カーテンの隙間から差し込んでくる日の光を感じ、はやてはゆっくりと意識を覚醒させた。
寝惚けてぼんやりとしているところには辛い光に顔をしかめながら、何度か瞬きをして目覚まし時計に目を向ける。
どうやらアラームよりも先に起きてしまったらしい。まだ寝れるやんか、と二度寝を決め込もうとしたはやてだったが、目ざまし時計の示す時刻に違和感を感じ、もう一度それを確認した。
八神家の起床時間は6時である。身支度を整える他に、二人分だけだが朝食も作らなければならないためだ。
さらに言えば、自分は障害の所為で兄の手を借りなければまともな生活を送れないため、普通の人よりも多く時間がかかる。それを踏まえての起床時刻だ。その習慣は休日であっても変わらない。
だが、目覚まし時計の針はどう見ても7時手前を指していた。
アラームに気づかず寝過ごした可能性もあるが、隣を見れば、口を半開きにして、起きているときには見られないあどけない寝顔を見せる兄がいる。自分だけならまだしも、しっかりしている颯輔まで一緒に寝過ごすというのは、少し考え難い。
よくよく見てみれば、一番短いアラームの針は、7時に設定されていた。
目覚まし時計を触るのは、アラームを設定するときと止めるときくらいだ。アラームの鳴る時刻を変えることは、普段はしない。でも、現に設定時刻は変わっている。
颯輔が変えたのだろうか。そう思って視線を颯輔に向けると、その向こう、ベッドよりも向こうで、ムクリと影が立ち上がった。
「おはようございます、主はやて」
どこかで聞いたことがあるような、低い男性の声。
だがしかし、はやての視界に移る人間は、その手前の颯輔しかいない。というかそもそも、この家には自分と颯輔しか人間はいない。
きっと寝惚けているのだ。そうに違いない。
コシコシと目を擦って、もう一度影に目を向けてみる。
「どうかなさいましたか?」
そこにいたのは、青い毛並をした大きな獣。人語を解す、大きな犬だった。
「きゃっ、きゃあああああああああああああああっっっ!?!?」
6月4日、日曜日。
はやての誕生日は、家中に響き渡るはやての悲鳴で始まったのだった。
◇
「闇の書の主に、守護騎士かぁ~……。なんや、お話の出来事みたいやね」
朝、はやての悲鳴によって叩き起こされた颯輔は、昨晩に聞き出し整理した情報を説明した。
悲鳴を聞きつけて駆け付けた残る守護騎士三名の登場に更なる混乱を見せたはやてだったが、どうにか状況は理解したらしい。子供の純粋さ故か、はたまたはやての器が大きいのか、事実を疑うことはなかった。
ちなみに、主を驚かせたとしてシグナム達に思念通話でこっぴどく叱られているようだったザフィーラは、しばらく耳と尻尾を垂れ下げてしょんぼりとしていた。主の護衛――シグナム達も申し出たが颯輔が断固として拒否した――が何たる醜態か、ということらしい。
目覚めた段階では一人蚊帳の外だったはやてだったが、状況を理解するとすんなりとザフィーラを許した。
初見では驚きはしたが、もともと犬を飼うことに憧れを抱いていたはやてだ。人語を解すというイレギュラーはあるが、ザフィーラの存在は大歓迎である。
注記しておくが、ザフィーラは犬ではなく狼である。重要なことなので出来れば間違えないでほしいとのこと。
『確かに信じ難いけど、自分で魔法を使ってみると、信じるしかないだろ?』
『思念通話、やったっけ? 便利やね、魔法って。これあったら、電話代が丸々浮くんちゃう?』
『俺かシグナム達と話すときは、な。普通の人には使えないんだから』
『んまぁ、それもそうやね』
早速覚えたての魔法を使ってみる。闇の書の構築する精神リンクを利用した場合は呪文を唱えたりと特別な動作は必要とせず、心で念じるだけで声が届くため、思念通話はすぐに使えるようになっていた。
「あのぅ……」
「ん? どないした、シャマル?」
「その、私達にも、何かお手伝いできることはありませんか……?」
「ああ、別にええよ。わたしとお兄が闇の書の主っちゅうんなら、騎士の面倒もしっかりみなあかんし。な、お兄?」
「そうだな。この世界じゃまだ慣れないことも多いだろうし、今はゆっくりしていてくれて構わないぞ」
