我らの小さな主は物怖じしない性格らしい。
自身に寄りかかるはやてを見て、盾の守護獣ザフィーラはそう思った。
ザフィーラほどの大型犬を中丘町で見かけることはまずない。海鳴市全域にその範囲を広げれば話は変わってくるのかもしれないが、近隣の人々の反応を見る限り、ザフィーラが一番大きいということで間違いないのだろう。
中には好奇心が勝る子供もいないことはないが、散歩中に出会う者は、ザフィーラの姿を認めると大抵が及び腰になっていた。
もっとも、ザフィーラは大型犬ではなく魔法世界に生息する狼を模して造り出されたため、それが当然の反応とも言えるが。
「んー。ザフィーラはふかふかで気持ちがええね」
「ありがとうございます」
ザフィーラを撫でる手は優しく、信愛の情を感じる。はやてはこの姿に微塵も恐怖を抱いていないようだった。
前から犬が飼いたかったんよ、猫には嫌われとるみたいやから、と言っていたはやてにとって、狼形態のザフィーラとのふれ合いは至福の時間であった。
故に、犬ではなく狼です、といちいち訂正することもない。最初は拘っていたが、そんな小さなプライドは、主の笑顔に比べるべくもないのだ。
今のザフィーラが守るべきものは主二人の笑顔。考えてみれば、盾の守護獣の名に相応しい矜持ではないだろうか。
「……はぁ。お兄とヴィータにシャマル、遅いなぁ」
ところが、笑顔を守るというのは存外難しい。どんよりと暗い窓の向こうを見やったはやては、寂しそうに小さな溜息を吐き、ザフィーラの背中に顎を突いてしまった。
今日の天気は一日雨。ざあざあと降る雨が、窓を叩いて濡らしている。
颯輔ははやての代わりに家事見習いのシャマルを連れ、少なくなった食材の買い出しに出かけていた。最近、はやてよりも颯輔に懐きつつあるヴィータもそれに付いて行ってしまっている。
ヴィータははやてと一緒に留守番するのと迷っていたようだが、はやて自身が、行っといで、と促してしまったのだ。
雨が降れば地面は濡れ、車椅子のタイヤが滑りやすくなる。また、車椅子に座ってジッとしていれば冷えてしまい、体の弱いはやては調子が悪くなってしまう。
そういった理由から、颯輔は雨の日にはやてを外に連れ出したことはない。例外があるとすれば、通院日くらいのものであろう。
シグナムは家にいるのだが、あの戦好きは風呂場で頑固な水カビと激闘を繰り広げている。どうも強者の代わりに強敵との戦いに楽しみを見い出してしまったらしい。築十年近くになる八神家は、シグナムのおかげで新居のようにピカピカであった。
「わたし、梅雨が一番嫌いな時期や。留守番が多なるし、洗濯物は乾かんし、おまけにジメジメするし」
「………………」
確かに、湿気が多いのはザフィーラも気になっていた。
はやては気にしていないようだが、正直に言ってしまえば、今日の毛並は少々調子が悪い。湿気のせいか、普段ならばピンと立っているはずのたてがみは、毛先が微かに下を向いていた。
これまでは気に留めることもなかったことだが、主に触れられるというのであれば、万全の調子で迎えたいザフィーラであった。
「それにな、最近、お兄はヴィータとばっかりでちっとも構ってくれへん。ヴィータもちょいちょいお兄んとこで寝るようなるし……」
「あ、主……?」
何やら黒い雰囲気を感じる。
一週間ほど前から、確かにヴィータは度々颯輔の所で眠るようになった。もちろん、はやて自身も許していることではあったが、どうやら本心では思う所があったらしい。
「ああ、もう、なんかあかんわ。ヴィータはお兄に盗られてまうし、お兄はヴィータに盗られてまうし、わたしって……」
実際の所、颯輔とヴィータの二人にはやてを除け者にしようという意思は、当然皆無である。ただ純粋に、その仲が前よりもよくなっただけなのだ。
だがしかし、今まで颯輔と二人っきりだったはやては、大切な兄を奪われてしまったように感じていた。
本当は、そうではないことはわかっている。わかってはいるのだが、どうしても、そう感じてしまう。だからこそ、はやては自己嫌悪の念を抱いていた。
