12月2日午後4時。八神家の台所では、はやてとシャマルが些か早すぎる夕飯の支度をしていた。コンロにかけられた土鍋からは蒸気が漏れ、だし汁のいい香りを台所に広げている。今晩のメニューは、寒い冬には持って来いの料理、おでんであった。
「シャマルー、そろそろ火ぃ止めてもええよー」
「はーい。でもはやてちゃん、こっちのはんぺんとかちくわとかは入れなくてもよかったんですか?」
「そっちのは煮過ぎるとふにゃふにゃになってまうからなぁ。あとは、皆が帰ってきてからで大丈夫や。そのころには大根に味が染みて、ええ感じになっとるで」
「なるほど、それは楽しみですね」
「ふふ、せやな」
疑問、感心、笑顔とコロコロ表情を変えるシャマルに、はやては微笑みを返す。今では料理にも慣れ、ほとんど失敗をしなくなったシャマルにも、まだまだわからないことはある。兄に教わった知識ではまだ自分の方が勝っていることに、はやては内心でガッツポーズを上げた。
普段は香りを嗅ぎつけて味見に来るヴィータも、それを咎めつつも実は自分も気になっているシグナムも、その光景を寛ぎながら見守っているザフィーラも、そして、八神家の家長たる颯輔も今現在は留守にしている。ヴィータは老人会に呼ばれてゲートボール、シグナムは剣道場の非常勤講師、ザフィーラは工事現場でアルバイト、颯輔は進路相談があるためだ。そのため、現在家にいるのははやてとシャマルの二人きりである。面白そうなテレビ番組もなくて手持ち無沙汰になってしまい、早めの夕食作りとなってしまったというわけだ。
今日に限らずここのところは皆が忙しい様子で、はやては家に誰かと二人きりになることが多くなっていた。シグナムであったりヴィータであったり、シャマルであったりザフィーラであったりと日によって様々であり、颯輔が学校から帰ってくるまでは二人きりなのである。夕食の時間には皆帰ってくるのだが、逆に言ってしまえば家族が揃うのはそのときくらいで、はやては少々寂しい思いをしていた。
「はやてちゃん、エプロン預かりますよ」
「ん、おおきに」
手を洗い終えたはやては、エプロンを脱いでシャマルに渡した。車椅子を誰もいないリビングに移動させると、ほぅ、と頬杖を突く。
皆が皆、毎日家にいるのが不可能なことは、はやてにも十分わかっている。生活するには働かなければならないし、ご近所付き合いも必要だ。しかし、夏が本場を迎えるまではシャマル達が皆揃っていたことを考えると、どうしても、比べてしまうのだ。
かくいうはやても、来春からは学校に復学する話を颯輔から勧められていた。エレベーターこそさすがにないが、校舎内はバリアフリーが進んでおり、私立で少しは融通も利くという聖祥大付属小学校に転校するのだ。今の学校にも友達はいるにはいるのだが、一年以上休学してしまっているはやてのことなど、もうとっくに忘れてしまっただろう。最初の頃は遊びに来てくれていた子も、今では連絡さえ取らない始末である。
そして、復学してからのことを考えているのか、最近の颯輔はあまりはやてのことを甘やかしてはくれなくなっていた。
変わらないものなどないのだと、永遠など言葉だけなのだと、理解はしているつもりだ。しかし、もう少しだけゆっくりさせてくれてもいいのではないか。
寂しさを思考で誤魔化したはやては、深い溜息を吐き出した。
「あの、はやてちゃん。颯輔君を迎えに、図書館にでも行ってみますか?」
挙句の果てには、シャマルにまで気を遣わせてしまっている。
はやては申し訳ない気持ちを抱きつつも、魅力的な提案に頬を綻ばせた。
「うーん、でも、今日は進路相談で遅くなる言うてたで? ちょう待つことになるかもしれへんけど、シャマルはええの?」
「大丈夫ですよ。はやてちゃんが本を選ぶのにお付き合いしますし、私も、何か面白い本を見つけられるかもしれませんから」
