サヴァンの碁 - 塔矢家のヒカル   作:松村順

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8:迷いの中から

8-1

 

「史上最年少の本因坊」,「史上初の女性本因坊」といったメディアの喧噪が一段落した頃,そして,このところ中国や韓国で対局が増え家を空けることが多くなった行洋が久しぶりに帰国して家でのんびりしている頃,そしてアキラも手合やイベントの仕事のない日,塔矢家でささやかな祝勝会が持たれた。といっても参加者は家族の4人だけ。主賓は佐為だから,ほかの人を加えるわけにはいかない。発起人はヒカル。

「サイがホンインボーになったんだよ。碁で一番えらい人になったんだよ。お祝いしようよ」

佐為はこのヒカルの言葉だけで報われた気がする。

《祝勝会なんて,そんな・・・・ヒカルちゃんのおかげです。ヒカルちゃんがわたしの示すとおりに石を置いてくれるから,わたしは碁を打てるんです。アキラとも行洋殿とも対局できるんです。ヒカルちゃんがプロになってくれたから,わたしは本因坊に挑戦できたんです。メディアの好奇心をヒカルちゃんに任せて,わたしはただ碁を打っていられます。ヒカルちゃんがいなければ,わたしは・・・・》

これから先は言葉にならない。

そんな佐為をヒカルはうれしそうに見上げる。

《ヒカルちゃん,その笑顔がわたしにとって最高の報酬ですよ》

ヒカルの明るい笑顔を見て,アキラ,明子,行洋は,自分たちには聞き取れない情感のこもった言葉が二人の間で交わされているのだろうと想像する。そしてアキラが語る。

「本因坊秀策だった佐為に本因坊位を取り戻させるのが,そもそもヒカルちゃんがプロになった理由なんだからね。念願叶ったね。あらためて,おめでとう」

「ただ,佐為=ヒカルさんの真価が定まるのは来年の挑戦者を退けて本因坊位を防衛できた時だろう。万が一にも来年防衛に失敗したら,今年の勝利はまぐれで片付けられるから。もちろん,万が一にもそんなことはないと信じているけどね」

と行洋が言葉を継ぐ。佐為は自信を込めてうなずく。

「サイがうなずいてるよ」

ヒカルの言葉に3人の表情がなごむ。アキラがまた語る。

「来年も,再来年もその次の年も,ずっと本因坊位を防衛し続けるんだよ。佐為にはそれができる。そして,ヒカルちゃんが『秀策の再来』と呼ばれるようになるんだよ」

〔アキラ,ありがとう。でも,わたしはずっとこの地上に留まることは,たぶんできないのです。霊はいつかは成仏すべきものですから〕

佐為はこの思いを言葉にはせず,胸に秘める。

《塔矢のみなさま,ほんとうにありがとうございます。そして,ヒカルちゃん,ほんとうにありがとう》

「サイが,『塔矢のみなさま,ほんとうにありがとうございます』って言ってるよ」

《ヒカルちゃん,その後のわたしの言葉もきちんと伝えてください》

ヒカルは恥じらうように下を向く。ほかの3人は,どうしたんだろう?というような表情でヒカルを見る。

「サイがね,わたしにもお礼を言ってくれたの」

 

ささやかな祝勝会も含めて,塔矢家では何事もなく月日が過ぎる。いや,ヒカルが巻き起こす小さな出来事はいろいろあるのだが,塔矢家の人たちにとっては,それは「何事」の範囲には含まれない。

ヒカルは手合のあいまに,1~2週間に1回くらい,アキラが「棋譜遊び」と名付けた遊びをする。黒石と白石をでたらめに並べながら,ちゃんとした棋譜ができあがる,あの遊び。アキラが見ていると,1局がだいたい3段階か4段階くらいで作られる。それぞれの段階ごとに棋譜らしい石の配置になっているのだが,その途中はまったくランダムとしか思えない石の並べ方をする。これは,行洋の病室での最初の時からずっと変わらない。アキラは各段階をデジカメで撮影して記録する。各段階に分解すれば,石が打たれたはずの順序,実際にヒカルが石を置いた順序ではなく,その段階でその棋譜が作られるためにはこう打たれたはずだと推測される順序を復元できる。常にではないが,たいてい1局に1つ,例の「意想外の手」が含まれている。

