大きく西に傾いた太陽が、地面に這う影を伸ばしていた。
山の斜面を下る風はほんのりと温かく、掘り返された土の匂いが混ざっている。
鳥の囀り、山に残った常緑樹の葉が擦れる音、遠くに聞こえた車の音。
土と雑草、それに野焼きの独特な香り。
何年も前に舗装された道路とそれから伸びる土の農道。
何もかもが懐かしく、そしてその全てが心地よかった。
「むこうも悪くないんだけど、やっぱり生まれ故郷が一番だなぁ……」
胸に去来していたのは不思議な安堵感だった。
まるでここがお前の居場所だと、そう教えてくれているようだった。
『久しぶりで忘れていることも多いでしょ?少し遠回りでもして帰りなさい』
聞いたばかりの声が蘇る。
あの言葉は、俺がこう思うと分かった上でのものだったのかもしれない。
まったく、瑞樹みずき姉さんには敵わないな。
感心と自分の未熟さを恥じるように大きく息を吐いた。
そして、大きく息を吸う。
懐かしい故郷の空気を胸一杯に取り込むと、身体の芯が痺れるような愛惜が押し寄せる。
「ただいま」
夕日に照らされながら一人で呟く。
誰もそれに応えてくれない。
春風だけが俺の背を押すように吹き抜けた。
以前とは異なる感情。
心を満たすその思いはあの時の名残を忘れさせ、俺の足取りを軽くする。
―――――――――――――――――――――――
子供の頃から慣れ親しんだ道を進む。
ゆっくりと流れていく景色には見慣れた物が多く映るが、俺の記憶にない物もあった。
随分前から使われていなかった水田を潰し、新たに作られた団地。
その一角には柱だけが建っていて、たぶん新しい家がこれから出来るんだろう。
移住してきた人かな?
物珍しさに少し気になりはしたが、足を向けることはなかった。
わざわざ俺から動かずとも、どうせその内名前も家族構成も井戸端会議で知ることになる。
田舎ってのはそんなもんだ。
建設中の家に向いていた視線を切って、振り返るように空を見上げる。
さっきよりも茜色を濃くした夕日が、この町を囲う山々の頂に隠れ始めていた。
「んー……かえろ」
そう決めて舵を切る。
別に日が沈んだからといって治安が悪くなることはない。
精々、街灯がなさ過ぎてうっかり側溝に嵌る程度だ。
それも極稀な話で、これといった危険は特にない。
ただ久しぶりの地元探索は、一旦この辺りで切り上げるだけだ。
余程のことがない限り、俺達はこの地に住み続ける。
ならば、今日見て回らなければならない理由はないだろう。
「おぉ、懐かしいな」
帰路の途中、俺は懐かしさから足を止めた。
誘われるように道を外れて、小川に架かった橋を渡る。
木造の大きな舞台に近付くと、地面に敷かれた大粒の砂利が軋んで音を立てた。
古い木の香りが漂う舞台の隣には、小さな石の鳥居がひっそりと佇んでいる。
ここは地元の神社。
いや、神社というより祭壇や祠がある場所といった方がいいかもしれない。
それくらい小さな規模の神社だ。
懐かしさに頬が緩む。
昔の記憶に誘われるみたいに俺は足元の砂利を一つ掴むと、他にもたくさんの石が乗っている鳥居の柱へ置いた。
適当に二、三回手を合わせてから目を閉じる。
どうか役に立てますように、それと転校先の高校で友達が作れますように……。
これは地元の子供達がよくするおまじないだ。
こうして石を乗せると、神様が願い事を叶えてくれるらしい。
「……ん?」
折角なので熱心にお祈りをしていると、近くから物音が聞こえた。
なんだなんだムササビか?
それとも山から下りてきた狸や猪か?
長らく都会暮らしだった反動か、久しぶりの野生動物らしき気配に心が躍る。
ムササビだったら追いかけよう。
猿や猪だったら……まぁなんとかしよう。
駆け出しそうな昂ぶりを抑え、そろりそろりと物音のした方へ忍び寄る。
鳥居の近くで根を張った大木に身を隠して、神社に併設されている公園を覗き見た。
木の登る影は見当たらず、されど地面低くを闊歩する獣の姿も見つからない。
……はて、何処へ隠れたのだろうか。
もう一度、念入りに周囲の木と山を確認してみる。
だが、やはり見当たらない。
肩を落とす。
せめてさ、何かいて欲しかったよ俺は……なんだ食料が豊富だから、もう人里には用無しってか?
