夜天に輝く二つの光   作:栢人

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第十話 家族

 

 

 『湖の騎士』シャマルは、一騎当千揃いのヴォルケンリッターの中では少々毛色が違い、直接的な戦闘能力を持たない後方支援型である。回復に各種ブースト、探知に結界と補助系ならばなんでもござれのバックアップ担当。たった四人しかいないヴォルケンリッターには、欠かすことなど考えられない存在だ。

 永遠のような時間を戦い抜いてきたシャマルだが、今現在はなんと、専業主婦――お手伝いさんともいう――をしている。起動してからの二ヶ月の間に粗方の家事を覚え、複雑な家庭の八神家を支える、欠かすことなど考えられない存在である。

 まあ、料理だけはどうも苦手があり、ときたま味付けでやらかしてしまうのだが。

 ともかく、中丘町では知らぬ人のいない、明るく元気な若奥様(自称)である。

 そんなシャマルは長年連れ添ってきた愛機――クラールヴィントをはめた手を伸ばし、茶色の棒を握った。本日二度目の接触となるそれは、木目調のハンドルである。

 

「すーーー…………はーーー…………」

 

 大きく深呼吸をして胸の動悸を落ち着けたシャマルは、慎重に、恐る恐る、ただし、熱い想いを込めて、ゆっくりとハンドルを回し始めた。

 ハンドルに合わせ、八角形の箱が回転する。ガラガラという音が、静寂で満たされた空間に響き渡った。

 そして――。

 コロン、と出てきたのは、真っ白な玉。一切の穢れも持たないような、純白の玉だった。

 

「ざぁ~んねんッ! はい、こちら景品のポケットティッシュになりまーす!」

「あうぅ………………」

 

 意気消沈したシャマルはがっくりと肩を落とし、もはや顔見知りとなっていた、今日は抽選コーナーを任されたらしい試食コーナーの店員であるおば様からポケットティッシュを受け取る。本日二つ目の戦利品は、またもや同じ品だった。

 もはや涙目になってしまったシャマルは、いっそこの場でこいつを使ってしまおうかと悩み始める。

 

「まだ終わってないだろ、シャマル。ほら、もう一回だけ挑戦できるから、な?」

「そうだよシャマルちゃん、颯輔君の言うとおりさ。おばちゃんも応援してるから、頑張んな!」

「は、はいぃっ!」

 

 颯輔とおば様に励まされたシャマルは、胸の前で両手を握り、震えた声ながらも大きく返事をした。

 さっそく手に入れたポケットティッシュの封を切り、目の端に浮かんだ涙を拭いて、鼻をかむ。最後にパチンと頬を張ったシャマルは、三度目の正直と再びハンドルを握った。

 たっぷりと願いを込め、ハンドルを回し始める。

 シャマルが狙うはたった一つ、このお盆セールの大抽選会の一等賞。それを示す、赤い玉だ。

 千円の買い物毎に一枚だけもらえ、それを五枚集めてやっと挑戦できる福引き。福引券欲しさに買い物をすれば本末転倒、それこそお店の思うツボだと理解しつつも、何とか集めた十五枚の福引券。勝ち取った三回の権利の全てを、単価で百円もしないポケットティッシュになぞ代えてなるものか。

 シャマルは非戦闘要員でもベルカの世界に名を馳せた騎士の一人。

 ここで退いては『湖の騎士』の名折れというもの。

 こんなはずじゃなかった世界を壊してくれた、愛しい愛しい主達の想いに応えるべく、シャマルは今、全身全霊でハンドルを回す。

 ゴクリ、と誰かが生唾を飲む音が聞こえた。

 ガラポンは、ガラガラと音を立てながら回転する。

 そして――。

 コロン、という音が、ガラガラと煩い中でもシャマルにははっきりと聞こえた。

 

「おっ、おめでとうございますっ! 一等賞、一等賞です! 遂に一等賞の、海鳴温泉ペア宿泊券が出ましたーっ! おめでとうございますっ!!」

 

 メガホンを使ったおば様の声が、お盆で賑わう店内に響いた。シャマルと颯輔の後ろに並んでいた客が、割れんばかりの歓声を上げる。大きな祝福の声が、小さな嫉妬の声が、放心しているシャマルの耳に届いた。

 

「おめでとう、シャマル! やったじゃないか、まさか、本当に一等を引き当てるなんて」

「え……?」

 

 シャマルの様子に苦笑する颯輔に促され、ガラポンの台座へと目を向ける。そこには、真っ赤な玉が鎮座していた。シャマルが勝ち取った、一等賞の証である。

 

