夜天に輝く二つの光   作:栢人

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第十一話 時は待たない

 

 

 いつも通りの日常など脆く儚いもので、幸福はそう長く続かないもので、不幸は何の前触れもなくある日突然やってくるもの。当の昔に理解していたはずのことを、颯輔はすっかり忘れてしまっていたらしい。諺にもあるではないか、二度あることは三度ある、と。

 

「あの、何を言ってるんですか……?」

 

 しっかりと聞こえたはずの言葉を聞き返す。それはただの確認作業にすぎない。耳には届いても頭では理解できなかっただけだ。正確には、理解したくなかったという方が正しい。

 本当は一ヶ月も前から予想できていたこと。だけど目を逸らし続けていたこと。

 いつかこんな日が来ると、心のどこかではわかっていたはずなのだ。今日であるはずがない、まだ大丈夫と言い聞かせ、必死に自分を誤魔化し続けてきた。

 

「……はやてちゃんの麻痺は、ここ数ヶ月で徐々に上へ上へと進んでいるの。このままだと、内臓機能が麻痺してしまう可能性だってある。率直に言ってしまえば、はやてちゃんは命の危険にさらされているのよ」

 

 直接的な表現を付け加えてきた石田の言葉に、颯輔はこれ以上の誤魔化しは無理であると悟った。

 頭が鈍器で殴られたかのように痛い。衝撃で張りぼての壁が崩れ去ってしまったようだ。

 ふらつき倒れそうになる体を知らない誰かに支えられる。いや、知らない誰かではない。一緒に病院まで来たシグナムとシャマルだ。

 颯輔とは違い事前に心構えができていたのか、二人は悲痛な表情を浮かべながらも真っ直ぐに石田を見ている。その強い瞳に少しばかり力を分けてもらった颯輔は、石田へと向き直った。

 

「……冗談でもなんでもないんですよね」

「私がこんな性質の悪い冗談を言うためだけに、あなた達を呼び出したと思っているの?」

「いえ……すみません」

 

 怒っているような厳しい声を出しているのに、石田の表情は今にも泣き出してしまいそうだった。目の下には隈ができており、化粧をしていても隠しきれていない。きっと、石田自身も苦悩していたのだろう。一方的な勘違いでなければ、石田は颯輔達を我が子のように可愛がってくれていたのだから。

 石田の手が伸びてきて、膝の上で震えていた颯輔の手を上からそっと包み込む。

 

「辛いでしょうけど、まずは現実を受け止めなさい。今の颯輔君は一人ではないでしょう? 今までみたいに一人で抱え込む必要はないの。それに、私だってできる限りのことはするつもりよ。私にとってもはやてちゃんは大事な大事な子だから。……だけど、はやてちゃんの病気は非常に難しい。だから、せめて今の状態だけは理解しておいて。ね?」

「はい……」

 

 覇気のない返事しかできなかったが、石田はそれでも引いてくれた。薬の種類を増やしてみる、今までとは違ったアプローチを考えてみる、と今の颯輔にも分かり易いように説明してくれる。

 しかし、颯輔は石田の言葉を聞きながらも頭では別のことを考えていた。

 闇の書は、リンカーコアを蒐集して頁を埋めるものだと聞いている。つまり、リンカーコアとは闇の書の餌なのだ。

 十年。十年だ。十年近くもの間、闇の書は颯輔の傍にあった。それだけあれば、腹を空かせてしまうのは当然のことだろう。わざわざ温泉旅行の最中に颯輔が侵食を受けたのも、偶々その時だったというだけにすぎない。

 あれからはシグナム達の機転で何とか誤魔化しているが、十年もの空腹をどこか他の所でも埋めていたとしても何らおかしな話ではない。その対象が、はやてだったというだけのこと。

 一通りの説明を終えた石田にそれでいいか、と確認されても、颯輔には黙って頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 石田からの説明を聞き終えたシグナムは、力ない足取りの颯輔を支えるようにして診察室を出た。終始無言だったシャマルも、俯きながら後ろをついて来ている。今日病院を訪れたのはこの三人だけで、本来の患者であるはやての姿はない。

 颯輔の携帯に石田から連絡があったのは昨日のことだ。「大切な話があるから、シグナムさんとシャマルさんと一緒に病院まで来てほしい。できれば、はやてちゃんには内緒で」と言われ、買い物に行くと誤魔化して出かけたのだ。