野生動物の薄情さに落胆の溜息を付きながら大木の影から出た。
そこには案の定獣の姿はなく、小川のほとりに力なく立ち尽くす先客がいただけだった。
なーんだ、あんな所に人がいたから物音が―――
「―――はぁっ!?」
ここで突然だが、俺の地元であるこの地域ついて説明しよう。
この地域は低い山にぐるりと周囲を囲まれ、その山々の麓に沿って民家が、中央のなだらかな平野には水田が広がる典型的な田舎である。
なんだ、説明する必要もないありきたりな田舎じゃないかとお思いだろう。
確かに、ここまでは他の過疎地と大差はない。
ただの弩が付くほどの田舎なだけ。
しかし、その山々に囲まれた地形と水田が他の田舎町と様相を異にさせるのだ。
要因は血管のように張り巡らされた小川、またの名を農業用用水路。
世間一般的の通念として小川や用水路と聞けば、可愛らしく穏やかな水の流れ連想する人が多いのではないだろうか。
実際に平時の水量はとても少なく、山頂に作られているため池から水を流す田植えの時期でさえ幼稚園に通う幼子が遊べる程度に穏やかだ。
しかし、雨天の場合はそれが一変する。
周囲の山々がそうさせる。
それらが保持していた水が雨水に押し出され、幹線水路や支線水路に一気に流れ込むのだ。
その水量は平時の何倍にもなる。
濁流となった水の勢いは大人でも簡単に飲み込んでしまう程だ。
もし氾濫でもしてしまえば、最悪死人が出る可能性もあるだろう。
そうさせぬ為、この辺りの小川や用水路はその名に似つかわしくない深さの溝が掘られているのだ。
その落差は大きい所で二メートルと半分。
覗き込めば結構怖い高さである。
ここまで長々と説明してきたが、つまるところ何が言いたいのかと問われれば俺はこう答えるだろう。
この地域の小川や幹線水路ならばやってやれないことはない、と。
嫌な言い方ではあるが、事実である。
頭から行けば下に転がる岩石に衝突し、運が良くても怪我は免れないだろう。
打ち所が悪ければ―――
「じ、時期尚早ぉぉぉぉぉ!」
俺は自分でもよく出てきたなと思う単語を叫びながら、身体をゆっくりと傾けていた人を羽交い絞めにした。
脇下から通した腕に華奢な体つきとその柔らかさが伝わってくる。
艶やかな黒髪からはふわりと香る甘い匂い。
あ、あれ、この人もしかして女の人?
混乱した頭の中で、ふとそんなことが思考を支配する。
髪がそんなに長くないからって男だと決め付けて思い切り密着しちゃったけど、この絵面非常によろしくなくない?
もし痴漢、暴漢、この悪漢なんて叫ばれでもすれば、俺の方が小川ダイブする羽目に……ってそんなこと考えてる場合か!
「だ、だめっ……ぜったい……っ!それっ……めっ!」
「―――っ!?」
今まで後ろから抱き付かれるようなこの体勢にも、薄い反応しか示さなかった女性が肩を跳ねさせた。
いや、まあこれ当然の反応。
得体の知れない男に背後を取られ、耳元で荒い吐息と途切れ途切れの声を聞かされれば、そりゃ誰だってそうなる。
ごめんね!気持ち悪かったよね!
