一話 ターニングポイント
人生にターニングポイントがあるというのなら、私にとってのそれはこの日だったに違いない。
その日、いい子ちゃんの私は器となり、その内側を狂気で満たした。
これは、原点の話でも頂点の話でもない。
戦闘に明け狂った彼女の物語である。
*
『草むらに入ってはいけないよ』
私の生まれ育った町、マサラタウンにはそんな約束事があった。
それは、言わば未成年の飲酒や喫煙を禁止するものと同じことで、子供を危険から遠ざけるための規則だった。
いい子ちゃんの私はそれを守っていたし、破ることを忌避していた。
だけど悲しきかな。
私の弟分達はそうではなかった。
ある曇り空の日の事だった。
ナナミの弟が、その幼馴染とこそこそしているところを見つけた。
何か企んでいるに違いない。
そう思った私は彼らの後をこっそりとつけた。
「よ、よし。レッド、お前から行けよ」
「はぁ!? なんでだよ、グリーンこそ先に行けよ」
「バカ、大声を出すな。そもそもお前が言い出したんだろ、草むらに入り込んでみようって」
「お前もノリノリだったじゃねーか!」
近くの木陰から様子を窺っていると、そんなやり取りが聞こえてきた。
馬鹿だ。本気でそう思った。
(なんでわざわざ命の危険を冒しているんだか)
男子という生き物は本当に理解できない。
何故そこまで勇敢であることに憧れを抱くのか。
何が彼らを駆り立てるのか。
私には分からないことだった。
(はぁ、とりあえず草むらに入るようなら呼び止めましょうかね。入らないようなら見なかったことにしてあげましょう)
隣の芝生は青いとはよく言ったもので、手の届かないものほど手を伸ばしたくなる。
それは分かるが、そこで踏みとどまる理性は自ら育まなければならない。
できれば可愛い弟分たちには、自分から引き返してほしかった。
けれど、そんな願いはあっさりと挫かれた。
「あーもう! 分かったよ! 行きゃいいんだろ、行きゃ!」
そう言ってレッド君が草むらに向けて足を向けた。
(あのバカ!)
私は木陰から身を乗り出し、駆け寄った。
「コラ! あんたたち何してんの!」
「メ、メア姉ちゃん!」
「うげ、メア姉!」
私、レッド君、グリーン君がそれぞれ声を上げる。
何をどう間違えればこんなやんちゃに育つのか、甚だ疑問である。
薄ら笑いを貼り付けて説教を始める。
「草むらに入っちゃいけないって聞かなかったの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「お、俺は止めたんです! それなのにレッドがどうしてもっていうから」
「な、グリーンてめぇ!」
レッド君とグリーン君が取っ組み合いを始める。
責任の押し付け合いだ、醜いったらありゃしない。
先の会話は聞いているから両成敗ということで。
そう思って説教を始めようとした時だった。
私から見てレッド君の延長線。
そこにある茂みがガサガサと揺らめいた。
知覚が引き延ばされていく。
思考が加速され、世界がスローモーになる。
「キシャーッ!」
草むらから薄紫色の獣が飛び出す。
角ばった耳に伸び切った前歯、先端の丸まったしっぽ。
その獣の名前はコラッタといった。
「レッド君!」
彼を押しのけて、間に自分の身をねじ込んだ。
自分の身を庇う様に右手で顔を隠した。
次の瞬間だった。
右手が鮮血を描き、火傷と錯覚するほどの熱を帯びた。
「メア姉ちゃん!」
レッド君の声が聞こえた。
聞こえはしたが、脳はそれを不要な情報だと切り捨てた。
まるで自分とコラッタだけが世界から切り離された、そんな錯覚を覚える。
私の腕に浅くない傷をつけたコラッタ。
そいつが地に足を付けようとした瞬間に回し蹴りを放つ。
着地狩りはクリーンヒットし、コラッタは二転三転と地面を転がり吹き飛んだ。
(なにこれ、体が、あつい)
私は私の体に起きた異変を観測していた。
右腕だけじゃない。
全身の血が沸騰するかのように、飽和せんばかりの熱量が私の中で蠢いていた。
不思議なことに右腕に痛みは一切なく、それどころか私は――。
歪な三日月のごとき笑みを浮かべていた。
(暑い熱いアツイッ! だけど、だけどだけど!)