 先日の検査の結果は、半ば予想がついていたもの。一ヶ月前に颯輔にあんなことがあったのだ。戦いに身をおいていないとはいえ、今の今まで何もしないほど平和ボケするつもりはない。とはいえ、やはりショックは大きかったのだが。

 

「……シグナム」

 

 名を呼ばれた瞬間、胸倉を掴まれて廊下の壁に押し付けられた。

 痛くはない。振りほどこうと思えば振りほどける。しかし、シグナムにはこの震える右手を振りほどくことができなかった。颯輔の怒りの矛先が自分に向くのは、至極当然のことなのだから。

 俯く颯輔の表情は窺えない。その向こうには、自分がされたわけでもないのに小さくなって身を震わせているシャマルがいる。神経内科は患者が少ないのか、自分達以外に他の誰かの姿は見られなかった。

 颯輔の口から、今まで聞いたこともないような冷たい声音が聞こえてきた。

 

「……こうなるって、わかってたのか?」

「……予想はついていました」

「どうして教えなかった?」

「確証が持てませんでした」

「原因は闇の書か?」

「はい」

「――っ!!」

 

 颯輔と目が合った。淀んだ瞳に激情の炎を燃やしている。そこに映った自分は何とも情けない顔をしていた。かつてのシグナムならば、絶対にしないであろう表情。それでもベルカの騎士か、と斬り捨ててしまいたかった。

 視線が交差したのは一瞬で、大きく目を見開いた颯輔はシグナムを解放して離れた。ごめん、と短く告げ、空いた拳を固く握りしめている。ただし、その左手だけは軽く握られた程度にしか見えなかった。

 今までの主の姿がちらついてしまったが、やはり颯輔は颯輔のままだったらしい。いっそのこと怒鳴り散らされた方が楽だとも思ったが、実際にそんなことをされれば、弱っている今の自分ではどうなっていたかわからない。場違いにもほどがあるが、優しい主に感謝した。

 

「……この間ので、終わりじゃなかったのか?」

「颯輔だけでなく、はやてもまた闇の書の主です。颯輔ほど成長していない分、闇の書の侵食を強く受けているものと思われます。あの小さなお体では、抑圧された膨大な魔力には耐えきれないのかと」

「あの痛みに、ずっと耐えてきたっていうのかよ……!」

「――っ、ごめんなさいっ! ごめんなさい颯輔君っ! 私が、私がもっと早く気が付いていればこんなことには……!」

 

 絞り出したかのような颯輔の声を受けて、遂にシャマルが泣き崩れてしまった。そんな余裕はないだろうに、颯輔は唇を噛み締めながらも縋りつくシャマルの背をできるだけ優しく撫でている。

 颯輔の腕に抱かれるシャマルが、そして、颯輔からこれだけの感情を引き出せるはやてが、少しだけ羨ましい。シグナムは、こんなときにそう思ってしまう卑しい自分が堪らなく嫌いだった。

 

「……いいよ、もう。シグナム達だって知らなかったんだから。だから……そう、これは俺の所為なんだ。蒐集をするなって言ったのは俺なんだから、全部……全部俺の所為なんだよ。はやてが歩けないのも、はやてが苦しんで――」

「違いますっ!!」

 

 うわ言のように漏れる声を、限界まで張り上げた声で塗り潰した。あまりの声量に窓ガラスがビリビリと震え、さすがに聞きつけてしまったらしい看護師の女性が何事かと駆け寄ってくる。

 自分は救いようのない馬鹿者だと思いながら、シグナムは集まってきた人達と颯輔に頭を下げた。

 

『申し訳ありませんでした。続きは念話で行いましょう』

『俺も変なことを言ったな、ごめん……。歩いて帰りながらでもいいか?』

『はい』

 

 シャマルが落ち着くのを待ってから、病院を出て歩き始める。バスを利用しなかったのは、当然話し合う時間を設けるためだろう。それだけの時間が必要な話題だ。いや、本当はもっともっと時間が必要かもしれない。もっとも、現実にそこまでの時間は残されていないのだが。

 颯輔の足取りは相変わらず重いが、それはシグナムとシャマルにも言えることだった。精神リンクを伝わってくる感情が、颯輔の心の様子を表している。こんな感情は、今まで受け取ったことがなかった。

 

『……はやてが助かる方法はあるのか?』

『闇の書を完成させ、真の主となれば』

『……管理局は、助けてはくれないのか?』

『闇の書を造り出す技術はもはやどの世界にも残されていません。私見ですが、管理局の技術力では不可能かと』

『………………』

 