だが、出来れば今の行いについては寛大な処置をお願い申し上げたい。
別にこんな状況下で、弱った女性に嫌がらせをしようと思っての行動ではないのだ。
彼女の事情を知らぬ身なれど、恐らく十代であろう年端で身投げなど性急に過ぎる。
それを少しでも伝えようとした親切心からくるお説教だったのだ。
それが偶然、驚きと混乱によって爆上げされた心拍数と人生最速で駆けた十五メートル走の所為で息が上がり、不審者の呟きみたいになっただけなんだ。
これは不慮の事故でもある。
それに見て欲しい、謝罪の言葉すら口に出せないこの有様。
肺胞何個かやられてますよ、これ。
だから情状酌量の余地は十二分にあると思います、えぇはい。
心の中で誰に聞かせるわけでもないのに言い訳を垂れ流しながら、服越しにも急に体温が上がったことが分かる女性を近くのどぎつい色をした長椅子に座らせた。
どうにも彼女の状態は芳しくないようだ。
見れば両手を胸の前で固く握り、俺の息遣いが伝染したように荒い呼吸を繰り返していた。
顔を隠すように俯いている彼女を慌てて覗き込む。
唇の色はやや変色気味。
これは良くない。
顔全体の色や表情はどうかと、女性をより深く覗き込もうとして俺は固まった。
自認していた呼吸の荒さが嘘のように静まる。
喉元をゆっくりと唾液が通り過ぎていくのが分かった。
言葉を失う。
身体も思考も、俺の全てが動きを止めてしまったかのような錯覚を覚えた。
何かに怯え、固く閉ざされていた彼女の瞼が薄っすらと割れる。
雲の合間から差し込む陽光のように恐る恐るこちらを伺うと、一瞬でその雲間は広がった。
見開かれた瞳が様々な感情を宿してきらきらと輝いた。
美しかった。
それは平凡な人間がやれば美しいとは無縁であろう表情だ。
しかし、それでも彼女の美貌は僅かな翳りも見せなかった。
冷気を纏い始めた風が俺達の間を吹き抜ける。
それに揺らされた肩辺りまで伸びた彼女の髪が、夕日を浴びた水面のように煌めいた。
とても綺麗な人だ。
なんの疑いもなくそう思った。
魅入られたように、彼女から目を離すことが出来なかった。
胸の内に微かな疼痛を感じる。
一体、どんな感情が俺にこの痛みを与えているのだろう。
回らない頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えていると、今まで硬直していた彼女の様子が急変した。
澄んだ瞳は潤み、口は何かを伝えようと戦慄いている。
思い通り動かない自分の身体にもどかしそうに表情を歪め、声にならない吐息を何度も吐き出す。
駄目だ。
一瞬で判断した。
取り合えず救急車を呼ぼう。
俺は長椅子から立ち上がる。
懸命に首を振り、俺を見つめて口を開閉する彼女が何を伝えたいのかは判然としない。
しかし圧迫された精神によって身体の自由を失い、次第に混乱の度合いを強めている彼女を、このまま俺だけで診るべきではないということはすぐに分かった。
「いい?救急車をこれから呼んでくるからね。だから、ここで待ってて」
出来るだけ口調を和らげ、混乱の極致にいる彼女をこれ以上刺激しないよう語りかける。
今に零れ落ちそうなほど涙を溜め、縋るように俺を見上げる彼女に背を向けた。
こういう時に携帯電話が必要なんだね!知らなかったよ!
これまで携帯の必要性を微塵も感じていなかった自分を恨みつつ、一番近い民家は何処か目星をつける。
確か、この神社の近くに老夫婦が住まう家があったはずだ。
そこへ行けば、固定電話を貸してくれるだろう。
まあ、まだご健在ならばの話だけどね!
「よしっ!」
頭の中で田舎ジョークを炸裂させた俺は、ツボに入った外人さんの愉快な笑い声を反芻させながら砂利を蹴って駆け出した。
公園区画を抜け、大木の横を過ぎ、石の鳥居を置き去りにする。
急げ、早く回れ俺の足。
お前が一秒でも早く救急車を呼べれば、彼女の苦しみはその分短くなるぞ!
そうやって自分を奮い立たせるが、身投げを止めに入る際に酷使した足は未だ回復しておらず、力の入らないそれでは上手く走れない。
ええい、この腑抜けた足め!
明日からはひぃひぃ言うまで鍛えてやるから覚えとけ!
「―――って、とぉぉぉぉ!?」
突然、腕を強く引っ張られた。
幾ら弱った脚部とはいえ、自分ではそこそこの速さで走っていたつもりだ。
そんな時、後ろから急に引っ張られるとどうなるでしょう?
正解はびっくりするスピードで地面が迫ってくるでした!
「フゥゥゥゥ!?」
最後の力を振り絞り、間一髪の所で砂利に突き刺さるという大惨事を回避する。
あ、危なかった。
危うく生け花の剣山になりかけた。
あら砂利に刺さった赤いお花がお綺麗で、ってバカ!