「や…………」

「ん?」

「やりましたよっ、颯輔君っ!!」

「おわっ!? シャ、シャマルっ!?」

 

 己の勝利をやっとのことで自覚したシャマルは、感極まって颯輔に抱きついてしまう。突然の抱擁と柔らかい感触と甘い香りに惑わされ、颯輔は一瞬にして顔を一等賞の玉の如く染めてしまうが、テンションゲージが振り切れている今のシャマルには制止の声も聞こえていない。

 二人の周囲から、先ほどとは別種の祝福と嫉妬の声が上がった。

 なお、颯輔とシャマルを母親の顔をして見守るおば様が、羨ましそうに颯輔を見る旦那の足を踏みつぶした奥様の姿を視界の端に捉えたのは、まったくの余談である。

 

 

 

 

 お盆にあった奇跡の大逆転から一ヶ月が経ち、完全な人間形態となったザフィーラも加えた八神家一行は、海鳴市の郊外にある温泉旅館『山の宿』へと向かっていた。

 旅館と市街地を往復するバスに揺られる中、ほとんどの乗客がこれから向かう場所を楽しみにしている。窓から覗く山間の景色は美しく、温泉の話に花を咲かせながらも、それらの自然に見惚れていた。

 そんな中、一人だけ青い顔を窓ガラスに映しているのは、風芽丘学園一爆発させたい男こと八神颯輔である。幼少期のトラウマから、颯輔は乗り物酔いが酷いのだ。

 今日も今日とて事前に酔い止めの薬を飲んでいたが、その効果はまったくみられない。うねうねと続く山道が、颯輔の顔をまるで死体のように変化させていた。

 

「颯輔君、大丈夫ですか? 気持ち悪かったら、吐いちゃってもいいんですからね?」

「大丈夫……だと思う……。それに……吐いたら……他のお客さんが……」

 

 弱弱しく返事をする颯輔の背中を擦るのは、回復担当のシャマル。得意の治癒魔法を施せば車酔いの一つや二つは完全回復させる自信はあったが、今この場で魔法を使うわけにはいかなかった。

 シャマル達ヴォルケンリッターには魔法の心得があるが、生憎とこの地球は魔法文化のない世界。八神家以外にも乗客のいるバスの中では、発動時にどうしても魔力光が発生してしまうため魔法は使えないのだ。

 助ける術があるのにそれが使えないとは、なんと不便な世界なのか。

 頭のどこかでそう考えてしまったシャマルは、小さく頭を振ってその思考を追い出した。多少の不便を感じてしまうことはあるものの、シャマル達はこの世界を気に入っているのだから。

 

「旅館のお部屋に入ったらすぐに治療しますから、それまで我慢してくださいね?」

「ああ…………」

 

 小さく頷く颯輔の背中を、シャマルは優しい手つきで擦り続ける。今の自分にできるのは、これが精一杯のことだった。

 こんなことなら、事前に周辺世界を巡って材料を集め、シャマル印の特製酔い止めでも作っておくのだった。

 心底辛そうな顔をする颯輔を見て、シャマルはそう思う。

 大抽選会の激闘の果てに手に入れたこの温泉旅行だが、実は手に入れた瞬間から、いや、狙いをつけた段階から問題があった。宿泊券の利用人数が、たった二人であることである。

 八神家は総勢六人のそこそこ大きな家族。当然ながら、ペア宿泊券では全員で行くことなどできない。シャマル達は颯輔とはやてで行くようにと言ったが、それでは皆に悪いと二人は断ってしまった。

 あまり無駄遣いのできない八神家では、四人分の宿泊費を捻出することも難しい。いっそのこと換金してしまおうという案もあったが、それではあまりに勿体ないと却下されてしまった。提案したのはシャマルだが、引き当てたのもシャマルであるため、正直その却下は少し嬉しかったりもした。

 どうしたものかと悩み始めたところでシグナムが、「金がないなら稼げばいいのではないか」と発言。どうして気づかなかったという思いと、その手があったかという思いが半々のシャマルだった。

 短期アルバイトの募集はお盆前に終わってしまっていたために颯輔は断念。はやてとヴィータは子供であるため論外。はやてのお世話と家事があるためにシャマルは最終手段。というわけで、シグナムとザフィーラが働くこととなった。

 シグナムはその経験を活かして近所の剣道場で非常勤の講師を始め、ザフィーラはその体躯を活かして近場の工事現場でアルバイトを始めた。

 アルバイトのできない四人も、もちろん資金捻出には協力した。颯輔は節約レシピを考え、はやてとシャマルを交えて徹底的な節約術を行使。ヴィータも三人を手伝ったり大好きなアイスを我慢したりと頑張っていた。

