12月3日午前8時。あるときは若き天才考古学者、またあるときは優秀な結界魔導師、またあるときは高町家のフェレット、そして今現在は時空管理局の無限書庫に勤める見習い司書――ただし、実力は司書長が感涙を通り越して絶句するほど――である少年、ユーノ・スクライアは朝の本局医療センターを駆けていた。
じんわりと汗をかいたユーノの額には金の髪が張り付いており、その口からは荒い息が零れている。すれ違う医務官に注意され、すみません、と謝りつつも、ユーノがその足を止めることはなかった。
本来は遺跡発掘を生業とするスクライアの一族であるユーノが、管理局に所属するようになった過程にはやんごとなき事情があるのだが、それを一言で説明してしまえば、あのにっくき黒いののせいであった。
今月頭にフェイトの裁判がようやく終わり、これでやっと仕事に集中できると思った矢先に催促され、その名のとおり無限の所蔵を持つ無限書庫にて、今の今まで地獄のような作業に明け暮れていたのも、あのにっくき黒いののせいである。
作業がキリのいいところまで進み、何とか出航に間に合ったと思った矢先に連絡を受け、慣れない全力疾走をすることになったのも、あのにっくき黒いののせいである。
しかし、この一大事を知らせてくれたことには感謝をしなければならない。一大事になる前に手を打てなかったことについては、自分を含めて一発ぶん殴ってやらなければ気がすまないが。
柔和を絵に描いて表したような少年であるはずのユーノは、心に暗い炎を灯して突き当たりの角を曲がった。そしてその先に、廊下の壁に背中を預けて腕を組み、何故か不機嫌そうな顔をしているあのにっくき黒いのの姿を見つけたのだった。
「ああ、随分と急いで来たようだな――って、今はマズイっ! よすんだユー――」
「――なのはっ! フェイトっ! 怪我は、な、い…………」
にっくき黒いのことクロノ・ハラオウンを突き飛ばして扉を開けたユーノは、その部屋の中、備え付けられた二つのベッド付近に、二人の少女の肌色の姿を見た。
「――っ!? ……っ! ……っっ!!」
「………………ユーノ、く、ん……?」
「…………あの、間違えました」
ぼふんっと頭から煙を上げて真っ赤になったユーノは、そっと後ずさって扉を閉めた。終始廊下で待機していたクロノは、頭痛を治めるように眉間に刻まれた皺を揉み解している。あ、あはは、と乾いた笑いを漏らしたユーノは、直後、部屋から上がる少女達の甲高い悲鳴を聞いたのだった。
「……気持ちはわからないでもないが、もう少し冷静に行動すべきだったな。それから、覗きの現行犯だ」
懐から取り出したカードを黒い魔導師の杖――S2Uへと変えた少年執務官にその先を突き付けられたユーノは、瞬く間に捕縛魔法によって拘束されてしまった。両の肘と手首を胴ごと、そして、両足首をまとめた三カ所を、水色の帯によって締め付けられている。クロノによって発動された、三重のバインドだった。
「ちょっ、待っ!? さっきのは不慮の事故であって、つまり、僕は無実なんだっ! す、少なくとも、狙ってやったわけじゃないっ! ただなのはとフェイトのことを心配してっ!」
「言い訳がましいな、この発情フェレットめ。徹夜明けでおかしくなってしまったか」
「徹夜させたのはクロノじゃないかっ!? っていうか、僕はフェレットじゃないし発情もしていないっ!!」
「医療センターでは静かにしたほうがいい。それから、むしろ君はこの程度で済んでいることに感謝するべきだ。なのは達が魔法を使える状態だったなら、間違いなくあの馬鹿魔力の餌食になっていたぞ? そうでなくとも、ビンタの一発二発はもらっていたところだ」
「……馬鹿魔力って、誰のことを言ってるのかな?」
「それはもちろん君の――…………」
第三者の声にすかさず返したクロノは、その途中で言葉を失った。ガクガクブルブルと震えるユーノの後ろに、二本の明るい茶色をした触覚と、二本の金色をした尻尾を見つけてしまったからだ。
ユーノの後ろ、開いた扉から出てきたのは、着替えを済ませた高町なのはとフェイト・テスタロッサだった。なのははクロノの母親を思わせる素晴らしい笑顔を浮かべていて、フェイトは顔を真っ赤にして涙目になっていた。
ユーノと共に口を閉ざして冷や汗をかき始めたクロノは、続く衝撃の発言に顔を真っ赤にしてから真っ青にした。
「クロノも……見たでしょ……!」
「二人とも、何か言うことは……?」
二人の少女の言葉を受けたユーノとクロノは、それはそれは丁寧な謝罪をしたのだった。
◇
時を同じくして、八神颯輔は自室にて携帯電話を耳に当てていた。普段ならばとっくに家を出ている時間だが、今日は服装も寝間着のままだ。休日というわけでもなく、そして、臨時休校というわけでもない。
保留音が二度ループして三周目に入ってまもなく、電話越しの相手はようやく受話器を取ったようだった。
『もしもし。すまんな、待たせてしまって。それで、どうした八神?』
「先生、おはようございます。昨日の今日で申し訳ないのですが、実は、風邪を引いてしまったみたいでして……」
『あー、朝方は大分冷え込んだからな。どうした、布団を蹴飛ばしてでも寝たのか?』
「はは、そうかもしれません。それで、ちょっと熱が下がらないので、今日は学校を休ませてもらおうかと」
『あいわかった。今日一日ゆっくり養生して、明日には学校に来られるようにしなさい。それから、三年生はデリケートな季節だ。辛いかもしれんが、一応、病院に行って診察を受けておくように』
「予防接種はしたんですけど、様子を見て行ってみます。それでは、すみませんがよろしくお願いします」
『ああ、お大事に』
「はい、失礼します」