アキラがいない時にヒカルが一人で「棋譜遊び」をすることもある。そのような時は,アキラが家に戻っていつも碁を打っている居間に入ると,碁盤にきれいに碁石が並んでいる。ただ,終局まで至った棋譜だけを見て,その初手から復元するのは,とりわけ途中に意想外の手が含まれている場合は,さすがに難しかった。

しかし,1年もしないうちにアキラは,碁盤に残された終局の棋譜だけを見て,初手からのプロセスを復元できるようになった。その途中に含まれる意想外の手も含めて。それはアキラにとって興味深い作業だった。単に,ヒカルが無造作に並べた石の配置から意想外の好手を発見するのがおもしろいだけでなく,ヒカルの中に秘められたヒカル自身が気づいていない才能をアキラが探り当てるような興味もあった。

そんなアキラを見て佐為は〔アキラ,恐るべし〕と感嘆する。この感嘆に嫉妬がまじっていることを,佐為はまだ気づかない。

 

こうして,棋聖と本因坊の2冠となったヒカルのプロ入り3年目は暮れ,プロ入り4年目の年が明けた。アキラは7段に昇段している。ヒカルにとってはタイトルホルダーとして棋聖位と本因坊位を守る最初の年。2月に難なく棋聖位を防衛し,3回目となるLG杯エグジビジョン対局に出かけた。

韓国から帰国する頃,「小さな公園」の梅がほころび始める。しょっちゅう訪れている場所ではあるが,この時季はとりわけ佐為にとって感慨深い。ヒカルとの出会いの時を思い起こし,それから今までの出来事,自分がヒカルのために為したことを振り返る。アキラが紅梅の花を折ってヒカルの髪に挿す時,佐為はふと思いついて,アキラの手に自分の手を重ねた。アキラは何も気づかないが,ヒカルには二人の手が重なっているのが見える。まるで二人が手を重ね合わせてヒカルの髪に花を挿しているように見える。ヒカルは交互に佐為とアキラに笑顔を向ける。佐為は,この時,自分が実体を持たない存在,散る花びらが体を通り抜ける存在であることを忘れた。

 

5月,和谷がよろこび勇んで塔矢家にやって来た。和谷にとってはプロ入り3年目だが,若獅子戦で優勝したことを報告に来たのだった。アキラもヒカルも心から祝福してくれた。二人はその時すでに高段者ないしタイトルホルダーだから若獅子戦への出場資格がない,レベルが高すぎて若獅子戦には出場できない。それは和谷にとって悔しいことではあるが,それでも自分もまた一歩一歩進んでいると思うようにした。

それにしても・・・・

6月,ヒカルは本因坊位を防衛。そして,同じ6月,アキラは16歳で碁聖位を奪取してのけた。アキラにとって初タイトル。もともと才能に恵まれ,佐為=ヒカルに出会った時点で初段程度かそれ以上の実力を持っていた少年が,それから4年間,ほぼ毎日佐為=ヒカルと対局して鍛えられたのだから,当然のことかもしれないが,和谷にとっては,追えば追うほど二人がさらに先に進むことを見せつけられるようで,落胆しかけた。それでも,〔こんなこと,初めから分かっているじゃないか〕と自分を励まし,慰めた。

佐為もまた,アキラの成長に感嘆する。まだ,対局で負けはしない。しかし力の差は着実に縮まっている。碁会所で初めて出会った時は中盤過ぎた頃に投了させた。翌日の対局では15目半の大差を付けて勝った。今では,3目半,2目半,時には1目半というきわどい勝利がほとんど。いずれ負けることも覚悟しておかないといけない。アキラの成長,それは佐為の願いであった。佐為は願いが叶ってよろこぶ。佐為は,アキラが強くなり自分に迫っていることにはぜんぜん嫉妬など感じない。むしろ,アキラの成長を喜んでいる。ただ,この感嘆とよろこびには悔いも伴っている。アキラの成長を見るにつけ,虎次郎のことが思い出されるから。

〔わたしは,幼かった虎次郎に宿り,虎次郎にわたしの碁を打たせてきた。でも,アキラの成長を見てきた今にして思えば,虎次郎にわたしの碁を打たせるのではなく,虎次郎自身の碁を打たせるよう虎次郎を導いていれば,虎次郎も自分の力で本因坊家の世嗣に迎えられることができたはず。さらには,わたしを越えることもできたはず・・・・〕