 そして、資金捻出の苦行から一ヶ月が経ったシルバーウィーク前にして、ついに目標金額が貯まったのである。ちなみに、一番の功労者はザフィーラだったことをここに記しておく。工事の日程が大幅に短縮されたそうだ。

 しかし、資金面をクリアしてもまだ問題は残る。

 一つは、行き帰りのバスの往復。言わずもがな、颯輔の体調である。もっとも、颯輔を除いたはやて達は不本意であったが、颯輔が我慢をするだけでいいためにこちらは解決。前述のとおり、人目がなくなってしまえばシャマルの力でどうとでもなる。

 もう一つは、はやての車椅子が持ち込めないことであった。

 市街地のバリアフリー化に余念がない海鳴市も、流石に郊外までは目が届かなかったらしい。往復バスはノンステップではなく通常のもの。施設も歴史ある古い建物であるため、段差は建築当時からそのままになっているそうだ。はやてには不便をかけるが、こちらは誰かが常に付き添うということで解決とさせてもらった。

 こうして、様々な問題がクリアされて決行に至った温泉旅行である。颯輔とはやてには散々よくしてもらったが、まさか、こうして旅行を楽しむことになるなど、夢にも思わなかった。

 回復する兆しの見えない颯輔の心配をしつつも、旅館が見えてくるのを今か今かと二つの意味で待ち続け、心躍らせている八神家一行であった。

 

 

 

 

 山の宿が好評である理由には、美容効果の高い温泉の効能、美人女将の丁寧な持て成し、舌を唸らせること間違いなしの絶品料理などが挙げられ、季節毎に別の顔を見せる周囲の景観もそれに含まれる。当然それ相応の宿泊費がかかるため、上流階級のみに許された特権であると言えるだろう。

 下にずり落ち始めた背中のはやてを、できるだけ揺らさないように注意しながら背負い直す。

 宛がわれた部屋でシャマルの治療を受けた颯輔は、皆を連れ立って旅館周囲の散策コースへと繰り出していた。

 生い茂る木々の葉は先端が色着き始め、残暑が厳しい中にも秋の到来を感じさせる。小川のせせらぎが清涼感を届け、また、陽光もあまり届かないため、暑さはほとんど気にならなかった。

 

「のどかでええところやねぇ」

「探検してるみてえで楽しいしな」

「そうだな。街中は昔に比べて発展しちゃったし、他はいくらか緑が残ってるけど、ここまでじゃないからなぁ」

 

 背中と前方から上がった声に、颯輔はしみじみと返した。年寄り染みた発言だが、颯輔は十七歳とまだまだ若い。しかし、ちょうど颯輔世代の成長と共に、海鳴の街も発展してきたのだ。

 海に面した海鳴市はまだある程度の自然が残っているが、そこから内陸へと進んだ遠見市近辺はビルが立ち並んでいる。颯輔達の住む中丘町に暮らす人々の仕事場は、大抵がすぐ隣の遠見市にあったりするのだ。

 

「昔の海鳴市はどのようなところだったのですか?」

「さすがに全体は覚えてないけど、家の周りは結構空き地が多かったかな。ニュータウンってやつで、周りの開発が進んで人が集まってきたんだよ」

「なるほどー。だからご近所には新しいお家が多いんですね?」

「そういうこと。うちの家が建てられたのは最初期だって聞いてるから、周りよりはちょっと古臭く見えるかもしれないね。……そういえば、家族も増えたしリフォームとかも必要だよなぁ」

 

 シグナムとシャマルの問いに答えた颯輔は、ふと思い付いたことを口にした。

 颯輔にはやて、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラと、八神家は総勢六人家族。今現在は、颯輔が二階の一人部屋を、シグナムとシャマルが二階の二人部屋を、はやてとヴィータの二人が共同で一階の一人部屋を使っている。ザフィーラは普段はリビングにいるが、眠る時は颯輔の部屋だ。

 しかし、働くようになったザフィーラは人間形態でいることが増えた。シグナムとシャマルにも、いつまでも相部屋では申し訳ない。本人次第ではあるが、個室も必要になってくるだろう。そうでなくとも、はやてが大きくなったら部屋を分けたいと言い出すかもしれない。リフォーム以外にも対応の仕様はいくらでもあるが、それぞれのプライベートを分ける事は、やはり必要だと考えられる。

 