通話を終えた颯輔は携帯を閉じ、ベッドへと倒れ込んだ。睡眠不足により目の下には濃い隈が刻まれているが、本当に熱があるわけではない。ただ、体調が悪いのだけは本当だった。気分などは特に、これまでの人生で最悪のコンディションだ。
体調が優れず、しなければならないこともあった颯輔は、初めて学校を仮病で休んだ。しかし幸い、そのおかげで今日一日は美由希とも顔を合わせずに済む。昨日の今日では、彼女にどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
ちょうど、颯輔の顔の横の位置にあった金細工で装飾されたハードカバー――闇の書が、淡い光を放った。光は像を結び、剣十字の上に女性の立体映像を映し出す。流れる銀の長髪に、紅玉のような瞳。等身は本来の人間サイズではなく、女の子向けの着せ替え人形サイズだ。黄色いラインの入った黒地のワンピースといった装いで、その左手首には、手枷を彷彿とさせるような禍々しい腕甲を装備していた。
『やはり、お加減は優れませんか……?』
「あんなものを見たら流石に、ね……。それに、これから考えないといけないことも増えたし……」
『……申し訳ありません』
「それはもういいって。お前だけが悪いわけじゃないのは、十分わかった。昨日みたいに責め立てたりはしないさ。……そこは、俺も悪かったと思ってる。ごめん」
昨晩の話の内容を思い出し、颯輔は複雑な表情を浮かべて謝った。対する女性――闇の書の管制人格は、顔を俯かせているままだ。もう涙は枯れてしまったのか、今は泣いている様子はない。もっとも、泣かれたとしても今の颯輔の精神状態ではろくな慰めをできそうになかったため、それは正直有難かった。
昨晩、夕食を食べ終えて就寝の準備も済ませた颯輔は、自室にて管制人格を起動させていた。懸念はしていたとはいえ、予定外のアクシデントがあり、すがるような気持ちで起動させた彼女から語られたのはしかし、あまりにも残酷な話だった。
シグナム達には何も知らせていないため、今も身を危険にさらして蒐集を続けている事だろう。お前たちがしているのは自殺の手伝いだ、などとは言えるはずがないのだ。
一階では、蒐集が行われていることさえ知らないはやてが、今日は休息を取っているザフィーラに、昨日できた友達の話でもしているだろう。お前の命は残り僅かだ、などと、いったい誰が言えるというのか。
つまり、闇の書の真実を知るのは、颯輔と管制人格のみ。
肉体的な疲れなど皆無だが、一つ大きな伸びをしてから身を起こした颯輔は、努めて明るい声を出した。
「さて、学校はもう休んじゃったし、もう一度抜け道を探すとしますか」
『――っ!? そんな、これ以上は主の心が耐え切れませんっ! 私と深く繋がってしまえば、侵食も進んでしまうのですよっ!? それに、この絶望に抜け道など――』
「――じゃあお前は、俺とはやてにこのまま死ねっていうのか?」
『そ、それは……!』
「俺はこのまま死んでしまうのも、はやてを死なせてしまうのも、お前達を囚われたままにしておくのも、何も見なかったことにしてわずかに延命されるのも……全部、真っ平御免だ」
昨晩、真実を知った颯輔は、管制人格に一つの提案をされていた。蒐集を止めれば、あと一年は生きられる、と。侵食をできる限り食い止め、少しでも長く生かしてみせる、と。
だが、闇の書を完成させずとも、待っているのは同じ未来。それに、もうすでに賽は投げられてしまったのだ。昨晩の出来事で、管理局も動き出してしまったことだろう。昨晩の出来事があらずとも、動き出してはいるのだろうが。どのみち、引き返すべき道などありはしない。
ならば、颯輔達が未来を掴む方法は唯一つ。
「生き延びるためには、夜天の魔導書の異常をどうにかしないといけない。今回二人の主が選ばれたことには、必ず意味があるはずなんだ。だから俺は、最後の時まで抗っていたい」
例え、破滅の道を進み行くことになろうとも。
絶望の運命だけは、打ち破ってみせる。
颯輔の強い覚悟は、何人にも砕くことなどできはしない。
『……わかり、ました。……ならば私も、貴方と共に抗いましょう。全ては、我が主の御心のままに』
だから、夜天の魔導書の管制人格であった彼女は、夜天の主に仕える融合騎であった彼女は、闇に囚われてしまった彼女は、今はただ颯輔に付き従うのみ。彼が闇に囚われてしまうのを、少しでも防ぐために。
「ありがとう……。それじゃあ、行こう」
『はい、我が主……』
身を起こした颯輔は、立体映像の消えてしまった闇の書を手に取り、額へとかざした。冷たい金細工に触れたことで、額から体温を奪われる感覚があった。
これより颯輔が旅立つのは、永きに渡って続いた地獄の世界。深淵の闇に覆われた、彼女達の記憶の世界だ。
「『精神同調、スタート』」
颯輔はその意識を、闇の書の内へと埋没させた。
◇
医療センターでの騒動から一時間が経過した頃、改修を終えて新装備を積んだ巡航L級8番艦『アースラ』のブリーフィングルームには、特務四課の主な構成員に見習い司書のユーノを加えたメンバーが集合していた。中にはここで初めて顔を合わせた者もいるのだが、それを考慮した自己紹介はすでに終えている。
直前までお冠だったなのはだが、外見的に偉そうな――実際とてつもなく偉い――初老の男性の登場に、今は緊張を高めていた。それは、隣にいるフェイトも同様のようで、二人は不安を取り除くように机の下で手を取り合っていた。
「はは、そう固くならずともいいのだよ、なのは君。それに、フェイト君もね。私は今回の任務では部隊長及び艦長を務めさせてもらうが、所詮は老いぼれの爺だ。適度な緊張は必要かもしれないが、今はまだ気を楽にしていてもいい。それに、君達に協力してもらうのは、君達の体調が良くなってからだしね」