《ヒカルちゃん,アキラに頼んでほしいことがあります》

《なあに?》

《巣鴨に本妙寺というお寺があります。そこに本因坊家の墓があるのですが,虎次郎の墓参りをしたいので,本妙寺に連れて行ってほしいと,お願いしてください》

《うん,いいよ》

ヒカルはアキラに話しかける。

「アキラちゃん,サイが巣鴨のホンミョウジというお寺に連れて行ってほしいんだって」

「ホンミョウジ?」

「うん,そこにホンインボーのお墓があるから,虎次郎の墓参りをしたいんだって」

「ふーん」

アキラは,今この時に佐為がなぜ虎次郎の墓参りを思いついたのか不思議に思ったが,問いただしはしない。地図で見ると,本妙寺は塔矢の家から霊園を通り抜けた先にある。歩いて20分くらい,ヒカルをつれてのんびり歩いても30分くらいの場所。

梅雨の晴れ間の,アキラも手合のない日,アキラはヒカル(と佐為)をつれて散歩がてら出かけた。

 

佐為は墓を前で頭を垂れ虎次郎に語りかけるように祈っている。かすかに涙がにじんでいる。

〔虎次郎,ほんとうは,今すぐあなたのもとに行って詫びをのべるべきかもしれません。だけど,今少し時をください。もうしばらく神の一手を探求するための時を。そして,ヒカルをもっと幸せにするための時間を〕

こんな祈りを捧げながら,

〔神の一手はしょせん人間には到達できないものであるのなら,その探求のためにこの世に留まりたいというのは,永遠にこの世に留まりたいというワガママではないのか? しかし,霊は成仏できないままこの世に留まっているといつかは悪霊,怨霊に化けるとも言うではないか・・・・〕

とも思い,悩みに沈む。そんな佐為の様子を見てヒカルが問いかける。

《サイ,悲しいの?》

《えっ?・・・・ええ,そうですね。若くして死んだ虎次郎のことを思うと,悲しくなります》

〔わたしのほんとうの悲しみ,悩みを悟られないようにしよう。わたしは虎次郎への過ち償うためにヒカルを幸せにするのだから。4年前,新潟の海で,ヒカルのために幸福の霊を演じると誓ったではないか〕

 

8-2

 

年が明けて,ヒカルが棋聖位を守り,LG杯も終わり,佐為とアキラが紅梅の花をヒカルの髪に挿してあげた頃,アキラにとって待ちに待ったことが起きた。ついに佐為に勝った。出会って5年目。

この対局の中盤,形勢は互角。じっと盤面を見つめているアキラに思いがけないアイデアが浮かんだ。今この時点で攻防の焦点となっている場所からかけ離れた1点,〔ここにボクが白を打ち込めば・・・・〕これまで,ヒカルの「棋譜遊び」の手順を復元する中で何度も出くわした意想外の一手,それを今まさに,この対局のこの場面で自分が打てるかもしれない。アキラは慎重にその後の展開を読んだ。読み切った。〔うん,いける!〕

こうしてアキラが打ってきた石を見て,佐為は驚いた。そして打たれた瞬間にヒカルの「棋譜遊び」を連想した。佐為も先を読む。確かに,この対局の帰趨を決するような好手に違いない。〔だが,アキラはヨセで間違うこともある。ここで早まって投了することはない〕そう思って佐為は対局を続ける。しかし,アキラはヨセを間違わなかった。記念すべきアキラの1勝。

対局の後,佐為はあらためてアキラが放った意想外の手を検討する。〔みごとだ〕と思いながら心の片隅でアキラへの嫉妬をこの時はっきりと自覚した〔アキラはわたしより先にヒカルの秘められた天才を活用した。ヒカルのことはわたしが一番よく分かっていると信じていたのに〕。佐為にとって,対局に負けたことではなく,ヒカルの隠れた天才を理解し活用する点でアキラに後れを取ったことが悔しい。悔しさが嫉妬をかき立てる。その時,

《サイ,どうしたの? アキラちゃんに負けてくやしいの?》

と呼びかけられた。佐為の様子が変なのに気づいたヒカルの声。

《いえ・・・・あっ,そうかもしれません・・・・でも,悔しがらなくてもいいんです。アキラはほんとうに強くなりました。これほど強くなったアキラに負けたからといって,悔しがらなくてもいいんです。そもそも,わたしもアキラが強くなることを願い,そのためにも毎日のように対局したのだから。アキラがわたしを負かしたのは,わたしの願いが叶ったということです。それなのにこんな顔をして,わたし,ちょっと変ですね・・・・》