 沈黙が返ってくる。しかし、シグナム達にはもはやそれしか思いつかなかった。

 治癒魔法に優れるシャマルでも、上位存在である闇の書の影響を取り除くことはできない。できるとすれば闇の書そのものと言ってもいい管制人格である融合騎だが、どちらにせよ、闇の書を完成させなければ彼女を完全起動することはできないのだ。

 闇の書が完成すれば、颯輔やはやてが侵食を受ける事もない。覚醒して魔力制御の術を身につければ、個人の身に余るほど膨大な魔力もしっかりと手綱を握ることができるだろう。

 つまり、これからやるべきことは一つだけ。

 

『結局は、蒐集しろってことかよ……』

 

 吐き捨てるように言った颯輔は立ち止まり、憎たらしいほどの晴れ間を見せる天を仰いでいる。ともすればそれは、この世界に伝わる神仏に祈っているかのようにも見えた。

 秋の風は肌に冷たく、この間までの茹だるような残暑が嘘のよう。しばらく風に打たれていた颯輔は、シグナムとシャマルに視線を戻して小さく言った。

 

「少しだけ……少しだけ、一人で考える時間をくれ」

 

 この状況でも決断できずに迷う、それはもはや優しさではなく弱さだ。しかし、そんな弱さを持つ颯輔だからこそ、シグナムとシャマルは何があっても力になろうと思う事ができた。

 

 

◇ 

 

 

 水の流れる音が耳に届く。

 いつもどおりに振る舞うのがこんなにも難しいと思ったことは、これまでに一度もなかった。

 病院帰りに買い物を済ませて帰った颯輔の様子は、それはそれは酷いものだった。何をするにも心ここにあらずで、話かけられても聞き逃すことが多く、ただ黙って何もない宙を見つめている。シグナム達にはいつもどおりに振る舞うようにと言っておいて、自分ができていないのだから話にならない。

 極めつけは、料理の失敗だった。今日日マンガの世界でも流行らない、砂糖と塩を間違えるという大失態を犯してしまったのだ。おかげで出来上がった大学いもは蜜が塩辛く、とても食べられたものではなかった。シャマルが時折やらかすポカと同じレベルである。

 流石に不審に思ったらしいはやてが、「お兄、スーパーで変な病気でももらってきたん?」と心配したり、「……もしかして、恋の病……? ああ、アカン、それだけはアカンっ!!」などと、こちらが心配になるような発言をしていたほどだ。

 腕まくりをした白い手が横から伸びてきて、上から下へと流れ落ちる水を止めた。ようやくそれに、自分が皿洗いの途中で呆けていたことに気が付く。いったいこれで何度目のミスになるのか、颯輔にはわからなかった。

 

「あとは私がやっておきますから、颯輔君は休んでいてください」

「……ごめん」

 

 いつもと変わらない微笑を向けてくるシャマルが、少しだけ羨ましい。

 あれだけ泣いていたのだから、シャマルだって辛くないわけではないはずなのだ。それでもはやてやヴィータの前では普段通りに振る舞うのだから、やはり、踏んできた場数が違うということか、それとも、こういうときの女性は強いというべきか。どちらにせよ、真似できないな、と颯輔は思った。

 不本意ながらシャマルにあとを任せ、エプロンを脱いで自室へと向かう。その途中、風呂上りのアイスを楽しんでいるヴィータが駆け寄ってきた。ストロベリーのカップアイスを片手に、颯輔を見上げてくる。

 

「颯輔、その……アイス、半分食べる?」

「いや、それはヴィータの分なんだから、ヴィータが全部食べちゃっていいよ。それに、好きだっただろ? ストロベリー」

「うん……。じゃ、じゃあっ、一緒にトランプやろうぜ! もうすぐはやてとシグナムも風呂から上がって来るから、皆で――」

「ごめん、ヴィータ」

 

 ヴィータが言い終わらないうちに、否定の言葉を返す。それを受けたヴィータの笑顔が固まってしまったのを見て、ようやく自分が何をしたのかに思い至った。

 颯輔は踏みにじってしまったのだ。優しいヴィータの気遣いを。

 

「その……ごめん。ちょっと、調子が悪いみたいなんだ。今日は早めに休むことにするよ」

「そっか……うん、なら、しょうがないよな。じゃあ、その……お大事に」

「………………っ」

 