相対するコラッタに向けて歩を進める。
足元の草むらを踏みにじり、突き進む。
ああ、今なら分かる。
何故この子たちが草むらに忍び込もうとしたのか。
(今、私は生きているッ!)
これまでの人生観を覆すような。
今までの倫理観を上塗りするような。
築き上げた世界を再構築するような。
そんなターニングポイントがあるならば、私にとってそれは間違いなく今日だった。
その日私は、狂気に魅入られた。
「あは」
誰にも聞こえない、後ろの弟たちにも聞こえないほど小さな声で、私は産声を上げた。
目の前のコラッタに、恍惚の笑顔を向ける。
もっと私に生を実感させてくれ!
しかし悲しきかな。
コラッタは、肉食動物に見つかった草食動物のように、生態系の頂点と出会ってしまった哀れな小動物のように。
無我夢中と言った様子で私から逃げ出していった。
「……つまらない」
一気に熱が冷めて行った。
思考がクリアになり、世界に色が付き始めた。
途中からは、右腕がジンジンと痛みを訴え始めた。
「ツッ~~!」
「メア姉ちゃん!」
「メア姉!」
レッド君とグリーン君が私を呼ぶ。
右腕から流れ出る血は、私の足元を赤く汚した。
草むらから出て弟分たちのもとへ赴く。
「メア姉ちゃん! 俺、俺! こんなことになるなんて思ってなくて!」
「よしよし、分かってるよ。でも、もう二度とこんなことしちゃダメだぞ?」
「メア姉! 腕が!」
「あはは、かわいい弟分が無事だったんだ。どうってことないよ」
右腕は肘の辺りから手首の付け根までパックリと開き、赤を吹き零している。
私はカバンから赤い糸を取り出すと付け根の辺りに固結びをして止血をした。
「さ、帰ろっか。みんなにごめんなさいしないと」
「メア姉ちゃん……、ごめん、ごめん!」
いつまでも泣き続けるレッド君の頭をポンポンと叩き、こちらを向かせる。
「ほら、泣き止んでよ。お姉ちゃん、レッド君の笑顔が見たいな」
「う、うわあぁぁぁぁん」
何故泣く!?
本当に、男子というものは良く分からない生き物だ。
だけど、今回一つ分かった。
どうして禁忌を犯そうとするのか……。
私の頬に、赤みが走った。
その熱は、どこから来たものだったのか。
今の私には答えることができなかった。
*
あの後、私たちは真っ先にオーキド博士の研究所に向かった。
マサラで唯一、医療器具のある場所だからだ。
消毒をし、包帯を巻きつける。
幸運だったのは研究用のラッキーがいたことだろう。
ラッキーに癒しの波動を使ってもらうと、傷口は見る見るうちに閉じていった。
しかし失った分の血は取り戻されなかったというか。
私は貧血を訴え、研究所の宿泊施設で休む事にした。
眠る前に増血剤を飲むことも忘れない。
思考が鈍る。
血が足りていないから当然だ。
疲れているのに、目がさえて眠れない。
臨死体験をした直後なのだ、当然だ。
息が苦しい。
喉を掻きむしって、叫びだしたくなる。
衝動が体を突き抜ける。
右腕が熱を帯びる。
あの時の感覚が忘れられない。
叩き込まれた快楽が、脳から剥がれない。
「う……あぁ、ぐっ」
呻き声をあげる。
自分が自分じゃなくなるようで。
あの時の記憶が、脳内で鮮明にリピートされる。
決まって思うことは、ただただ楽しかったということだった。
(ああ、私はまだ生まれてすらいなかった。私はあの時、死と向き合ったとき、はじめて生を受けたんだ。もっと、もっとッ、私を潤してッ!)
人生にターニングポイントがあるというのなら、私にとってのそれはこの日だったに違いない。
その日、いい子ちゃんの私は器となり、その内側を狂気で満たした。
これは、原点の話でも頂点の話でもない。
戦闘に明け狂った彼女の物語である。
主人公の名前はメアリーです。