「リフォームって、そんな、今回の旅行費もギリギリだったんですよ?」

「そうです。それに、我らのためにそこまでせずとも……」

「そうだぜ颯輔。はやてがいいんなら、あたしは今のままでいいよ。いざとなったら、シグナムとシャマルの部屋に転がり込めばいいし」

「ヴィータ、わたしと一緒の部屋嫌なんか……?」

「だ、だからそうじゃないってば! は、はやてぇ、お願いだからそんな目で見ないでくれよぉ……」

「我も特に不便は感じておりません。家では狼形態が常ですから」

「そ、そう? まあ、将来的な話だよ。別に、今すぐどうこうしようってわけじゃない。資金もないし、ちょっと考えてみただけだって」

 

 しかし、提案でもない思い付きの段階で揃って否定されるのだから、甘やかし甲斐がないというか、なんというか。今晩何が食べたいか、という質問に対する何でもいい、という答えに通ずる遣る瀬無さがあった。

 

「実際、皆がそう言ってくれるのは助かってるけど、でも、少しくらい我儘を言ってくれたっていいんだからな? そりゃあ、無茶なお願いは叶えられないけど、少しくらいなら、俺にもできることがあるんだからさ。それからはやて、そろそろヴィータをいじめるのはやめなさい」

「はーい」

「うぅ、颯輔ぇ……」

「おーよしよし」

「ちょっ、やぁっ、お兄っ! 急に離さんといてっ!」

 

 涙目になってしまったヴィータを軽くあやしてから、必死で首にしがみつくはやてを背負い直す。いくら体重の軽いはやてとはいえ、九歳児の細腕が完璧に極まればそれなりに苦しかった。一応、落とさないようにと気をつけていたが、どうやらはやては本気にしてしまったらしく、颯輔の背をポカポカと叩いている。

 話を戻そう。

 ヴィータの場合は「颯輔、このアイス買ってもいい……?」と比較的素直に要望を言ってくれるのだが、他三人に関してはほぼ皆無と言える。

 もっとも、シグナムあたりに「颯輔、この刀が欲しいのですが……」などと言われても困るだけのだが。

 とにかく、彼女達にははやての面倒を見てもらったり生活を支えてもらったりと助けられてばかりなのだ。未だに高校生にすぎない颯輔とはいえ、これでも一応八神家の通帳を預かる立ち場。できる範囲のことはしてやりたい。今回の旅行だって、シグナムとザフィーラがいなかったら成立しなかったのだから。

 

「颯輔こそ、気に病み過ぎなのです」

「私達は、今の生活をすっごく気に入ってるんですよ」

「ですから、これ以上を望むべくもありません」

「だから、そういう所が――」

「では、こうしましょう」

 

 なおも食い下がらない彼女達に颯輔が業を煮やし始めたとき、横合いから正面に回ったシグナムが、すっと立てた人差し指で颯輔の唇を閉じた。

 

「少々汗をかいてしまいました。風呂好きの私としては、音に聞いた温泉を一刻も早く楽しんでみたいと思っています。時間も頃合いですし、そろそろ旅館へ戻りませんか?」

 

 絶句する颯輔。

 口をパクパクとさせるシャマル。

 ヴィータの目を掌で覆うザフィーラ。

 「何だ? どうしたんだよ?」と戸惑うヴィータ。

 そして――

 

「うわぁ、シグナム……その、ええと、大胆やねぇ……」

 

 顔を真っ赤にし、蚊の鳴くような声で呟くはやて。

 木漏れ日に照らされたシグナムは、自分がどんな顔でどんな事をしているのか理解していないのだろう。

 クルリと方向転換した颯輔は、旅館を目指して来た道を戻り始める。その後ろ姿から覗ける耳が紅葉しているように見えるのは、気のせいではないはずだ。シャマルと、ヴィータを連れたザフィーラも、颯輔の後に続いた。

 

「……?」

 

 はて、と首を傾げたシグナムも、了承されたのだろう、とすぐに納得して歩き出す。

 彼女の頭の中は、宣言通りに温泉の事でいっぱいだった。

 

 

 

 

 車椅子利用者という立場上、はやては多くの人の視線を引き付ける。単なる物珍しさであったり、はたまた憐みであったりと、その種類は様々だ。

 しかし、今回はやてに――というよりはやて達に向けられるのは、感嘆であったり羨望であったり嫉妬であったり羞恥であったりと、いつもとは少々毛色が違うようだった。

 

「んふふ、シグナムは相変わらずええおっぱいしとるなぁ。これはお兄がほっとかないでぇ」

「ん、あっ……! い、悪戯が過ぎますよ、はやて!」

 

 はやての小さな手で形を変える柔らかくて大きな乳房は、それはそれは見事な円錐型であった。形状、弾力、どれをとっても申し分ない。同性異性因らずに視線を釘づけにするそれは、まさに理想形――いやさ、芸術と表現しても過言ではないだろう。