目まぐるしく変化する状況に錯乱した自分を叱咤する。
これは許されざる行為だ。
誰がこんな鬼畜な所業を致したのか確認すべく、俺は振り返る。
そこにはさっき女性がいた。
大きく肩で息をして、綺麗な髪を揺らすその人は俺の腕を両手でがっしりと掴んでいる。
貴女、さっきまで長椅子に座ってなかった?
……えっ、あれ、えっ?
やだ、俺の足遅すぎ?
「い、行かないで……いなく、ならないで……っ!おねがい、します……もう、それ以上は望みま……せんからっ……だか、ら、そばに……」
荒々しく弾み、掠れた呼吸を無理矢理に押し込めて、命を削るように彼女はそう告げた。
常識を逸脱した鬼気迫るその姿。
まるで自身の全てを擲なげうってでも、何かを繋ぎ止めようとしているようだった。
「なんだって、する……させて下さい……っ!それ、以外の……罰ならなんだって……」
掴まれた手から彼女の震えが伝染した。
「どんな扱い、でもよろこんで……受け、いれますっ……だから……ど、か……もぅ、一度……―――に」
血を吐くように言葉を紡ぐ彼女は掴んだ腕に縋り付き、ただひたすら嘆願する。
だがその掠れた声は徐々に勢いを弱め、やがて俺に辿り着くことなく力尽き、春の風に連れ去られていく。
「……分かりました。もう貴女は今から一人ではありません。ですから、自分をないがしろにするのは止めて下さい。俺みたいな知らない男に、何でもするなんて言っては駄目です」
俺は彼女に向き合ってその懇願を受け入れながら、己の過ちを悔いていた。
精神を疲弊させた人を一人にしてどうする。
度し難い愚かな選択に眩暈を起こしてしまいそうだった。
もしも一人になった彼女が再び事に及んでいれば、俺は助けることが出来た命を失っていたやもしれない。
心の中で安堵と失望が織り交じった溜息をつく。
緊迫した場面でこそ、まずは冷静になるよう努めろ。
そう習ったはずだろう。
お前は今以上に緊迫した場面だって、何度も経験してきたはずだ。
そうだろう?
「……そん……な、わ、わた……し、なの……うそ、いや……」
暗示をかけるように自分を鼓舞して、ようやく取り戻し始めていた俺の平静は呆気なく瓦解した。
泣いていたのだ、彼女が。
大粒の雫は雪原のように白い頬を幾度も伝い、地面に染みを広げていた。
暖色の輝きを反射していた瞳からは、徐々にその光が失われていく。
「どうか、しましたか……?」
何も分からず、馬鹿みたいに問いかけた。
冷静さなどすでに砂塵の如く吹き飛んでしまっていた。
答えは返ってこない。
彼女は凄惨とまでいえる自嘲の笑みを浮かべながら、双瞳から大粒の涙を流し続けた。
その歪な表情に、俺は言葉を継ぐことが出来なかった。
どんな言葉ならば彼女に届くのか分からなかったんだ。
「―――っ!」
その場に崩れ落ちる彼女を咄嗟に抱き留める。
完全に力の抜けた身体は女性のそれであっても重たかった。
「……ごめ……んな、さい……ご……んな……い……」
俺の胸に顔を埋めた彼女は、聞くに堪えない悲痛な声で何度も謝った。
それが何に対しての懺悔なのか分からない。
しかし、俺は黙ってそれを受け入れ続けた。
否定も肯定もしなかった。
何一つ出来ずにいた。
怖かったのだ、彼女の儚さが。
そんな彼女を誤って傷付けてしまうことが。
意思が失われた身体の重さと、今に潰えてしまいそうな声がその感情をより鮮明にする。
動けなかった。
何か一つしてしまえば、目の前の彼女が消えてしまうんじゃないか。
そう錯覚してしまう程、彼女の存在は希薄だった。
枯れる事のない涙が服を濡らし続ける。
吐き出される謝罪の言葉が、何故か心の奥を抉り続けた。
沈黙するしか術を持たない役立たず。
そんな自分に罪悪感と、何故か既視感を覚えていた。
分からないことばかりだ。
でも俺は悲哀に暮れる彼女へ胸を貸す。
消えてしまいそうな灯火を春風に攫われてしまわないように。