俺の名前はレッド。
マサラタウンのレッドだ。
俺には三つ上の姉貴分がいる。
優しくて、お淑やかで、でも叱るときはきちんと怒ってくれて。
そんなメア姉の事が好きだった。
メア姉といっても、別に血がつながっているわけではない。
それなのに、何故メア姉と呼ぶか。
それは彼女の家庭ぐるみの問題だったりする。
彼女の母は、俺が生まれたころに他界したらしい。
そして、父はマサラタウンを出て行ったと聞く。
憤慨もしたけど、メア姉がマサラを選んで残ってくれたと知ったときはうれしくもあった。
そんなわけで、身一人の子供ということもあり、度々我が家で食卓を一緒に囲んだりもしたのだ。
俺からすれば昔からずっと一緒にいる存在。
姉みたいなものだった。
*
『草むらに入ってはいけないよ』
俺の育ったマサラタウンには、そんな約束事があった。
だけど禁止されると破りたくなるもので、ダメだと言われれば知りたくなるもので。
四歳の時の事だった。
俺は幼馴染のグリーンを誘って、一番道路にこっそり忍び込むことにしたんだ。
それが禁止されている理由は、知っていた。
野生のポケモンが現れるから。
だけど俺はそのことに対して、きちんと危険性を理解していなかったんだ。
テレビで見るポケモン達は、みんな人と仲良くしていたから。
知る由もなかったんだ。
あの日の事は、今でも夢に見る。
メア姉に叱られたということも、グリーンが俺に責任を擦り付けてきたことも。
全てが大したことなく感じるような悲劇。
あの時の俺に言ってやりたい。
迂闊なことはするなと。
だけど分かるはずがないだろう?
当時四歳だった俺に、ポケモンが危険な生き物だと言われたって、分かるわけがないんだ。
自分の愚かしさが嫌になる。
呪ってしまいたくなる。
今も網膜に焼き付いて離れない、あの日の光景。
鮮血を噴き上げながら、俺を庇ったメア姉の姿。
俺のせいだ。
俺が野生のポケモンの怖さを知らなかったから。
俺が草むらに行こうなんて言ったから。
俺が約束事を、破ろうとしたから。
俺が、俺が……。
痛々しかった。
血が流れ出ていくさまが、恐ろしかった。
だがそれは、俺の主観的な感想で、メア姉がどれだけ苦しかったかなんて、俺には推し量ることしかできない。
知る機会を、永遠に失ってしまったんだ。
どうすれば謝れるのか分からなかった。
許してもらえるなんて思わなかった。
もうあの優しさにも触れることも、笑顔を見ることもできない。
それほどの罪を犯したと思った。
なのに、それなのに。
『よしよし、分かってるよ。でも、もう二度とこんなことしちゃダメだぞ?』
『あはは、かわいい弟分が無事だったんだ。どうってことないよ』
怒るでも、嘆くでも、悲しむのでもなく。
ただやさしく、諭してくれたんだ。
暴力的な優しさだった。
悪いことをして、優しくされることが、これほど痛いことだとは思わなかった。
俺を思う言葉一つ一つが、俺を貫いた。
俺は、俺は……。
*
いつか、恩返しをしようと思った。
それがどういう形なのか、どうすればいいのかなんてわからない。
一生かかっても、俺の罪が許されることは無いだろう。
否、たとえ天が許しても、俺自身は一生背負っていくつもりだ。
いつか、手助けになりたいと思った。
俺と違って、完全無欠のメア姉に、そんなことが起きるのかと思った。
だけど、未来というのは存外分からないものだ。
メア姉が苦しむことがあるのなら、その時は支えになってあげたいと思った。
いつか、頼られたいと思った。
庇護対象で、やんちゃで、手のかかる弟分。
今はそう思われているだろうけど、いつの日か俺を頼ってくれるような。
そんな立派な男に成長しようと思った。
だからかな。
今となっては、こう思う。
(いつかって、いつだ……?)
