日常と言うには些か派手だった一日が終わり、夜が明けた。
そして、新しい一日が始まる。
俺にとっては当たり前の朝がやってきた。
目覚まし時計の電子音で目を覚まし、這うようにして自室を出る。
寝惚け眼で見る景色と食欲をそそる匂いが、どうにも想像と違って首を傾げた。
……そっか、地元に帰って来たんだな。
「いただきます」
朝練でいない弟を除いた三人で朝飯を食べる。
どのおかずを口に入れても美味しかった。
向こうで食べていた朝食も美味しかったけど、やっぱり父さんの料理と比べればどうしても見劣りしてしまう。
特に味噌汁。
大勢に作るそれと違って、すごく丁寧な味がする。
これが美味いのなんのって、朝からお代わりを頼んでしまう位に美味かった。
食事が終われば歯を磨き、顔を洗って寝癖を直す。
一足先に家を出る母さんを見送ってから、真新しい制服に腕を通した。
新品のこの感じ、嫌いなんだよなぁ。
袖口から肘に肩、腹回りに至るまで、どこをとってもぱりっとした制服の生地は固かった。
当分はこのままで、動きにくい日々が続くのだろう。
通学鞄に必要な物を突っ込んで、忘れ物がないか確認する。
といっても、今日は殆ど必要な物はないだろうけど。
壁にかけられた年季の入った時計を見れば、時刻は七時二十分。
頃合いだ。
「いってきまーす」
「あぁ、いってらっしゃい。気をつけてな」
家の裏口から外に出る。
四月の少しひんやりとした空気が気持ちよかった。
自転車に跨って家の敷地から出ると、頭上には突き抜けるような青空が広がっていた。
昨日から霧が立ち込めていた気分も、そのお陰で少しだけ晴れたような気がする。
ペダル踏み込み、慣れない通学路を不安と一緒に駆けていく。
こうして終わらせようなんて一度も思った事がない今日が、俺にとって当たり前の一日がまた始まったのだった。
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見慣れない校舎に入り、一度しか歩いたことのない廊下を歩く。
開けっ放しの扉を潜ると、俺の知らない教室が眼前に広がった。
先に来ていた数少ない生徒達が俺をちらりと確認したけど、すぐに興味を失ったようで視線を外した。
肩の力が僅かに抜ける。
ホッとしたけど、なんだかがっかりもした。
俺はなんとも言えない気持ちを抱えたまま、黒板に張り出された席順を確認して澄ました顔で席に座る。
だけど、その内心は全然違った。
そりゃそうだろう。
なにせ、こっちは二年からの転校で、この教室に顔見知りなんて誰もいない。
そんな状況で、大半の人達が去年の内に顔合わせを終えている教室に放り込まれるんだ。
どう考えても俺だけ異分子だろう。
圧倒的あうぇーというやつである。
下手をすれば、ずっと浮いたままかもしれない。
頭に浮かんだのは、そんなありえなくもない未来。
勝手の分からない学校で一人きりの俺だった。
せめて学校のことだけでも、誰か教えてくれるといいんだけどなぁ……。
そう考えて、ついため息がこぼれた。
誰が親しくもない奴にそんなことを教えてくれるんだよ。
そもそもお前、話しかけてもらえるとでも思ってるのか?