 リビングへと向かうヴィータの背中に、思わず手を伸ばしてしまう。しかし、かけるべき言葉が見つからず、そして、言葉をかける資格もないことに気が付き、その手はただ宙をかいただけだった。

 手を戻した颯輔は、ヴィータがソファに座ったのを認めて廊下へと出る。

 ドアを閉めるときに、リビングに伏せていたザフィーラと一瞬だけ目が合った。ヴィータについた小さな嘘を見咎められているような気がして、思わずドアを閉める手に力が篭ってしまう。バタン、という予想外に大きな音が、静かな八神家に響いた。

 

「……くそ」

 

 小さく自分を罵倒し、階段を昇って二階へと上がる。何かから逃げるようにして、急ぎ足で自室に入った。自分以外に誰もいない空間に入ったことで安堵を覚えてしまったのか、颯輔はドアを背にして座り込んでしまう。そんな自分がどうしようもなく矮小な存在に思えて、所構わず叫び散らしたい気分だった。

 酷い精神状態だ。颯輔の中にいる妙に冷めた目をした颯輔が、自分自身をそう評価する。両親が死んだときも、叔父夫婦が死んだときも、ここまでにはならなかった。両親や育ての親よりも従妹であるはやての方が大事だというのだから、自分も大概親不孝者であると思う。

 

「何で、こんなことになっちゃったんだろうなぁ……」

 

 記憶を辿る。

 今現在どうしてこのような状況になっているのか、それが本来の考えるべきこととは違うにも関わらず、颯輔は過去を振り返る。

 颯輔は極々普通の家庭に生まれた。両親が共働きであったために保育園や託児所で過ごす時間は多かったが、今ではもう、自分は恵まれていた方だと思っている。世の中には日本よりも治安の悪い国などたくさんあるし、家庭では冷めていても両親がいたし、健康な体を持って生まれることができたから。

 それが最初に変わったのは、ある日の遊園地の帰りに事故に遭ってから。

 颯輔は叔父夫婦に引き取られた。母親とは違って専業主婦だった叔母は常に家にいて、その後ろに付いてまわるのが颯輔の日課になった。思い返せば、その頃に妊娠中の叔母を手伝っていたことが、今の家事スキルに繋がっているのかもしれない。調理師の免許を持っていた叔母は料理が上手かったから。

 ほどなくして、はやてが生まれた。

 初めて見た赤ちゃんは皺くちゃで猿のような顔をしていた。思わず、「猿みたい」と口に出してしまい、それまで怒ったことのない叔父からデコピンを頂戴したのを覚えている。直後に叔母が叔父に対して天を衝くほどの怒りを見せたのも、鮮明に覚えている。今でも稀に夢に見るから。

 はやてが笑ったのを覚えている。

 泣いてばかりだったはやてを初めて笑わせたのは、叔父でも叔母でもなく颯輔だった。特別なことをしたわけではない。ただ抱っこをしただけで笑ったのだ。自分の場所を奪われた気がして大嫌いだったはずの妹が、そのときから可愛く思えて仕方がなかったから。

 そして、ある日唐突に叔父と叔母も亡くなった。

 家ではやての面倒を見ていたとき、警察の人から連絡が来た。とある用事から二人で買い物に出かけていた叔父と叔母は、居眠り運転で信号を無視した車に突っ込まれたらしい。相当なスピードが出ていたようで、即死だったと後から聞いた。忘れられないのは、その日が颯輔の十二歳の誕生日だったから。

 ギル・グレアムと知り合った。

 二人別々で施設に預けられそうになったとき、叔父の友人を名乗る異邦人が現れた。名前をギル・グレアム。叔父の友人にしては年配で、洋画に出てくる偉い人のような髭を生やした人。身寄りのない颯輔とはやてを引き取り、短い間だったが一緒に暮らした。まったく知らない人でも上手くやっていけた――グレアムの飼い猫達とは上手くいかなかったが――のは、何故か安心を覚えたから。

 はやてがよく泣くようになった。

 生活費の管理などを覚えた頃、グレアムは仕事が忙しくなったと祖国に戻った。その頃からはやては夜泣きをするようになった。父さんはどこ、母さんがおらん、と。寝付いたと思ったら突然泣き始め、泣き疲れて眠る。眠ったと思ったらまた泣き始める、の繰り返し。これには颯輔も散々悩まされた。ところが、しばらくしたある日からまったく泣かなくなる。きっと、我慢の限界を迎えた颯輔が遂に怒鳴ってしまったから。

 シグナム達が現れた。

 突然現れた四人は、自分達を主を守る騎士だと言った。最初は不審に思ったが、不器用な生き方しか知らない四人組に誰かを重ねてしまい、迎え入れた。いちいちこちらの様子を窺ってくるところなど、本当によく似ている。はやてが上辺だけでなく心の底から笑えるようになったのも、きっと彼女達のおかげだろう。それまでのはやては、笑いはしても楽しそうにはしていなかったから。

 楽しかった。

 

――本当に?