「「はっ、はいっ!」」
揃って裏返った声を出すなのはとフェイトだったが、穏やかな眼差しで微笑むというグレアムの反応に余計に恥ずかしさを感じてしまい、これまた揃って俯いてしまうのだった。
グレアムのかたわらには、フェイトの復帰に合わせて長期休暇を返上する予定のリンディがおり、あらあらまあまあと二人を見守っている。その隣では、不機嫌な表情のクロノと困り顔のユーノが、未だにリーゼ姉妹によってからかわれていた。消費魔力を抑えるために燃費のいいらしい子犬形態をとっているアルフは、ゆるい部隊だねぇ、とフェイトの膝の上で呆れ顔だ。議事進行を務めるエイミィは、作り笑いを張り付けて周囲の喧騒を受け流している。
確かに、これからロストロギアの代名詞とも言われている『闇の書』に挑むにしては、些か以上にアットホームな雰囲気だった。
「んでんで、クロスケはいったいどっちの子が好みなんだ~? 態々魔法の練習メニューまで考えてやったなのは? それとも、嘱託試験やら裁判やらで付きっきりだったフェイト? でも、フェイトはそのうち妹になるかもしれないんだぞ~? あ、それに加えてエイミィもいるじゃないか! いやぁ、弟子がモテるってのは嬉しいもんだねぇ!」
「いい加減うるさいぞ、ロッテ。今はブリーフィング中だ。……まったく、いつまで経っても話が進まないじゃないか」
「ちぇー、お堅い執務官様だねぇ。せっかくお師匠様が緊張を解してやろうってーのに」
「まあまあロッテ、クロノはムッツリだから、表には出さないのよ。……そっち方面に関しては、こっちの可愛い顔したネズミっ子の方が積極的みたいだねぇ」
「だからあれは誤解ですってばっ! ついでにネズミじゃなくてフェレットですっ!」
「遂に君は、人間扱いされないことにも慣れてしまったようだな……」
その原因は、明らかにあそこの双子の使い魔にあるようだった。しかし、ロッテの言うとおりの目的もあったのか、その主も特に諌めようとはしていない。
アウェイではないが完全なホームでもないこの場に緊張すればいいのかリラックスすればいいのかわからず、なのはは深い溜息をついていたエイミィへと助けを求める視線を送るのだった。
なのはの救援に気が付いたエイミィはキョロキョロと周囲を見渡し、「え、あたしっ!?」と自身を指差した。なのはが隣のフェイト共々コクコクと頷くと、見るからにげんなりとしていたエイミィは、その姿勢を正してから大きな咳払いをした。
「あー、あー、ンっ、ンンっ! ……あのっ!! クロノ君は自業自得のくせにご立腹ですし、ユーノ君もお疲れだと思うので、そろそろ本題に入らせてもらいまっす! ロッテもアリアも着席するよーにっ!」
「はいはーい」
「む。エイミィに言われたなら仕方なし、か」
エイミィの一声で、面白おかしそうに尻尾を振っていたリーゼ姉妹が席に戻った。二人からようやく解放され、ユーノが一息をついている。クロノはというと、棘のあるエイミィの態度に溜息を漏らしていた。その様子になのははフェイトと顔を見合わせ、小さく笑いを零す。
場が落ち着いたのを見て取って、エイミィが軽やかなタッチで端末を操作していき、中空に複数のディスプレイを投影した。表示されているのは、金の十字架が装飾された本に、先日なのはとフェイトを襲ってきた二人や、金髪のショートボブの女性と蒼い毛並をしたアルフのような狼の姿だった。新たに加わった一人と一匹については判断がつかないが、なのはも見覚えがある二人は、昨日とは別の鎧のようなバリアジャケットを装備していた。そしてその表情も、まるで別人であるかのように違っていた。
「まず確認するが、昨日なのはとフェイトを襲った相手は、このポニーテールの女性とおさげの少女――シグナムとヴィータで間違いないんだな?」
「えっと、たぶん……」
「バリアジャケットの意匠が違うけど、その二人のはずです」
随分と印象の違う画像に、なのはとフェイトは曖昧に返す。その答えを受けたクロノは、微かに眉根を寄せていた。
「はっきりとしないな……。しかし、この剣のデバイスとハンマーのデバイスを使っていたのだろう? ベルカのカートリッジシステムを搭載した、アームドデバイスを」
カートリッジシステム――魔力の込められた弾薬を使用することでデバイスへの付加魔力を跳ね上げ、一時的に能力の大幅な向上を図るベルカ式魔法特有の仕組みのことだ。その機構を搭載し、直接的な武器の形状を取ったデバイスは、アームドデバイスと呼称されている。ミッドチルダ式が主流の管理局では、まず見かけることのないデバイスだ。
そのあたりの説明は、なのはもフェイトも昨日の段階で受けていた。
受けてはいたのだが。
「それは間違いないんだけど……」
「何というか、雰囲気が全然違うような……?」
あの二人は、表示されている画像のように人形のような顔などしていなかった。もっと必死で、攻防の間に感情を見せていて、なのは達と変わらない様子だったのだ。
二人のこれまた曖昧な返しに、クロノは小さく唸って腕を組んでしまった。グレアムのかたわらに控えるリンディも、拳を口に当てて考え込み始めてしまう。
停滞しかけた空気を再び進めたのは、双子の使い魔だった。
「守護騎士のバリアジャケット――ベルカ式じゃあ騎士甲冑っていうんだけど、それはそのときの主によって変わるもんなんだよ」
「変わらないのは騎士甲冑を除いた外見と使用するデバイス。雰囲気の違いはさておき、顔とデバイスが一致するなら間違いないはずよ」
「……っていうことらしいけど、話を進めちゃってもいいかな?」