そう自分で自分に問いかけて、俺は盛大に落ち込んだ。
中学時代の旧友が、運よくこの高校にいれば教えてもらえるかもしれない。
あぁ、でも俺のことなんてとっくに忘れてるか。
でも仕方ないよな。
地元を離れて三年も経ってるんだし。
中学生だった俺達が、大人が目前に迫った高校生になってるんだもんな。
「どうするかなぁ……」
まぁ正直な話、孤独な学校生活を俺は怖いとは思わない。
当然、やり難い部分があるから面倒だと思う気持ちはある。
けど人生で二度目の転校だから慣れているというか、勝手知ったると言うべきか。
兎に角、全くの未知ではないからそれに対しての恐怖はない。
でも、寂しさは別だ。
これは二度目の転校でも変わらない。
現に俺は、こうして見知らぬ教室で座っているだけでも、心を茨で縛られているみたいだった。
じわじわと染みる寂しさと、知らない場所という居心地の悪さ。
愛着が湧きやすく、人と接するのが嫌いじゃないから余計にそう思うんだろう。
こんな気持ちのままじゃあ、高校生活を楽しめるわけないよなぁ……。
今度のため息は重かった。
それだけ、俺にとってその問題は切実なのだ。
学校での過ごし方は人それぞれ。
たとえ寂しくて枕を濡らそうとも、居心地の悪い中で黙々と弁当を食べようとも別に構わない。
学校規則には違反していないだろうし、先生だってそれで怒ったりしない。
だから、我慢さえすれば孤独でも学校生活は送っていけるのだ。
それに、良いことだってないわけじゃない。
たとえば自分に費やせる時間が増えるとか、他人の都合に合わせる必要がなくなるとか、まぁそれ以外にもあるだろう。
学校生活を充実させるよりも大切なことがある人は、そっちの方が没頭出来るだろうし、選択としてはありだと思う。
そりゃすごく寂しいんだろうけどさ、見返りも多いしどっちもどっちって感じだ。
俺としては最悪それでもよかったんだけど、ある事情からそうはいかなくなった。
昨日、高校生活を楽しむようにと厳命されたのだ。
俺のこんな考えを見越してなんだろう。
そんな事まで分かってしまうのだから、ただただ凄いとしか言いようがない。
あぁ、でも本当にどうしよう。
俺は頭を抱えた。
言いつけられた以上、俺は高校生活を楽しまなければならない。
でも、どうやって?
それが分からなかった。
そんなに深く考える事はないって、ただ前の高校のみたいに普通にしていればいいだけだ。
自分にそう言い聞かせる。
だけどたったそれだけの事が、二年生での転校なんて条件が付くだけで、なんとも難儀な話に進化してしまっていた。
「よーし、出席とるぞー」
頭を抱えて悩んでいる内に、いつの間にか教壇に教師が立っていた。
どうやら随分と時間が経っていたみたいだ。
担任らしき教師がいうからには、これから始業式があるらしい。
俺はその細かな説明を聞き流して、頭の中でどう立ち回るかを考える。
「おし、全員いるな。それじゃあ体育館に行くから、廊下に出席番号順で列を作ってくれ」
とりあえず友達はいた方がいいよな、たぶん。
それと数も多い方が楽しい、かな?
俺の中でとあえずの結論はそうなった。
でも何かきっかけが欲しいなぁ。
そんな甘えたことを考えながら、俺は周囲に合わせて席を立つのだった。
―――――――――――――――――――――――
始業式が終わった。
それは何の変哲もない、一般的な公立高校らしいものだった。
新鮮味のない式は、二年生や三年生とって心底つまらない時間だったに違いない。
だけど、転校するまでこの高校を志望していた俺にとって、通うことはないと思っていた高校での始業式は、妙な感慨深さがあった。
「……失敗したぁ」
始業式後のロングホームルームも終わり、本日最後の掃除の時間。
俺は片手に洗剤、もう片手にブラシを持ち、白い便器へと向かっていた。
あぁ、ここトイレットペーパーなくなってるじゃないか。
分かり易いようにしとけよなぁ。
じゃないと、急いで駆け込んだ人が悲惨な事になっちゃうだろ。
俺は予備のトイレットペーパーを求め、トイレ内をうろうろと歩く。
そこには他の生徒の姿はない。
悲しくも俺一人である。
遠くからしか聞こえない喧騒が、その事実を強調していた。
トイレ掃除を転校生一人に任せるかな、普通。
こういうのって、早く馴染めるように気を使ってあげるもんじゃないのか。
いや、どこがいいか悩んでいる内に他の場所が埋まってたってのは、俺にも非があるかもしれないけどさ。