おずおずと手を挙げ質問したシャマルに、はやてと颯輔は朝食であるおにぎりを作りながら答えた。守護騎士達はプログラムが人間の形を取ったものだが、その外見も名前も外国人――異世界人とも言える――だから箸は不慣れであろうという配慮である。
八神家では一日分のご飯を朝にまとめて炊くため、六人分のおにぎりは何とか用意できそうだった。
しかし、主二人がせっせと朝食を用意しているというのに、守護騎士であるシグナム達が黙って座っているというのはあり得ない。かと言って、戦いが本分で食事の必要すらなかった騎士達には、料理の心得などあるはずもない。そこで、初めての扱いに困惑している四人を代表してシャマルが尋ねたのだったが、ゆっくりしていろと、これまた初めての扱いに困惑を深めるばかりである。
結局、どうすえればいいかわからずに立ち尽くしている間に、二人は朝食を作り終えてしまった。
大きなおにぎりが一つに、卵焼きとウインナーにプチトマト、そして熱いお茶が食卓に並ぶ。箸とフォークの両方がシグナム達に配られ、やはり困惑をしつつも揃っていただきますと手を合わせた。
主からの魔力の供給があれば食事は不要な守護騎士だが、それを告げても、自分達だけが食べるのは悪いと押し切られてしまったのだ。もちろん食べられないことはないし、そもそも主が自ら用意したものを食べないという選択肢はない。
同じテーブルについて同じ食事を取ることに恐縮しつつも、海苔の巻かれたおにぎりを口に運んだ。
「うまい……!」
小さく漏らしたのは、小さな口で大きなおにぎりを一かじりしたヴィータだった。
海苔の香りが鼻腔をくすぐり、塩によって引き立てられたご飯の旨味が口の中いっぱいに広がる。
大きく口をあけてかじりつくと、今度は先ほどとは別の味がした。マヨネーズを和えたシーチキンである。マヨネーズの酸味が食欲を促し、口に運ぶ速度が上がる。
美味しい。今まで食事を取ったことがなかったわけではないが、闇の書の長い歴史の中でもこんなに美味しいものを食べたのは初めての経験だった。
感想を口に出したのはヴィータだけだったが、シグナムにシャマル、ザフィーラも同じだったようで、見る見るうちにおにぎりが小さくなっていく。
颯輔とはやては、その様子を満足そうに見守っていた。
『いい食べっぷりやねぇ。お昼ご飯はもっとたくさん作らなあかんとちゃう?』
『そうみたいだな。食べ物と、それから服も買ってこないとなぁ……』
何気にはまりつつある思念通話でひそひそと相談する。食事も大切だが、衣服も同じくらい大切だ。真っ黒なインナー一着だけでは話にならない。
一先ずヴィータにははやての服を着せるとして、颯輔の服はザフィーラには小さいだろうし、シグナムとシャマルには大きいだろう。というか、男物――それも自分の服――を女性に着させるのはアリなのだろうか。
しかし、着させないことには外出もできない。外出をしなければ、服も買いに行けない。さてどうしたものか。
家具は残しているのだから叔父と叔母の服も残しておけば良かったなぁ、と思いつつ、颯輔はツナマヨのおにぎりを頬張るのだった。
◇
「はぁ……」
すっかり厚みのなくなってしまった財布の中身を確認し、颯輔は自宅リビングにてどこか遠い目をしながら溜息を吐いた。
ATMから預金を下したときは二つ折りの財布が反発で戻るほどだったのだが、今では諭吉さんが二人と英世さんが数人しかいなくなってしまった。今日ほど散財したのは生まれて初めてのことである。
ちゃっかり新しい服をヴィータのカゴに混ぜていたはやての分と、足りない食材を買い足した分が地味に痛い。
ちなみに、女性陣は今頃二階でさっそく着替えを始めている頃だろう。
「申し訳ございません、主颯輔。シグナム達のみにならず、私の分まで与えていただいたばかりに……」
「あ、ああ、気にしなくていいぞ、ザフィーラ。人間形態になってほしいのは俺の方だし。今日だって、男手が増えて助かったよ」
今は狼形態に戻り、隣に控えていたザフィーラの頭を撫でる。
春物と夏物、それに下着類を人数分買ったのだ。いくらシグナム達が見た目に反する力を持っているとはいえ、流石に女性に荷物を持たせるのは世間的によろしくない。買い物の頼もしい味方である男手が増えるのは大歓迎だった。ザフィーラは本来の姿を好むそうだが、今後も度々買い物には付き合ってもらうことになるだろう。
