12月12日。普段ならば兄を学校へと送り出し、家族と共に家事に精を出している時間帯にもかかわらず、八神はやては未だにベッドの上にいた。それも、自室のベッドではない。海鳴大学病院の、病室のベッドだった。
昨日の夕方、『発作』を起こして倒れてしまったはやては、ちょうどすずかを迎えにきた車に乗せられ、海鳴大学病院へと運ばれた。颯輔に受け止められたために頭を打ったりなどはなかったらしいのだが、念のため、ということで、入院することになったのである。はやてが気が付いたときには、すでに病院のベッドの上だったというわけだ。
「お兄もこんな大事にせんでええのに……」
日が差してくる窓から景色を眺めながら、はやてはほうとぼやいた。
正直、はやては病院が好きではない。白い部屋に押し込められ、ただでさえのところを病人として扱われれば、余計に気が滅入ってくるのだ。自宅で家族と一緒に過ごしていた方が、よほど治りが早いだろうと思えるほどだ。
そして、帰る間際だったとはいえ、すずかに迷惑をかけてしまったこともはやての気分を落ち込ませている原因の一つだった。遊びに行った先で倒れられ、心優しいすずかは自分のせいではないか、と思ってしまわないだろうか。
はやてが目を覚ましたのは遅い時間だったこともあり、すずかはすでに帰宅してしまっていた。颯輔が上手く言ってくれたらしいが、やはり、自分で謝りたい。ただ、病院では携帯が使えないため、連絡の取りようがなかった。
クリスマスも近いからと手慰みに石田に頼んだものは、まだ届けられていない。暇を持て余したはやてがぼんやりと雲の流れを目で追っていると、ノックの音とスライドドアの開く音が聞こえてきた。
「おはよう、はやて。調子はどうだ?」
「お兄、シグナムらも。おはようさん」
入ってきたのは、颯輔にシグナム達、家族の全員だった。
ショルダーバッグを提げた颯輔は、繋いだ左手をヴィータに引かれている。シグナムははやての着替えを持ってきたようで、トートバッグを手にしていた。ザフィーラも人間形態でおり、お見舞いの品でも入っているのか、ビニール袋を提げている。シャマルは皆のコートを預かり始め、クローゼットへと仕舞いこんでいた。
「調子はいつもどおりやけど……それよりお兄、学校は?」
「今日は休んだよ。石田先生と話もあるし、それに、今は学校どころじゃないさ」
シャマルにコートを預け、肩をすくめて返してくる颯輔。昔からはやてが体調を崩すと学校を休んで看病をしてくれていた颯輔だが、今回もそれをさせてしまったらしい。申し訳ないやらそれでも少しだけ嬉しいやらで、はやては複雑な気分だった。
コートを脱ぎ終えたヴィータがベッドのそばまで駆けてきて、はやて、と抱き着いてくる。心配させてしまったことを自覚していたはやては、よしよしとヴィータの頭を撫でた。
「ごめんなぁヴィータ、心配かけてもうて」
「ううん……。はやて、どこも痛くない?」
「うん、大丈夫やで。皆大げさに騒ぎ過ぎなんよ」
「いけません。健康が何より大切なのですから、はやてもお体を大切にしてください」
元気なことをアピールしたつもりが、冷蔵庫にビニール袋の中身を仕舞い終えたザフィーラに注意されてしまう。八神家子供組のお目付け役的立ち位置にいるザフィーラは、時折こうして小言を言ってくるのだ。もっとも、ザフィーラのそれはことごとくが正論であるため、言い返すことはできない。今回も、むぅ、と頬を膨らませるに終わるはやてである。
「だって、もうすぐクリスマスやし……せっかくなんやから、家族一緒に過ごしたいやんか……」
「大丈夫ですよ。そのころには、きっと退院できているはずです」
「ですから、今は石田先生と看護師さん達のいうことをよく聞いてください。いいですね?」
「はぁーい……」