佐為は自らを恥じた。〔どういうつもりなのだ。わたしはヒカルを幸せにすると誓ったではないか。つい先日,あの小さな公園で,去年は虎次郎の墓前で・・・・そしてあの新潟の海で,ヒカルのために幸福の霊を演じると誓ったではないか。ヒカルの幸せはわたしよりもはるかに多く,塔矢家の人たちのおかげ,とりわけアキラのおかげなのだ。よりによって,そんなアキラに嫉妬するとは・・・・〕

佐為は,自分の心の闇を自覚した。辛かった。佐為自身としては,ヒカルと出会ってからずっと,ヒカルの幸せを念じてきたつもりだった。それなのに,ヒカルにとってかけがえのないアキラに嫉妬の炎を燃やすとは。

〔・・・・わたしはもう立ち去るべきなのか? わたしは,アキラにそしてヒカルに害を為してしまう前に立ち去るべきなのか? 成仏できないままの霊はいつか悪霊,怨霊に化けるというのはほんとうなのか?・・・・だけど,まだヒカルのもとにいたい・・・・これもまた醜い煩悩なのか,妄執なのか・・・・〕

 

次の対局では,佐為が順当に勝った。それから1~2ヶ月,アキラの勝率は1勝4~5敗くらいで安定したが,それから徐々に上がり始めた。佐為はアキラの実力が自分に接近しているのを実感する。いずれ追い越されるかも。〔その時こそ,わたしが立ち去る時なのだ。アキラがわたしを追い越したら,後事をアキラに託して,わたしは立ち去るべきなのだ・・・・そもそもアキラが折りにつけて語るように,「神の一手は人間が極められるものではない。人間が極められないからこそ神の一手」なのだろう。今,この言葉が以前よりはるかに深く心に刺さる。わたしはそれにこだわるあまり,虎次郎の碁を殺してしまった。人の手に届かぬものをあくまで追い求めるのはむしろ煩悩,我執,悪しき執念なのか。命に限りある人の身にあっては,自分の手で神の一手を極めるなどという不可能な夢を無限に追い求めたりせず,新しい世代に探求の道を譲るべきなのだろう。そして譲るとしたら,それは行洋殿よりも,年若いアキラ・・・・であれば,わたしが心安らかに後事を託せるよう,アキラにはもっともっと強くなってもらわねば〕

しかし,佐為にはもう1つの煩悩があった。ヒカルの幸せ。自分が消えてもヒカルは幸せでいられるのか? 碁を打てなくなっても,ヒカルは塔矢家で今と同じように大切にされるのか?

 

ヒカルはこの年も当たり前のように本因坊位を守り,夏休み期間には子供向けイベントにいくつか出演した。やがて季節は移り,秋も深まる頃,一家4人そろった夕食の場,佐為は意を決してヒカルに語りかける。

《ヒカルちゃん,ぜひ塔矢のみなさまに尋ねてほしいことがあります。もし万が一,ヒカルちゃんが碁を打てなくなっても,これまでどおりヒカルちゃんを大切に慈しんでくれますか? こう,尋ねてほしいんです》

《もし,まんがいち?・・・・》

ヒカルには長すぎる文章かもしれない。

《では,少しずつ区切りましょう。いいですか,ヒカルちゃん,わたしのまねをしてください》

《うん,分かった》

ヒカルは声を出して語り始める。

「サイがみんなに聞きたいことがあるって」

3人の視線がヒカルに集中する。

「もし,まんがいち・・・・ヒカルが碁を打てなくなっても・・・・これまでどおり・・・・ヒカルを大切に・・・・いつくしんでくれますか?」

3人はなおヒカルに視線を集中し,それから互いに顔を見合わせる。なぜ,佐為は突然,こんなことを自分たちに尋ねるのか?