疑問を残しつつもリーゼ姉妹の説明に一先ずは納得し、なのはとフェイトはエイミィの催促に頷いて答えた。それを受けたエイミィが、クロノへとアイコンタクトを飛ばす。
「昨日も説明はしたが、もう一度おさらいついでに説明しておこう。この四体の守護騎士は、闇の書に付随するプログラム――魔法生命体でしかない。それぞれの戦力は十分脅威だが、真に危険なのは闇の書とその主だ。完成した闇の書は主を取り込み、その力を使って破壊の限りを尽くす。それは、力を使い果たして機能を停止するまで終わることはない。それが終わったとしても、無限再生機能によって自身を修復し、転生機能によって新たな主を捜してしまうんだ」
クロノの説明に合わせ、エイミィが新たな画像や映像を表示させていた。
そこにあったのは、凄惨な破壊の光景だった。街は火の手に晒され、人々は逃げ惑っている。その名のとおりに闇のように暗い魔法が、都市や艦船、果ては惑星までをも飲み込んでいた。
なのはは思わずそこから目を逸らし、対面に座るグレアムとリンディが、微かに眉根を寄せているのを見た。
「君達が受けたのは、闇の書を完成させるために必要な蒐集という行為だ。リンカーコアから魔力を奪い、白紙の頁を埋めていく。全頁が埋まると完成し、主を取り込んだ闇の書が暴走を始めるというわけさ」
なのはは自身の胸に手をやり、そこをそっと撫でた。そこには、今や弱々しい反応しか感じられないリンカーコアがある。医務官には直に元に戻るだろうと言われたが、それまでは魔法の使用は厳禁とも注意を受けていた。魔法を生き甲斐としているなのはにとっては、呼吸をするなと言われているようなものである。
どうやらその様子を見ていたらしいリンディが、そっと目を細めていた。
「心配しなくても大丈夫よ、なのはさん。それどころか、お医者さんは『元に戻るばかりか成長する勢いだ』って言っていたんですから。もちろん、フェイトさんもね」
「元に戻らないケースもあるみたいなんだけど、なのはちゃん達の場合は副艦長の言うとおりに問題なしっ! 安心してもいいよ! それじゃあクロノ君?」
「ああ。これまで管理局は暴走した闇の書に対し、対艦反応消滅砲――アルカンシェルを持って対抗してきた。着弾地点を中心に、百数十キロの範囲にあるものを文字通り消滅させる魔導砲……闇の書に対抗するために作りだされたと言っても過言じゃない代物だ。だけど今回、アルカンシェルの使用は第二案となる」
「第一案は、闇の書の永久封印。それが、特務四課が掲げる目標だよ」
クロノの言葉を、説明が始まってからは口を開かずにいたグレアムが引き継いだ。口調こそ穏やかではあったが、その双眸には強い意志が感じられる。
正直、なのはは途中からあまりのスケールの大きさに理解が遅れていたのだが、闇の書の永久封印、と復唱し、辛うじて要点だけは押さえることができた。もっとも、アルカンシェルに関してはすっごく危険なモノ、程度の認識だが。
一方、なのはの隣に座るフェイトはしっかりと理解したようで、クロノとグレアムの言葉に真剣に相槌を打っていた。後で教えてもらおう、と考えるなのはである。
「今回は少々例外も見られるが、このまま何もしなければ、闇の書がもたらす被害だ甚大なものになるだろう。私達は、なんとしてもそれを食い止めなければならない。破損してしまった君達のデバイスは、四課のメンテナンススタッフが修理中だよ。二機の修理が終わり、君達も回復次第、力を貸してもらうことになる。危険な任務になると思うが、どうか、協力してほしい」
「「はいっ!」」
「えー、以上、四課の設営理念、ちなみに情報提供はユーノ君でした。えーと、続いては具体的な隊の編成について――」
「――あのっ!」
エイミィの進行を遮る少年の声。すっと手を挙げたのは、不足している闇の書の情報を無限書庫からかき集めてきたユーノだった。
グレアムとリンディの様子をちらりと窺ったエイミィは、どうぞ、とユーノを指名する。それを受けたユーノは、これまで以上に真剣な面持ちで立ち上がるのだった。
「実は、ロストロギア『闇の書』――いえ、正式名称『夜天の魔導書』には、まだ明かされていない事実があります」
グレアムにリーゼ姉妹、リンディにクロノの纏う雰囲気が、変化する。
ユーノの口から語られたのは、グレアムでさえ知りえなかった情報だった。
◇
星のない夜空のような、光の届かない深海のような、暗闇に満たされた空間。現実世界とは時間の流れさえ異なる、閉ざされた空間。管制人格との精神アクセスを介した颯輔は、その本体の宿る闇の書の中へと意識を飛ばしていた。
ここは、颯輔が夢の世界で何度も訪れた世界だ。管制人格の計らいで、忘れていたはずのその記憶は取り戻している。管制人格によればはやても訪れていたらしいのだが、一次起動を果たしてわずかに能力を取り戻した彼女により、その記憶は未だに思い出せないようにされているそうだ。
「……では、始めます。どうか飲まれてしまわれないように、心を強くお持ちください」
「ああ、頼む。今度は、大丈夫だから」
かたわらに控える管制人格に、颯輔は穏やかな声音で答えた。
颯輔が闇の書の記憶を辿るのは、昨晩に続いて二度目となる。昨晩は管制人格に打ち明けられた事実によって精神を揺さぶられていたためか、あまりに残酷な光景を直視し続けることができず、途中で彼女に止められてしまったのだった。
しかし、今回は違う。夜天の魔導書に異常が生じ、死を呼ぶ魔導書――闇の書と化しているのだという事実は、すでに受け入れることができた。シグナム達の過去については、簡単には受け入れられずとも今度は目を逸らしたりはしない。
固く握った颯輔の右拳に、常人よりもひんやりとした掌が触れた。