漏れてしまった願望を聞きとめられ、シグナムとシャマルにまで小言を言われる始末。これにははやても大人しくならざるを得なかった。
実際、二人の言うとおりにすればいいのだ。治療に専念して、さっさと悪いところを治してしまえばいい。そうすれば、いつもの生活に元通り。思い描いていたとおりに、クリスマスを皆で祝える。ご馳走を振る舞って、おいしいケーキを食べて。シグナム達が現れてからは初めての、楽しい聖夜を過ごすのだ。
もっとも、治療に専念すると言っても、出される薬を飲んで大人しくしているくらいしか、はやてにできることはないのだが。
「ともかく、当分の着替えはタンスに入れておきましたから、こちらをお使いください」
「ん、おおきにな、シグナム」
せっせと着替えを移し終えたシグナムが、その出来栄えに満足げに頷いてから言ってきた。はやてとしては着替えを使う間もなく退院したいところだが、こうなっては致し方なし。目標は、着替えを使い切る前に治すことだ。もちろん、補充分はカウントしないで、今日持ってきてもらった分だけのカウントである。
意気込んだはやてのそばに、颯輔が近づいてきた。右手が伸びてきて、はやての頭をくしゃくしゃと撫で、続き、乱れた髪を手櫛で整えていく。
「俺とシャマルは石田先生のところに行ってくるから、シグナム達とゆっくりしていてくれ。もちろん、羽目を外して騒いだりしないように」
「わかっとるって。いってらっしゃい、お兄、シャマル」
「はい。それじゃあ、いってきますね」
ひらひらと手を振ってくるシャマルに、はやても手を振って返した。シャマルの奥の颯輔も、振り返りながら小さく右手を振っている。
「……?」
どうしてそう思ったのかは、はやてにもわからない。
ただ、病室を出ていく颯輔の背中が、いつも見ているそれよりも小さく見えた気がした。
◇
診療室へと通された颯輔とシャマルは、石田から昨晩の検査の結果の説明を受けていた。CTスキャンの画像や細かな数字の羅列されたシートなどが、机の上に広がっている。それら自体は見慣れていたが、具体的にそれが何を意味するのかなど、深い知識のない颯輔にはわからない。石田の言葉を借りてしまえば、内臓機能の低下が少しだけ見られるとのことだった。
「内臓機能の低下が数値に見えてきました。今のところは大きな影響もないのだけれど……そうね、少しだけ免疫力が下がっているようです。こっちはお薬で対応できるとして。次に、はやてちゃんが感じたという痛みは、内臓の腫れから来るものですね。また倒れられたりすると危ないので、やはり、用心のために入院を続けてもらうことになりそうです」
「そう、ですか……」
石田の説明に、颯輔は力ない声を返した。
やはり、はやての病状は少しずつ悪化しているらしい。蒐集自体は順調なペースを保っているが、はやても颯輔同様、闇の書からの侵食が進んでいたのだろう。石田の説明にあったものもあるのだろうが、感じている痛みの大部分は侵食によるもののはずだ。管制人格の力を持ってしても侵食は止められないため、襲いくる痛みにはそれが治まるまでじっと耐えるしかない。
シグナム達を助け出すためとはいえ、闇の書の力を行使してしまったことを颯輔は少しだけ後悔した。はやてが苦しむとわかっていたのなら、あのときの自分はいったいどうしていただろうか。そんな疑問が颯輔の頭を過ぎる。
「……あの、消化器系への異常が見られたりは、まだしていないんですよね?」
「ええ、その点は大丈夫です。ただ、この先も麻痺が進行して機能の低下が続くようなら、いずれは食事を取れなくなったりとなるかもしれません。それに加えて、肝臓と腎臓にまで影響が及んでしまったら、自宅での治療は難しくなるでしょう……。もちろん、そうならないようにと最大限の努力はさせていただきますが」