沈黙を破ったのはアキラ。

「もちろんだよ。そんなこと,当たり前じゃない。ヒカルは大切な,この世でたった一人のボクの妹なんだよ。何があっても,いつくしむよ」

こう語りながら,アキラの心に新潟の海の思い出がよみがえった。

「プロ試験の年,予備試験が終わって,本試験が始まる前,お父さんが仕事で新潟に行くのについて行って,海水浴をした。その時,浮き輪をつけて無邪気に楽しそうにしているヒカルちゃんの手をしっかり握って,ヒカルちゃんの明るい笑顔を見ながら,ボクは思ったんだよ『仮に,ほんとうに仮に,佐為が,突然現れたのと同じように突然消えて,ヒカルちゃんが碁を打てなくなっても,それでも,ボクはこの子をいつくしむ。この子はボクの大切な妹なんだ。この世でただ一人の,いとしい妹』そう思ったんだ。今もこの思いは変わらない。今はもっと強くそう思っている。だって,もう5年以上も一緒に暮らしているんだよ」

アキラの語りを聴きながら,佐為も思い出した。あの新潟の海に浮かんで,自分は塔矢の人びとへの感謝を述べ,ヒカルのために幸福の霊になると誓ったのだった。佐為はアキラを熱い眼差しで見つめる。ただ見つめる。ほかに何もできない,どんな言葉も思いつかない。

続いて,明子が語る。

「わたしはアキラさんほど熱い思いではないけれど・・・・ここに来るようになった2日目かしらね,ヒカルちゃんがいるだけで我が家の雰囲気が和むからありがたいと思ったわ。できればずっといてくれればいいのにって。今も,そうよ」

そして,行洋も思いの丈を述べる。

「どうも,自分の気持ちを素直に語るのは,わたしのような古風な男には苦手なんだが・・・・何と言っても・・・・3年前の4月,わたしが心臓発作で病院に運ばれたその夜から,ただ,わたしのそばにいてくれた。一途にわたしのことを思って,この世の一切の邪悪なものからわたしを守るように,ただただそばに座っていてくれた。あの時のヒカルさん。わたしにとってかけがえのない存在だと思ったよ。・・・・確かに,ヒカルさんがうちに来るようになったきっかけは碁だ。碁会所でアキラと対局したのがきっかけだ。それがなければ,わたしたちはヒカルさんと出会えなかった。その点で,佐為には心から感謝している。ただ,今となっては,何らかの事情で仮にヒカルさんが碁を打てなくなったとしても,わたしの,わたしたちの彼女への愛情が薄れるとか消えるとか,そんなことは絶対ない。それこそ神に誓っても言えるよ」

ヒカルは3人それぞれの言葉を聞いている。ちゃんとは理解できていないにしても,みんなが自分のことを思い,いつくしんでいることは分かる。自然に笑顔になる。笑顔を佐為に向ける。佐為はその笑顔に癒やされた。塔矢の人たちの言葉に励まされ,ヒカルの笑顔に癒やされた。そして,梅の花の咲く公園で出会った時のような優しい笑顔をヒカルに向ける。

〔そうです。わたしは,ヒカルを塔矢の人たちに出会わせるという一番大切な仕事を果たしたのです。ヒカルを幸せにするために欠かせない絶対必要な任務を果たしたのです。それは誇っていい・・・・〕

 

8-3 アキラ視点

 

佐為が突然なぜあんなことを聞いたのか,ボクには分からない。佐為は自分が消えることを予感しているのだろうか。ヒカルちゃんの前に突然現れたように,突然消えるのだろうか? ひょっとしたらそうかもしれないとも思う。あの日以来,ボクへの指導が厳しくなった。まるで,自分に残された時間が少ないと自覚しているみたいに。ボクが好手と思う手,客観的に見ても好手であるはずの手についても,

「これは99点の打ち方です。こっちの方が100点です」

というようなコメントをヒカルちゃんを通して語る。確かに,指摘されればその通りだし,ボクだって99点で満足せず100点を目指すことに異存はないけど,佐為の熱意は度を超えているようにも感じる・・・・もちろん,そのおかげで,佐為に対する勝率が上がっている。この分だと,年が明ける頃には互角になるかも。佐為は,ボクが佐為を乗り越えることを望んでいるのだろうか・・・・。

 

12月,ボクとヒカルちゃんの18歳の誕生日。ほんとうはヒカルちゃんが5日遅いのだけど,ヒカルちゃんがうちの養女になった年,「わたしもアキラちゃんと一緒がいい」と言い張って,それ以来まとめて祝うのが我が家の習慣になっている。ついでにクリスマスパーティーも済ませてしまう。忙しい父にあわせていつの間にかできあがった習慣だけど,4冠を返上した父よりもボクやヒカルちゃんが忙しくなった現状にもマッチしている。

