サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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7:兆(きざし)

7-1

 

4月4日,和谷の初手合。相手は,いつかはライバルと目指している塔矢アキラ。〔今のところ,オレが勝手にライバル意識を燃やしてるだけだけど,いつかきっとアキラにオレをライバルと認めさせてやる〕と思いながら,和谷は家を出る。

 

アキラも元気に出かけていく。それを見送る行洋と明子とヒカル。

その直後,行洋とヒカルはリヴィングルームのソファーでくつろぎ,明子がキッチンでお茶をいれている時,行洋がゆっくりとヒカルの方に倒れてきた。最初,ヒカルはコーヨーがふざけているのだと思った。

「コーヨーさん,コーヨーさん」

ヒカルは遊びの相手をしてもらうように話しかける。だけど返事はない。さすがにヒカルも何か変だと思って明子を呼んだ。明子は行洋の様子を見て顔から血の気が引く思いがしたが,すぐに119番に電話した。

それからは,慌ただしかった。救急隊の到着。その場での気道確保,自発呼吸と脈拍の確認,ルート(静脈)確保,受け入れ先の病院を確保するための無線のやりとり。やがて,搬送先が決まり救急車は出発する。少なくとも数日は入院するはず。明子は入院に必要な最小限の物品を用意してタクシーで向かうことにする。その時になって,ヒカルをほったらかしていたことに気づいた。

「ヒカルちゃん・・・・」

ヒカルは,詳しいことは分からないまま,何か重大なことが起きたと感づいている。

「コーヨーさん,どうしたの?」

「行洋さんはね・・・・疲れて,ちょっとお休みすることになったの」

「どこに行ったの?」

「病院よ」

「コーヨーさん,病院なの? 注射とかされるの?」

「うん,注射されるかもしれないね。でも,心配しないで。行洋さんは強い人だから」

「うん」

そんなヒカルの手を明子はしっかり握りしめる。そして二人してタクシーで搬送先の病院に向かった。

病院に着き行洋の容態を確認してから,明子は棋院に連絡した。アキラはもちろん対局中。

「・・・・はい,命に別状はないとのことです。アキラには対局が終わるまでは知らせないでください。あの子の気持ちを動揺させてはいけませんから。それに対局を中断してこちらに来ても,行洋の容態が変わることはありませんから。先ほどもお伝えしたとおり,命に別状はありません。それより,和谷さんの初手合をきちんと終わらせてやってください」

 

初手合は午後の早い時間に終わった。棋院の職員から事情を聞かされたアキラは取るものも取りあえず病院に向かう。

息を切らせて駆けつけたアキラに明子が状況を説明する。

「心筋梗塞の初期だったんだけど,もともと重大な状態ではなかったのと,対応が早かったので,命に別状はないの。もうじき,エマージェンシー・ルームから一般病室に移されることになってます」

明子は,これから棋院関係者などの見舞いが殺到することを考え,一般病室だと同室者に迷惑がかかるだろうということで,個室を手配していた。

エマージェンシー・ルームから病室に移される時,行洋はまだ麻酔が残っていてうつらうつらしていた。そんな行洋を載せた搬送用ベッドの後ろに主治医と看護師その他の医療スタッフ。その後ろに,明子とアキラ,その二人に挟まれ二人の手をしっかり握っているヒカル。

病室に移ってしばらくして行洋は麻酔から覚めたが,まだぼんやりしている。最初に視界に入ったのは,自分を注意深く見下ろしている見知らぬ顔。その向こうに明子,アキラ,そしてかろうじて顔だけ見えるヒカル。

見知らぬ顔が

「塔矢さん,目が覚めましたか?」

と問う。行洋はうなずく。それから,その見知らぬ顔が状況を説明し始めた。どうやら,それが主治医らしい。主治医の説明を聞いているうちに行洋は意識がしっかり回復した。行洋の意識が戻り,特別な異常のないことを確認して,主治医はベッド脇から離れる。明子とアキラは医師について行き,スイートルームのような個室病室の病室に隣接する控え室に行き,そこでさらに主治医から説明を聞き,いくつかの質問に答えてもらった。それも終わると棋院などの関係者に連絡を取り始める。