医学に理解のあるシャマルは、颯輔よりもよほど事の重大さを理解しているのだろう。石田の答えにほっと一息をついたものの、続く懸念の言葉に表情を険しくしていた。その分野の魔法に秀でているにもかかわらず何もできない歯痒さは、シャマルが人一倍感じているはずだった。
「あの、クリスマスまでに退院は可能ですかね……?」
「そればかりは今後の経過を見てみないと……でも、何もないようなら少しすれば退院できますから。様子を見て一時帰宅という選択肢もありますし」
石田は笑顔で答えてくれたが、あくまでそれは、はやての体調が良くなればの話だ。侵食が進めば、闇の書が完成するまでそれが回復することなどない。そしてこのまま何もせずにいれば、闇の書の完成は死を意味するのだ。つまりは、クリスマスを家で過ごすのは難しいということ。
事実を受け止めながら、それでも颯輔は暗い表情を隠した。今は、石田に余計な心配をかけるときではない。
「本人はクリスマスまでに退院したいそうなので、今回は積極的に治そうとすると思います。石田先生、どうかよろしくお願いします」
「お願いします」
「ええ、任せてください。だから颯輔君達は、はやてちゃんへのクリスマスプレゼントを考えてあげておいてちょうだい。これは秘密って言われちゃったんだけど……はやてちゃん、この間にプレゼントを用意する気でいるみたいだから」
シャマル共々頭を下げると、力強く頷いた石田は砕けた口調に戻った。固い話は終わり、ということらしい。普段と言い聞かせるときのみ、石田は砕けた口調となるのだ。
その後、少しばかりの世間話を終え、颯輔とシャマルは診療室を出た。
世間話のときには表情を明るくしていたシャマルも、今は浮かない顔を――ともすれば、ふとした拍子に泣き出してしまいそうな顔を――していた。はやてのこともあるが、昨晩の話が尾を引きずっているのだろう。病院に来るまでの道のりも、誰もがほとんど口を開かないお通夜のような状態だったのだ。
包み隠さず話したのは早計だったか、と思うも、そのときが来ればどのみち話さなければならなかったのだから、直前で混乱させるよりは、と颯輔は思い直した。
とはいえ、病室までこの空気を引き連れていくのはよろしくない。普段のシャマルに戻ってもらうため、颯輔は意図して明るい話題を振ることにした。
「クリスマス、か。クリスマスプレゼント、シャマルは何か欲しいものとかあるか?」
「プレゼント、ですか? そうですね……私には、特に。……強いて言えば、前みたいに皆で笑って過ごせるようになるのが、一番のプレゼントです」
「そ、そうだな……」
予想以上に重い言葉を笑顔で返され、これには颯輔も言葉をすぐには続けられなくなってしまう。
シャマルとヴィータは護衛として海鳴に残るが、はやての入院を機に、シグナムとザフィーラには家に戻らずに蒐集を続けてもらう算段でいた。颯輔はその間に新たな解決法を探りつつ、合間を見てプレゼントを用意しようと思っていたのだが、シャマルの願いばかりは難しいものだった。
「きっと、そうなるよ。……いや、そうしてみせる」
だが、難しいからといって諦めるわけにはいかない。皆で笑って過ごせる日を取り戻すことが、その輪に管制人格も入れることが、颯輔達の最大の目標。やる前から諦めていたら、できることもできなくなってしまう。それに、シグナム達にだけ苦労をさせておいて、自分だけが何もしないでいるのは耐えられなかった。
だから颯輔は、それが途方もなく困難な道のりであるとわかっていながらも、シャマルに笑顔を向けた。
「はい……!」
「だ、だから泣くなってばっ。もう、他の人にも見られてるじゃないか……」
ふとした拍子を作ってしまったのか、シャマルは顔を掌で覆い隠して嗚咽を上げ始めてしまった。元気づけるつもりで言ったはずが泣かせてしまったのだから、これには颯輔も立場がない。視線が集まる中でシャマルの肩を支え、その場からそそくさと逃げるしかなかった。