 

 家族が増えて嬉しかった。

 

――心から?

 

 あの日の選択は、決して間違えていなかったはずなのだ。

 

――絶対に?

 

 金色の反射光が目に入る。何かと思えば、机の上に置いてあった闇の書だった。カーテンの開いた窓から差し込む大きな満月の光を、表紙の装飾が反射している。

 家の中を飛び廻るという非常識な本だが、慣れてしまえばそれなりに愛嬌を感じる。はやてなど、ペットのように可愛がっていたほどだ。しかし、あの日から恐ろしくなって、せめて、はやての元には近づけまいと颯輔の自室に置いていた。

 ようやく立ち上がった颯輔はのろのろと机に歩み寄り、椅子を引いて座った。

 

「なぁ、お前はどうして俺のところに来たんだよ……」

 

 触れた闇の書のカバーはひんやりと冷たい。意図せず、掴む右手に力が入った。

 

「どうしてはやてまで主に選んだんだよ……。俺一人で十分だったじゃないか……」

 

 もしも、颯輔が叔父と叔母に引き取られなければ。

 もしも、あの日に遊園地に行かなければ。

 もしも、闇の書が颯輔を主に選ばなければ。

 

「お前さえいなければ……俺達は、今まで通りに生きていられたはずなんだ……!」 

 

 あるいは叔父と叔母に引き取られていなければ、はやては主に選ばれなかったかもしれない。

 あるいはあの日に遊園地に行かなければ、両親も死なずに済んだかもしれない。

 せめて闇の書が颯輔の前に現れなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 そう、闇の書さえ存在していなければ――。

 どす黒い感情が颯輔を支配する。

 おもむろに開いた頁には、何も記されていない。例え全頁捲ったとしても、白紙だということしかわからないだろう。万が一にはやてやヴィータが本を開いた場合を考えて、シャマルが隠蔽工作を施し、そう見えるようにしているのだから。

 体感で握力が半分に落ちた左手で支える。反対側を持った右手に、ありったけの力を込めて――

 

「……颯輔?」

 

 引き裂こうとしたところで、廊下からの声に手を放した。

 声の主は、先ほど振り払ってしまったヴィータだった。

 

「……どうした、ヴィータ?」

 

 鼓動がうるさい。いつもどおりの声は、出せたと思う。颯輔の耳に、階段を昇る足音は届かなかった。それだけ考え込んでいたということらしい。ヴィータが颯輔の独り言を聞いてしまったのかどうかは、判断がつかなかった。

 ドアノブが回る気配はなかったが、ドア越しにいくらかくぐもったヴィータの声はそのまま続いた。

 

「その……大丈夫、颯輔?」

「うん。横になってたら大分楽になったよ」

「そっか。なら、よかった……」

「うん……」

「あのさ、颯輔」

「……何?」

「その、上手く言えないけど……颯輔が困ったときは、いつでも言ってね。あたしは颯輔の味方だし、だから、颯輔が苦しんでるとこなんて、見たくないからさ」

「………………」

「あたしだって守護騎士の一人なんだ。温泉行ったときから何か変だったのは、ちゃんとわかってる。シグナム達とも長い付き合いだからな、何か隠してんだなーってのは、薄々感づいてた」

「………………」

「颯輔が、何か抱え込んでんのはわかった。あ、別に、話したくないなら話さなくてもいいんだ。『男の子には秘密があるのよ』ってシャマルも言ってたしな。……だけど、もしあたしでも力になれることなんだったら、話してくれると嬉しいなーって。ただ、そんだけ」

「………………」

「下でまだトランプしてるから、颯輔もやりたくなったら来てね。……あ、調子悪いんだっけ。ごめん、えっと、治ったら、また一緒にトランプやろうね。……それじゃ」

 

 ヴィータの足音が遠ざかっていく。今度は、階段を降りる音がしっかりと聞こえてきた。

 ヴィータの足音が聞こえなくなったところで、颯輔は握りっ放しにしていた闇の書を閉じて机の上に戻す。ぐしゃぐしゃと頭をかき、そのまま肘を支えにして頭を抱え込んだ。

 