ヒカルは一人,病室に残った。病室のソファーではなく,ベッド脇に小さな椅子をもってきてそこに腰掛け,心配げに行洋を見ている。

「コーヨーさん」

と呼びかける。

「ヒカルは何をすればいいの?」

真剣な眼差しで自分を見つめるヒカル。その視線を行洋は受け止める。その一途な真剣さが行洋の心に響く。

「ヒカルさんは何もしなくていい。ただ,ここに,わたしのそばにいてくれるだけでいい」

それは行洋の実感だった。ただ,彼女が自分のそばにいてくれる,それだけで心が温まり,回復の気力が増すように思える。

「うん,じゃあヒカルはずっとここにいるよ」

その言葉どおり,ヒカルは夕食もベッド脇の椅子に座って摂った。そして夜も更けていく。

「ヒカルさん,もう夜も遅い。これまでずっとそばにいてくれて,わたしもだいぶ具合が良くなった。ヒカルさんもお休みなさい」

「うん,分かった。明日の朝また来るね」

ヒカルは控え室のベッドに明子と一緒に寝る。アキラは家に帰り,翌朝戻ってくることにする。

翌朝,起きてすぐにヒカルはコーヨーさんのそばに来て,見守り続けた。小さな無力な女の子。その子が行洋を何かから守れるわけではない。それでも,行洋はヒカルがそばにいることがうれしかった。

〔この子は純粋にわたしのことを心配してくれている。わたしが5冠のタイトルホルダーだからとか,日本の棋界を担う重要人物だからということではなく,ただただ彼女の大事なコーヨーさんだからという,それだけの理由でこんなに心配してくれている〕

「ヒカルさんはいい子だね」

ヒカルはうれしそうに笑みを見せ,それからちょっと恥じらうようにうつむいた。主治医の診察の時も明子と一緒に付き添う。付き添っても説明が分かるわけではないが,それでも一緒にいたい。

お昼ご飯時,明子はアキラとヒカルに声をかける。ヒカルは珍しく明子に逆らう。

「わたしはずっとここにいる」

「ヒカルさん,キミの気持ちはうれしいけど,ご飯も食べないとキミの体に良くないよ」

行洋に優しく諭され,ヒカルは下を向く。そんなヒカルにアキラが声をかけた。

「じゃあ,ボクたちが食事の後に病院の売店で何か買ってきてあげるよ。サンドイッチとか牛乳くらいはあるだろう。その間,お父さんを見守ってあげてね」

「うん!」

ヒカルはうれしそうに答える。

明子とアキラは出て行く。行洋はベッドから手を伸ばした。掛け布団の外に出た行洋の手をヒカルは握る。コーヨーさんと手をつなぐのは,初めてかもしれない。ヒカルは明るい笑顔で行洋を見る。行洋は慈愛を込めた眼差しで見返す。

 

この日は家族以外の面会は謝絶にしてもらった。おかげで,時おり看護師が容態を見に来ることはあるが,弟子たちや来客に邪魔されない親子水入らずの時間を持てた。ヒカルがお昼のサンドイッチを食べ終わったのを見計らって,行洋は病室のソファーに腰掛けている明子とアキラそしてベッド脇に座っているヒカルに話しかけた。

「今朝の主治医の説明を聞いていたから分かっていると思うが,心臓の状態そのものは心配ないようだ。ただ,今後同じようなことが起きないよう仕事を減らすことを勧められた。自分でも,昨年暮れに得た王座を含め5冠のタイトルホルダーというのは荷が重いと実感している。碁を打つことそのものは,少しも負担とは思わないが,それにまつわる雑事が面倒だ。防衛戦は基本的に地方での対局で,1局ごとに移動に丸2日がつぶれてしまう。前日のレセプションにも顔を出さないわけにはいかない。それは,今のわたしにとって,碁を極めるための足かせと思えてしかたない」

