ヒカルはちらりと左を見る。

《じゃあ,3面打ちですね》

「じゃあ,3面打ち」

結局,男子チーム,女子チームごとに3人ずつ指導碁を受けることになった。

《ヒカルちゃん,指導碁といっても初心者が相手だから,碁を打つだけでなく,多少は説明もしないといけません。なるべく易しい言葉を使いますから,ヒカルちゃんが伝えてくださいね》

《うん,分かった》

こうして,簡単な説明を交えつつ,佐為=ヒカルの指導碁は2時間ほど続いた。この日の後,6月の大会までほぼ週に1回ヒカルは葉瀬中囲碁部に指導碁に出かけることになる。

6月の大会で葉瀬中囲碁部は男女とも2回戦で敗退した。それを聞いてヒカルは残念がったけど,あかりは,「初出場で1回戦に勝てたのはすごいよ。ヒカルちゃんの指導碁のおかげだよ」と言う。それを聞いてヒカルもうれしくなった。

 

6-2

 

梅雨が明けて夏になり,またプロ試験の季節がやってきた。

和谷にとって4度目の挑戦。今年は手応えを感じている。この半年くらい院生でトップ争いを演じている。去年に比べ明らかに力が上がっていると実感できる。その理由の一つは,sai=ヒカルとの対局であることは自分でも分かる。アキラも和谷を激励する。

「和谷くん,今年こそ受かってくれ」

「うん,もちろんそのつもりさ」

「ボクの率直な気持ちを言えば,これだけヒカルちゃんに鍛えてもらっていて,受からなかったらタダじゃあおかない」

アキラは冗談めかしているけど,目は真剣だ。和谷も真剣に答える。

「もちろんさ。オレの方がもっと感じているよ。こんだけ鍛えてもらっていて受からないようじゃ・・・・」

この頃には,和谷のアキラに対するわだかまりはすっかり消えていた。

「アキラ,今だから言うんだけど,オレ,昔はオマエが嫌いだった。昔というのは,ヒカルちゃんがsaiかどうか確かめにここにやって来た日より前ってこと。碁が強いと鼻に掛けて,傲慢な奴だと思ってた。だけど,ここにヒカルちゃんと対局しに来るようになって,ふだんのオマエを見ていて,オレが誤解してたって分かったんだ。オマエ,ほんとうはいい奴だな。ただ,碁に夢中になってて人付き合いに気が回らなかっただけなんだな。そんなオマエから『受からなかったらタダじゃあおかない』って言われるなんて,うれしいぜ。その期待,ぜったい裏切らない」

「ありがとう」

と言って,アキラはさらに言葉を継ぐ。

「誤解じゃないよ。ボクは,昔はキミたちが思っているような人間だったんだ。昔というのは,ヒカルちゃんがうちに来る前のこと。それまで,ボクは父や父の門弟たち,つまり年上の人たちに混じって生きてきた。碁の力はともかくとして,そのほかのことでは大人に守られる立場だった。そして,ただ上だけを見て,強くなることだけを考えていた。対局で勝つことだけがボクの人生だった。ヒカルちゃんが来て,ボクは否応なく彼女を守る立場になったんだ。もちろん碁は彼女の方がはるかに強いけど,そのほかのことでは,ボクが助けてあげないといけないんだ。ボクもほんとうの妹のように思って接してきた。自分より弱い人間のためにできるだけのことをする。そんな中で,ボクも変わってきた。ボクもそれなりに学習したんだよ」

 

明子はこの夏も二人を海水浴に連れていくことを考えている。去年の夏には「最初で最後の夏」と思っていた。でも,2度目があってもいいのではないか? 8月になると本因坊戦の予選が始まるから,行くなら7月のうち。そう思って行洋に相談した。

「わたしは仕事で行けないが,子供たちを連れて行ってくれ。新潟でなくてもいいのだが,お前は新潟が気に入っているのか?」

「ええ,去年の思い出があるので」

というわけで去年と同じように新幹線に乗るのだが,何から何まで去年と同じとはいかない。まず,人数が3人なので,3人掛けのシートになる。そして何よりの違いは,ヒカルが有名人になっていること。さらに,ヒカルと一緒にメディアに露出せざるを得ないアキラもそれなりに有名になっている。さすがに,アイドルタレントのような騒ぎにはならないが,好奇のまなざしで見られたり,サインをねだられたりする。ヒカルはあまり気にしていないようだが,明子は気が休まらなかった。