「何をしようとしてたんだよ、お前は……」

 

 自分に向かって吐き捨てる。

 闇の書がなかったら、守護騎士達は颯輔達の前に現れなかったのだ。闇の書を否定することは、今の温かい家族をも否定することになってしまう。颯輔には、それだけは決してできなかった。

 そして何より、闇の書は主の命と繋がっている。引き裂かれたところで破壊されたことになるかはわからないが、先ほどの行動は、自ら命を絶とうとしていたようなものだ。それも、自分だけでなく、はやての命までも奪おうとしていた。それでは無理心中も同然ではないか。ヴィータが来なければ、いったいどうなっていたことか。

 

「問題は、蒐集を『させる』か、『させない』かだろうが……」

 

 過去を振り返ってばかりでは、未来を考えることなどできはしない。過去を変えることなどできはしないのだから、未来のことを考えるべきなのだ。

 やるべきことはわからないが、どうしたいかは決まっている。颯輔自身、それはわかっているのだが、どうしても覚悟ができなかった。

 

「本当に、情けない……」

 

 小さく呟き、立ち上がる。

 今の精神状態では、どのみち真面な思考をすることができない。ドロドロと心に絡みつく暗い感情を洗い流すべく、颯輔は風呂場へと向かうのだった。

 

 

 

 

 ドライヤーの音が止み、戸を開閉する音が聞こえる。続いて階段を昇る音が聞こえるかと思いきや、足音はこちらへと近づいてきて、リビングのドアが開いた。そこに立っていたのは、先ほどまで風呂に入っていた颯輔だった。

 今日は一日中様子のおかしかった颯輔だが、今はいくらか疲れたような顔をしているくらいで、普段と変わらないようにも見える。少なくとも、はやてには元の兄に戻ったように見えた。

 颯輔とザフィーラを除いた皆でしていたトランプも止め、寝る準備を終えていたはやての方へと、颯輔がゆっくりと近づいて来る。

 

「はやて、偶には、一緒に寝ないか?」

「…………え?」

 

 一瞬、我が耳を疑った。

 シグナム達が現れて以来、はやては颯輔とは別のベッドで眠っていた。正確には、眠らされていた、だが。風呂も一緒に入ることはなくなったし、嫌われてしまったのかとも思ったほどだ。何でも、年頃の女の子がいつまでも兄貴と一緒ではどうたらこうたら、という理由らしい。十歳にもならないのに年頃なのかはわからなかったが、それ以外はいつもどおりであったため、とりあえず、嫌われたわけではないらしいと理解したはやてはそれを受け入れていた。

 

「ダメか?」

「う、ぇ、いや、ダメやないけど……」

 

 視線を合わせてくる颯輔から顔を逸らす。心と連動した頬が緩んでしまうのを止められなかったからだ。

 ヴィータ達がいたとはいえ、密かにお兄成分の不足に頭を悩ませていたはやてである。どのような心境の変化があったかはわからないが、颯輔の提案は非常に魅力的であった。

 ただ、今日はヴィータと二人で寝ようと事前に話していたわけで。

 

「はやてが嫌なら、別にいいけど……」

「いっ、嫌やないっ! お兄と一緒に寝たいっ!!」

 

 ふと悲しげな顔をした颯輔を見て、思わず叫んでいた。

 目を点にした颯輔を見て、急に恥ずかしくなったはやては顔を伏せてしまう。いつも颯輔に甘え、また、同時に甘やかされてきたはやても、今のように声を大にして訴えたことはなかった。久しぶりに颯輔と共にベッドに入るということで、緊張してしまっているのかもしれない。

 

「颯輔、あたしも――」

「ヴィータちゃん、今日は一緒に二階で寝ましょうか」

 

 はやてが必死に鼓動を落ちつけようとしている最中、ヴィータが颯輔にアタックを仕掛けようとしていたが、言い終わる前にシャマルによってインターセプトを受けていた。

 

「え? でも――」

「行くぞ、ヴィータ」

「お、おい、ちょっとま――」

「お休みなさい、颯輔君、はやてちゃん」

「お先に失礼します」

 