それに、先ほどは大げさに溜息までついて見せたが、実のところ、そこまで家計は圧迫されていない。
颯輔とはやての現保護者、叔父の友人で英国人であるギル・グレアムなる人物に遺産の管理を任せているのだが、生活費は十分すぎるほどにもらっていた。それこそ、二人だけでは使いきれないほどに。むしろ、六人で丁度いいくらいだ。
月に一度の近況報告の度に多いとは言っているのだが、何かあったときのためにと額が減ることはない。はやてのこともあるし、子供の二人暮らしが心配なのだろう。仕事が忙しく、なかなか様子を見に来ることができないという負い目があるのかもしれない。
「いえ、主の命令に従うのは守護騎士として当然のことです」
「命令って。お願い程度のつもりだったんだけどなぁ……」
固い態度を崩さない守護獣に苦笑を漏らす。
昨晩突然現れた守護騎士の態度は、今日一日の買い物を通して徐々に柔らかいものになりつつあったが、まだ難しいところがあるようだった。
シャマルだけは適応力が高いらしく、口調は敬語のままだがその物腰は柔らかい。出かける前に注意した呼び名も、『主』から『颯輔君』と『はやてちゃん』に変わっている。地の性格と守護騎士としてのポジションからか、主と守護騎士の間に立ってくれていた。
はやてに着せ替え人形にされつつも満更ではなさそうだったヴィータはあと一押しな気もするが、シグナムとザフィーラは元来の生真面目さがあるのか、時間がかかりそうである。
その間にあるのは恐らく、戸惑いと猜疑心。
此度の主はいったい何を考えているのか。
どうしてこんなに優しくしてくれるのか。
裏にある思惑はなんなのか。
いつ蒐集を命じられるのか。
騎士達は隠しているようだが、精神リンクを伝ってそういった感情がありありと流れ込んでくる。
不安なのだ。穏やかな時間を過ごすことが。その時間が失われることが。そんな時間を、過ごしたことがないから。
わからないことは、怖い。騎士達自身も気づいていないであろうそういった感情を、颯輔は無意識のうちに汲み取ってしまっていた。
颯輔は、ザフィーラを撫でていた手を下した。
「なぁ、ザフィーラ。……俺たちみたいな主は、今までいなかったのか?」
早過ぎる気もしたが、一歩だけ踏み込むことにした。建前ではなく、真実を語ってくれそうなザフィーラに。同性だからというか、動物だからというか、ザフィーラには訊き易かったという理由もある。返ってくるであろう言葉を、女性であるシグナムやシャマル、子供であるヴィータの口からは聞きたくなかったからかもしれない。
だから、ザフィーラと二人だけのうちに確かめておきたかった。
「……はい。我らは長い時を過ごし、その日常は戦いと共にありました。休息がなかったわけではありませんが、その時間よりも、戦いの時間の方が長かったのです。しかし、魔法技術のない世界に転生したことも……貴方のような人物が主になったことも、初めての経験となります」
「…………」
予想していた答えではある。だが、予想のままであったのと、実際に当人の口から告げられるのでは、重みが違う。
ザフィーラの言葉に、やり場のない怒りを感じた。
いったいどれほどの時間そういった扱いを受ければ、こうなってしまうのだろうか。優しくされることに戸惑うなど、穏やかな時間の過ごし方がわからないなど、絶対に間違っている。今までどんな世界でどんな扱いを受けてきたかはわからないが、不幸な出来事はあっても平和な日本で過ごしてきた颯輔は、そう思う。
「最初から混乱していた世界もありました。我らが混乱をもたらしたこともありました。しかし、そのいずれもが、戦うことでしか、奪うことでしか何かを得ることができない世界でした。そういった世界で、我らは戦ってきたのです」
「…………」
ザフィーラのいう世界を、颯輔は理解することはできない。想像することはできても、理解にまでは至らない。その想像すらも、現実には及ばないだろう。
しかし、何の因果か、闇の書は颯輔達の下へと転生してきた。争う必要がなく、奪う必要もない平和な世界に。
ならば、もういいではないか。
辛い時間を過ごさなくても。優しい時間を過ごしても。この時間はきっと、今まで頑張ってきた騎士達へ、誰かからのプレゼントに違いないのだから。