ごめんなさい、と涙声で謝ってくるシャマルの背を撫でて落ち着かせながら、道すがら休憩所を探す。自動販売機の隣に誰も座っていないベンチを見つけた颯輔は、シャマル共々そこに腰を下ろした。シャマルがこれでは、はやてやシグナム達にも様々な意味で誤解を与えてしまう。颯輔が怒られる方向に転ぶならばまだしも、万が一にもはやてを不安にさせるわけにはいかなかった。
『ですから、話さない方がいいと申し上げたのです。こうなることは目に見えていました』
颯輔が通りかかった人々からの様々な温度の視線に耐えていると、ショルダーバッグに収められた闇の書から、管制人格の念話が届いた。不服そうな声音であるのは、管制人格が直前まで反対していたからであろう。シグナム達の不満は解消されたが、その代償に著しく士気を低下させてしまったのだから、その点は管制人格の危惧していたとおりと言えた。
一人ばつの悪い表情を浮かべた颯輔は、内心で溜息を吐きつつそれに応じた。
『仕方ないだろ、誤魔化すのも限界があったんだ。それに、まだ時間はあるんだから、他の選択肢だって見つかるかもしれないじゃないか』
『仰るとおりではありますが……しかし、それで主颯輔が無理をしてしまわれれば、元も子もありません。主はやてや騎士達を気遣うように、どうかご自身の身も労わってください』
『今は無理をしなくちゃいけないときだよ。もう後には退けないんだから、ひたすら前に進むしかない。お前だって、そのくらいはわかって――……いや、ごめん、そういうつもりで言ったわけじゃなくて……』
『…………っ』
念話の途中、管制人格の雰囲気が変わってしまったのを感じ、颯輔は言葉を詰まらせた。声を押し殺して涙を流しているのが、姿を見ずともわかってしまったのだ。
何もかもが自分の所為だと思っている節のある管制人格に、自己を顧みない台詞を聞かせてしまうと、それを気にして自己嫌悪に陥り、事ある毎に泣き出してしまうのだ。颯輔は昨日から皆を泣かせてばかりいることを反省しつつ、右手ではシャマルを、左手ではバッグの中にある闇の書の表紙を撫でた。
颯輔にだって、死にたくないという気持ちはもちろんある。だから、どんなに可能性が低くとも、最良の結果を得たいとは思う。しかし、それしか方法がないとなれば、家族のために命を懸ける覚悟はあった。
(覚悟とは言葉ではなく行動で示すもの、か……)
闇の書の記憶の中、遠い過去に存在した、とある王の言葉を颯輔は思い出した。
言葉にしてしまえば悲しませてしまうのだから、あとは黙って足掻くのみ。
それでもどうにもならない場合は、八神颯輔の全てを賭ければいい。
颯輔の胸の奥、心臓以外の何かが鼓動を刻む。颯輔は絶え間ない痛みに耐えながら、管制人格とシャマルが泣き止むのを待つのだった。
◇
正午を過ぎても冬の太陽は夏ほど高くまでは昇らず、室内に眩しい光を届かせる。雲が切れて顔を出した太陽に照りつけられ、颯輔はカーテンを半分引いた。明度は下がったが、それでも証明を点けるほどではない。
少しだけ暗くなった病室にいるのは、颯輔とはやての二人だけだった。シグナムとザフィーラはしばらく前に出て、闇の書の残りの頁を埋めるべく蒐集に赴いている。ヴィータとシャマルは颯輔とはやての護衛役ではあったのだが、今日だけは先に帰ってもらっていた。念のためにと闇の書は颯輔が持っているため、万が一があっても二人が駆け付けるまでの時間くらいは稼げる。
今だけは、颯輔ははやてと二人きりでいたかった。
「はやて、寒くはないか?」
「ん、寒くあらへんよ。エアコンは動いとるし、厚着だってしとるもん」
羽織ったカーディガンをパタパタと動かし、笑顔でアピールをしてくるはやて。颯輔はそれに苦笑を漏らし、ベッドの隣にある椅子へと戻った。
