戦闘狂は正義を振り翳す   作:HDアロー

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九話 大罪人メアリー

「私の中に、あんたの血が流れているの……?」

 

 認めたくない。

 受け入れたくない。

 だから、否定してくれ。

 

 そんな思いを、サカキは踏みにじる。

 

「同じ血か、そうだな。遺伝子的にはお前の父親と、私は同じだ。その点で考えるのならば、お前の中には私の血が流れている」

 

「ウソだ……、嘘だウソだ!」

 

 だったらなんだ。

 私は、自分の手で親を殺したというのか?

 比喩でも何でもなく。

 本当の意味で?

 

「だったらなんで、最初からそう名乗り出なかったのさ! 最初に父親だと言えば、あの時の私はコロっと堕ちただろうに! なんでそんな遠回りなことしたのさ!」

 

「知ったことか。言った通り、私とお前の父親は構造が同じなだけの別人だ。思考回路までは読み取れん」

 

 だがしかし、と。

 サカキが続ける。

 

「差し詰め、名乗る資格がないとでも思っていたのだろう」

 

「なん……で」

 

「考えてもみろ。幼い子供を置いて旅に出て、ジムリーダーになったとはいえ、身に付けた力を行き場の無いマフィアの統率に使う。世間からは悪だと謗られ、どうして父親だと名乗れるのだ」

 

「それは……、いや、待って」

 

 聞き捨てならないことを言った。

 聞き逃せない。

 聞き零さない。

 

「行き場の無いマフィアの統率。世間から悪と謗られるって……」

 

「なんだ、気づいていなかったのか。お前の世界の私は、カントーを守るために尽力していたよ。生み出されたミュウツーを隔離し、多くの団員をアジトやポケモンタワーに配置することで街への被害を減らし、暴れたフリーザーが双子島を壊す前に捕獲に乗り出した。お前たちはずっと守られていたんだよ」

 

 まったく、バカな男だと。

 本当に私なのかと疑いたくなるものだと。

 目の前のサカキが嘲る。

 

「嘘……だよ」

 

「事実だ」

 

 そんなはずない。

 だったら、私が悪だとみなしたあいつは。

 

「誰からも受け入れられない……、正義だったの……?」

 

 かつてサカキは言った。

 

『これから先、力及ばず敗れる度にそういうつもりか。ベストを尽くさなかった自分に言い訳をして、他人のせいにして、そうやって生きて行くつもりか?』

 

『「仕方がなかった」か? そういって今を妥協するつもりかッ』

 

 私はコレを、サカキの過去だと推測した。

 サカキは既に失敗したんだと、勝手に思い込んでいた。

 だがもし、だがもしも。

 あのとき、サカキがまだ、自らの正義を貫き続けていたのだとしたら……。

 

「私は、大罪を犯した……ッ」

 

 まるで目の前が真っ白になったような。

 そんな錯覚を覚えた。

 

「どうした、まだ終わっていないぞ!」

 

「メア姉!」

 

「……え?」

 

 欠如した思考の回路。

 プツリと途切れ、ショートした脳が。

 手遅れになってから認識する。

 

「ルリルリ!?」

 

 そのきれいな青い体を、真っ赤に染めたルリルリが私の足元に転がった。

 一目でわかる、瀕死状態だ。

 ひとまずボールに戻して状況を把握する。

 ……何が起きた?

 

 全て予想通りだった。

 サカキが地面タイプのエキスパートと知って以来、ありとあらゆる地面タイプを研究した。

 覚える技、特性、変則的なコンボ。

 ありとあらゆる可能性を考慮して。

 数えきれないほどのエアバトルをこなして。

 サカキという人物像を掌握し。

 ゲームをコントロールした。

 だというのに、何があった?