明子とアキラはこれから何が語られるのか,興味と不安を込めたような視線を行洋に向ける。ヒカルも,そんな二人に感応されたのか心配げな表情になった。

「それと,最近のヒカルさんあるいは佐為のことからも痛感したのだが,碁は日本だけのものではない。中国や韓国でも盛んだ。むしろ日本より盛んなくらいだ。それらの国の棋士たちとも碁を打ちたいと思っている。そのための時間がほしい・・・・実を言えば,韓国の徐彰元先生からは,ヒカルさんでなくわたしが来年のLG杯本戦に参加しないかと打診もされている。まだ回答は留保しているが・・・・これらもろもろのことを考えて,いくつかタイトルを返上しようと思っている。最初はすべてのタイトルを返上することも考えたが,日本の棋界から一切身を引くのも心残りだ。それで,名人位は今のままとして,ほかの4つのタイトルを返上しようと思っている」

しばらく,沈黙が続いた。それを明子が破った。

「わたしたちにお話になるということは,あなたの中で十分に考え抜いた末のことでしょう。それであなたが決めたことなら,反対はしませんよ」

この明子の言葉で,場の緊張が解けた。ヒカルはそれを敏感に感じ取る。

「コーヨーさん,よかったね」

その言葉を聞いて行洋の顔が和んだ。行洋は,黙ったままのアキラに語りかける。

「わたしも佐為にならって神の一手を極めたい。そのために,今より少しばかり自由になりたいということだ」

「もちろん,ボクもお父さんの選択に反対はしません」

そう答えながらも,アキラは「神の一手」についての自分の考えも述べた。それは人間には到達できない無限に遠い目標であること。行洋は静かに耳を傾ける。

「もちろん,それは分かっている。人間の分際で神の領域に手が届くなどとうぬぼれてはいない。お前の言う通り,北極星を目指して進むということだ」

その会話を佐為は静かに聞いている。

〔確かに,わたしも,行洋殿も,アキラも,神の一手に到達はできないのだろう。あくまで,それを目指して努力を続けること,それが神ならぬ人にできること。しかしそれなら,わたしはいつまでこの地上に留まるのだろう。無限に居続けることはできないはず。霊はいつかは成仏すべきもの。わたしは,いつ,どのような機会に成仏するのだろう?・・・・〕

 

翌日から,見舞客が続々とやって来た。その中でも,棋界の関係者,自分の後援会の関係者などに,行洋は内々のこととしてタイトル返上の決意を伝える。聞かされた者は誰もが驚き,行洋を翻意させようとする。そんな時,ヒカルは相手を見つめる。その視線は,相手に威圧感や圧迫感を与えるものではない。ただ素朴な澄んだ眼差し。そして

「コーヨーさんが決めたんだよ」

とだけ語る。ほかのことは言えない。ヒカルにとって,相手を説得する理路整然とした議論を組み立てることは不可能だから。しかしヒカルの素朴な澄んだ視線と単純な言葉は奇妙な説得力を発揮する。それを聞く者は,なぜか行洋に翻意を迫る気持ちが鈍る。そんな場面に何度か立ち会ってアキラは思う。

〔ボクはヒカルちゃんを守っている。少なくとも自分ではそう思っている。そんなボクを父はより大きな力で守ってくれる。そしてそんな父を,ヒカルちゃんは必死で守ろうとしている。そして実際,守っている〕

そして明子も思う。

〔ヒカルちゃん,あなたは佐為の力で碁を打つだけではない,それと同じくらい素晴らしいものを持っているのね。ただ守られるだけの存在ではないのね〕

 

7-2

 