「私がおそばに付いております……。ですからどうか、無理だけはなさらないように……」
「……わかってるよ」
小さく息を吐き出し、颯輔はその手を取った。
小さい頃から一緒だった管制人格は、言うなれば、颯輔にとっては第三の母親か、あるいは姉のような存在なのだ。そして、今にも泣き出しそうな顔をして見上げてくる彼女の進言を、無下にできるような颯輔ではない。
颯輔の返事を受けた管制人格は、今度こそ術式を起動させた。彼女の足元に、深紫の光を放つ魔法陣が現れる。深い闇に覆われていた二人の周囲がぼやけ始め、徐々に像を結んでいった。
颯輔と管制人格は、空中から見下ろす様な視点にいた。眼下には、ある家族の団らんの様子が広がっている。温かな夕食を囲む、颯輔にはやてとシグナム達だ。闇の書の最も新しい記憶――すなわち、八神家で過ごした日々だった。
時間をさかのぼる。
視界を白い閃光が覆い尽くした。時空管理局が誇る対艦反応消滅砲――アルカンシェルの光だ。光が収まると、シグナム達の戦闘様子が映し出される。戦っている相手は、黒髪の男性に緑色の髪の女性、猫耳に猫の尻尾も生やしたよく似た女性が二人。そして、今の颯輔が知っているよりも若々しい姿の、ギル・グレアムだった。
時間をさかのぼる。
シグナム達が、捕縛魔法によって拘束されていた。その身に纏う騎士甲冑の意匠から、『前回』の出来事ではないことが窺える。彼女達の前に立つのは、黒髪をオールバックにした小太りの男だった。狂った高笑いを上げながら、その手の闇の書に蒐集を命じている。シグナム達の胸からそれぞれのリンカーコアが現れ、小さく苦悶の声を上げていた。
時間をさかのぼる。
そこは、暗い石造りの地下室だった。光源はランプの灯りのみで、湿った石壁をてらてらと照らしている。部屋の中には、壁に背を預けているシグナムとシャマル、床に横になっているヴィータと、狼形態で伏せているザフィーラの姿があった。室温が低いのか、四人が吐く息は白い。それにもかかわらず、その服装は所々が破けてしまっているボロ切れだった。
時間をさかのぼる。
大男の絶叫と共に、真っ赤な鮮血が飛び散った。大男の太腿からは、颯輔にも見覚えのある剣が生えている。剣を突き立てているのは、作り物のような顔をしたシグナムだった。宙に浮く闇の書が、大男のリンカーコアから蒐集を始める。闇の書が閉じられるとシグナムはレヴァンティンを引き抜き、続き、意識を失ってしまった大男の首を斬り落とした。
時間をさかのぼる。
城を守る城壁が爆散した。土煙の向こうから覗くのは、あまりに巨大な戦鎚。それを支えるのは、武骨な甲冑を真紅に染め上げたヴィータだった。ギラついた瞳が、風を切って迫る矢を捉える。多方向から放たれたそれらは、紅の障壁によって阻まれた。戦鎚が振り上げられる。振り下ろされたグラーフアイゼンは、弓兵の一団を叩き潰した。
時間をさかのぼる。
闇の書の噂を聞きつけ、主を狙った盗賊が屋敷に侵入してきた。主の寝室へと続く回廊を守るのは、氷のような微笑を携えたシャマルだ。向かい側の扉が開き、黒装束の男たちが飛び出してくる。盗賊たちは、鈍い銀色の刃を構えて疾走してきた。しかしその疾走は、十メートルも進まないうちに終わりを迎えるのだった。盗賊たちの体がバラバラに切り裂かれ、肉片と体液を床に撒き散らす。回廊には、目には見えないほどに細いクラールヴィントの魔力紐が張り巡らされていた。
時間をさかのぼる。
砂塵が舞い上がる荒野に、一匹の獣の姿があった。その名は、蒼き狼――ザフィーラ。周囲には、ザフィーラの魔力によって形成された杭が所狭しと並んでいる。そしてその先端には、身体の一部を串刺しにされた兵士達の姿があった。杭が描く円の外、軍隊の包囲網がジリジリとその輪を縮めてくる。血の池で上げたザフィーラの遠吠えが、戦場に響き渡った。
「う、ううううううう……!」
「主っ!!」
頭に直接叩き込まれる情報の洪水と、それが映し出す光景に、颯輔は意図せず膝を屈してしまった。繋いでいた手を引かれた管制人格が、うずくまる颯輔の体を支える。
わかってはいた。
わかってはいたつもりだった。
そのはずが、なんという醜態をさらしているのか。
込み上げてきた物を飲み下した颯輔は、管制人格の手を借りながらも立ち上がった。今見た光景は、闇の書が辿ってきた歴史のほんの一端でしかない。シグナム達はさらに長い時をあのようにして過ごし、そして、管制人格はそれをずっと見てきたのだ。
ならば、こんなところで音を上げるわけにはいかない。
「……続けてくれ」
「しかし……」
「いいから、続けてくれ」
颯輔は躊躇する管制人格に、語気を強めて言い聞かせた。
颯輔の目的は、夜天の魔導書に生じた異常を見つけ出して修正し、闇の書から本来の姿へと戻すことだ。そのためには、その異常がいったいどういうものなのか、いったいどのタイミングで生じさせられたものなのか、まずはそれを解き明かさなければならない。解決法を探るにも、その原因がわからなければ探りようがないのだ。
だから颯輔は、自身でその心を切り刻むことになろうとも、こんなところで屈するわけにはいかなかったのだ。
「……っ」
口を開きかけ、そして、出かけた言葉を飲み込んだ管制人格は、中断していた記憶の再生を再開させた。
管制人格が自身の異常に気が付いてから主へと伝えたのは、何も今回が初めてというわけではない。どころか、守護騎士達にも伝えたことがある。異常を自覚してからは、声を大にして何度も何度も訴えたのだ。
しかし、それが主に信じられることはなく、守護騎士達に関心を持たれることもなかった。