「そかそか。ほんなら、行ってみよか?」
「はい。戸締りをしてからコートを取ってくるので、少し待っていてくださいね」
ぱたぱたと駆け出すシャマルを見送り、はやては颯輔に向けて念話を送った。念話を覚えてからは、携帯の使用率がとんと低くなったはやてである。
『あー、もしもしお兄?』
『……はやてか? お前、学校の間はいきなり念話を送ってくるなって、あれほど言ったじゃないか……』
『びっくりしてビクってなるんやろ? ええ加減慣れてよ、お兄』
『せめてコール音を鳴らしなさい。……で、何の用だ?』
口で言うんかい、と心の中でツッコミを入れ、はやては要件を伝える。
『ん、シャマルと一緒に図書館で待っとるから、終わったら来てな』
『わかったけど、たぶん、17時は過ぎるぞ? いいのか?』
『ええよ、本読んどるから。夕ご飯の支度も終わってもうたし』
『随分と早いな。まあ、終わったら行くよ。それじゃあな』
『はいはーい』
颯輔との念話を終えると、カーキ色のコートを着込んだシャマルが戻ってくるところだった。自分の分を受け取ったはやては、それを着込んで毛糸の手袋もはめる。準備を終えると、シャマルに車椅子を押されて家を出た。
12月に入って日照時間は大分短くなり、16時を過ぎたばかりだというのに空は茜色に染まっている。吹き付ける冷たい風に、はやては小さく身を震わせた。
帽子とマフラーも必要やったかも、と考えながら、ブランケットを掛け直してから口の前に両手を持ってくる。はぁー、と吐き出した息は、一瞬だけ白い霧を作って宙に消えた。
ご近所さんや帰宅途中の学生達とすれ違いつつ、シャマルにクイズを出して風芽丘の図書館を目指す。お題は先ほど作ったおでんのレシピ。時折出てくる不穏なアレンジに恐れ戦きながら、シャマルの間違いを正していく。こうした確認作業をしなければ、いつ物体Xが出てくるかもわからないのだ。以前、試しにシャマル一人で料理をさせてみたところ、止めるのがあと一歩遅ければ凄惨な事態になるところだったほどである。
シャマルがレシピを暗唱できるようになった頃、ちょうど、風芽丘図書館に到着した。携帯がマナーモードになっていることを確認するついでに時間を確かめてみると、颯輔の言っていた時間までは、少なくとも30分はある。いつの間にか、茜色だった空は夜の深い青へと変化していた。
はやては顔見知りの司書さんにペコリとお辞儀をし、まずは新刊コーナーへと進んだ。今月の新刊の出版日にはまだ数日あったためか、ラインナップに変化は見られない。はやての興味を傾ける本も、兄が気になるであろう本も、すでに読み尽くしてしまっていた。
『シャマル、小説コーナー恋愛モノ目指して出発進行や!』
『了解しました!』
寒くなるにつれて増え始めた受験生に気を遣い――とは言っても、当人たちは楽しんでやっているのだが――はやてはシャマルに念話で指示を出した。本日のはやての趣向は切ない恋愛話。それが年上、それも禁断の恋だったりしたら、尚グッド。恋愛モノならば、そういったドラマが大好物なシャマルも楽しめるだろう。ジャンル毎に棚を分けてくれているこの図書館は、実に探し物がし易い。
いざ物色を始め、しばらく経ったところでシャマルの息を飲む音が聞こえてきた。
『ごめんなさい、はやてちゃん。ちょっと、お手洗いに行ってきますね』
『ん、りょーかいや』
すぐに戻ってきますから、と告げた急ぎ足のシャマルの背中が見えなくなると、はやては綺麗に本の並んだ棚に視線を戻した。
シャマルがいなければ少し高い位置にある本には手が届かないのだが、未だ気になるタイトルは見つけていない。目線の高さから段を下げていくと、最下段を通り過ぎて最上段になってしまった。
「……あ」