 

「……え?」

 

 私の双眸が、その姿を映す。

 ああ。

 この汚れ切った瞳に映るそれが、夢幻ならよかったのに。

 

 白い体。

 紫のしっぽ。

 尖った耳に、鋭い目つき。

 念能力で生み出したスプーンを払い、返り血を落とすそのポケモンは。

 

「ミュウツー……?」

 

 かつて敵対し、またかつて共闘したあいつ。

 あいつが今度はまた、敵になるというのか。

 

「そうだ、ミュウツーだ。考えていなかったのか? 私の使うポケモンが、全て地面タイプだと思ったか?」

 

 私はそれに返さず体を泳がせた。

 私の残りアーゴヨンだけなんだけど。

 どうしろと……。

 

「メア姉!」

 

 そんなことを考えているうちに、レッドが私を抱えて飛び退いた。

 何するのと言い返すよりも早く、その理由を把握する。

 

「……サイコカッター?」

 

 一体いつの間に。

 いやそれよりも、何故レッドは気付いた?

 まさか、私が見落としただけ?

 私が?

 

「メア姉、後は俺がやるから休んでて」

 

「でも」

 

「メア姉、気づいてないみたいだけど、顔が真っ青だよ」

 

 言われて手を顔に当てた。

 冷たい。

 冬の冷気にあてられたようだった。

 

「大丈夫、ミュウツー一体なら俺一人でもどうにかできる」

 

「だけど……」

 

「大丈夫、大丈夫だから」

 

 そう言ってレッドは、私から顔をそらした。

 いや、サカキと向き合ったというべきか。

 私とレッドを見比べて、サカキがこういう。

 

「……やはりな。メア、お前にはトキワの血が流れている」

 

「トキワ?」

 

「そう、トキワの森の加護を受けたものは自らの気の高ぶりでポケモンの能力を引き出すことができる」

 

 もっともその加護を受けることができるものなど十年に一人程度だがな、と。

 サカキがそう付け加える。

 

「私にはなかった力だが、先祖返りというやつだろう」

 

「……何が言いたいの?」

 

「お前のバトルセンスは、心理状態に大きく左右される不安定なものだということだ」

 

 現に、先ほどまで冴え渡っていた読みさえ無くしているだろう、と。

 サカキは告げる。

 それに答えたのは、私ではなくレッドだった。

 

「だからどうしたっていうんだ。そんなときの為に、俺がここに居るんだ!」

 

 ガラガラと共に、レッドが走り出す。

 あのモーションは、敵討ちか。

 たしかにミュウツーにも少なくないダメージが……。

 

「うおぉぉぉ!」

 

「待ってレッド! 誘われてる!」

 

 気づくのが、ワンテンポ遅かった。

 せめて普段通りのコンディションであったら。

 決して犯すことの無い判断ミス。

 その一瞬が勝敗を分けた。

 

 レッドの目が見開かれる。

 避けようがない、それほどまでに完璧な一撃。

 私はそれを見送ることしかできず。

 ただ呆然と立ち尽くした。

 

「カウンター」

 

 サカキが告げ終えるや否や。

 レッドとガラガラが弾き飛ばされた。

 

「レッド!」

 

 壁にぶつけられたレッドに駆け寄った。

 血こそ流れてはいないが、返事がない。

 手を取り、脈を測る。

 大丈夫、気を失っているだけだ。

 

 よかったと。

 無事でよかったと思う一方で。

 形容しがたい怒りがわいてくる。

 

 私に、この男と同じ血が流れている。

 

 ……嫌だ。

 

(向こうのサカキを語る時、この男は見下すような口ぶりだった)

 

 誰からも受け入れられずとも、掲げ続けた信念を、この男は嘲ったのだ。 

 

 私の、私たちの在り方を、根底から否定したのだ。

 

「……ごめん。ごめんなさい」

 

「どうした? 命乞いか? それもまたよかろう」

 

 そう、サカキが告げる。

 命乞い?

 バカ言ってんじゃないよ。

 

「違う、違うよ。もうこの勝負は潰す」

 

 ああ、分かっている。

 それは私のわがままだ。

 傲慢で奔放で。

 だけど、ちょっと付き合えよ――

 

「消してやる。この世界を汚す一切合切を」

 

 ――地獄への片道切符に。

 

「その体で何ができる。今もなお、ウツロイドの毒に侵されている状態だろう?」

 

「……だからどうした?」

 

 サカキの言うことなど気にも留めず。

 私は右手を天高く掲げた。

 ボールの輝きと共にアーゴヨンが飛び出す。

 なあサカキ、お前さ。こんな諺、聞いたことある?