海に着いてからも事情は同じ。

「ねえ,あの二人。塔矢ヒカルとアキラでしょう・・・・」というささやきが,たまに耳をかすめるし,はっきり聞き取れなくても,そんな噂をしあっている雰囲気が感じ取られてしまう。ヒカルはぜんぜん気にしていないけど,アキラは気にしている。そして明子はもっと気にしている。

〔ヒカルちゃんは去年と変わらないけど,ヒカルちゃんの周りは変わってしまった。そして,わたしも去年と同じではいられない・・・・いや,わたしがそんなこと思っていてはだめ。周りが変わってしまったのなら,わたしだけでも,わたしたちだけでも,変わらないでいなければ。これまでどおりヒカルちゃんに接してあげなければ・・・・〕

 

6-3

 

8月に本因坊戦の予選が始まる。ヒカルはもちろん参加する。本因坊になるためにプロになったようなものなのだから。その後,9月に名人戦,11月に棋聖戦の予選が始まる。さらにその他のタイトル戦の予選も順次始まる。ヒカルをどのタイトル戦に参加させるか,塔矢親子はいろいろ考えている。7つのタイトル戦全部に参加させるのは負担が大きいだろう。タイトル戦の負担だけではない。その後の負担もある。

佐為=ヒカルの実力をもってすれば,7つのタイトル戦の挑戦者となり,挑戦手合も勝利して,7冠を達成する可能性もある。ただ,タイトルホルダーにはさまざまな雑事,負担が伴う。4冠のタイトルホルダーである行洋は切実にそれを感じる。ヒカルにそれがこなせるかどうか。さらに,タイトルを独占した時の棋界の反応も心配の種だ。単純に7冠達成を祝福してくれるかどうか。かと言って,予選,本戦を勝ち上がって挑戦手合を辞退するというのも,それはそれでタイトルへの侮辱となりかねない。そんなことをするよりは,最初から参加するタイトル戦を絞り込む方が得策だろう。

「本因坊に加えて,3大タイトルのうちの棋聖戦だけに参加するのは,どうでしょう?」

とアキラが提案する。

「3大タイトルなら,もう1つ,名人もあるが,わたしに遠慮するのかね」

と言いながら行洋は笑みを浮かべる。

「ボクとしては,佐為=ヒカルとお父さんの名人戦を見たい気持ちはあります。メディアも盛り上がるでしょう。ただ,ヒカルちゃんというか佐為の気持ちとして,お互い切磋琢磨するためのうちでの対局ではなく,タイトルを賭けて世間の注目の中で対局するのは,気が引けるのではないでしょうか」

「そうかもしれないな・・・・ただ,参加するタイトル戦を絞るとなると,神の一手を極めるためにできるだけ多くの強者と対局したいという佐為の願いを叶えるのが・・・・」

「ネット碁はどうでしょう?」

「ネット碁?」

「はい。ボクも以前はネット碁を馬鹿にしていたことがあります。ネット碁だけではだめだからプロになりなさいとヒカルちゃんに勧めもしました。ただ,和谷くんの話を聞くと,最近はネット碁にもかなり強い打ち手がいるようです。しかも全世界を相手にできます。むしろ,中国や韓国では,日本以上にタイトルホルダー級のプロがネット碁に参加していて,そういう人たちとも対局の機会があります。saiが『天然天才少女』ヒカルちゃんだと分かってからはなおさらで,プロ,アマを問わず,腕に覚えのあるトップレベルの棋士たちが続々とネット碁に参入し,sai=ヒカルちゃんと対局しているようです」

行洋はアキラの話をうなずきながら聞いている。

「・・・・そうか・・・・その話を聞いて思いついたが,中国や韓国の棋士と対局するのなら,国際棋戦に参加するという手もある。春蘭杯とかLG杯とか三星火災杯とか」

「ああ,それもありますね。国際棋戦に参加するのなら,日本の棋界もこぞって応援してくれるでしょうし」

「参加資格を得るためにそれなりの実績が必要だが,それは,ヒカルさんならすぐだろう」

行洋の言葉は本人の予想よりはるかに早く実現した。アキラの語るとおり,日本の棋界よりむしろ中国や韓国の棋界においてネット碁のsaiは注目されており,その「正体」である塔矢ヒカルの,セーラー服姿ではなく,棋力にも熱い関心が寄せられていた。このような背景があって,棋聖戦の予選が始まる直前の10月下旬,行洋と交流のある韓国棋界のトップ徐彰元(ソ・チャンウォン)から,翌年2月に予定されているLG杯決勝戦に関連するイベント=エグジビション対局へのヒカルの出演を打診された。具体的には,決勝5番勝負の1局目の前日と中日(なかび=1局目と2局目の間の日)に,韓国の中堅と若手を代表する棋士と対局する。