タイトルはとても口には出せないが、気になるものを見つけてしまった。シャマルがそばにいなかったことは幸か不幸か、それははやての手が届くか届かないかの位置にあった。
目ぼしい本はいつもこうだ。ひょっとしたら、わざとそうセッティングしているのではないか。
理不尽な怒りを感じつつ、車椅子を本棚にピタリと着けて車輪を固定したはやては、ぐっと手を伸ばした。シャマル達が現れるまで、こんなことは日常茶飯事だったのだ。随分と久しぶりの動作とはいえ、この程度で屈するはやてではない。
指先が背表紙に触れる。あと、もう少し。
奥の手発動や、と車椅子の肘置きに手をついて体重を掛けたはやては――
「んっ、しょ――ひゃっ!?」
「――っ!」
無理な過重に車椅子が傾き、バランスを崩してしまった。
ああ、こらあかん、と来たる衝撃に備えて固く目を閉じたはやては、ぽふっ、と予想に反して柔らかい感触に包まれた。カーペットにしては柔らかく、また、温か過ぎる。んぅ、と小さく疑問の声を上げて目を開いたはやては、茶色の生地と紫の毛束を視界に収めた。
「よかったぁ……。あの、大丈夫ですか?」
はやてが目線を上げたその先には、同年代の少女の上品な微笑があった。
◇
「本当にこれでいいのか、八神?」
私立風芽丘学園の進路相談室。若干黄色味を帯びた古い蛍光灯が照らすその場所で、颯輔は担任の教師と向かい合っていた。担任は三十代前半と教師にしてはまだまだ若い年齢だが、眼鏡の奥の鋭い目つきとその口調が、すでに貫禄を醸し出している。厳しい人ではあるが、その分生徒思いで人気のある先生だ。
自分と進路希望調査票を見比べながら問いを投げかけてくる担任に、颯輔は頷いて返した。
「はい。就職の方向でお願いします」
「八神の学力ならば国公立も十分狙えると思うんだがな。学費の心配をしているのならば、無利子の奨学金の申請も通るはずだぞ?」
「それは嬉しい話なんですけど……。ちょっと、稼がなければ生活が苦しくなりそうでして」
「む、そう言われるとこちらは何も言えんな……」
「すみません」
「謝る必要はないだろうに。ともかく分かった。八神がしっかり考えた上での結論ならば、もう何も言うまい。少々気は早いかもしれんが、地元で良さそうな企業を見繕っておこう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「構わん。進路希望調査はまだ何度かあるが、もしも気が変わったのなら、いつでも言いに来なさい。……おっと、いつでもと言っても来春までが期限だからな。それでは、次の者を呼んできてくれ」
「わかりました。それでは、失礼します」
深く礼をし、颯輔は進路相談室を出た。
八神家の事情は、当然学校側にも告げてある。中には同情的な視線を向けてくる教師も親身になってくれる教師もいたが、やはり、特別扱いはせずとも配慮はしてくれる担任が一番やりやすかった。
この先三者面談もあったりするが、異国で忙しくしているであろうグレアムを呼ぶべきか、それともザフィーラあたりに協力してもらうべきか。そのときが来たら考えるか、と自問自答を終了した颯輔は、教室へと続く廊下を歩く。
ちなみに、シグナムかシャマルに頼むという案はない。あの二人はただでさえ目立つ容姿をしているのだから、共に歩く姿を男子生徒にでも目撃されたあかつきには、またよからぬ称号を頂戴してしまうであろうことは目に見えていた。
一度その経験をしてしまった颯輔は、それによって被る事象を十二分に理解していた。具体的には、比較的仲がいいはずの男子にまで恨みがましい目線を向けられたり、集団で家に押しかけられそうになったり、すれ違う女子にヒソヒソと何事かを囁かれたり、などだ。
哀愁漂う背中を見せる颯輔は、辿り着いた教室の戸を開いた。中には、順番待ちや相談の終わったクラスメイト達が残っている。次の生徒に順番が来たことを告げ、コートを取った颯輔は、自分の席へと戻った。