冷暖房完備の病室は、はやての言うとおりに適温に保たれている。しかし、それでも颯輔の心が冷たくなってしまうのは、静かな怒りを感じているためだ。颯輔には、はやての笑顔が作り物で、ただ強がっているだけなのだとわかってしまっている。例え管制人格からの進言がなくとも、今のはやての嘘くらいは颯輔でも見抜けた。どれほどはやてが嘘をつくのが上手くとも、無理をしているのは見え見えだった。
家族に心配をかけないようにと、負担にならないようにという努力が、棘となって颯輔の心に突き刺さる。内側から響く痛みが、余計にそれを錯覚させた。
颯輔は右手を伸ばし、はやての柔らかな髪に手櫛を入れた。くすぐったそうにしながらも、はやては目を細めてそれを受け入れていた。
小さい頃から、はやては甘えることはあっても我儘を言うことはなかった。あれが欲しい、これが欲しいとねだることはなく、ただ傍にいることだけを望んでいた。早くに両親を亡くした反動か、一人になってしまうことを嫌うのだ。そのため、家からは距離のある図書館にも颯輔を迎えに来ていた。寂しさを本の世界に入って誤魔化しながら、一人の時間を少しでも短くするために。
しかしそれでも、颯輔が忙しいことを子供ながらに理解していたのか、颯輔の手が空いたときにのみ声をかけてくる。つまり、はやてが無理を押して家事を手伝うようになったのは、コミュニケーションを取るためだったのだ。年端に合わない家事のスキルも、はやてにとってはただの手段でしかなかった。
誰かに隣にいてほしくて。けれど、大切なその人を失ってしまうのが恐ろしくて。だからはやての大切な人は、これまで颯輔一人だけだった。小学校を休学したのも、身体のハンデだけが原因ではない。友達ができても一定の距離を保ってしまうため、上手い関係を築けなかったのだ。
けれども、はやては突然現れたシグナム達を受け入れた。それは、はやてが闇の書の主であり、闇の書が起動する前から無意識化では精神リンクが繋がっていたためでもあるのかもしれない。そして、はやてのささやかな願いは主従を超えた関係を築いた。それがはやてにもたらした変化は計り知れない。月村すずかと友達になることさえ、以前のはやてならば選ばなかっただろう選択肢なのだから。
だが、大切な人が増えたことで、はやては益々無理をするようになった。それが今の状態だ。本当は泣き出したいほど痛いはずなのに、笑顔の仮面を被っている。大切な人の前でさえ、はやてがそれを外すことはないのだ。
だから、八神颯輔は。
「はやて」
「んー?」
小首を傾げたはやてが、颯輔を見上げてくる。颯輔は手櫛を入れていた右手を移動させ、はやての頬へと掌を添えた。
「痛いときは、痛いって言ってもいいんだぞ」
掌から、ビクリと震えが伝わってくる。はやての笑顔は凍りついてしまっていた。
「泣きたいときは、泣いてもいいんだ」
「お、お兄? いきなり何言って――」
颯輔はほとんど感覚の残っていない左腕を無理矢理持ち上げ、両手ではやてを引き寄せた。
「誰もそれだけで、はやてを嫌いになったりなんてしないから。泣いたって、もう怒ったりなんてしないから」
「…………」
腕の中のはやてが小さくもがく。それでも颯輔は、はやてを抱きしめ続けた。
「だからもう、無理して我慢する必要なんてない」
「…………っ」
「ここにはシグナム達もいないから、俺しかいないから、だから、弱音を吐いたっていいんだよ」
腕の中の抵抗が徐々になくなり、はやての腕が颯輔の背中へと回される。颯輔の胸へと黙って顔を押し付けていたはやての体が、小さく震え始めた。
「俺はずっと、はやてのお兄をやってきたんだ。はやてが痛いのを我慢してることくらい、お見通しなんだからな」
「……っ、うぅ……ぉ、おにぃ……」
「なんだ?」
絞り出したかのような、微かな声。颯輔は、右手ではやての頭を撫でて続きを促した。