 

「毒を以て、毒を制す。なんてね」

 

「なっ!」

 

 スーちゃんが私の首に針を刺す。

 その毒は一瞬で体を巡り、体の中で暴れまわった。

 全身を焼くような痛みが駆け抜ける。

 

「かっ、は。はは、なんだ、全然余裕じゃん」

 

「メア……、お前は、狂っている」

 

「……狂う? ははっ、お前らが、世界を生きているやつが正常だというのなら。私は狂っていたって構いやしない」

 

 そんな正常、糞喰らえだ。

 根底から覆し、全て無かったことにする。

 それまでは。

 たとえ狂人と謳われようと。

 たとえ悪と謗られようと。

 私はひたすら進み続ける。

 

 あの人が、そうであったように。

 

「行くよ、スーちゃん」

 

 アーゴヨンにぶら下がり、私たちは空を走り出す。

 空中戦に挑んだ理由は単純だ。

 平面上を動く点と、三次元空間上を動く点。

 どちらの方が狙いにくいかということだ。

 

「小癪な」

 

 サカキが指示をし、ミュウツーが攻撃する。

 無数に迫る透明の刃を、シャドーボールを。

 紙一重で避けていく。

 

 タイプ相性は不利なんだ。

 持久戦に持ち込み、有効打のPPが切れた後。

 そのタイミングを狙うしかない。

 

 徐々にサイコカッターを放つ回数が減り、シャドーボールの回数が増えていく。

 PPの温存……、ということは、着実にサイコカッターの使用限度が迫ってきている。

 

(あるいはシャドーボール一発くらいならスーちゃんでも耐えられる。狙うはその一瞬!)

 

 ヒットアンドアウェイを繰り返せばいつかは倒れる。

 ミュウツーには自己再生があるが、あちらは使うまでに時間が掛かる。

 使おうとするのを見てから横取りしてしまえばいい。

 

「チィッ、ミュウツー!」

 

「スーちゃん!」

 

 サカキが指示を出し、ミュウツーがサイコカッターを放つ。

 それだけは喰らってはいけない。

 スーちゃんに旋回してもらい、ギリギリで回避する。

 

「行くよ!」

 

 狙うべきは、この一瞬。

 

「うおおぉぉぉ!」

 

 翼をはためかせ加速する。

 ミュウツーとの距離が、加速的に縮まる。

 そんな私たちを見て、サカキが嗤った。

 

「私が、それを考慮していないとでも思ったか?」

 

 ミュウツーから飛んできたのは、二発目のサイコカッター。

 水平方向に伸びた、不可避の一撃だ。

 

「なっ、二発目!?」

 

「誰が先のが最後のサイコカッターだと言った。本命は、こちらだ!」

 

 サイコカッターが、私とスーちゃんを目掛けて迫る。

 ぶら下がったままの私。

 水平方向に伸びた刃。

 スーちゃんがどこに避けようと、私かスーちゃんのどちらかには当たってしまう。

 

「……なんてね」

 

 それを見た私は、スーちゃんから手を離した。

 重力に従い、落下する。

 重荷を下ろしたスーちゃんが高度を上げる。

 サイコカッターは私たちの間を素通りした。

 

「バカな!」

 

「あいにく、こちとらシルフの十階から飛び降りたことがあるんだ。室内での飛び降りに恐怖なんざないよ」

 

 私は私の右手首に噛み付き、血管を引き裂いた。

 滴る血が慣性に従い、宙に飛散する。

 

「大人しく、引っ込んでろォ!」

 

 スーちゃんが上空からエアカッターを放つのと、私が右手を振り払うのはほぼ同時だった。

 スーちゃんのエアカッターがミュウツーの体を引き裂き、傷をつける。

 その傷口に、私の血を流し込む。

 次の瞬間、目を見開いたミュウツーが暴れ出した。

 

「ミュウツー!?」

 

「アハハ、思った通りじゃん」

 

 乱れる呼吸を整えようともせず、私は語り出した。

 

「ミュウツーは捕まえた程度で制御できるポケモンじゃない。なのにあんたはミュウツーを制御していた。なら、当然仕掛けがあるよね。そう、例えば――」

 

 全身が熱い。

 スーちゃんの毒を取り込むのはやり過ぎたか。

 でも、それ以外に術はなかった。

 

「――ウツロイドの神経毒」

 