「元気を出してください」
口下手なザフィーラではあるが、気落ちしている主を放っておくことなどできない。笑顔が消えているのであれば、笑顔になるように行動するだけである。
少しでも気分を和らげようと、伸ばした尻尾ではやての頬をこしょこしょと撫でた。
「主颯輔もヴィータも、もちろん我らも、貴女のことを大切に想っています。我らを家族として受け入れてくれた心優しい貴女を、いったい誰が疎ましく思いましょうか」
「………………」
「主達の負担は我らが減らします。ですから貴女は、我らのことなど気にせずに、心の赴くまま、主颯輔に甘えてしまえばいいのです」
「……おおきに」
はやての手がザフィーラの尻尾を掴み、頬を摺り寄せる。
それはこれまでになく温かくて、ザフィーラに、守るべきものを再度教えてくれた。
「雨降りやからかな、なんや、いつにもなく弱気になってしもうたみたいやね。さっきのはナシ。ザフィーラも、忘れてくれてかまへんよ」
「はい」
こうして内に抱え込むところは、本当に兄妹らしい。
そう思いながら、ザフィーラは言葉を続ける。
「主はやてにも、不平不満が募ることがあるでしょう。そうしたときは、我にでもお話しください。我は守護獣。主の心をお守りするのも、我が役目にございます」
「ザフィーラ……」
数瞬の沈黙の後、クスクスと笑い声が漏れる。
「ほんなら、さっそく不満そのイチや」
「はい、何でしょうか」
「いい加減、主ってつけるのやめること。もうザフィーラだけやで、あるじあるじ言うてんのは」
「むぅ…………」
はやての言うとおり、今となっては主二人を主と呼ぶのはザフィーラのみであった。一番最初にヴィータが、次はシャマル、最近ではザフィーラと同じく堅気な気質のシグナムでさえ、度重なる注意の果てに普通に呼べるようになっていた。
ザフィーラは口数が少なく、また、自ら呼びかけることがほとんどなかったため、見逃されていたようなものなのだ。
「で、ですが、主は主ですので……」
「シグナムもそないなこと言うてたなぁ。『これは仕様ですので』、て。でも、ザフィーラだって偶には人間形態なるんやから、いつまでもそんなんやと、いつかボロが出てまうで? だから、そろそろ直さなあかんよ?」
「……努力します」
断るわけにもいかず、とりあえずの逃げの一手を打つ。
だが、それを聞いたはやては、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
これは、イタズラを思い付いたときの表情だ。
長年の戦闘で身に付いた直感が、ザフィーラに警鐘を鳴らす。
しかし、今は体を預けてくるはやてを支えているため、逃げ出すことはできなかった。
「ほんなら、さっそく練習や。はやてって言うてみて」
「ぬ、ぬぅ…………」
「………………」
「あ、ある――」
「はやて」
「………………」
「………………」
「…………は、はや――」
「ただいまー!」
はやて。
これまで一度も呼び捨てにすることのなかった主の名を意を決して呼ぼうとしたとき、玄関から幼い少女の大きな声が聞こえてきた。買い物に行っていたヴィータの声である。
「ただいま帰りましたー!」
「ただいま」
「あっ! お兄らやっと帰ってきた!」
続いて聞こえてきたシャマルと颯輔の声に、はやては弾かれたように顔を上げ、玄関へと続くリビングのドアを見やった。その顔には喜色が溢れており、もうすでにザフィーラいじりは忘れてしまったようである。
これでよかったような、悪かったような、何とも言えない気分に襲われたザフィーラは、溜息と共に尻尾を床に投げ出したのだった。
◇
「お兄、こっちこっち!」
「んー? ちょっと待ってな、冷蔵庫の整理もう少しで終わるから」
颯輔達が帰ってから完全に笑顔に戻ったはやてはご機嫌で、ザフィーラと留守番していたときとは大違いだ。そこにいるだけではやてを笑顔にしてしまうのだから、やはり、はやての中の颯輔の存在はそれだけ大きいのだろう。