「……いたい……いたいよ、おにぃ……!」
「うん」
「足が痛くて……お腹が痛くて……胸が苦しいんや……ずっと……ずっと、痛いの消えてくれへん……!」
「ごめんな、今まで我慢させて……。もうすぐ治るから……きっと治してみせるから、だから……」
「ぅ、っ、うああああああああああああ!」
遂にはやては、声を上げて泣き出してしまった。颯輔はその小さな体を包み込み、黙って温もりを与え続けた。
颯輔がはやての泣いているところを見るのは、おおよそ五年振りとなる。それほどの間、はやては内に溜め込み続けていたのだ。いったいどれほどのものを抱えていたのか、その全体像は颯輔にも想像がつかない。けれど、はやての感じる孤独と寂しさの一端くらいはわかるような気がした。なぜなら、それを感じる暇もなかったというだけで、颯輔もはやてと同じだったのだから。
静かだった病室に、はやての声だけが響く。
もしかしたら、はやては颯輔に対して余計に依存するようになったのかもしれない。できれば、シグナム達の前でも同じように弱さを見せられるようになればとは思う。しかし、今回は無理やりにでもはやての強さを崩してしまう必要があった。『その時』が来てしまう前に。
「……大丈夫。俺はずっと、はやての傍にいるから……」
しがみつくはやてに言い聞かせるように、颯輔は小さく囁いた。
それはまるで、約束をするかのようで。
闇の書は、あと少しで完成する。蒐集を行うのはシグナムとザフィーラの二人のみとなってしまったが、年内の完成は確実だった。あとは、より良い方法が見つかるか、それとも命懸けとなるかだ。
闇の書の呪いを解く安全な方法が見つかるのならば、それでいい。命懸けとなるのならば、勝ちの目を出しに行くだけだ。
だが、いずれの場合も問題となるのは、管理局の、そして、グレアムの動向。昨日の戦いにリーゼロッテとリーゼアリアの姿があったことから、颯輔達の保護者であるはずのグレアムが今回も動いていることに間違いはない。八神家の内情を知りながら、何の音沙汰もないのは些か以上に不気味なことだ。近いうちに、リスクを承知でグレアムと接触する必要があった。
はやてを抱きしめながら、颯輔は窓の方へと目を向ける。再び雲に隠れてしまったのか、カーテン越しでもはっきりとわかった太陽の輪郭は、ぼやけてしまっていた。
◇
12月13日の夕方。昨日の戦闘で負傷したフェイト・テスタロッサは、本日はオフを貰っていた。怪我自体はすぐに治療してもらったのだが、ここ数日は管理局員と小学生の二重生活で忙しかったこともあり、念のためにと完全休暇となったのだ。
フェイトの代わりというわけではないが、大きな負傷もなかった高町なのははアースラで待機。そのため、今日のフェイトはアリサ・バニングスと月村すずかの二人と行動を共にしていた。
「ね、ねぇすずか。本当に、私も一緒に行っていいのかな……?」
「もちろんだよ。お友達も一緒に行ってもいいですかって昨日のうちに聞いておいたけど、大丈夫って言ってたから」
「そ、そう?」
「ていうかあんた、目の前まで来ておいて今更過ぎるでしょ」
「そ、そうだね……」
目的地を前にして尻込みしてしまったフェイトに、温かい眼差しと呆れた視線が注がれる。責められているわけではないのだが、なんだか居た堪れなくなってしまったフェイトは、顔の熱が上がるのを感じた。
しかし、今でこそ慣れてきてはいたが、小学生をしたり友達と遊んだりと普通の子供らしいことに耐性のないフェイトにとっては、お見舞いというものも一大イベントである。すずかの友達とはいえ、相手が初対面の子ともなれば尚更だ。特務四課のメンバーが仕事に追われている中で自分だけが、という負い目もあった。
とにかく、ここまで来たからには覚悟を決めなければ、と深呼吸をするフェイト。フェイトが落ち着いたところを見計らってから、すずかがドアをノックした。