目先の欲に憑りつかれ、力を求めるばかりの主は管制人格の言葉を聞き入れようともしなかった。管制人格が起動できるのは蒐集頁が四百を超えてから。絶対の力を持って世界に君臨する未来を信じて疑わない主に、完成を間近に控えてからではあまりに遅すぎた。
その頃にはすでに心を閉ざして感情を殺していた守護騎士達は、だからどうした、と聞き流した。異常があろうがなかろうが、辿る運命は破滅ばかり。それによって何かが変わることなどもはやない、と。だから管制人格は、主の命令を遂行するだけの人形に成り果てていた守護騎士達が、せめてこれ以上は壊れてしまわないようにと、終わりの記憶を封印するようになった。
それからは、自身の異常を誰にも伝えることなく抱え込み、ただただ終わりを繰り返すのみだった。
だが、今回はこれまでとは何かが違った。
主が二人も選出された理由については、管制人格である彼女にもわからない。しかしその主達は、闇の書がもたらすとされている恩恵を知っても人間のままでいられたのだ。守護騎士達も主達の温かさに触れ、徐々に人間性を取り戻していった。そして、管制人格にとっては驚くべきことに、家族と呼べる関係にまで成りえたのだった。
だから、初めて訪れたその関係が壊れてしまうのを、これまで通りにただ黙って見ていることはできなかった。皆の笑顔を、何よりも望んでいたために。
そして、管制人格の言葉は主に届き、共に解決法を模索するという奇跡のような状況にまで至ったのだ。
望まぬ終わりを繰り返すのを止めたいことは、管制人格にとっても同じこと。だから彼女は寄り添う主を信じ、共に記憶を辿っていくのだ。
時間をさかのぼる。
時間をさかのぼる。
時間をさかのぼる。
時間をさかのぼる。
時間をさかのぼる。
時折休息を挟みながら、それでも模索をやめることはしない。颯輔は記憶から目を離すことはせず、管制人格は少しでもと颯輔の負担を受け持つ。永遠のように続くその情景を、ただ只管にさかのぼっていった。
時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼって、時間をさかのぼった。
そして、さかのぼった時の果てに――……。
「………………」
気が付けば颯輔は、独りきりでその空間にいた。かたわらに管制人格の姿はなく、記憶の再生も止まってしまっている。辺りを覆い隠すのは、一切の光を拒絶する常闇だ。
いったいどこまで記憶をさかのぼったのか、果たして異常の原因を見つけることができたのかも定かではない。霧がかかったようにぼんやりとした思考では、何かを考えようとすることもできなかった。
「……?」
ふと、こちらを見つめる視線を感じた。
ここは、颯輔以外には何も存在しないはずの空間だ。しかし颯輔は、確かに何かの気配を感じ取っていた。
微かに起動しているリンカーコア、それが告げる直感に従い、颯輔はゆっくりと後ろを振り向いた。
◇
ブリーフィングを終えたリーゼアリアは、アースラに備えられたメンテナンスルームに向かうべく、艦内の廊下を踏み鳴らしていた。時折遊び心を覗かせることはあるものの、相方のリーゼロッテと比べずとも理知的な彼女にしては、随分と機嫌が悪い様子だった。
それもそのはず。クロノが闇の書の調査を依頼したユーノ・スクライアは、あまりにも優秀過ぎたのだ。よりにもよって、こちらの決心が鈍りそうな情報まで集めてきてしまった。アリア達が十一年間かけて集めた情報をたった数日で集めてみせられたのも、その一因だろう。
ユーノの調べによれば、『闇の書』は『夜天の魔導書』と呼ばれる魔導書だったらしい。その本来の目的は、世界を渡り歩き、各地の魔法技術を収集して研究すること。つまりは、健全な資料本だったそうなのだ。
それが破壊の力を振るうようになったのは、歴代の主のうちの誰かがプログラムを改変してしまったためだそうだ。それにより、復元機能が無限再生機能へ、世界を旅する機能は転生機能へと変貌。魔法技術を記録する機能も、相手から一方的に搾取するものへとなった。主に対する性質も変化し、一定期間の蒐集がない場合は主の魔法資質をも侵食してしまうらしい。
そしてそこからは管理局も知っているとおり、完成した闇の書は主を取り込み、その魔力を使って無差別破壊を開始する。アルカンシェルで蒸発させようが、無限再生機能で新たな主の下へと転生する始末だ。ただ、再生にはそれなりに時間を要するらしく、次の事件まではおおよそ十年周期であることが唯一の救いか。
ここまで調べたユーノもさすがに停止や封印方法まではわからなかったようだが、この話を聞いたグレアムとリーゼ姉妹を除いた面々は、守護騎士にも何か事情があるのではないか、と考え始めてしまった。真実は正にそのとおりであるため、目標を前にして余計な苦労を背負い込むことになってしまうだろう。
すでに覚悟ができているグレアムとぶれない強い意志の持ち主であるロッテは、いかなる理由があろうとも罪は罪、というスタンスであった。アリア自身もグレアムらの方針には賛同しているのだが、同情を誘うような話を聞いてしまえば、少なからず心を動かされてしまうのもまた事実だった。
そんな弱い自分が許せなくて、アリアはピリピリと周囲を威嚇するような雰囲気を纏っているのであった。
廊下をずんずんと進み行くうちに、目的のメンテナンスルームの前に着いてしまった。中には困ったことが起きたと通信を入れてきた四課の技術士が、その頭を悩ませていることだろう。
両手で頬を張り、高ぶった心を鎮めるように手櫛を使って髪型を整えたアリアは、メンテナンスルームの扉を開いた。
「あっ、アリアっ! もう、助けてよぉ~!」