「お疲れ、八神君。もう終わったんだ?」
「終わったけど……高町の番って、昨日じゃなかった?」
こちらまで来て声をかけてきた美由希に、颯輔は疑問を返す。時刻はすでに17時を過ぎている。部活動はまだ終わっていない時間で、何もないならば残っているような時間でもなかった。そもそも美由希の進路相談は、昨日で終わっているはずである。
「私は、まあ、ちょっと友達と話し込んじゃっただけだよ。どの大学がいいかー、とか」
「そう。高町は進学だったね」
「うん…………」
「……? どうかした?」
コートを着込む途中だった颯輔は、不意に黙り込んでしまった美由希に向き直った。その視線は、颯輔のだらりと下した左腕に向けられていて。
「……高町?」
「八神君、怪我でもしたの?」
「え……?」
「いや、左手、コート着るのに全然使ってなかったからさ。重心も傾いちゃってるし、怪我でもしたのかなーって」
「ああ、ちょっと、体育の柔道で受け身をミスってね、変なふうに手を着いちゃったんだよ」
「ふーん……。武道に怪我は付き物だけど、気をつけないとダメだよ?」
「了解。高町は剣道で大活躍だって聞いてるけど、俺はそっちの才能は皆無だったみたいだなぁ」
できるだけ自然に苦笑を返し、颯輔は右肩に鞄を掛けた。まるで暗殺者のように鋭かった美由希の目は、今はもう普段の柔らかいものに戻っている。面倒なことになった、と思いつつ、颯輔は携帯を開いた。
「妹が待ってるみたいだから、俺は図書館に行くよ。それじゃあ」
「うん、じゃあ、また明日」
美由希に軽く手を振った颯輔は教室を出ると、特に操作もしなかった携帯を閉じてポケットへと戻した。戸を開く音が聞こえないことに、一度後ろを振り向いて確認した颯輔は、ふぅ、と深い息を吐いた。
どうやら、美由希には気づかれてしまったらしい。颯輔自身気をつけていたつもりだったが、肘から先はまだ動くとはいえ、腕一本をほとんど使わないというのは、目立つ場面では目立つものだ。おそらく、美由希以外にも薄々と感づいている者はいるのだろう。明日からは、体育の授業も見学した方がいいのかもしれない。
颯輔は、今や形だけの拳しか作れなくなった左腕を擦った。闇の書の蒐集を開始させてから一ヶ月は経つが、その間も、徐々にではあるが颯輔の左腕の麻痺は進行していた。旅館で感じた痛みも、何の前触れもなしに突然襲ってくることがある。蒐集は順調なペースで進んでいるが、きっと、闇の書が完成するまでは付き合うことになる問題なのだろう。
そして、颯輔が影響を受けているということは、つまり、はやても同じ状況にあるということで。
「…………っ!」
縁起でもない想像を振り払い、昇降口で靴を履き替える。外はすっかり暗くなってしまっており、気温も大分低くなっていた。
はやてからの連絡を受けたのは、もはや一時間も前。はやてもシャマルも図書館で暇をするようなことはないだろうが、待たせてしまったことには変わりない。颯輔は歩幅を気持ち大きめに取り、図書館へと急いだ。
『颯輔、連絡があります』
「――っ」
突然の声に、ビクリ、と颯輔の肩が上がった。念話を受ける頻度はここの所上がりつつあるが、やはり、慣れないものは慣れない。電話のように着信音が鳴るものはまた別なのだが、どうも苦手があるらしい。もちろん、颯輔にはホラーが苦手などという事実はないはずなのだが。
目だけを動かして辺りの様子を探った颯輔は、何事もなかったかのように念話に応じた。
『どうした、シグナム?』
『少々――いえ、少しばかり大きな問題が発生しました。詳しくは後ほど報告しますので、今ははやてとシャマルを連れ、早急に帰宅してください。私達もまもなく帰還しますので』
『わかった。気を付けて』
『はい。それでは』