はーい、という男の人の声が返ってくる。ドア越しであることを考えても、いくらか小さな声であるような気がした。入院しているのは女の子だという話だったのだが、いったいどういうことなのか、などとフェイトが考えていると、すずかが失礼します、とドアを開けた。先頭を進むすずかとその一歩後ろのアリサに遅れ、フェイトも慌ててその後に続いた。
病室は個室のようで、それなりに広い部屋にベッドやタンス、クローゼットなどがあった。ベッドの横、椅子に腰かけていたのは、一人の男の人。立ち上がってこちらに向き直った男の人の視線が、フェイトのそれと交わってそのまま停止した。
「こんにちは、お兄さん。お友達と一緒に、はやてちゃんのお見舞いにきました」
「…………」
「お兄さん?」
「あ、ああ、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃって。改めて、こんにちは、すずかちゃん。それから、わざわざありがとうね」
すずかの挨拶に男の人の視線が切れ、固まっていた表情が柔和なものになる。どうして自分を注視されていたのかはわからなかったが、その優しげな顔立ちを見て、フェイトの中の小さな疑問は泡となって消えてしまった。
男の人はおそらく、すずかの話にあった八神はやての兄――八神颯輔なのだろう。どうやら、お見舞いの時間が被ってしまったらしい。
「君達は初めましてだね。はやての兄の、八神颯輔です」
「アリサ・バニングスです。こっちはフェイト・テスタロッサで、私もフェイトもすずかのクラスメイトです」
「よ、よろしくお願いしますっ」
「はい、よろしくね。それから二人も、学校からは遠いのにわざわざお見舞いに来てくれてありがとう」
「いえ、家の者に車を出してもらったので。それからこれ、よかったら食べてください。喫茶翠屋っていうお店のシュークリームです」
「本当はもう一人、翠屋の子も来るはずだったんですけど、クリスマスセールの準備で忙しいとかで……」
「そ、そうなんだ……。ま、まあ、ありがとう。でも、三人ともまだ小学生なんだから、今度からは何も買ってこなくても大丈夫だよ。こういうのは気持ちが大事なんだし、はやてもお見舞いに来てくれるだけで嬉しいと思うからさ」
颯輔がシュークリームの入った翠屋の箱をアリサから受け取りつつ、穏やかな口調で諭してくる。フェイト達からしてみればお見舞いの品を用意するのは当然のことだったが、世間一般の目から見れば、小学生がわざわざ高価なお菓子を買ってくることなどないのだろう。安物ならばともかく、翠屋のシュークリームはスナック菓子などに比べれば倍近い値段となるのだから。
そういえば肝心のはやての声がしない、とフェイトがベッドに目を向けると、そこには静かに寝息を立てる女の子の姿があった。すずかの携帯の画像にあった、栗色のショートヘアーの少女だ。呼吸に合わせ、布団が上下に小さく動いていた。
「せっかく来てもらったところ悪いんだけど、今、はやては寝ちゃってるんだよね。すぐ起こすから、ちょっと待っててね」
「いえ、そんな、悪いですよ」
「いいのいいの。それに、せっかくお友達が来てくれたのに起こさなかったら、後で俺が怒られちゃうよ」
肩を竦めて答えた颯輔が眠る少女を小さく揺らし、はやて、と呼びかけた。一度眉根が寄り、はやての瞼がゆっくりと持ち上がる。もぞもぞと半身を起こしたはやては、大きな伸びをした。
「ふあー……。ん、おはようさん、お兄」
「おはよう。それと、すずかちゃん達がお見舞いに来てるぞ」
「そかそか…………え?」
口に掌を添えて欠伸を噛み殺していたはやての目が、こちらに向けられる。ぴしり、と固まったかと思うと、ぐるんと反転して窓の方へと顔を隠してしまった。