ヒカルは,

「韓国に行くの? じゃあ,飛行機に乗るんだね」

と気楽に答える。佐為=ヒカルにとって対局を断るという選択肢はない。行洋は提案を受諾すると返事した。

 

《本因坊戦といい,今日,行洋殿からお話のあった韓国での対局といい,これから日本の,世界の最強の棋士たちと打ち合えるのですね。いよいよ神の一手への本格的な探求が始まりますね》

「かみの一手?」

ヒカルは問い返す。

「佐為が神の一手の話をしてるの?」

アキラはヒカルに問う。

「うん・・・・かみの一手って,なに?」

「それは・・・・」

アキラは佐為の代わりに説明してよいものかと迷ったが,佐為がヒカルに話している様子はないので,自分の言葉で説明する。

「まるで神様が打つような,最善の一手,その場面でこれ以上の手はあり得ないという一手だよ・・・・もちろん,たとえ話だよ。人間は決して神になれないのだから,ほんとうの意味で神の一手を人間が極めることはできない。ただ,それを目指して努力を続けるということだよ。無限の彼方にある目標・・・・ヒカルちゃんは北極星って,知ってる?」

ヒカルは首を振る。

「真北の空にある星だよ。その星を目指して行けば間違いなく北に向かえる。だけど,いくら進んでも北極星に届くことはないんだ。神の一手も同じようなものだよ。それを目指すことはできる。でも届くことはない」

アキラは,いつの間にかヒカルに説明するというより,自分に語りかけるような口調になっていた。そんなアキラの説明を佐為も静かに聞いている。

〔確かにそのとおりです。アキラの言う通りです。でも・・・・人の身で神の境地に届くはずはないと分かっていても,それでもわたしは「神の一手」という言い方にこだわるのです〕

 

それからほどなく,和谷がプロ試験合格を知らせに来た。ヒカルもアキラもよろこんだ。その時居合わせた明子も。和谷は思いのたけを語る。

「これでやっと,オレもスタートラインに立てた。これからやっと,アキラを追いかけられる・・・・ほんとうはsai=ヒカルちゃんを追いかけると言いたいんだけど,それは自分でも言い過ぎだと分かっている。オレはまず,アキラを追いかける。オレはアキラをライバルと思っているよ。今のところ,オレが勝手に思ってるだけだけど,いつかきっと,アキラに『和谷はボクのライバルです』と言わせるんだ」

「うん,待ってるよ」

アキラは明るく励ますような口調で答える。

「ボクは,ヒカルちゃんを必死で追いかけてるんだ。いつか追いつき,追い越したい。いつなるか分からないけど,いつかはきっと,と思ってる。そんなボクを,和谷くんは必死で追いかけてるんだね」

このアキラの言葉を聞いて,和谷はつぶやいた。

「・・・・ということは,いつの日か,ヒカルちゃんに追いついたアキラにオレが追いついたら,オレはヒカルちゃんつまりsaiに追いついたことになるのか・・・・」

こんな若い二人のやりとりを,佐為は優しい眼差しで眺めている。ヒカルは,二人の会話の深い意味は分からないまま,自分に親しい二人が仲よさそうに語り合うのをうれしそうに眺めている。和谷は,声に出さず心の中でつぶやきを続ける。

〔オレから見ると,ヒカルちゃんだけじゃくアキラだってまぶしいほど才能に恵まれている。そんな二人をオレが努力でどこまで追えるか・・・・追えるだけ,追ってみせるさ〕

もちろん,大手合でもタイトル戦予選でも連勝を続けるヒカルとアキラを追いかけるのが容易でないことは和谷も分かっている。アキラは年内最後の公式手合となった名人戦予選で倉田六段に敗れ,連勝記録が途絶えたが,ヒカルは連勝のまま年を越し,1月も負け無しで連勝記録を伸ばしている。新人がどこまで連勝記録を伸ばすのか,棋界の誰もが期待と一抹の恐れを抱きながら見守っている。そして2月になった。

 

6-4

 

LG杯決勝戦のエグジビション,アキラも行洋も手合の日程にぶつかり,明子が付き添うことになった。ヒカルは去年の新初段戦の時と同じセーラー服にコート姿。生まれて初めて飛行機に乗るのでうきうきしている。佐為も,これまで地上から見上げるだけだった飛行機に初めて乗ることになり,好奇心がそそられる反面,不安でもある。