 結局、伝えたいことも伝えられぬまま、ヴィータはシグナムとシャマルにより引きずられるようにして廊下へと消えてしまう。

 ドアが閉まる前に涙目のヴィータと目が合ったが、はやては合掌をして目を閉じてしまった。颯輔にヴィータと三人で眠るのもやぶさかではないのだが、せっかく颯輔から誘われたのだから、偶には二人っきりで眠りたい。

 はやて~っ、と恨みがましい念話がはやてに届いたが、それに返信することはなかった。明日はヴィータの好物を作って機嫌を取ろう、と決意するはやてである。

 

「もう歯は磨いたのか?」

「うん。トイレにも行ったで」

「そっか」

 

 頷いて返すと、車椅子を押されて寝室へと入った。嬉しさのあまりに颯輔の首へと両手を回して抱き着き、軽く抱き返されてベッドへと寝かされる。必要以上の力を込めない颯輔の優しい手つきが、はやての胸を幸せで一杯にした。

 颯輔もベッドに入ってきて、布団をかけられる。隣に並んだ颯輔の顔を見たはやては、嬉しくも疑問に思ったことを尋ねてみた。

 

「お兄、急にどうしたん? 最近、一緒に寝るのはお昼寝のときだけやったのに」

「まあ、偶にはいいかなって思ってさ」

「ひょっとして、寂しかった?」

「はは、そうかもな」

「ふ、ふーん……そかそか」

 

 にへらっ、と口角が上がってしまう。

 電気は消えているので颯輔には見えないだろうが、はやてはだらしなくなってしまう表情を抑えるのに必死だった。颯輔は冗談で言っているのかもしれないが、それでも嬉しかったのだ。二人きりの時間が減ってしまったことに、少なからず寂しさを感じてしまっていたから。

 そんなはやての気持ちを知ってか知らずか、布団の中を颯輔の手が伸びてきた。はやてのお腹の上で止まったそれは、一定のリズムを刻み始める。幼い頃、はやてが寝付けなかったときにしてくれていたものだった。

 

「なんや、昔みたいにして。別に、魘されてなんてあらへんよ?」

「うん、まあ、そうなんだけど」

「ふふ、変なお兄」

 

 小さな頃からされていたためか、颯輔にそうされるとどんなに眼が冴えていても瞼が重くなってくるのだから不思議なものだ。小さく笑ってから目を閉じたはやては、微睡に身を任せて意識を手放していく。

 

「お休み、はやて」

「ん……」

 

 颯輔から伝わる温もりが、しばらくしてはやてを夢の世界へと誘った。

 

「……ごめんな」

 

 だからだろう。安心して眠りについたはやてに颯輔の呟きは聞こえず、また、そっとベッドを抜け出したことにも気が付かなかった。

 

 

 

 

 腹部に抱き着き嗚咽を漏らす赤毛の少女を、まだ大丈夫、と安心させるように、そして、自分の口から真実を伝えられなかったことを謝罪するかのように撫でつける。ごめん、と口に出して謝ってみるも、少女は頭を横に振って泣き声を上げるばかりだった。

 風呂から上がってリビングへ足を運んだ颯輔は、シグナムとシャマルに念話を送り、これまで伏せていた全てのことをヴィータに話しておいてほしい、と頼んでいたのである。はやてが寝付いてから、念のために結界を張ってもらったリビングに皆を集めたというわけだ。

 

「ごめんな、ヴィータ。今まで黙ってて……」

「っ、いいよっ、颯輔はっ、何にもっ、悪くねえんだからっ」

 

 途切れ途切れに返してくるヴィータの頭を右手で撫で、背中を左手で軽く叩く。

 守護騎士のうちヴィータにだけ秘密にしていたのは、見た目が幼い少女である彼女に辛い現実を見せたくなかったから。そして、純粋無垢なヴィータの笑顔を曇らせたくなかったから。

 

(……違うな。本当は、怖くて自分でも認めたくなかったんだ……)

 

 ここまで来ても自分を誤魔化す自分が本当に情けない。シグナムとシャマルに説明を頼んだのも、自分からヴィータに話す勇気がなかったからだ。その証拠に、はやてにはこれまでのこともこれからのことも話さないつもりでいるのだから。

 本当に、救いようのない臆病者だ。

 

「颯輔、答えは決まりましたか?」

「……ああ」

 