敵わない。
人を元気づけるどころか会話すらほとんどしないザフィーラではそれが道理なのだが、やはり、颯輔には敵わないと思った。
「どうした、はやて?」
買い物の戦利品を片づけ終えたらしい颯輔が、こちらへと近づいてくる。はやてはこっちこっちと手招きし、自身の隣へと座らせた。
向きを変えて颯輔と向き合ったはやては、言葉を選ぶようにしてゆっくりと口を開く。
「あんな、お兄。えーと……ね、眠かったりせえへん?」
「ん? いや、昨日もぐっすり眠れたし、そんなことないけど」
それがどうかしたか、と返されて、はやての頬が少し膨れる。どうやらお望みの答えではなかったらしい。
「でもでも、ほら、久しぶりのお休みやし、疲れたりしとらんの?」
「うーん、まあ、少しくらいは……」
「ほ、ほんなら、一緒にお昼寝しよ?」
「う、うん?」
嬉しさと恥ずかしさの混じった声。はやての頬は、少しだけ赤かった。
事態をいまいち把握しきれていないらしい颯輔は、小首を傾げたあと、ザフィーラを助けを求めるように見やる。
『はやて、どうかしたのか?』
『最近、主と……颯輔と共にする時間が少なく、機嫌を損ねられていたようです』
『ああ、なるほど……』
『ここは要望に応えた方がよろしいかと』
ザフィーラの思念通話に小さく頷いて返した颯輔は、小さく苦笑を漏らす。それから、不安げに颯輔を見上げるはやての頭に手を置いた。
「そうだな。偶には、ゆっくり過ごすのもいいかもしれないな」
「ホンマっ!?」
「別に、ここで嘘をつく必要はないだろ?」
「そ、そやね……。ほんならザフィーラ、枕お願いしてもええか?」
「はい」
はやてに答えてから、はやての背中側に回り込んで床に伏せた。
それを見届けたはやてが、ゆっくりと背中を倒して身を預けてくる。颯輔が不在のときに限る、はやての特等席の完成だった。
「お兄はここ」
ポンポンと隣を叩くはやてだったが、対する颯輔は怪訝な顔をしている。
どうやら、自分も背中を預けていいものかと悩んでいるようだった。
「我の心配ならいりません」
「でも、重くないか?」
「許容範囲内ですので、お気になさらず。もっとも、颯輔が嫌なら仕方がありませんが」
「はは、嫌じゃないよ。それじゃあ、お言葉に甘えて」
軽い冗談を混じえたところで、ようやく颯輔が背中を預けてくる。
守護騎士の中では最も長い時間を颯輔と共にしているザフィーラは、颯輔になら冗談を言えるようにはなっていた。
はやてにはいじられてばかりだが、颯輔をいじることはある。それはもはや主従ではなく、気の置けない友人や兄弟のような関係だった。
「………………」
何やら視線を感じる。
見れば、買ってもらったカップアイスを食べ終えたらしいヴィータが、羨ましそうにこちらを見つめていた。
はやてと颯輔にべったりのヴィータにとって、二人が並んで横になっているこの場所は、まさに理想の光景なのだろう。混ざりたいが邪魔してはいけない、と葛藤しているようだった。
『もう一人くらいならば問題はないぞ』
『――っ!?』
念話を飛ばしてやると、ビクリと震えたヴィータは頬を赤らめ、念話の代わりに鋭い視線を飛ばしてくる。何かを言いたそうに口をパクパクとさせていたが、途端、ボフンと頭から煙を上げて俯き、そろそろと近づいて来た。
どうやら、はやてに見つかってしまったらしい。視線を向けてみれば、はやてがあの黒い笑みで手招きをしていた。
「ヴィータもお昼寝するか? お昼寝するなら、わたしの反対側やで?」
「………………」
言葉に代わり、はやての問いにコクリと頷いたヴィータは、颯輔の隣の空いている方に腰を下し、ザフィーラへ背中を預けてきた。
わかっているのかいないのか、颯輔は借りてきた猫のように大人しいヴィータの頭をぽふぽふと撫でるように軽く叩き、ただでさえ赤い顔をさらに真っ赤にさせてしまう。今やヴィータの顔は、彼女の魔力光もかくやというほど紅潮していた。
「………………」
何やら、またもや視線を感じる。