「守護騎士はさ……」
「……?」
「守護騎士は、主を守るためにいるんだろう? 奪うためにじゃなくて、守るために。幸い、この世界はそんなに危ないところじゃない。大きな争いもないしね。少なくとも、この国は。その辺りは、今日出歩いてみて何となくわかっただろ?」
「はい。治安の良い、安全な街だと思いました」
「そうだな……普通の人にとっては、ね。でも、はやては違う。あの子は自分の足で歩けないから、車椅子に乗ってる。車椅子だと、安全に思えるところも危険だったりするんだ。ちょっとした段差だったり、階段だったり、坂道だったり。小さい危険が、大きい危険になってしまう。そのくせ、あいつはあんまり人に頼ろうとしない。できることは自分でやりたいって思ってる。それが悪いとは言わないけど、兄貴としては……やめてほしい。正直言って、目の届かないところでは大人しくしていてほしいんだ。俺が学校に行っている間に何かあったりとか想像すると、ゾッとするよ。過保護だって自覚はあるけど、これ以上、誰もいなくなってほしくないからさ」
父も母も、叔父も叔母も、皆いなくなってしまった。颯輔に残された家族は、もうはやてしかいない。
「だから、ザフィーラには――守護騎士達には、はやてを守ってもらいたいんだ。俺がいない間もそばにいて、生活を支えて、寂しい思いをさせないでもらいたい。闇の書の現マスターである俺がお前達に望むことは……いや、お願いすることは、それだけだよ」
「御意に……!」
小さく、しかし力強く頷いてくれたことに満足し、わしゃわしゃと撫でつけていると、階段を降りる音が聞こえてきた。二階では女性陣の着替えが行われているが、そろそろ終わったのかもしれない。
リビングのドアを開けたのは、ヴィータだった。
それまでははやてのおさがりだった服装が、肩口が赤、胴が白のラグラン・パーカーと、ラインの入った黒いミニスカートと白い二―ソックスに変わっている。スポーティーな印象を与えるそれは、子供らしいヴィータにはよく似合っていた。
リビングに入ってきたのはヴィータだけで後続はいないらしく、カチャリと扉が閉められる。
「あれ、ヴィータ一人だけ?」
「シグナムとシャマルは、もうちょい時間かかるみてーです。その、下着とかで苦労してて……」
「あー、なるほど、ね……。えっと、ヴィータの服、似合ってると思うよ。自分で選んだの?」
「あたし、こういう服着るのは初めてだから、どういうのがいいのかわかんなくて、その……はや、はやてに選んでもらいました」
「そ、そっか……」
どうやら上では苦戦しているらしい。はやてに上手くできるとは思えないが、颯輔が行っても力にはなれないし倫理的にもアウトだ。よって、下着云々から話題を逸らそうとしたのだが、ヴィータの様子にどうも地雷を踏んだ気がした颯輔だった。
しかし、普通の服を着るのが初めてということは、今までずっとあの黒い薄着だったということだろうか。地球以上に文明の発達した世界には、もっとしっかりとしたものがあっただろう。ないとは思えない。これまでの主はいったい何を考えていたのか、甚だ疑問である。
「そろそろ行かないと夕飯の支度が間に合わなくなるんだけど、まだ時間がかかるのか……。ヴィータ、よかったら、一緒においしいものを買いに行かないか?」
「おいしいもの……行くっ、ですっ!」
しゅんとしていたヴィータだったが、颯輔の誘いに目を輝かせた。朝昼二回の食事で、すっかりこの世界の食べ物の味を占めたヴィータである。
食べ物で釣る誘い方には罪悪感を覚えたが、子供の意見も重要だ、故に正当だ、とそれを振り払う。
「ザフィーラはどうする? 散歩ついでに、一緒にどうだ?」
「一階を無人にするわけにはいきません。私はここで見張りをしていましょう。ヴィータ、主を頼んだぞ」
「おう、任しとけっ!」
「あはは……。それじゃ、はやて達にはケーキを買いに行ってくるって伝えてくれ」
「はい。お気をつけて」
自分の腰のあたりの背丈しかない少女に守られるという事実に疑問を抱きつつ、颯輔は上機嫌なヴィータを連れ立って外へと繰り出した。
日が傾き始めたばかりの空は、まだまだ明るい。空が赤く染まる頃には帰って来られるだろう、と当たりをつけ、颯輔は歩を進めるのだった。