「まさか、アーゴヨンの毒を用いたのは!」

 

「そう、抗体を生み出すためさ」

 

 今、私の中ではアーゴヨンの毒がウツロイドの毒を攻撃している。

 それは毒であると同時に、薬だ。

 その特効薬を、ミュウツーに注ぎ込む。

 ある種の賭けだったが、上手くいったようだ。

 

「さぁ、そろそろ終わりにしようよ。もう、時間がないんだ」

 

 私がサカキの手を掴む。

 安心しなよ。

 あんたを殺したら、私も追いかけてやるから。

 独りぼっちは、寂しいもんな。

 

「ふざけるな、フザケルナァ!」

 

「……だから、ごめんって言ったじゃん」

 

 スーちゃんに、アイコンタクトを送る。

 視線が交差し、その瞳の色が私の瞳に映る。

 スーちゃんが躊躇っているのが分かった。

 それに対し、私は首を振る。

 

(……これで、いいんだ。私を思う気持ちがあるのなら、私の願いを聞いて?)

 

 アーゴヨンが、少しだけ頷いた。

 ああ、本当に。

 君に出会えて、良かったよ。

 

「……バイバイ」

 

「やめろォ!!」

 

 天から無数の流星が飛来し。

 ロケット団の城を打ち砕きながら襲来する。

 ドラゴンタイプの最終奥義。

 万物必壊の究極技。

 

「龍星群ッ!!」

 

「うっ……」

 

 周囲を引き裂く破砕音で、意識が引き戻された。

 耳をつんざくような、そんな爆音だ。

 並々ならぬ気に圧され。

 思考にかかった霞を払う。

 

 そうだ、俺はミュウツーと対峙して……。

 

(しまった、どれだけ落ちてた!?)

 

 俺はまたメア姉を一人にしてしまった。

 何が大事な人だけ守り抜ければそれでいいだ。

 お前はまた失うつもりか。

 

 ぼける視野。

 ピントを調整し、視界を整える。

 

 まず目に入ったのは、室内とは思えない白煙。

 コンクリートを蒸発させたような霞の向こうに、彼女はいた。

 徐々に霧が晴れ、その姿を見せる。

 その姿を見て、俺は血の気が引いて行くのを感じた。

 

 その後ろ姿には。

 

 ずっと憧れたその人は。

 

 右肩から先が欠けていた。

 

「メア姉ッ!」

 

 俺が声を掛けるが早いか。

 メア姉の体が崩れ落ちた。

 腕を失うというのはそういうことだ。

 体のバランスが取れなくなるのである。

 

 痛む体を叱咤して。

 全速力で走り出す。

 一秒でも早く寄り添うために。

 

「メア姉! しっかりして!」

 

「……ああ、レッド」

 

 震える姉を抱き寄せる。

 冷たい。

 まるで血が通っていないようだった。

 

「あぁ、ああぁ……!」

 

 苦しくて、泣き声を上げた。

 悲しくて、悲鳴を上げた。

 そんな俺に、姉はやさしく語り掛けた。

 

「良かった、最期に、言いたいことがあるんだ」

 

「何を言って……」

 

 メア姉がその手を伸ばし、俺の顔に触れる。

 凍える人のようにその手は震えている。

 俺はその手を掴んだ。

 震えを肩代わりするために。

 

 なんで。

 折角ここまで来たのに。

 

「私はね、この世界に存在しないんだよ」

 

「それを言うなら、俺だって……」

 

「ううん、違うの。レッドはどの世界にも存在するけど、私は違う。サカキが生み出したイレギュラー。秩序を乱す不純物」

 

 私の存在そのものが、世界を穢しているんだよ。

 そう言って、メア姉は自嘲(わら)った。

 なんで、なんでそんな簡単に。

 

「なんでメア姉は、いっつも自分を蔑ろにするのさ! 俺も、グリーンも! みんなメア姉の事を思っているのに! なんで、なんで……!」

 

「……許されない、からだよ。私のしでかした、一切合切が」

 

 メア姉が続ける。

 罪を打ち明けるように。神に祈りを捧げるように。

 か細く、頼りない震えた声で、胸中を明かす。

 

「世界を、好きになりたいんだ。この世界を醜く歪ませる一切を、消し去りたいんだ」

 