あかりちゃんはなるべく都合を付けて参加してくれる。素直にうれしい。ヒカルちゃんにとってかけがえのない人だから。昔のように月1~2回という頻度ではないけど,2~3ヶ月に1回くらいは遊びに来てくれる。ヒカルちゃんが本因坊になった時は翌日に駆けつけてくれた。彼女が来ると,ヒカルちゃんは彼女にまといつくけど,彼女はぜんぜんいやな顔を見せない。姉と妹のように暮らしていた昔のままの関係が一瞬のうちに復活するみたい。ボクには果たせない何かを,彼女はヒカルちゃんのために果たしてくれる。これからも,そうであってほしい。

出会った時は中学に入学する直前だったけど,今もう高校3年生。来年は大学生になるんだな。すっかり大人びて,ほんとうはあかり「ちゃん」と呼ぶのは失礼なんだけど,でも,ヒカルちゃんがそう呼ぶからボクも一緒にそう呼んでしまうし,あかりちゃんもその方がいいようだ。いつか,無理して「あかりさん」と呼びかけたら,「やめてよ。なんだか,おかしい」と言われてしまった。時々やって来る親戚のお嬢さんみたい,かな?・・・・

 

年が明けると,佐為=ヒカルちゃんは棋聖位を難なく防衛し,2月には5度目になるLG杯エグジビション対局のため韓国に出かけた。今年は,ボクの都合が付かないので母がついて行く。ボクは,ちょうどその頃,和谷くんと本因坊リーグ戦で対局した。和谷くんは

「やっと,リーグ入りできた」

とよろこんでいた。確かに,リーグ入りするだけでも勲章なんだ。ただ,強者ぞろいのリーグで負けが込んでいるらしい。ボクも遠慮はしない。中押し勝ちで退けた。ボクは,これまで以上に本因坊リーグに気合いを入れている。挑戦者になり,佐為に挑戦したい。そして,本因坊位を奪いたい。ふだんの対局での力を発揮できるなら決して不可能ではないはずだ。年が明けてから,ボクは佐為とほぼ互角の勝負を続けているから。

最近は佐為もボクとの対局ではあの意想外の手をたまに打つようになった。もちろん,ボクもそれにふさわしい場面だと確信すれば,打ち返す。だけど,不思議とどちらも,ほかの人を相手にする対局ではこの手を打たない。佐為はどういうつもりなのか分からないけど,ボクは,ほかの人との対局ではなぜかこの手を思いつかない,この手を思いつく場面に出会わない。佐為と打ち合う時だけ,思いつく。

そして,ボクは挑戦者になった。棋界やメディアは「兄妹対決」で盛り上がっている。

「血のつながりはないとはいえ,妹さんにタイトルを挑む気持ちはいかがですか?」

などと質問されることもあるけど,ボクとしてはもう何年も毎日のように対局を続けてきた相手。今さらどうということはない。そう答えると,記者はちょっと不満そうな顔をする。気持ちは分かるけど,ボクも記者を満足させるためにウソをつく気はないんだ。実際,ボクが挑戦者と決まってからも,それまでと少しも変わらず,ボクは佐為と対局している。

 

そして始まった本因坊挑戦手合第1局。始まって気づいたことがある。タイトル戦の挑戦手合はたいてい地方対局になる。これまでボクか母がヒカルちゃんに付き添っていた。ボクが挑戦者なら,ある意味,手間が省けるわけだ。どうせボクも同じ場所に移動しないといけないのだから。しかも,対局者控え室も1つだけで澄む。ヒカルちゃんが「アキラちゃんと一緒でなきゃいやだ」と言い張るから。棋院にとっても経費削減になるのかな。

1局目,ボクは白。その108手目,例の手を打った。後から聞いた話では,観戦者はその瞬間「狐につままれた」ような気持ちになり,その後の展開でその手の意味が分かるにつれ,賞賛が巻き起こったらしい。対局後のインタビューでも聞かれた。ボクとしては「佐為が相手なら,ありふれた手です」とは答えられないから,「インスピレーションです」と答えた。そして「次の対局では,ヒカルちゃんが同じような手を打ってくるかもしれません」と付け加えた。

そのとおり,2局目の中盤で佐為=ヒカルちゃんが打ってきた。観戦者はどよめいたけど,ボクは今さら動じない。いつもの対局の時と同じように対応して,2局目も勝った。

ただ,このまますんなり勝ち続けられるような相手ではない。3局目,4局目は連敗し,2勝2敗となった。この頃,ボクにとって誤算というほどではないけど,予想しなかったことが生じた。対局の後にとても疲れる。ふだんの対局ではあり得ないこと。やはり,1局2日がかりのタイトル戦の手合はふだんの対局とは精神的な疲れ方が違うのかもしれない。対局が終わって,15分,20分くらい休ませてもらうようになった。