「あー始業式タルかったわぁー」
「ほんまそれ。話長すぎなんだよな」
うわっ、人が来た。
驚いた俺は、掃除用具箱の奥に収納されているトイレットペーパーを引き抜こうとした体勢のまま、何故か分からないけど息を潜めた。
どうやら、トイレには入ってこないようだ。
扉の向こう側から、数人のくぐもった話し声が聞こえる。
「にしても、あの子ほんとに可愛いよなぁ」
「あれだろ、お前と同じクラスの」
「そうそう、あの子。この学校で断トツだろ?」
「可愛いってより美人だけど、確かにありゃ他とは格が違うな」
「だよなー。はぁー彼女になってくれないかなー」
「お前じゃ厳しいだろ。那須(なす)くらいじゃねぇと」
掃除用具箱の中で聞き耳を立てていた俺は、その会話の内容に持ち前の好奇心を疼かせていた。
この学校で断トツの美人かぁ。
想像するだけでだらしなく頬が緩んだ。
だって仕方ないだろう、これでも思春期真っただ中の男子高校生なんだから。
しかし、美人ってのはポイントが高い。
可愛いって感じの女の子にもいい所は沢山あるんだけどさ、それでもやっぱり日本男児としては美人の大和撫子に憧れるってもんだろう。
品を感じさせる凛とした佇まいとだとか、たおやかながら芯の強さを感じさせる立ち振る舞いに心惹かれてしまうのは俺だけじゃないはずだ。
それに、落ち着いていそうだからのんびりと一緒の時間を過ごせそう。
お茶とか啜って、庭の花を眺めたりしたいもんだ。
勿論、美人が醸し出す年上的な母性や包容力にも注目していきたい。
腹を空かせて飯にがっついた時、飲み物をさり気なく注いでくれたり、箸を置いた際に微笑みながら柔らかく口元を拭いてくれたりなんかしてくれそう。
完全に妄想だが、そんな事をされれば男は確実に堕ちるだろう。
少なくとも俺は堕ちる自信がある。
そんな事を妄想してしまう程、断然そちらの方が好みである俺は俄然興味をそそられた。
どれぐらい綺麗な人なんだろう。
比較する為に、俺が美人だと思う人を思い浮かべてみる。
真っ先に出てきたのは瑞樹姉さん。
この歳にしてはかなり多い人達と出会ってきた自負があるけど、それでも瑞樹姉さんを越える人は一人もいなかった。
多少は身内びいきがあるかもしれない。
だが、それでもあの美貌は圧倒的だ。
他の追随を許さない。
身近な瑞樹姉さんがそんなことだから、俺の美的感覚がズレてしまったんだと言っても過言じゃないだろう。
「……ん」
そう言えば、昨日のあの子も綺麗だった。
状況が状況だけにまじましとは見ることが出来なかったけど、間違いなく美人の部類だろう。
まぁ、それでも瑞樹姉さんには届かないけど。
あの子はあれからどうなったんだろう。
昨日の姿を思い出す。
あの時の悲痛な涙が、俺の胸内をじわりと湿らせていく。
瑞樹姉さんに任せていれば、俺が心配するような事はない。
きっと精神を限界まで擦り減らせた彼女でも救える。
そう断言出来る。
それでも事の顛末を聞かずにいるのは、どうも収まりが悪かった。
それに、彼女の事情を知るのは俺次第って言葉も未だに引っ掛かっている。
「……行ってみようかな」
あの子の事情は教えてくれなかったけど、あの後にどうなったかくらいは聞いてもいいだろう。
よし、放課後はそれで決まりだ。
掃除用具箱から出る。
扉の向こうから聞こえていた声はいつの間にやら止んでいて、人の気配も無くなっていた。
その代わり、洗面台の鏡にニヤケ面をした男が映っている。
「ふふっ……ふふふふ……」
二日連続で行けるとは、俺はなんてついているんだろう。
口の端からこぼれる笑いが止まらない。
今日は辰巳伯父さんや竜一兄さんのとこだったかな。
でも、まぁ、急用なんだから仕方ないよな。
制服姿を見せるって約束したし、早めにとも言っちゃったし。
あの二人にはたとえ死んでも嘘を吐くわけにはいかない。
あぁ、これは行かなくてはいけないな。
トイレで一人、しきりに頷くニヤケ面の俺。
さっきまで一人である事に文句を言っていたけど、今は周りに誰もいなくて良かったと思う。
こんな顔、他人に見せればドン引き間違いなしだからだ。
下手をすれば、先生からのお呼び出しだってありえるだろう。
「ふ、ふふふ……はよ……はよ……終われぇ……」
トイレットペーパーを差し込み、デッキブラシを握った手に不思議と力が籠る。
反響した呪詛のような俺の呟きは、正直自分でも気持ち悪かった。