色々と訊きたいと思う衝動をぐっと堪え、颯輔は不自然にならない程度に足を速めた。
元より、全てが順風満帆にいくとは思っていない。多かれ少なかれ、困難にぶつかることは想定済みだ。問題は、それが対処できる範囲であるかどうか。
風芽丘図書館に辿り着いた颯輔は、急ぎはやて達を捜そうとして――
「あっ、お兄! おーい、こっちやでー」
入口のロビーにて、能天気に手を振ってくるはやてに呼び止められた。声のした方向、自動販売機が備えられた休憩ブースに、はやて達の姿を見つける。
そこには、はやてとシャマルの他にも見慣れない少女の姿があった。波打つ紫の長髪に、白いヘアバンド。ダッフルコートの下に覗くのは、確か、聖祥小学校の制服だったか。
「あ、こんばんは。それから初めまして、お兄さん。私、月村すずかといいます」
わざわざ立ち上がった少女から簡素な自己紹介を受け、続き、それはそれは丁寧なお辞儀をされたのだった。
◇
12月2日午後10時。時空管理局本局の一室にて、リンディ・ハラオウンは厳しい面持ちで対談に臨んでいた。
温厚な性格で普段は笑顔を絶やさないリンディだが、今回ばかりはそうもいっていられない。相手は時空管理局のトップに限りなく近い存在で、題目は二人の少女の今後を賭けたものなのだから。
「本気、なのですか」
聞かされた内容を十分に咀嚼したリンディは、冷ややかな声音を絶対零度の視線と共に放った。決して上官に向けるべきものではない。しかし、それ故にその態度はリンディの心境を如実に表していた。
並の管理局員ならばすぐさま尻尾を巻いて逃げ出す様な精神攻撃だが、対面に座るギル・グレアムは、あくまでも涼しい表情で応じた。
「もちろんだとも。何なら、運用部に所属している君の友人に確認を取ってもらっても構わないのだよ」
「……しかし、彼女達はまだ九歳の少女です。今回の任務には、あまりにも――」
「――君が、それを言うのかね? 高町なのはに協力関係を持ち掛け、フェイト・テスタロッサに嘱託魔導師の道を勧めたのは、君自身に他ならない。そして何より、息子には関わることを許しているじゃないか」
「それは……!」
グレアムに言葉を被せられ、攻め気だったリンディの表情が崩れた。グレアムが言ったことは、紛れもない事実だったためだ。
ジュエルシード事件にて、管理局の到着前にジュエルシードの回収に当たっていた現地人をこちら側に引き込んだのは、リンディだった。裁判中の少女に、少しでも罪を軽くするためにと嘱託魔導師試験を受けさせたのは、リンディだった。彼女達の魔法資質があまりにも高く、管理局にとっては喉から手が出るほどに欲しい人材であったために。
そして、息子であるクロノ・ハラオウンの特務四課入りを許したのも、リンディ自身だった。自分で決めたのならと、クロノの意志を優先させてしまったのだ。
「情に厚いのは君の長所ではあるが、同時に短所でもある。君は世渡りが上手いように見えて、その実とても不器用だ。いずれ官職に就くつもりならば、直さなければならないところだね」
「――っ! それとこれとは別問題ですっ! 今話し合っているのは、高町なのはとフェイト・テスタロッサの部隊所属の件でしょうっ!」
「……リンディ君、君は一つ勘違いをしている。これは話し合いなどではなく、通達だ。これは、上層部の決定なのだよ」
「上層部って、貴方の上に立つ人など――」
「――立場を弁えたまえよ、リンディ・ハラオウン『少将』。これは既に決定事項なのだ。君がどう足掻いたところで、今更覆るような問題ではない。それが例え、この私であってもね」
「………………」
ギル・グレアム『大将』の言葉に、リンディは異論の言葉を飲み込んだ。その代わり、握り込んだ拳は節が白くなっており、膝の上で震えている。ギリっ、と歯が鳴り、リンディの口の中に血の味が広がった。