5局目はボクが勝ち,6局目は佐為=ヒカルちゃんが勝ち,7局目までもつれ込んだ。これまで,桑原先生をヒカルちゃんが倒した年から,連続してヒカルちゃんの4連勝でけりが付いていたから,これもまた話題の種になった。7局目はいやおうなしに盛り上がる。さすがに,ボクも多少のプレッシャーを感じた。

 

7局目は神戸近郊,有馬温泉のホテルで行なわれる。確かに,1つのタイトル戦で7回あるいは5回も地方に出かけないといけないのは,負担だ。父が5冠を返上した理由の1つに挙げていたけど,その気持ちも分かる・・・・まあ,今さらこんなことを言っても仕方ないんだけど。

7局目だからといって,特別なことはないはず。いつものように打つだけ。そうではあるけど,やはりピリピリする緊張感がいつもと違う。佐為は同じようなことを感じているのだろうか。ヒカルちゃんは,そんなことぜんぜん感じていないように見える。対局は最後までもつれたけど,ボクの160手を過ぎるあたりで,勝ちを確信した。佐為も分かっているはずではないかと思うけど,まだ投了しない。かすかな不安がよぎる。まさか,ボクが見落としている手筋はないはずだけど・・・・結局,最後まで打ち切りボクが1目半差で勝ちを収めた。

ボクは疲れ果てて,記者会見を延期し休憩させてもらう。控え室でぐったりしているボクにヒカルちゃんが

「アキラちゃん,だいじょうぶ?」

と声をかけてくれる。新チャンピオンに気を配る元チャンピオンではなく,単純に兄を気遣う妹のよう。

「うん,大丈夫だよ。心配しないでいいよ。ちょっと疲れてるだけ。佐為と真剣勝負したんだ。疲れるのは当たり前だよ」

それでも心配そうな顔でヒカルちゃんがボクを見つめているから,ボクは抱き寄せて頬ずりした。

「心配しないで,ヒカルちゃん。おにいさんはそんなヤワな人間じゃないから」

そんなボクに,佐為がヒカルちゃんを通して「お疲れ様でした。ついにわたしを乗り越えましたね」と言葉を掛けてくれた。

ボクは,うれしかった。そして気がついた。この本因坊戦でこれほど疲れた理由。ボクは,実力の100%どころか,120%,150%の力を出していたんだ。ふだん以上の力を発揮していたんだ。それができたのは,相手が佐為だから。佐為がボクに実力を越える力を発揮させてくれた。佐為への感謝の気持ちがわき上がる。それで,ボクは素直に佐為に尋ねた。

「今日の対局,ボクは160手を過ぎたあたりで勝ちを確信したんだけど,読みではボクより優れているはずの佐為が投了しないで続けるから,『自分が読み違えてないか』と不安になったんだ。あの時点で,佐為は逆転の策が見えていたの?」

佐為は,詳しく説明してくれているのかもしれない。ただ,ヒカルちゃんが伝えたのは「不安を乗り越えさせるために続けたんです」という簡単な言葉。でも,それで十分だ。ボクに不安を与え,それを乗り越えさせるために,負けが分かっている対局を続けてくれたんだ。

「佐為,ありがとう。ほんとうに,佐為には感謝しかないよ」

 

30分ほどしてボクは記者会見に臨んだ。

「ついに本因坊奪取。まず一言」

「疲れました」

会場がどっと沸く。

「今はただ,休みたいだけです。疲れが取れたら,感激が湧いてくると思います」

今のボクの正直な気持ち。ほんとうは,佐為への感謝の気持ちを述べたい。でもそれはできないことなんだ。それから,いろいろな質問が出されたが,それなりに対応できたはず。ボクへの質問が終わって,ヒカルちゃんにマイクが向けられた。

「最後に,タイトルを兄に譲られる塔矢ヒカルさん,一言お願いします」

ヒカルちゃんは

「こんどはアキラちゃんが一番えらい人になるんだよ」

と答えた。

翌日からしばらく,「入神の碁」,「神業の連発」,「神々しいほどの対局」など「神」の字を冠する対局解説があちこちのメディアに現われたけど,それら諸々(もろもろ)の讃辞よりボクは対局直後のヒカルちゃんの言葉が一番うれしい。

 


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