《ほんとうに,あんな大きな鉄の塊が空に浮くんですか? 落ちないんですか?》

《だって,これまで何度も空を飛んでるところを見てるじゃない》

《それはそうなのですが,実際に自分が乗るとなると,やっぱり心配で・・・・》

「おかあさん,サイが飛行機に乗るのを怖がってるよ」

《いや,怖いんじゃありませんよ。そんな,怖くはありませんけど・・・・》

そんなヒカルの話にみんなが和んだ。やがて出かける時間。

「じゃあ,行ってきますね。家政婦を派遣してもらうよう手配してありますから,男二人でも飢え死にする心配はないでしょう」

「ボクだってトーストと目玉焼きくらい作れます。以前,ヒカルちゃんに作ってあげたし」

「うん,アキラちゃんの目玉焼き,おいしかった」

とヒカルがアキラの肩を持つが,

「しかし,そればかり1週間も食べさせられたら,わたしが音を上げるね」

と行洋がつぶやいた。もちろん,家政婦はすでに手配済みだから,それは余計な心配なのだが。

ヒカルと明子は日暮里でスカイライナーに乗り換え,成田に向かう。新幹線ほどではないが,かなり速い。佐為は,飛行機への不安を忘れてヒカルと一緒にはしゃいでいる。飛行機に乗ってみると,乗る前の不安を忘れて佐為は空の旅を楽しんでいるようだった。

《いつもは下から見上げる雲を上から見下ろすとは,夢にも思いませんでした》

とか

《もともと囲碁は唐土(もろこし)から渡来したもの。彼の地でも盛んなのでしょうね。どんな者たちと対局するのか,楽しみです》

などとヒカルに話しかける。佐為が機嫌がいいと,ヒカルも上機嫌だ。

成田からほぼ2時間半で金浦空港に到着。「塔矢ヒカル様」というカードを掲げて待っていた通訳係に出迎えられ,すぐにソウル市内のホテルに向かう。LG杯決勝戦が行なわれるホテルであり,関係者の宿泊先になっている。ホテルに着いて1時間ほどしたら,LG杯関係者がスケジュールの確認にやって来た。翌日10時から韓国棋界の中堅クラスを代表する安大善(アン・テソン)と対局。翌々日は決勝戦第1局を検討室で観戦。その次の日は10時から若手の代表である高永夏(コ・ヨンハ)と対局。その次の日は決勝戦第2局を検討室で観戦。翌日のお昼頃,日本に帰る。

 

エグジビジョン対局の会場は満員だった。壇上にセーラー服姿のsai=ヒカルが現われると,拍手と歓声がやまなかった。いつまでも鳴りやまないので,拍手と歓声を浴びながら対局が始まった。

安大善は,行洋なみとは言わないまでも,森下や緒方くらいの棋力があると佐為は実感した。もちろん,負けはしない。観衆は,小柄なセーラー服姿の女の子がネット碁の不敗伝説を背負うsaiその人であることを知ってはいるが,それでも韓国でもトップレベルの棋士をみごとな石の流れで追い詰め,投了させるプロセスを信じられないことのように見守った。

翌日の検討室にもその余韻は残っていて,検討室で決勝戦を観戦している人たちは時おり,対局者が長考している時など,次の一手はどこに打つのが良いと思うかヒカルに尋ねることもある。ヒカルの指摘は的確で,その場面での最善の一手と思える。対局者がそこに打ち込むと,「やはり」というような反応であり,別の所に打ち込むと,どっちの方が適切な手なのか観戦者の間で議論になることもある。

その翌日に対局した高永夏は,安大善には及ばないが,佐為は若さ特有の伸び盛りの気迫を感じる。アキラと同じくらいか,ひょっとしたらアキラを少し上回るか・・・・1年もしたら大善を追い抜くかもしれない。投了した時,永夏は前々日の大善と違い,悔しさをストレートに態度で表現した。そして通訳を介して,悔しさを伝える。

「eternal summerというネット碁のアカウント名を覚えていますか? それがわたしです。これまでsaiと3回対局している。もちろん,3回とも負けているけど,差は徐々に縮まっていると信じていた。今日こそはと思っていた。だけど,及ばなかった。いつかはきっと,君を倒す。これからは,それを目標の1つにする」

ヒカルはただニコニコしながら聞いている。佐為は真剣に受け止めた。そうしてもう一人,明子は“eternal summer”という言葉に反応した。

〔・・・・ああ,「永遠の夏=永夏」ということね〕

そして,「永遠の夏」という言葉から,あの新潟の海が連想された。去年ではなく,おととしの新潟の海,「最初で最後」と思った夏の日。

〔ほんの1年半前のことなのに,ずっと昔のように感じてしまう。あの夏の日がわたしにとっては永遠の夏なのかしら・・・・ヒカルちゃんにとっても,アキラにとっても・・・・〕