行洋が明日退院するという日曜日。ヒカルは折り畳み式のマグネット碁盤を膝の上に置き,黒石と白石を並べて遊んでいる。もともと,見舞いに来た弟子の一人が,ベッドで身を起こして退屈しのぎに棋譜でも並べられるようにと持ってきたもの。それを借りてヒカルが遊んでいる。脇で見ている行洋は,ヒカルが棋譜を並べているのではないことは分かる。黒と白を交互に打ってはいるが,とても意味をなした打ち方ではない。ただ,黒石と白石を交互に,思いつくままに盤面に置いているだけ。それでも,黒白あわせて100個くらいの石が並んだところで,ヒカルは手を止め,碁盤を眺めている。

「ヒカルさん,何をしてるのだね?」

「碁石を並べてるの。きれいだよ。黒と白の模様。コーヨーさん,見たい?」

「うん,見せてもらおうか」

その返事を聞いてヒカルは碁盤を行洋の方に差し出す。意外なことに,ちゃんとした棋譜になっている。白の52手目まで。行洋は〔黒の初手はここで,それに白が応じてここに打って・・・・〕というふうに,その棋譜ができあがる筋道をたどることができる。しかし,ヒカルがそのような順番で石を置いていったわけではないことは,先ほどから見ていて分かっている。ヒカルは,行洋の目にはまったく適当にでたらめに黒石と白石を並べたに過ぎない。だけど,104個の石が配置された時点では,打ち手の筋道が分かるちゃんとした棋譜になっている。ただ,相手に囲われた石が剥がされていないでそのまま残されているのがふつうの棋譜と違っている。

「ヒカルさん,この続きはあるのかね?」

「うん」

そう言ってヒカルはまたさっきのように,行洋の目にはでたらめに見えるやり方で黒石と白石を並べる。石の数が200をいくつか越えたあたりで,ヒカルの手が止まり,できあがった黒白模様を眺めている。行洋が数えてみると,黒の124手目。そしてまた,ちゃんとした棋譜になっているが,明らかに白が優勢。行洋は黒の53手目からの筋道をたどる。しかし,途中の白の86手目で行き詰まった。「行き詰まった」という言い方は適切でないかもしれない。行洋として,〔白の86手目はここ〕と思える場所はある。ただ,そこには黒石が置かれている。そこ以外に白を打ち込むべき場所が見つからない。この局面でどこに白を打ち込めば,黒の124手目にできあがったような白に優勢な棋譜ができあがるのか?

「佐為,君には分かるかね? 白の86手目」

しばらくして,

「サイも考えてる」

とヒカルが答え,それからさらに5分ほどして,ヒカルが碁盤の1点を指した。

「そこか?・・・・」

行洋は驚いた。それまでの攻防とはまったく無関係に思える場所。なぜ,この時点でそこに白が打ち込む必要があるのか?

「では,黒の87手目は?」

ヒカルがまた別の場所を指す。行洋は腕組みする。

「その次の白の87手目は」

ヒカルが指した場所を見て,行洋は納得した。

「そういう筋道か!」

そこから先は黒の124手までほぼ必然の一本道。

〔しかしそれにしても,あの白の86手目は?・・・・佐為も分かっていなかったはずだ。分かっていれば,わたしの問いに即答したはずだから。そして,ヒカルさんも分かってはいない。打ち手の順に石を並べてはいなかった。まったく思いつくままのように黒石と白石を交互に並べていたのだから。しかし,できあがった棋譜は驚くような意想外の手を含みながらもきちんとした棋譜になっている・・・・〕

行洋はヒカルを見つめる。

〔ひょっとして,ヒカルさんはほんとうにサヴァン症候群なのか? これがサヴァン症候群の特殊能力なのか? それとも,ヒカルさんはほんとうに天才なのか?・・・・佐為,君も同じことを考えているのか?〕