「それに、君もよく知っているはずだ。闇の書の蒐集を一度でも受けた者は、再度蒐集されることはない。すでにリンカーコアの回復が始まっている彼女達ならば、一週間もすれば体調も含めて万全の状態で復帰できるだろう。破損したデバイスについても、こちらで修理を受け持つ。それに彼女達は、今回の『闇の書事件』で唯一確認された人間の被害者だ。なのは君もフェイト君も、もしかするとなんらかの関係を持っているか、核心に触れてしまったのかもしれない」
「……それはつまり、魔法文化のない第97管理外世界に、当代の闇の書の主が潜伏しているかもしれないということですか?」
「あくまでも、可能性の話だがね」
「それでは尚のことです。将来有望な魔導師を、ここで失うわけにはいきません」
「では訊くが、どうして彼女達は今回の戦闘を生き残った? 治療までされていた理由は?」
「それは……」
グレアムの質問は、リンディにも検討のつかないものだった。
本日、現地時間で17時を回ったころ、高町なのはとフェイト・テスタロッサの二名が魔力を奪われた状態で発見された。リンカーコアの異常なまでの収縮は、闇の書による蒐集特有のものだ。二人の証言からも、加害者は闇の書の守護騎士であるとほぼ特定できている。
この事件のおかしな点は、二人が管理局の手の届かないところで蒐集を受けたにもかかわらず、五体満足でいられたこと。あり得ない点は、一度負った怪我を治療された形跡があること。そのどちらもが、これまでの『闇の書事件』では考えられなかったことだ。今では人間の被害者も出てしまったとはいえ、これまでは魔法生物のみからの蒐集であったことと並び、今回の異常な点の一つである。
二人が生還できたのは、まさに奇跡と表現しても過言ではない。事件後二時間程度で目を覚まし、なおかつ、すでにリンカーコアの回復が始まっている点も含めて、だ。
「さらには、君が本局の医療センターに運び込むまでに……いや、フェイト君の使い魔が二人を発見するまでに、戦闘終了からはいくらか時間があったはずだ。その時点でも現地の気温は低かったと報告を受けている。もしも発見が遅れ、本人たちも目を覚まさずに放置されていれば、凍死の危険もあっただろう。それが、結界まで張られて守られていた。以上の事から考えるに、おそらく、今回の闇の書の主には未だ良心が残っており、守護騎士には良心が芽生えているのだと推測される」
「……良心、ですか? 主と、あの守護騎士に……?」
グレアムの推測は、リンディには信じ難いものだった。
これまでの闇の書の主はそのいずれもが残虐非道な人物で、守護騎士は蒐集さえ行えれば対象の生死など問わないような存在だったのだ。それ故に、管理局ではロストロギアが齎す天災扱いされていた。それが今更になって良心などと、とてもではないが信じられない。
しかし、そうでなければ今回の事態はあり得なかっただろうこともまた事実。
「もっとも、それだけでこれまでの行為が許されるわけでは絶対にないがね。犯した罪は償わせなければならない。これ以上の罪を重ねさせてはならない。被害者を増やすことも、ここで終わりにしなければならない」
「………………」
「そのための特務四課だ。我々としても、蒐集を気にせずに済む戦力が増えるのは望外な展開なのだよ。管理局は実力主義の世界。年若くとも、彼女達には一線級の実力がある。聡明な君ならば、わかってもらえると思っていたのだが?」
グレアムの真っ直ぐな視線を、リンディは正面から受け止めた。先ほどまでの動揺は、常識を覆す様なグレアムの推測で吹き飛んでしまっている。故に、そこにいるのは管理局の次代を担うと称されている、若き将官リンディ・ハラオウンに他ならない。
もっとも、リンディの表も裏もよく知る友人は、『犯罪者も真っ青の腹黒女』などと揶揄しているのだが。