 掌を押し返してくる豊かな母性を堪能するはやてと、羞恥に耐えながらもしっかりとはやてを抱きかかえるシグナムは、連休で賑わう浴場の視線を一手に惹きつけていた。

 

「他の客人に見られていますし、何より浴場は危険ですから、ど、どうか大人しくしてください。聞き分けがないようでしたら、颯輔に言いつけることも検討させていただきます」

「はーい。大胆なシグナムでも流石に恥ずかしいか。……でもシグナム? ホンマにお兄に言えるんか?」

「――っ!? そ、それはっ……!」

 

 にこにこと満面の笑みのはやてに対し、シグナムの顔はゆでだこのように赤くなってしまう。浴場に入ったばかりでかけ湯もまだだというのに、上せてしまったような状態だ。肉体的な責め苦は終わったが、今度は精神的な責め苦が始まるらしい。

 

「別に、わたしはお兄に怒られてもええけどね」

「くっ……!」

「あはは、冗談や。謝るからそんな怒らんといて。……でも、今日は一緒の布団で寝よな?」

「……はい」

 

 ほっとしたのと諦めたので、二重の溜息をつくシグナム。今日のはやてはいつも以上にじゃれついてくる。どうやらテンションを表すタコメーターがレッドゾーンを維持しているらしい。

 しかし、無理もない話か、とシグナムは思う。シャマルが旅行券を当てたとハイテンションで帰って来たときから、花火大会以上に楽しみにしていたのだ。自室のカレンダーに射線を引いてカウントダウンしている姿は、見ていて大変微笑ましかった。

 最近多くなった胸部接触も、はやての境遇を考えれば理解できた。物心のつく以前に両親を事故でなくしたのだ。泣き言を一切口にしないはやても、内心では父母の温もりに飢えているのだろう。どんな人物が何の意図をもってこのように自分をデザインしたのかは検討もつかないが、こんなものでも役に立つのだから感謝の念が湧くというものだ。

 ご満悦な様子のはやてを空席のシャワーの前へと運んだシグナムは、丁寧な手つきで髪を洗い始める。

 

「………………」

「私だって……私だってぇ……!」

 

 無言で自身の胸部をペタペタと触るヴィータと、負けず劣らずのはずなのに悔しがるシャマルの姿は、シャンプー中で目を閉じているはやてには映らなかった。

 散策でかいた汗をきれいさっぱり流すと、いよいよ温泉に浸かった。浴槽は檜でできており、小庶民な八神家には縁遠い作りだ。無色透明の熱いお湯が身を包み、日ごろの疲れが染み出していくようだった。

 この温泉の泉質は炭酸水素塩泉。アルカリ性の湯は皮膚の角質に作用し、脂肪分や分泌物を洗い流してしっとりとした肌を作り上げる。所謂、『美人の湯』と呼ばれる代物だ。慢性皮膚病に効き、切り傷や火傷も目立たなくなる。飲用すれば、痛風に慢性胃炎、糖尿病にも効果のある優れもの。市街から遠く離れた郊外にも関わらず、リピーターが多いのにはそういった理由もあった。

 

「んはぁ~、気持ちええねぇ~」

「ええ、まったくです」

「苦労してきた甲斐がありましたねぇ~」

「そうだな~」

 

 ツンケンしていたシャマルも、がっかりしていたヴィータも、湯船に浸かった今はいい具合に蕩けている。海鳴が誇るこの温泉は、悪感情にも効能があるらしかった。

 

「はやてはやて。風呂から上がったら、もうアイス食べてもいいよね?」

「ええよ~」

「よっしゃ! アイス解禁だぜっ!」

「このあとご飯もあるんだから、一個だけよ、ヴィータちゃん?」

「わぁってるよ、うへへー」

「食い意地の汚いやつめ。せめて風呂に入っている間は風呂に集中できんのか」

「風呂に集中するってなんだよ。これだから風呂好きおっぱい魔人は……」

「なぁっ!? お、おっぱっ!?」

 

 バシャン、と水しぶきを立て、浮き輪のようにぷかぷかと浮いていた二つの果実を慌てて隠すシグナム。ぷるんと揺れるをそれを見たヴィータはジト目になり、一度自身の胸に目を向け、続き、隣で浮き続けているシャマルのを見た。

 ぽん、と肩に手を置かれる。視線を上げたヴィータは、サムズアップしているシャマルが目に入った。

 