 いつにも増して真剣な目を向けてくるシグナムに短く答える。腕の中で、小さな体がビクリと震えたのがわかった。

 見渡せば、シグナムにシャマル、そしてザフィーラの顔が窺える。誰もが硬い表情をしていたが、それは最初に見たあの無感情なものではなく、沈痛な思いを携えたものだった。

 シグナム達の表情を見て、少しだけ決心が鈍る。颯輔はこれから、彼女達に罪を犯せと言うつもりなのだから。それはつまり、颯輔自身も犯罪者になってしまうということ。自分が罪を被ることもそうだが、何よりも、彼女達に平穏を約束しておいて自らそれを壊してしまうことが辛かった。

 一つ深呼吸をした颯輔は、腹に力を入れて覚悟を決める。この言葉だけは、颯輔の口から言わなければならない。それが、闇の書の主としての最低限の責。

 

「……リンカーコアを蒐集して、闇の書を完成させてください。そして、俺達を――はやての命を助けてください。お願いします……!」

 

 深く、深く頭を下げた。本当なら膝をついて頼みたいところだったが、生憎とヴィータを抱えているため、そこまではできない。

 しかし、言質は取らせた。これでもう後戻りはできない。引き返してしまえば、そこに待っているのは望まぬ『死』だけだ。例え罪を犯そうとも、生き残る道があるのならば生きていたい。そして、生きていてほしい。

 

《《Anfang.》》

 

 返事の代わりに、機械の音声が颯輔の耳に届いた。続いて、ラベンダーにミントグリーン、群青色の三色の光が颯輔を照らす。それは、彼女達の魔力光。すなわち、決して来ることのないと思っていた万が一がやって来たのだ。

 

「どうか、お顔を上げてください」

「もしも『蒐集はするな』と言われても、きっと私達は黙ってこの方法を選んでいましたから」

「颯輔達には生きていて欲しい。それが、我らの願いです」

 

 颯輔は顔を上げる。そこにいるのは、それぞれの甲冑を纏ったシグナム達。ベルカの世界に名を馳せた、一騎当千の騎士達だった。

 甲冑というよりも戦装束と表現した方が近いそれは、颯輔とはやてがデザインしたものだ。鎧で固めるよりも動き易さを重視し、それぞれの魔力光に合わせた色を基調としている。ファンタジーに登場する剣士に僧侶、武道家のような装いだった。

 

「ヴィータ、お前はどうする? いつまでも泣いているつもりか?」

「…………あたしも行くに決まってんだろ」

 

 シグナムに促されて颯輔から離れたヴィータは、涙を拭ってグラーフアイゼンを突きだした。

 

「起きろ、アイゼン」

《Anfang.》

 

 ヴィータの体を紅の魔力光が包み込み、騎士にしては可愛らしいゴシックドレスが現れた。帽子にはトレードマークののろいうさぎが縫い付けられている、はやてが考えた騎士甲冑。待機状態だったグラーフアイゼンも起動しており、基本形態であるハンマーフォルムを取っていた。

 騎士の姿となったヴィータは、赤く目を腫らしながらも颯輔へと向き直った。

 

「颯輔とはやては、あたし達が必ず助けてみせる。だから……だから颯輔は、安心してここで待っててくれ」

 

 目の端に再び涙を溜めながらも笑って見せたヴィータに、颯輔は小さく頷くことしかできなかった。

 戦う力を持たない颯輔には、戦いの場でできることなど何一つない。もう一人の妹のような少女を、そして、大切な家族を送り出し、その帰りをただじっと待つことしかできないのだ。

 

「……それでは、行って参ります」

「朝までには戻りますから、ゆっくり休んでいてくださいね」

 

 ベランダへと出た四人の足元に、転送用の魔法陣が浮かび上がる。深紫の輝きの中心に浮かぶのは、八神家の始まりで終わりにもなるかもしれない闇の書だった。

 

「みんな、気を付けて。……危なくなったら逃げてもいいから、疲れたら休んでもいいから、お願いだから、怪我だけはしないで無事に帰ってきてくれ」

 

 本来なら言うべきではない言葉を、シグナム達の顔を見据えて一人一人にかける。自分がシグナム達に危険なことをさせるのだとわかっていても、それでも、彼女達には無事に戻って来てほしかった。

 颯輔の言葉を受けたシグナム達は、力強く頷いてから飛び立っていく。大きな満月が見下ろす夜空に、四色の流星が昇っていった。

 光の尾が完全に消えても、颯輔はその軌跡を見つめている。その頬に吹き付ける風は冷たく、冬の足音が間近に迫ってきているようだった。

 自責の念に囚われ、空を見上げている颯輔は気が付かない。遠くから自分を見つめる、一匹の猫がいたことに。

 

 

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