見れば、買ってきた日用品をしまい終えてリビングへと戻ってきたシャマルが、羨ましそうにこちらを見つめていた。
ちょうど反対側を向いている三人は、まだシャマルには気が付いていないようだった。
『三人の反対側ならばまだ空いているが?』
『そっちじゃ意味ないじゃないっ!』
悔しそうに、しかし、静かに地団太を踏むシャマル。
浴室の掃除を終えやりきった顔をしてやってきたシグナムが、シャマルの肩を宥めるように叩くのであった。
◇
颯輔達がザフィーラを枕にして寝息を立て始めてから、しばらくの時が経った。
雨脚は大分弱まったが、空は未だに愚図ついており、窓からは細い雨の線がちらほらと窺える。
台所では、ようやく料理を覚え始めたシャマルが、シグナムと共に夕飯の下準備を始めていた。
寝息と雨音と小さな物音しか聞こえない、静かな時間。怒号と悲鳴と炸裂音が常だった世界とは、まるっきり正反対の時間だ。
闇の書の長い歴史からすれば、刹那の一時かもしれない。
だが、この刹那を数瞬でも長く伸ばしてみせよう。
主達が蒐集を望まないのであれば、ザフィーラ達守護騎士は、この穏やかな時を生きることができる。それが主達の望みでもあるのだから、自分達はそれを守るだけである。それは、主達の望みであると同時に守護騎士達の望みでもあるのだから。
この管理外世界には、明確な脅威は存在しない。最初に発覚した魔導師もこちらに接触してくる様子は見せておらず、また、こちらも大きな魔力を使うことはないため、面倒が起こる可能性は低いだろう。
ならば、この穏やかな世界で、数十年の時を静かに過ごそう。主達が天寿を全うするまで、傍に仕えて見守るのだ。
(願わくば、この平穏を乱されることのないよう……)
心の中で小さな祈りを捧げ、ザフィーラも目を瞑ろうとしたときだった。
リビングに、小さな転移反応があったのは。
ザフィーラも、台所にいたシグナムにシャマルも一瞬身構えたが、すぐにその緊張を解した。その魔力は、誰よりも自分達が一番知っているものだったから。
深紫の光と共に出現したのは、一冊の魔導書。普段は颯輔の私室においてある、守護騎士達の核ともいえる闇の書だった。
今回は静かに本をしていた『彼女』だったが、どうやら機能不全などではなかったらしい。
頭上に現れた闇の書はゆっくり高度を下げ、颯輔の胸元へと落ちた。
「お前も昼寝に来たのか?」
《………………》
当然ながら、答える声はない。『彼女』――闇の書の管制人格である融合騎が起動するには、闇の書の蒐集が必要なためだ。
400ページで主は第一覚醒を果たし、承認すれば、融合騎との対話と精神アクセスが可能となる。全てのページ埋めることで完全覚醒し、ここまでしてやっと現実世界に具現化できるようになるのだ。
つまり、闇の書の蒐集が行われない今回は、『彼女』が起動することはない。本の姿で飛び廻り、簡単な魔法くらいならば発動できるが、あくまでもそれだけで、主達と対面することはないのだ。例え精神リンクから精神世界で邂逅を果たせたとしても、主達がそれを覚えていることはないだろう。
「すまんな、我らばかりがこの時間を謳歌してしまって。お前も主達のお傍で仕えたかっただろうが、どうやら、今回は起動させてやれそうにない……」
《………………》
答える声は、やはり、ない。代わりに、表紙の剣十字が小さく輝いただけだった。
「そこでよければ、ゆっくりさせてもらうといいだろう。幸い、主達を起こす時間まではまだしばらくある」
《………………》
一方的な会話を終え、今度こそ、ザフィーラは目を閉じた。
身を寄せ合う三人と一匹は、まるで、仲のいい家族のように見えた。
◇
そこは、一条の光も差し込まない完全な闇に覆われた空間。
現実でも空想でもない、その狭間の世界。
その世界にたった一人きりだった『彼女』は、来訪者の存在を感じて跪いた。
それは、絶対の忠義を示す臣下の礼。来訪者は、『彼女』の主であった。
「ここは……」
「お待ちしておりました、我が主」
歓迎の意を伝え、静かに顔を上げる。その先には、戸惑うように辺りを見回す颯輔の姿があった。