「大丈夫よ、ヴィータちゃん。あったらあったで問題だけど、ヴィータちゃんにも需要はあると思うわ」

「けっ。持つ者に持たざる者の気持ちがわかって堪るかってんだよ」

「ちょっとくらいわかるわよ。私もおっぱい魔人には負けるもの……」

「なっ、なななな、貴様まで何を言うかっ!」

 

 腕に押さえられ、むにょんむにょんと形を変えるそれを見たヴィータとシャマルは、揃って深い溜息を吐き出す。その反応を受けたシグナムはわなわなと震えるばかり。その所為で余計に揺れるのだから、二人の視線はますます強くなる。見事な堂々巡りがここに完成していた。

 

「こらこら、他にもお客様がおるんやから、こんなところでケンカしたらあかんよ。それに、世の中のおっぱいに悪いおっぱいはない。みんなちがってみんないいんやで」

「だけど……はやては悔しくないのかよ?」

「わたしはええんや。まだまだこれからやもん」

「はやても敵だった……」

 

 同じ子供同士で連合を組めるかと思ったが、和平協定の寸前で裏切りを受けてしまった鉄槌の騎士。機嫌が大暴落したヴィータは、拗ねてぶくぶくと泡ぶくを立て始めるのだった。

 

「まあまあヴィータちゃん、アイス二つまでなら食べても……え? え?」

 

 ヴィータにとっての朗報をもたらしかけたシャマルが、不自然に固まる。どうした、と皆で様子を窺うが、シャマルは顔を青くするばかりだった。

 

「どしたんシャマル? 何かあったんか?」

「い、いえ、何でもないですよ、はやてちゃん。それより私、ちょっと上せちゃったみたいです。先に部屋に戻っていますね。シグナム、あんまり長湯しないで、はやてちゃんとヴィータちゃんをお願いね?」

「あ、ああ」

 

 いまいち事態は掴めないが、とりあえずと返事をするシグナム。「お先に失礼します」と一声かけたシャマルは、いそいそと脱衣所へ向かって行った。

 

「……あ。財布持ってるのシャマルじゃん」

 

 その背中を見送ったヴィータは、今更ながらにアイスが食べられないことに思い至ったのだった。

 

 

 

 

 決して走らないように、それでいて全力の早足で廊下を進んだシャマルは、ようやく目的の場所に辿り着いた。その表情は真っ青で、上せた人間のものとはとても思えない。

 颯輔とザフィーラの部屋の戸を開けたシャマルは、スリッパもろくに揃えもせずに脱ぎ捨て、中へと押し入った。

 

「颯輔君っ!? 大丈夫ですかっ!?」

 

 シャマルの視線の先には、布団に寝かされている颯輔の姿があった。意識はあるようだが、その表情は苦痛に歪んでおり、呻き声を上げながら必死に胸を押さえている。ただ事ではない様子だ。隣に座るザフィーラは治癒魔法の心得がないためにどうすることもできず、タオルで颯輔の脂汗を拭う事しかできていなかった。

 傍に駆け寄ったシャマルはクラールヴィントを起動し、颯輔の身体をスキャンしていく。三角形の中央に剣十字を配したベルカ式の魔法陣が浮かび上がり、漏れる魔力光が室内をミントグリーンに染めた。

 

「いつっ!? いつ颯輔君は倒れたのっ!? どうして救急車を呼ばなかったのよっ!?」

「風呂から上がって寛いでいるときに突然苦しみだして……。皆に心配はかけたくないと言われ、お前にだけ念話を入れた」

「そんな――っ!? 颯輔君っ!?」

 

 ヒステリックを起こしたように叫ぶシャマルの細腕を、弱々しい握力の颯輔の腕が掴む。焦点の合っていない目が、涙を溜めたシャマルの目を捉えた気がした。

 

「ザフィーラは、悪くない……。俺が――」

「今は喋らないでくださいっ! すぐに治しますからっ!」

 

 途切れ途切れに語る颯輔の口を塞ぎ、術式に意識を集中させる。頭部、胸部、腹部、脚部と診ていくが、どこにも異常は見つけられない。

 恐怖と焦りがシャマルの頭を埋め尽くす。それが魔法の構築を乱すと理解していながらも、ぐちゃぐちゃになる感情を抑えきれなかった。

 

「何が、何が原因なの? 身体に異常は見られないのに、こんなにも苦しんでる……普通じゃない病気? と言っても颯輔君は普通の人間で、特別と言ったら保有魔力量が多いくらいで――リンカーコア? ああもうっ、何で早く気が付かないのよっ!!」

 