そのとおり。行洋の心の中のつぶやきは聞こえないまま,佐為も同じようなことを考えている。

〔ヒカルちゃん,あなたはひょっとして,ほんとうに天才?・・・・ただ,あのような石の並べ方では,実際の対局にはその天才を活かせないのですが・・・・〕

こんな二人の思いなどまったく頓着せず,ヒカルは

「続きを並べていい?」

と行洋に聞く。行洋はできれば,ここで終わらせて,この盤面を夕方にやってくるはずのアキラに見せたかった。だが,これほど楽しそうに遊んでいるヒカルの邪魔をするのは忍びなかった。

「ヒカルさん,あと1分待ってくれ。それと,佐為に尋ねてほしい。いったいどうやって白の86手目を思いついたのか」

行洋は盤面を1分間凝視して棋譜を記憶した。その間にヒカルは佐為と話をしている。

《ヒカルちゃん,それは,黒の124手目の棋譜が分かっていたからです。黒の124手目にそのような棋譜ができるためには,白の86手目はどこに打たなければいけないか,さかのぼって考えたのです》

ヒカルにとって,この佐為の説明はそのまま伝えるには長すぎる。

「サイがね,『黒の124手目のきふが分かっていたから』って言ってる。さかのぼって考えたって」

行洋にはこれだけで十分だった。

〔確かに,黒の124手目にこうなると分かっていればこそ,そこからさかのぼって見つけることはできるかもしれない。分かっていなければ,単純に黒の86手目までの棋譜を示されて,次の白の手を問われたら,佐為といえども先ほどの手は思いつけなかったというわけか〕

「ヒカルさん,ありがとう。その先を続けていいよ」

それからヒカルは最後まで盤面を黒石と白石で埋め尽くし,自分で作った黒と白の模様を満足げに眺めている。それもまた立派な棋譜になっているが,今回は行洋も最後まで打ち手の順を追うことができた。

 

夕方になってやってきたアキラに行洋は黒の124手まで石を並べておいた棋譜を見せた。

「初手から追っていけるかね?」

アキラは追ってみせたが,途中で行き詰まった。

「白の86手目で止まってるのだろう?」

「そうです」

「ここだよ」

と行洋が示す。アキラは〔まさか!〕という顔をしている。その反応に笑みを浮かべて行洋はそれに続く黒の87手目,白の87手目を示す。ここまで示されてアキラも納得した。それから先の展開は読める。

「この棋譜は誰のいつの棋譜ですか?」

と問うアキラに行洋は昼間のできごとを語った。

 

翌日,行洋は退院したその足で日本棋院を訪れ,4タイトル返上を正式に通知した。

メディアには行洋のニュースが溢れた。おかげでしばらくヒカルは霞んだ。そして,行洋の話題が過ぎた後も,ヒカルへの注目は以前ほどには戻らなかった。プロになって丸1年が経過し,世間もヒカルの存在に慣れてきた。慣れてしまったもの,当たり前のものはニュースにならない。

ニュースのネタにならない,それはヒカルにとってはどうでもいいことだった。そして塔矢家の人たちにとってはむしろありがたいことだった。

 

塔矢家の人たち,とりわけアキラにとって,メディアでの父やヒカルの露出度よりはるかに気になることがある。退院の前日にヒカルが並べたという棋譜。その翌日からアキラはヒカルに時おり

「ヒカルちゃん,例の碁石を並べる遊びはしないの?」

と聞くが,ヒカルはそっけなく首を振り,

「対局しよう」

と答える。もちろん,それも悪くはないのだが・・・・。

そんなことが10日ほど続いた後,ヒカルが

「うん,じゃあそうする」

と言って碁盤に石を並べ始めた。見ていると,確かに行洋が説明したとおり,めちゃくちゃとしか思えない並べ方をしているが,途中でヒカルが手を止めて碁盤を眺めているので,それを見ると,その時点ではちゃんとした棋譜になっている。アキラも初手からの手順を復元できる。それからまたヒカルが石をランダムとして思えないやり方で置き始め,そして2度目の小休止。ここまでも,アキラは手順を追えた。3度目の小休止。白の148手目まで。この段階で黒が明らかに優勢になっている。その棋譜を復元しようとして,アキラは黒の113手目で止まってしまった。