何で起こしてくれなかったんや、やら、来たから起こしたんだよ、やら、来る前に起こして、などと小声の応酬が聞こえてくる。はやてが服装を乱れを直し、その間に颯輔が手櫛で寝癖を整えるという兄妹らしいコンビネーションが見られた。フェイトにも義兄となるクロノ・ハラオウンがいるのだが、まだあんなことはできないし、今後できるようになるかもわからなかった。
「ご、ごめんな、すずかちゃん。みっともないとこ見せてもうて」
「ううん、気にしてないよ。こっちこそ、タイミングが悪かったみたいでごめんね?」
「そ、そんなことあらへんよ。……そっちの子らは、すずかちゃんの友達?」
「うん。紹介するね。アリサ・バニングスちゃんと、フェイト・テスタロッサちゃん。昨日話したのは、アリサちゃんの方だよ。フェイトちゃんも仲良しさんで、予定が空いてたから誘ってみたんだ」
「そかそか、おおきにな。わたし、八神はやて言います。えと、変な喋り方やけど、よろしゅうお願いします」
ぺこりとお辞儀をして自己紹介してくるはやてに、フェイトもアリサも同じく返す。はやての独特の口調とイントネーションは、関西弁というものらしい。本人曰く、色々と混ざっとるかもしれへん、とのことだったが。
口調はともかく、そのにこやかな表情は、フェイトの親友たるなのはに似た雰囲気を感じさせた。なんとなくだが、この子とは上手くやれそうな気がする。初対面の子にそのような感情を抱くのは、引っ込み思案なフェイトにしては珍しいことだった。
「さて、はやても起きたことだし、さっそくもらったシュークリームをいただくとしますか」
「シュークリーム?」
「ああ。翠屋のなんだって」
「あ、でも……」
「いいからいいから…………なるほど、ね」
翠屋の箱を開けようとする颯輔にフェイトが思い出したように声を出すも、少しだけ遅かった。中を見た颯輔が、納得したように頷く。それもそのはず、買ってきたシュークリームは四つだけで、はやてと一緒に四人で食べようと思っていたのだ。この時間にまで家の人が残っているとは、想定していなかったのである。
しかし、颯輔は何事もなかったかのように椅子を勧め、さらに、すずか、アリサ、フェイト、はやての順でシュークリームを配った。椅子もシュークリームもなくなってしまい、颯輔は壁に背を預けてしまった。
「あの、いいんですか?」
「もちろん。俺はあんまり甘いのは食べないから、気にしないでもいいよ」
「お兄の嘘つき。翠屋のシュークリームはやっぱりおいしいって前に言ってたやんか」
「…………」
すずかの問いに涼しく答えたはずの颯輔だったが、続くはやての言葉に笑顔を固めてしまった。兄妹故にお互いの好みは知っているのか、誤魔化しは効かなかったらしい。
「はい、お兄。わたしとはんぶんこでええやろ?」
「いいって。はやてだって好きなんだから、別に分けなくたって――」
「――もう割ってもうたんやから、今更遅いで」
「……ありがと」
食い下がる颯輔に、半分になったシュークリームを差し出して引かないはやて。やがて根負けしたのか、颯輔は苦笑交じりにそれを受け取っていた。フェイトとクロノ以上に年が離れているように見えるが、随分と仲のいい兄妹である。
「……なのはとフェイトよりも甘いわね」
「……そうだね」
「え?」
「別に」
「何でもないよ」
「……?」
颯輔とはやての様子を見ていたフェイトの耳に自分の名前が届いた気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。隣に座るアリサとすずかは、揃ってシュークリームを口に運んでいた。
二人に倣い、フェイトもシュークリームを頬張った。カリッとした食感と共に、口の中に控えめで上品な甘さが広がる。海鳴では評判の喫茶翠屋、その中でも一押しの洋菓子に舌鼓を打ちながら、兄妹の在り方を見て学ぶフェイトだった。