 肉体的なスキャンから魔法資質を探るものに切り替える。思考がダダ漏れになっているあたりがシャマルの動揺具合を表していたが、己が主の不調を読み取ったクラールヴィントが魔法の制御を受け取りそれをカバーしていた。

 再度全身スキャンを開始したクラールヴィントが、ついに颯輔の異常を見つけ出す。闇の書との同期により、普段は思念通話ができるくらいでほとんど休眠状態にあるはずのリンカーコアが、どういうわけか起動している。それも、最大効率で魔力を生成しているはずのそれは、みるみるうちに反応が弱まっていた。

 もちろん颯輔には何の魔法も使っている様子はない。この苦しみようでは魔法を使う余裕などないし、そもそも前述の通りに大きな魔法は使えない。

 自分からではないとすれば、原因は外部にある。そして、身体への影響を無視した暴力的なこの活動に、シャマルは覚えがあった。それこそ、あり過ぎるくらいにある。

 颯輔のリンカーコアは、まるで、外部から無理矢理に搾取されているかのようで――。

 

「まさかっ!」

「シャマルっ!?」

 

 思い至ったシャマルは部屋の隅に置いてあったキャリーバッグを乱雑にひっくり返し、ぶちまけた中身から小奇麗な紙袋に収められた一冊の本を取り出した。家に残していくわけにはいかないと持ってきた、自分達の核とも言える本。

 その本は、あるいは胎動しているようにも見えた。空腹に怒っているようでいて、満たされるのを喜んでいるようでいて、生まれ出でるのを今か今かと待ち続けているようだった。

 闇の書が生み出した下位プログラムにすぎないシャマルには、どうしてそれが起こっているのかはわからない。今までこんなことは一度もなかったのだ。そもそも、道具が持ち主に牙を向くなど絶対にあってはならない。

 しかし、理屈はわからなくとも何が起こっているのかははっきりと理解できた。

 闇の書が颯輔のリンカーコアを侵食し、喰らい尽くそうとしている。

 

「そんな、どうして……待って……待って待ってお願いやめてっ! わかったから! ちゃんとするからぁっ! 足りないなら私のをあげるからっ……だから……! お願いだから、颯輔君を傷つけないで……!!」

 

 どうしてこんなことが起きているのかを考えるのは後回しだ。こうしている間にも颯輔はリンカーコアを侵され苦しんでいるのだから、それを止めるのが最優先事項。

 闇の書が求めているのはリンカーコア。ならば、颯輔以外のものを与えてやればいい。差し出す餌は、シャマル自身のリンカーコアだ。

 

「クラールヴィント、お願い……!」

《……Ja.》

 

 クラールヴィントをリンゲフォルムからペンダルフォルムへ変形させる。ミントグリーンの魔力紐が繋がった振り子が伸び、シャマルのリンカーコアを摘出した。

 鈍痛が胸に響く中、蒐集させるために闇の書を開こうとして――

 

「……その必要はない」

 

 大きな腕に、闇の書を奪われた。

 

「何のつもりよザフィーラっ!? 早くしないと、今だって颯輔君は苦しんでいるんだからっ! …………いくらあなたでも、邪魔をするなら容赦はしないわよ」

 

 激情が浮かんでいたシャマルの瞳が静まり返り、凍えるような冷気を帯びる。かつてヴォルケンリッターとして恐れられていたときの、その参謀格の目だ。

 卓越した情報収集能力を持ってして敵の穴を見抜き、力を持たずとも策を弄して大軍を壊滅させる、ある意味ではヴォルケンリッターで最も敵に回したくない存在。八神家の温厚でどこか抜けているシャマルではなく、鋭利で冷徹な思考を持つ『湖の騎士』がそこにいた。

 殺意すら宿った視線を向けられたザフィーラは、疲れたように溜息をひとつ吐き、親指で己の胸を指す。

 

「我のリンカーコアを蒐集しろ。参謀格が聞いて呆れるぞ、シャマル。この後必要になるのはお前の力だ。ならば、ここで消えてもいいのは我だ。そうだろう、シャマル?」

「…………」

「わかったのならば急げ」

「……ごめんなさい」

 

 瞳の色を戻したシャマルは短く告げ、再度クラールヴィントに指示を出す。シャマルのリンカーコアを格納したクラールヴィントはその振り子をザフィーラへと伸ばした。ザフィーラの胸から、力強い輝きを放つ群青色の球体が現れる。

 闇の書を受け取ったシャマルはそれを開き、ザフィーラのリンカーコアへと向けた。

 

「何を、して……やめ――」

《Sammlung.》

「ぐっ……!」

 