子供だったあのときから幾何かの時間が経ち、少なからず面影を残してはいるが、その姿は成長した青年のものになっている。
しかし、その姿を見間違うことなどあろうはずがない。なぜなら『彼女』は、その成長をずっと見守ってきたのだから。
「君は……?」
現実世界では眠りについているために半覚醒状態なのか、颯輔はぼんやりと尋ねてくる。『彼女』は微笑を携え、美しい声音で答えを紡いだ。
「私は夜天の魔導書の管制人格である融合騎にございます。こうして成長した貴方にまたお会いできたことを、大変幸福に感じます」
「夜天の、魔導書……また、会えた……? 君は、確か…………。ダメだ、思い出せない……」
「気に病む必要はございません。本来ならば、こうしてお顔を拝見することすら叶わぬのですから。主は夜天の魔導書との繋がりが深い故に、ここへと迷い込んでしまっただけです」
「……? ゴメン、どこかで会ったような気はするんだけど……」
思考がはっきりしていないのか、颯輔は何かを思い出そうとして必死だ。しかし、夜天の魔導書の蒐集が一ページもされていない今、彼がそれを思い出すことは不可能だろう。
僕に過ぎない自分にまで頭を下げられて、『彼女』はクスリと笑みを漏らしてしまう。不敬だとわかってはいるが、眠気と必死に戦っている様子は『彼女』の目にもおかしく見えてしまったのだ。颯輔も、それを咎めることはしなかった。
「いいのです。お疲れなのですから、今はお休みください」
何もない宙を舞い、空間を漂う颯輔をそっと捕まえる。そのまま足場を固定して正座をした『彼女』は、颯輔の頭を膝へと導いた。
普段ならば抵抗したであろう颯輔も、ぼんやりとした意識ではそれを黙って受け入れるのみであった。
白魚のような指先で颯輔の前髪を均し、眠そうに見上げてくる目をそっと閉じさせる。
「寝苦しいかもしれませんが、どうぞお使いください。主が戻られるまでは、私がこうしてお傍に控えておりましょう」
「うん…………」
幼子のように返事をした颯輔は、睡魔に身を任せて意識を沈めていく。『彼女』は慈しむように颯輔の頭を柔らかな手つきで撫で続けた。
「そのままでよろしいので、どうかお聞きください」
「ん…………」
「まずは、守護騎士達を受け入れていただきありがとうございました。貴方がたのおかげで、あれらは本来の自分を取り戻せているようです」
「そう、かな…………」
「ええ。命令を遂行するのみだった烈火の将も、不貞腐れてばかりだった紅の鉄騎も、ずいぶんと丸くなったものです。風の癒し手も蒼き狼も、今の生活を楽しんでいるようですよ」
「だと、いいけど…………」
「間違いはありません。それは、主もわかっているはずです」
「ああ…………」
「一つだけ、お願いが。どうかこのまま、心優しい騎士達に安らかな時間を与えてください。あれらの心は、擦り切れてしまう寸前でした。図々しい願いだとは承知しております……。ですが、どうか、どうか……」
手を止めて俯いていた『彼女』の横顔に、大きな掌が触れた。
「また泣いてる……。心配しなくても大丈夫だから……。だから、もう泣かなくてもいい……」
いつの間にか流していた涙を、颯輔の指が拭っていく。妹にするように優しく頭を撫でて行った掌は、ゆっくりと下へと落ちた。
やがて、穏やかな寝息を立て始めた颯輔の体は、闇に解けるようにして消えていく。その様子を、『彼女』は黙って見守るしかない。
主の姿が完全に消えてなくなると、『彼女』はこの場にまた一人となってしまった。
「……っ」
主が去ったのを確認し、一度は止まった涙を再び流し始める。
『先』を知ってしまっている『彼女』は、それを嘆かずにはいられなかった。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
掌で顔を覆い隠し、『彼女』は泣きながら謝り続ける。
我が身の呪いが愛しい主達を傷つけるのを、止めることができない故に。
残された時間は、あまりにも少なかった。