「アキラちゃん,黒の113手目を考えてるの?」

「うん,そうだよ。よく分かったね」

「サイがそう言ってるの。サイも考えてるんだって」

そうやってアキラと佐為が考えている最中にヒカルが

「ねえ,続きをやっちゃだめ?」

と問う。

「えっ・・・・いや,あとちょっと待って。ねっ,あとちょっと」

「うん。いいよ」

ヒカルは別に機嫌を損ねたふうもなく気楽に答える。

アキラは考える。行洋の「その場の攻防とは何の関係もないと思える突拍子もない場所への意想外の手」という言葉がよみがえる。

〔あっ,分かった。ここだ!〕

アキラは,盤上の黒石を示し,続いて,別の場所の白石,そして黒石を示す。

「佐為,こうでしょう?」

アキラはヒカルの左にいるはずの佐為に問いかける。

佐為は驚いた。

《そうです。確かに,そのとおりです。アキラさん,わたしより先に見つけましたね》

「アキラちゃん,サイがびっくりしてるよ。サイより先に見つけたって」

アキラは喜びを素直に笑顔で表した。そんなアキラにヒカルが問う。

「じゃあ,続きやっていい?」

「うん,いいよ」

佐為は心の中でつぶやく。

〔アキラさん,あなたはヒカルちゃんの心をわたしよりもよく分かっているのですか? わたしよりもよく分かるようになったのですか? ヒカルちゃんの天才をわたしよりもよく理解できるのですか?〕

心の中にアキラへのかすかな嫉妬が芽生えたことを,佐為は自覚していない。

 

アキラは今日の体験を行洋に語る。

「間違いなく,佐為ではなくてヒカルちゃんが並べてるんです」

「確かにそうなのだが,ヒカルさんも分かって並べているわけではない。それは見ていて分かるだろう」

「そうなんです。どうも,ヒカルちゃんの頭にはいくつかの段階ごとの棋譜が思い浮かんでいて,その棋譜になるよう黒と白を交互にランダムに並べているようです。それが惜しいというか。あれでは実戦に使えません」

「ヒカルさんが何も分からないままに作った棋譜から我々が学んで,我々が実戦に活用する,ということだな」

「そうですね。それにしても,あのように攻防の局面にとらわれず19路の盤面全体を見渡して,対局の流れが全体として一番有利になる場所に自分の石を打ち込むとは,これこそ神の一手かとさえ思います」

こう答えながら,アキラはヒカルとの対局でも,他の相手との対局でも,あんな突拍子もない意想外の手を試す勇気はまだ持ち合わせていなかった。

 

それから1週間ほどして,またヒカルは一見むちゃくちゃな順序で黒石と白石を並べて棋譜を作った。できあがった棋譜はみごとなものだった。それを見てアキラは思わず,

「きちんとした手順で並べられるなら,ヒカルちゃんも自分の碁を打てるようになるかもしれないのに」

とヒカルに語りかける。ヒカルはアキラの言葉の意味を理解できないが,横で聞いている佐為は理解できた。

〔ヒカルちゃんも自分の碁を打ちたいと思っているのだろうか?〕

虎次郎のことが佐為の心をよぎる。

ヒカルが一人になった時,佐為は問いかけた

《ヒカルちゃん,自分の碁を打ちたいと思わないのですか? 自分で碁を打ちたいとは思わないのですか?》

ヒカルは不思議そうな表情で答える。

《だって,わたし,自分で碁を打ってるんだよ。自分で石を置いてるんだよ》

〔あっ,いや,そういう意味ではないのですが・・・・〕

「自分の碁を打つ」という言葉の意味をヒカルに分かるよう説明できないまま,佐為は質問を変える。

《ヒカルちゃん,今のままで満足ですか?》

ヒカルは,けげんそうな顔をする。

《わたし,楽しいよ。黒石と白石を並べるときれいな模様になるんだもん。それを見てるのは楽しいよ。それに,サイは碁を打ってる時が一番きれいだもん。きれいなサイを見てるのも楽しい》