 

LG杯決勝戦2局目。ヒカルは検討室で観戦するのだが,永夏もやって来た。永夏は関係者として検討室への出入りを認められているのだが,今日は観戦ではなくヒカルに対局を申し出るのが目的だった。検討室での対局とは異例のことだが,ヒカルはまったく気にする様子もなく,受け入れた。

碁盤を出して打ち始めた二人を,周りの者たちは,決勝戦の石の配置を碁盤の上に再現しているのだろうと思っていたが,本人たちの対局だと分かって驚いた。ちゃんと観戦すると,決勝戦よりむしろ興味深いほどで,一人,二人とギャラリーができ始めた。ギャラリーたちも,決勝戦の観戦もおろそかにはできないので,モニター画面を見ながら,盤面も見るという忙しいことになった。形勢は明らかにヒカルが優位。ギャラリーたちの中にはエグジビション対局を見た者もいたし,見てなくてもネット碁のsaiは知っていたが,実際に目の前でその対局を見ると,強さを再認識した。

決勝戦は打掛けになったが,二人はそのまま対局を続けている。ギャラリーたちは食事に出るのをためらっている。結局,ルームサービスを頼むことになった。運ばれてきた食事の皿を手に持ち,立って食べながらヒカルと永夏の対局を見ているギャラリーたちを見て明子は〔まったく,どの国にも碁バカはいるものだわ〕と思う。

打掛けが終わり決勝戦の午後の部が始まる頃,永夏が投了した。永夏は腕を組み,唇をかみながら,自分が投了した盤面を見ている。そんな永夏にヒカルは気軽に声を掛けた。

「ヨンハさん,きれいだね」

通訳係が敢えて通訳しようとしないヒカルのせりふを,「彼女は何と言ってるんだ」とせっついて通訳させた永夏はちょっとあきれたように苦笑いした。

〔こんな場面で言うせりふではないだろう〕

見ると,明子を含めほかのみんなも苦笑いしている。その場を繕うような明子のせりふ

「ヨンハさんもヒカルちゃんもお腹がすいたでしょう。決勝戦を見ていたいのなら,あなたたちもルームサービスを頼む?」

これは,確かにこの場面にふさわしい。

 

その日の夕方,ヒカルと明子は,夕食をともにしたLG杯事務局の担当者から

「まだ正式に決まってはいないが,今年5月末から始まる予定の来期LG杯に塔矢ヒカルをシード棋士として招待する話が出ている。それが日程的に難しいなら,今年と同じようにエグジビション対局に招待してもいいという話もある。正式に招待したら,受けてもらえるか?」

と打診された。佐為は大喜びで

《ぜひ,ぜひ,受けましょう。ヒカルちゃん。すばらしいことじゃありませんか。日本に戻ったら,アキラくんにも行洋殿にも,この話ぜひ受けるよう頼みましょう》

《うん》

ヒカルは佐為の喜ぶ姿を見て,そう答える。もちろん,この会話は相手にも明子にも聞こえない。明子は,帰国して行洋たちと相談しないと答えられないと常識的な返事をした。

帰国した明子から話を聞いた行洋もアキラも,佐為=ヒカルから頼まれるまでもなく,招待を受けたいとは思うが,本戦に出るとなると,予選と準々決勝・準決勝そして決勝,1年のうちに3回,1週間ほど韓国に滞在することになる。日本での手合やタイトル戦の日程との調整が難しいので,今回と同様,エグジビション対局だけにする方が無難だろうということになった。

3月には,LG杯エグジビション対局の評判を聞きつけたらしい中国の春蘭杯の事務局から同様の提案があったが,時期が翌年5~6月とのこと。本因坊戦と重なりそうなので,アキラは行洋とも相談して残念ながら辞退した。それにしても,sai=ヒカルの名前は韓国,中国にも広まっていることを実感させられた。

 

春蘭杯のことを知らされていないヒカルと佐為は,3月になれば「小さな公園」の梅の花の方に関心が向く。今年も,紅梅と白梅がきれいな花を咲かせた。去年と同じようにヒカルはアキラに花を髪に挿してもらう。ヒカルの笑顔は佐為の心もほころばせるけど,それと同時に佐為は我が身のない悲しさを感じ,アキラをうらやましく思った。〔実体を持たぬわたしでは,ヒカルのためにしてあげられることにも限りがある。アキラにとってはたやすいことでも・・・・〕

 


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