お前はいつだって、行動が遅い。
すべてが手遅れになってから、あの時ああすればよかったと、こんなことしなければよかったと。
取り返しがつかなくなってから過去を嘆く。
(いつかって、いつだよ……ッ。未来が分からないと言いながら、何故明日が当たり前のように続くと思っていた……ッ!)
歯を食いしばる。
こぶしを握り締める。
やり場のない怒りを、机に向かって振り下ろす。
(お前はいつもそうだ! いつだって失敗してッ! 約束の一つも、誓いの一つも守れやしねェ!)
立てた誓いを果たす機会は、音を立てて崩れ去った。
俺が八歳になったある日の事。
メア姉がマサラから姿を消した。
(それどころじゃねえ、いつも一緒にいたのに、大事な時に限って一人にしたッ!)
その数か月後の事である。
メア姉が国際警察に指名手配されたのは。
曰く、公務執行妨害と、過剰防衛。
非常に危険なポケモンを連れ歩いている。
嘘だと思った。
あるいは、何か理由があったんだと思った。
その理由を知ることはできない。
姿を消してしまったのだから。
それまでに手助けできていれば、俺の事を頼りになる弟分だと思ってくれていればッ。
国際警察と問題ごとを起こす前に、俺に話してくれていたら。
そうすれば、支えに成れたのに。
(お前が役立たずだったからだ! 愚鈍で愚劣で愚昧だったからッ!)
己の無力さを嘆く。
もっと強ければ、もっと力があれば。
だけど過去はすでに確定していて、抗う術もなく。
自らの非力さを呪うしかなかった。
(俺は一体……何のために……)
生き残ったのだろう。
悔やんでも悔やみきれない。
無気力に、今日を生きて行く。
(メア姉、俺にはメア姉の右腕を犠牲にしてまで、生き残る価値、あったのかなぁ)
魂が抜けたように、虚空を見つめた。
何もない。
何もない。
……見据えた先にも、俺の将来にも。
*
あれから三年がたった。
メア姉が居なくなった時と同じ、十一歳になった。
時というのは、あまり役に立たないらしい。
俺の心が癒されることは無く、それどころか夢見る度に摩耗していくばかりだった。
「何の意味があるというんだろう。こんな無価値で空っぽな、俺の一生に」
そんな思いが、ついに言葉として吐き出されてしまった。
もうだめだった。
結局俺は、どこまでも無力で無価値で何もなくて。
このまま一生、引きこもって死ぬくらいなら。
そう思うと、体がふらふらと動き出した。
どこに向かっているのか、俺にすら分からない。
いや、分かっている。
知らない振りをしているだけだ。
一番道路を前にする。
これから行うことは、メア姉の思いを犠牲にすることだ。
だけど、だけどッ。
「ごめんメア姉……、俺、もう無理なんだッ」
一歩また一歩と踏み出す。
死が、すぐそばにある。
存在を増し、俺を支配する。
草むらに一歩踏み入れようとして、声が聞こえた。
「おーい、待てー、待つんじゃー」
どこかで聞いた声。
昔々の話。
振り返り、思い出す。
ああ、グリーンのおじいちゃんか、と。
グリーンのおじいちゃん、オーキド博士は続ける。
草むらでは、危険な野生のポケモンが飛び出すと。
(痛いほど知っている)
こちらもポケモンを持っていれば、対抗できると。
(その力を持っていたら、あるいは過去を変えられたかもしれない)
すべてはたらればで、無意味だ。
過去を嘆いたところで、未来は変わってくれない。
世界はそんなに、優しくできていない。
そんな世界だから、俺は。
命を投げ捨てようと思った。
メア姉が国際警察と交戦した、一番道路で断とうと思った。
だから、放っておいてくれ。
そんな俺の後ろ向きな考えは、続く言葉で打ち消されることになる。
「そうじゃ! ちょっとついてきなさい」
「は?」
その日、人生で一番間抜けな声を晒した。
一旦区切り