情けない声を上げながら、大きめの白衣を振り乱して駆け寄ってきたのは、四課に出向中の本局メンテナンススタッフ、マリエル・アテンザだ。深緑のショートヘアーに太眉と垂れ目、そして、縁なしの丸眼鏡が特徴的な少女である。四課の中ではロッテとエイミィに続いて絡みやすい性格をしており、皆からはマリーの愛称で親しまれていた。
マリーは十六歳と、アリアにしてみれば小娘もいいところなのだが、そこは人間と使い魔、呼び捨て程度はご愛嬌である。むしろ、さん付けで呼んでくる人間の方が稀有というものだ。
縋りついてきたマリーを受け止めたアリアは、よしよしとその頭を撫でた。
「はいはいどうしたの? 修理中に上手くいかないところでもあったのかしら?」
「レイジングハートもバルディッシュも、何とかコアは修復できたんだけど……」
「さすがマリー、そこまではいい手際ね」
「うん……。でも、二機ともそれ以上の修理は拒否しちゃって、こっちの操作を受け付けてくれなくて……。これじゃあ戦闘データの吸出しもできないよぉ……」
「あらら、それはなんともまぁ……」
これだからインテリジェントは、という文句を飲み込み、アリアはマリーを引きはがして奥へと進んだ。作業台には、待機状態のレイジングハートとバルディッシュが並んでいる。コアは修復できたという話だったが、その外見には痛々しいヒビが入ったままだった。
さてどうしたものか、とアリアは腕を組む。マリーは年若くとも一流の技術士だ。そもそも、そうでなければ四課にお呼びがかかるはずがない。そのマリーがお手上げということは、いくら長年の経験からアリアにデバイス関連の知識があろうとも、役に立てることは少ないだろう。
とは言え、可愛い後輩の頼みを無下にできるはずもなく、とりあえずとアリアはコンソールを立ち上げた。
「……んん?」
「あれ、メッセージ? さっきまではこんなの表示されてなかったのに……」
マリーの言うとおり、そこには一つのメッセージが表示されていた。
《《Please give us CVK-792.》》
「……!」
「そんなっ!? レイジングハート、バルディッシュ、本気なのっ!?」
文面を見て取ったマリーが驚愕の声を上げる。アリアも、息を詰まらせずにはいられなかった。
CVK-792――それは、ベルカ式カートリッジシステムを指す規格番号だ。局内では未だ試作段階の域を出ず、実用化にまでは至っていない。論文の発表はされているため、インテリジェントデバイスである二機が独自に調べたことまでは納得できる。しかし、その実装を要求してくるなど、人工知能に異常を来しているとしか思えない判断だった。
それとも或いは、そこまでして己が主を護り抜く力が欲しいのか。主を護り抜けなかったことを、悔やんでいるのか。
「……マリー、この子達は私が説得してみるわ。ちょっと長丁場になるかもしれないから、悪いけど、飲み物を買ってきてもらえるかしら?」
「え? まあ、いいけど……じゃあ、お願いしてもいい?」
「任せなさい」
アリアはニッコリ笑顔で手を振り、メンテナンスルームをあとにするマリーを見送った。あまり上手い口実ではなかったが、その辺りは日頃積み重ねてきた信頼関係がものを言ったようだった。
室内に一人きりになったアリアは笑顔を消し去り、待機状態の二機に鋭い目を向けた。
「さて、と。先に言っておくけど、自分達がとんでもなく無茶な要求をしていると自覚しなさい。……けれどその上で、こちらはあなた達の要求を呑んであげるわ」
長年グレアムらと共に管理局に勤めてきたアリアには、要求を実現できるだけの伝手があった。
その相手は四課への誘いを蹴り、つい先日に長い仕事を終えて長期休暇を取ってしまったばかりだったが、まだ呼び戻せる段階だろう。あの隠れ親馬鹿は、休暇を利用してミッドの訓練校に通う愛娘達に会いに行くのだ、などとのたまっていたが、優先順位はこちらの方が遥かに高い。それに、会いに行ったところでデリケートな年頃の娘達には煙たがられるのがオチなのだ。門前払いを受けて引き返し、研究所に籠ってどんよりとすることになるのだと考えれば、むしろ感謝してほしいくらいである。
「カートリッジシステムはまだ試験段階だけど、実は、実用化まではあと一歩のところまで来ているの。安全性にちょっと難ありだけど、短期的には気になるほどでもないわ。それに、その問題も直に解決されるでしょうし」
そして、デバイスの造詣に深いその相手は、長い仕事――すなわちアリア達の依頼を完遂するまで、ミッドチルダ式魔法とベルカ式魔法の混合を研究していたような男である。カートリッジシステムの取り扱いも、お手の物のはずだった。
「その代わり、こちらにも条件がある。まずは、昨日の戦闘データを今すぐ私に提供すること。そして、提供した後は私との会話ログも含めてそのデータを速やかに消去すること。もちろんチェックもさせてもらうわよ。いいわね?」
万が一、守護騎士との戦闘中にあるワードが出ていたならば、今後の計画に支障を来してしまう。それだけは、何としても避けなければならない事態だった。最悪、この二機の破棄すら考えなければならない。
しばらくレイジングハートとバルディッシュを睨みつけていたアリアは、続いて表示されたメッセージを読み、そして、満足そうに微笑むのだった。
◇
誰かの気配と額に触れる温もりを感じ、颯輔はその意識を現実世界へと戻した。重たい瞼を持ち上げた先には人の腕があり、それを辿っていくと、ベッドの上で自分の額に掌を当てているはやての姿を見つけた。
「……はやて?」
「あっ……。ごめんな、お兄。起こしてもうたみたいで」
「いや、大丈夫だけど……」
「まあ、もうお昼過ぎてもうたから、起こそうとは思ってたんやけどね」