 朦朧としている颯輔の声を無機質な合成音声が退け、ザフィーラの表情が苦悶に歪む。群青色の球体から細かな粒子が移動し、闇の書へと吸い込まれていった。全頁白紙だったはずのそれに、古代ベルカ語の文字が刻まれる。リンカーコアが縮小するにつれて頁は埋まっていき、そして、それらに比例して颯輔の表情が安らいでいくようだった。

 やがて、一定の速度で進んでいた加筆が終了し、闇の書が閉じられる。ザフィーラの身体が、ぐらりと揺れた。宙に浮かんでいた闇の書を手にしたシャマルが、慌ててそれを支える。

 

「ザフィーラっ! あなた、何で消えずに……大丈夫なのっ!?」

「……大丈夫のようだ、何も問題はない」

「そんなわけないでしょうっ!? いくらあなたでも、蒐集をされたら……」

 

 魔法生命体である守護騎士がリンカーコアの全てを蒐集されれば消え去るのみだが、ザフィーラの駆体は維持されたままだった。

 どうやら、ザフィーラの限界よりも先に闇の書の方が満足してしまったらしい。主が二人になり、守護騎士達の保有魔力量が今までよりも少しばかり増幅していることが上手く働いたのかもしれない。もちろん何か別の原因がある可能性も捨てきれないが、どっちにしろ、今の二人にはわからないことだった。

 

「大丈夫だと言っている……。それより、颯輔を」

「……わかったわ」

 

 強がるザフィーラを壁際に座らせ、颯輔の下へと向かう。侵食が治まったらしい颯輔は極度に疲弊しているようだったが、先ほどまでの苦悶の表情は見られなかった。しかし、その代わりに、今までに見せたことのない厳しい目をシャマルに向けていた。

 

「どうして……」

「誓いを破ったことは謝ります。罰ならばいくらでも受けましょう。ですが、私達には貴方が……颯輔君とはやてちゃんが全てなんです……! あなたが苦しんでいるのに、黙って見ていることなんてできなかった!」

 

 道を見失っていたシグナムに仕えるべき主を見出させてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 心荒んでいたヴィータを笑えるようにまでしてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 口を閉ざすばかりだったザフィーラの心を開いてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 せめて人間らしくと振る舞っていたシャマルを人間扱いしてくれたのは、颯輔とはやてだけだった。

 奴隷も同然だった守護騎士達を家族として迎えてくれたのは、颯輔とはやてだけだったのだ。

 ここで颯輔を失ったら、きっと何かが致命的に駄目になってしまう。またあの日々に逆戻りしてしまったら、今度こそ自分達の心は壊れてしまうだろう。これ以上なく兄を慕うはやてだって、嘆き悲しむに決まっている。だから、この温かな陽だまりをどうしても失いたくなかったのだ。

 颯輔の頬に、まだ熱い滴が落ちる。定まらない視界と思考の中でも、シャマルが泣いているのだとわかった。嗚咽を漏らしながら治癒魔法を発動するシャマルを、颯輔にはこれ以上責めることができない。身体に流れ込んでくるシャマルの魔力が、ただただ温かかった。

 

「また泣いて……ほんと、お前はいっつも泣いてばっかりだな……」

「颯輔君……?」

 

 シャマルの耳に微かに届いた声は、心当たりのない言葉だった。確かにシャマルは泣き言も言うし泣き真似もすることはあるが、颯輔の前でそう何度も泣いた覚えはない。朦朧としている颯輔は、シャマルに目を向けているようでいて、そこに誰か別の人物を見ているようだった。

 颯輔の左手が上がり、シャマルの頬へと伸びてくる。しかし、もう少しで触れようとしたところで、颯輔の腕は操っていた糸が切れてしまったかのように下に落ちた。

 

「あれ……? おかしいな、上手く動かせないや…………」

「颯輔君……? 颯輔君っ!」

 

 そのまま動かなくなってしまった颯輔を、シャマルは慌てて揺する。しかし、どうやら颯輔は意識を失ってしまっただけのようだった。

 胸に耳をつけてまで心音を確認したシャマルは、安堵からそのまま颯輔の胸の上で泣き崩れてしまう。

 結局、颯輔は夕食の時間ギリギリまで目を覚まさなかった。疲れて眠ってしまったということにして、はやてとヴィータには真実を伏せたままに、八神家の初めての家族旅行は終了。颯輔の左腕が肩から上に上がらなくなったことを知るのは、颯輔自身とシャマルにザフィーラ、それからシグナムだけである。

 行く先には、これでもかというほどの暗雲が立ち込めている。不安と秘密と緊張を抱えたまま、暦は十月へと進もうとしていた。

 

 

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