そう答えられると,佐為はそれ以上の質問ができない。

〔ヒカルちゃんは,「碁を打つ」,「自分の碁を打つ」ということの意味が分からないのだろう。そんなヒカルちゃんに甘えて,わたしは自分の打ちたい碁を打っている。ヒカルちゃんはそれを「楽しい」と言ってくれる。それなら,それでよいのか?・・・・〕

自問への自答は出ない。

 

7-3

 

プロ入り2年目。ヒカルは大手合でも本因坊戦と棋聖戦の予選でも勝ち続けている。もはやヒカルの連勝はさほどニュースにならない。「どこまで連勝を伸ばすか」は確かに関心の的ではあったが,勝って当たり前という気持ちがメディア関係者に行き渡っている。もしもヒカルが負けたらビッグニュースだが,勝ってもニュースにはならない。それでも,ヒカルへのイベント出演の依頼は相変わらず多い。アキラと行洋の配慮で参加するタイトル戦を本因坊戦と棋聖戦に絞っているため,ほかの若手棋士に比べスケジュールに余裕があるのも,イベントを開催する側としてはありがたい。そして会場にヒカルが姿を見せれば,以前と同じように歓声が起こる。ただ,7つのタイトル戦すべての予選に参加しているアキラの都合が付けにくくなり,明子が同行することが増えた。こうして,この年も暮れていった。

 

ヒカルとアキラにとってのプロ3年目の年が明けるとすぐに棋聖戦の挑戦手合が始まる。7番勝負。先に4勝した方が勝ち。相手はこの3年間タイトルを守り続けている一柳。彼は日本のタイトルホルダーにしては珍しくネット碁を打っているので,これまで何度かsaiと対局し,すべてsaiが勝っている。佐為=ヒカルは負ける気はしない。ただ,やはりネット碁とタイトル戦の挑戦手合では雰囲気が違うし,相手の意気込みも違う。ピリピリした緊張感。しかし,佐為はそれも好きだった。そんな中で対局する時の佐為はいつも以上にきれいなので,ヒカルもこの緊張感が好き。もちろんヒカル自身はぜんぜん緊張せず,いつものようにニコニコしながら石を置く。

一柳としては,この笑顔がやりにくくて仕方ないが,笑顔にケチを付けるわけにもいかない。結果は,ネット碁の戦績どおり,佐為=ヒカルが4連勝で棋聖位を獲得した。

プロ入り3年目,15歳でタイトル獲得,それも3大タイトルの獲得は史上最年少。しかも女性棋士のタイトル獲得はそれ自体が史上初の快挙。久しぶりにメディアにヒカルの名前が溢れたが,ヒカルはそんな騒ぎをよそに,棋聖位を得た翌週には韓国に飛び,LG杯エグジビション対局に臨んだ。この週は奇跡的にアキラのスケジュールが空いていたので,アキラが同行した。

2回の対局のうち,1回目は去年と同じ高永夏が相手,2回目は洪秀英(ホ・スヨン)というヒカルやアキラよりも年下のプロになりたての棋士だった。LG杯の主催者は,去年の成功を見て,エグジビション対局を若手の登竜門あるいはお披露目の機会にするつもりかもしれない。どちらも順当に佐為=ヒカルが勝ったが,アキラは自分も対局したいと思い,それぞれのエグジビションの後にホテルで自分と対局してほしいと申し出た。通訳係はあきれたが,強くなる機会に貪欲な若い棋士たちはよろこんで応じた。アキラとの対局で,永夏は勝ち,秀英はここでも負けてしまい,激しく悔しがった。アキラを含め,こんな若い棋士たちの熱意を見るのは,佐為にとっても心地よい。ただ,そんな姿を見るにつけ,自分の代理人として碁を打ち続けた虎次郎のことがふと心をよぎり,悲しみの影が差した。