颯輔の額からも掌を退けたはやてが、悪戯っぽく笑った。どうやら、額の温度を比べて熱を測っていたらしい。颯輔はいつのまにかベッドに寝かされており、布団もかけられていた。枕元には、沈黙している闇の書がある。
視線を向けたまま、颯輔は管制人格に向けて念話を送った。
『どういう状況だ?』
『記憶を辿る途中、主颯輔は意識を失ってしまったのです。主はやてらが寝室へと入室するようでもありましたので、精神同調は切らせていただきました。随分と消耗してしまったようですから、今日はこれまでにした方がよろしいかと……』
『成果は?』
『残念ながら、今のところは何も……』
『そっか……』
思考を切り替え時計を確認してみれば、時刻は13時を示していた。ベッドのかたわらには、小さい土鍋を乗せたお盆を持ったヴィータと、人間形態のザフィーラの姿がある。ヴィータは僅かに疲れを見せており、一時の休憩に来たのかもしれない。ザフィーラは、はやてを二階にあるこの部屋まで運んできたのだろう。
「はやてはやて。颯輔の熱、もう下がってた?」
「うーん、まだちょうあるみたいやったなぁ」
「布団もかけずに寝ているからです。熱が下がった方がおかしいのです」
「今日のザフィーラは酷いな……」
微熱ではあろうが、どうやら本当に風邪を引いてしまったらしい。また、颯輔と管制人格が辿ることのできた記憶はベルカの戦乱期までだったが、いくら時の流れが違っていようとも、それだけすれば現実世界でもそれなりに時間が経ってしまったようだった。
気怠い身体を起こした颯輔は、こちらの状況を確認するべく念話を送った。
『ヴィータは休憩中?』
『うん。ゲートボールの練習っつっても限界があるから、昼休憩ってことで一旦戻ってきた。その、闇の書に蒐集した分もやんねえといけねえし……』
『ああ、そうだな……。ともかくお疲れ様、ヴィータ。ついでにゆっくり休んでから行くように』
『うん……』
室内のテーブルにお盆を置いたヴィータが、言葉を詰まらせつつ返してきた。昨日の一件について、後ろめたい気持ちがあるのだろう。そして、過去のヴィータは主とはもちろんのこと、管制人格どころかシグナム達とも上手い関係を築くことはできずにいた。今ではそんなことはないとはいえ、昨晩起動したばかりの管制人格にはまだ、シグナム達と同じようにとはいかないようだった。
ちなみに、颯輔がそれを知っていることについては、当然ながらヴィータにもザフィーラにも話してはいない。知らせるつもりがない以上、ヴィータにそれを指摘することも難しいだろう。
『ザフィーラの方は、何も問題はなかったか?』
『はい。管理局もまだ嗅ぎつけてはいないようで、付近に怪しい気配もありませんでした。はやては何度か颯輔の看病をしたいと仰っておりましたが、何とか堪えていただきました』
『わかった。布団をかけてくれたのはザフィーラだよな? ありがとう』
『いえ、お気になさらず。ただ、今度からは対話が長くなるようでしたら事前にベッドに入っていてください。暖房もつけずにいては、お体に障ります』
『了解、気を付けるよ』
颯輔とはやてがグレアムとは定期的に連絡を取り合っている以上、管理局が嗅ぎつけていないというのはあり得ない。だとすれば、今は準備段階か、それとも、他に何か狙いがあるのか。いずれにしても、管理局の手は近いうちに伸びてくるだろう。報告を受けている限り、人間から蒐集をしたのはこの世界でだけなのだから。
「それでは、我は残りの洗い物を片づけておきます。食事が終わったらお呼びください」
「おおきにな、ザフィーラ。ヴィータ、お粥こっちに持ってきてくれるか?」
「うん!」
「……うん?」
目の前で繰り広げられる光景に、颯輔は疑問符を浮かべた。
ザフィーラが退室してしまったまではいい。多少体がふらつく感覚はあっても、なにも下に降りて食事もできないというほどではないのだが、ここで食事をするのが嫌というわけではない。むしろ、その気遣いは有難いものだ。ザフィーラが退室してしまったため、車椅子もないはやてがベッドから降りる気配がないのも理解できた。
だがしかし、いったいどうしてはやてはヴィータを呼び寄せ、ヴィータも喜び勇んでそれに従っているというのか。
あれよこれよと考えるうち、ベッドに上半身を起こしている颯輔は、右側をはやてに、左側をヴィータに陣取られ、身動きができない状態となってしまった。これから起こるであろう展開は、疑問を覚える颯輔にも想像くらいはできていた。
「ご飯くらい自分で食べられるんだけど……?」
「ダメでーす。お兄知っとる? 八神家の病人は、大人しく看病される運命にあるんよ?」
「颯輔はいっつもあたしらの面倒を見てくれてるからな。こういうときくらいは、あたしらが代わりにやんねえと」
颯輔の遠慮もいざ知らず、土鍋の蓋が開けられて湯気が立ち上った。甘い香りが、今はないはずの食欲を刺激する。土鍋の中身は、まだ熱々の卵粥だった。
ヴィータがお盆を支え、はやてがお粥を蓮華ですくい、息を吹きかけて熱を冷ましてから颯輔の口元へと運んできた。
「はい、あーん」
「あーん」
「……あーん」
拒否するわけにもいかず、颯輔は差し出されたお粥を口内へと迎え入れた。熱と共にご飯と卵の甘みが広がり、少しだけ感じる塩味がその旨味を引き立てている。あの光景を見た後では何も食べる気はしなかったが、存外、自分も太い神経をしていたらしい。もちろん、卵粥が絶品ということと、二人の気持ちがそれを後押しはしているのだろうが。
お粥を咀嚼して飲み込んだ颯輔は、その決意をより一層強固なものにする。この小さな幸せを守るためにも、絶対に諦めることなどできはしない。
望むべく問題の解決法は、未だに見つかってはいなかった。