「やめて……やめてよ。そんな、そんな言い方って」

 

「……私は、私を許せなかったんだ。世界の在り方を歪ませた私を、歴史を捻じ曲げた私を、許せなかったんだ」

 

 そんなことない。

 あってたまるか。

 

 認めない。

 認められない。

 

 それでもメア姉は、話すことを止めやしない。

 

「私がいなくなることまで含めて、予定調和、なんだよ」

 

「なんで、なんで話してくれなかったのさ。そうしたら、俺も別の方法を一緒に……」

 

「ううん。これで、これでいいんだ。ようやく私は、この世界を好きになれる。そんな気がするんだ」

 

 そういったメア姉の瞳から、雫が滴り落ちる。

 一つ、また一つと零れ落ちて行く。

 それでもメア姉は、不変だ。

 

「あはは。むしろ良かったや。法に裁かれるなんてまっぴらごめんだ。これで私は、私のまま死ねる」

 

 俺はそれが、作り笑いだと知っていた。

 自分が消えるというのに、強気に振舞おうとする姉を見ていられなかった。

 今度は俺の瞳から涙が零れ落ちる。

 

「はは、また泣いてる。ほら、笑ってよ。お姉ちゃん、レッド君の笑顔が見たいな」

 

 あの日と同じ言葉を紡ぐ姉。

 視覚が、嗅覚が、触覚が。

 ありとあらゆる感覚器官が呼び起こされ、あの日を俺に追体験させる。

 時間ばかり経過しても、まるで成長していない。

 また同じ過ちを、俺は犯そうとしている。

 そんな、そんなことッ。

 

「ふざけんなよ! 痛みも、苦しみも、全部。全部抱えていくつもりかよ! 俺を、俺を頼ってくれって、言ったじゃないか!」

 

 言葉遣いも敬う気持ちも放っておいて。

 俺は心の思うままに叫び出していた。

 なんで、なんで分かってくれないんだよ。

 

「そんなに俺は頼りないか!? そんなに俺は役立たずか!!」

 

 そう言っている間にも、姉の体は弱っていく。

 焦点がぼけ始める。

 掲げている手が、ずり落ちそうになる。

 

 時間が足りなすぎる。

 一秒先が、光の速さで駆け抜けていくようだった。

 

 顔をぐちゃぐちゃに歪めて。

 涙で醜く顔を濡らして。

 それでも俺は叫んだ。

 

「最期だっていうなら……、表面ばかり繕ったりなんかしないで! 思うがままに、思う存分に! 言いたいことを言えよ!」

 

 姉が俺の手を、ぎゅっと握り返した。

 俺はきっと、生涯この感触を忘れない。

 

「あぁ、くそ」

 

 姉が小さく、そう呟いた。

 

 最後に見た顔は。

 俺が最後に見た姉の顔は。

 困った様子で、へたっぴに。

 だけど、とてもうれしそうに。

 穏やかに、笑っていた。

 

「悔しいな……、もう少しだけ、一緒に、いたかった……な」

 

 俺の手から姉の手が零れ落ちた。

 

 俺はまた、大事なヒトを、取り零したんだ。

 

 

 

(俺、何してたんだっけ?)

 

 何か、何か大事なことを忘れている気がする。

 失っちゃいけないものを無くしてしまったような。

 心にぽっかりと穴が空いたような。

 そんな感覚だけが残る。

 

 次第に、自分は本当に何かを忘れているのかと疑い始める。

 失ったと思っているだけで、実は何も失っていないのではないか。

 しかしそれは、頭を振って否定した。

 

 だとしたら、この左手に残る感触は何だ。

 

 何も思い出せない。

 だけど、忘れてはいけないことだった。

 それだけはこの左手が覚えている。

 

(あれ?)

 

 涙が、止まらなかった。

 何が悲しいのか分からない。

 分からないことが、ひどく悲しかった。

 

(なんだっけ、俺が無くしてしまったものは)

 

 その()()()の呟きは、誰にも届くことなく消え失せた。




ようやく救われたんだね。
あとレッド、辛い役押し付けてごめんな。
これが私の限界。
これ以上の幸せは、描けなかったんだ。
ごめん、ごめんな。
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