ともあれ,こうして多忙な1月,2月が終わり,3月は平穏に過ぎて,4月になった。

ヒカルはセーラー服を着なくなった。

「だって,中学卒業したんだもん」

というのがヒカルの言い分。確かに,ふつうに中学に通っていたのなら,この3月で卒業のはず。周りは,ヒカルのトレードマークというべきセーラー服を着させようとするが,ヒカルは一度決めたら頑として撤回しない。アキラや明子に手を回す者もいるが,二人とも「ヒカルちゃんの気持ちを尊重します」と言うだけ。

こうしてヒカルのセールスポイントの1つが消えることになり,メディア関係者は気を揉むが,本人や塔矢家の人たちはぜんぜん気にしている様子はない。

 

この年のゴールデンウィーク,ヒカルにはそれまでどおりイベント出演の依頼が舞い込むが,決まって「この時だけセーラー服を着てほしい」という要望が付いている。ヒカルは「いやだ」と拒み続け,アキラや明子もそれを応援する。そのためいくつかの出演依頼は撤回されたが,それでも結果として3カ所回ることになった。行く先々で観衆から「ヒカルちゃん,セーラー服着ないの?」と問われるが,ヒカルは「もう中学は卒業したんだよ」と答える。

 

ゴールデンウィークが終わると,本因坊戦の挑戦手合が始まる。3大タイトルの中でも本因坊は知名度があり,メディアの関心も高い。弱冠15歳の女の子の本因坊が誕生するのか? メディアの注目が集まった。

相手は桑原。ほかのタイトル戦にはあまり参加せず,本因坊位を守ることに力を集中している老人。そして,3年前に日本棋院で出会い,ヒカルがあっけらかんと「こんど,わたしがホンインボーになるんだ」と言ってのけた当の相手。桑原も,もちろんこの日のことは覚えている。

「あの小娘,ほんとうに挑戦手合に出てきおった」

と苦笑いしている。一柳とは対照的にネット碁などには手を出さないし,公式手合でも顔を合わせたことがない,佐為=ヒカルにとって初めて対局する相手であり,初戦は慎重に進めたが,結果は3目半の勝ち。2局目以後も無難に勝ち進み,終わってみれば4連勝で本因坊位を手にした。ヒカルは心からよろこんだ。このためにプロになったようなものだから。

タイトル戦終了後の記者会見でヒカルは素直によろこびを表した。

「あかりちゃんにほめられるのがうれしい」

「あかりちゃんとは,誰のことですか?」

と問われて,

「あかりちゃんはあかりちゃんだよ」

と答える。それを見てアキラが割って入る。

「あかりちゃんはヒカルちゃんのいとこです。塔矢家の養女になる前,一緒に暮らしていた,ヒカルちゃんにとって姉代わりとも言うべき人です。そして,プロになるかどうか考えていた時,背中を押し,励ましてくれた人です」

 

あかりは翌日の新聞に自分の名前が出ているのを見て驚いた。いや,その前にヒカルが本因坊になったことに驚いた。

〔あの日,わたしがヒカルちゃんを励ました日,ヒカルちゃんは確かに「ホンインボーになる」と言った。いつかは実現するかもしれないと思っていたけど,こんなに早く実現するとは。そしてわたしの言ったことを覚えていてくれた・・・・〕

あかりはもちろん,すぐに塔矢家を訪れた。ヒカルが駆け寄ってくる。あかりにまといついて,

「あかりちゃん,ホンインボーになったよ」

とあかりを見上げる。

「うん。ヒカルちゃん,えらい。日本一えらいよ」

 


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