グレアムの言葉のとおり、なのはにフェイトほどの魔導師が蒐集を気にせずに動けるというのは、管理局にとっては大きなアドバンテージである。今回は惨敗してしまったようだが、相互の魔法資質には大した差はないはずだとリンディは考えていた。勝敗を分ける違いがあったとすれば、それは、間違いなく経験の差だろう。
返答を決めたリンディは厳しい表情を一変させ、聖母のような微笑みを装着した。気のせいでなければ、グレアムの頬がヒクついたように見える。
「わかりました。高町なのはとフェイト・テスタロッサの特務四課所属の件に関しては、もう何もいいません」
「……そうか、わかってくれたか。二人とも君の所に所属していたからね、話だけは通さなければと思っていたのだよ」
「流石はグレアム提督ですわ。このような小娘にまで義理を通してくださるだなんて。ここだけの話、他の大将殿ではこうはいきません。手塩にかけて育てた人材『全て』を、強盗のように掠め取っていくのですからね」
「………………」
リンディは出された紅茶を口に運び、口内を潤した。切れてしまった唇が沁みたが、ここで笑顔を崩すような真似はしない。
「……ところで提督? 話はガラリと変わるのですが」
「……聞こうか」
「私、丁度良く長期休暇中でこれから暇を持て余すことになるだろう使える人材を、たまたま知っていますの。闇の書の犠牲者を減らすための少数精鋭部隊だとは熟知しておりますが、使える人材というのは何人いても困らないものです。ここまで来たら、二人も三人も四人も一緒だとは思いませんか?」
「……………………」
沈黙するグレアムに、リンディはニッコリと微笑み続けた。
後に、英雄ギル・グレアムはこう語る。昔から何故かあの笑顔には逆うことができない、あれはもはや稀少技能の領域だ、と。
◇
はやてが眠りにつき、シグナム達が蒐集へと向かってしまった深夜。八神颯輔は自室の窓から、薄く雲のかかった空を見上げていた。上空は風の流れが早いようで、雲が押し流されてはその形を変化させている。雲間から見える夜空が刻一刻と変化しているせいで、星は見えてもそれが表す星座まではわからなかった。
颯輔が帰宅後に受けたシグナムとヴィータの報告は、吉報の類ではなかった。魔導師からの――それも、高町なのはと時空管理局員からの蒐集。止むを得なかったとはいえ、越えたくはなかった一線を越えてしまったのだ。その事実が、颯輔の心に重くのしかかっていた。
颯輔は重く感じる体を支えるように、窓辺に置いた闇の書に触れた。心では敬遠しているはずなのに、その本は颯輔の手にしっくりと馴染んでくる。それが、どこまでいっても自分は闇の書の主なのだと、颯輔に再認識させてくれていた。
「さて、と……」
闇の書を開いて蒐集の済んだ頁数を確認する。高町なのは達は破格の魔力の持ち主だったようで、今日一日だけで稼いだ頁数は平時の倍ではきかなかった。それにより、現在の闇の書は453頁まで埋まっている。
魔法生物から蒐集するよりも、魔導師から蒐集した方が闇の書の完成は早いのではないか。
「………………」
脳裏によぎった悪魔のささやきを聞き流し、颯輔は告げられた新たな事実を思い返した。
蒐集頁数が400頁を越えた闇の書は、管制人格を起動させることができる。起動すれば、管制人格――主をサポートする融合騎との対話と、精神アクセスが可能となるのだ。
闇の書そのものと言い表しても過言ではない管制人格には、正直、言ってやりたいことや訊きたいことが山ほどある。温かな時間を過ごしていたはずが、あの日を境にこのような過酷な状況に陥っているのだから、当然のことだった。
管制人格から、真実を聞き出すために――
「管理者権限を行使する。……闇の書、第一封印を解除しろ」
颯輔は、そのワードを口にした。