舞鶴鎮守府へと、千条寺 マリが二度目の来訪を果たした、その翌日の夜。
練習巡洋艦 鹿島は、またしても自室で気合を入れまくっていた。
「昨日は失敗しちゃったけど、今日こそ、今度こそ……!」
瞳の奥で炎を燃やし、髪を普段と違うサイドテールに結び、取って置きのネグリジェの裾を確かめる。
その姿は、どこからどう見ても「今夜は一線越えちゃうゾ♪」的な、ヤる気満々の肉食系女子であった。ちょっと怖い。
こんな時こそ、ツッコミ役である香取の登場を期待したい所なのだが、こんな時に限って、明日までに片付けなければならない案件が重なり、執務室で缶詰めとなっていた。
運命が味方になったとさえ思える幸運に後押しされ、鹿島は意気揚々と自室を出る。
桐林の今夜の寝床は、鹿島の部屋がある階と同じだった。どうやら乱数も偏っているようだ。
廊下を歩きつつ、誰かと鉢合わせしないよう、前後左右を厳重に警戒し、慎重に歩を進める鹿島。
広い庁舎とはいえ、中央エレベーターを過ぎれば目標地点はすぐだった。
が、丁度その部屋のドアが見えてくるだろうタイミングで、前方を歩く小さな背中を発見。鹿島は観葉植物の影に隠れる。
(あら? あの後ろ姿は……長波さん?)
群青色の作務衣をまとい、黒とピンク、表と裏で色が変わる髪をポニーテールにする少女は、夕雲型駆逐艦四番艦の長波だ。
彼女の部屋も同じ階にあり、廊下を出歩いていてもおかしくないのだが、何故かその脚は、鹿島が目指す部屋の前で止まった。
しかも、緊張した面持ちで深呼吸を二度ほど繰り返し、ためらいがちにドアをノックまでして。
少しの間を置き、中からはワイシャツを着崩す桐林が姿を現した。
「よ、よぉ、提督。夜遅くに、悪いな」
「……長波か。なんの用だ」
「何って、分かってんだろ? あたしだって、これでも女なんだからさ。言わせんなよ……」
俯き加減に頬を染め、スリッパのつま先で床をトントンする長波。
普段のざっくばらんとした言動しか知らない鹿島にとって、その表情は衝撃的だった。
あれではまるで、純情な想いを胸に秘める乙女ではないか。
「……入れ。少しだけだぞ」
「おっ、サンキュー! やー、どうにも我慢できなくってさー」
恥じらう乙女を前にして、桐林は小さく溜め息をつき、彼女を招き入れる。
一方の長波は、満面の笑みで自らの腹部をさすりながら、そそくさと部屋へ入っていった。
あまりの衝撃にフリーズしていた鹿島も、この事態にようやく再起動を果たし、無音の全力疾走という神業でドアの前へ張り付く。
(な、なに。なんなの、今の怪しすぎる会話!? ま、ままままさか、提督さんと、長波さんって……!?
ううん、ダメよ鹿島っ。まだそうと確定した訳じゃないんだから! まずは情報収集、情報収集……)
深夜の逢瀬。
姉御肌な少女の恥じらい。
意味深にさすられた腹部。
我慢できなくて。
これだけ条件が揃えば、鹿島でなくとも勘違いしてしまいそうだが、勝負をかける前に不戦敗など認められるはずもない。
鹿島は首を振り、不埒な想像を頭から追い出してから、鬼気迫る表情で聴覚に全神経を集中した。
「そんなに気に入ったのか?」
「おう、そりゃそうよ! あの味を知ったら、他のじゃ満足できやしないね。自分でも色々試してみたけど、やっぱ提督のが一番なんだよ」
「……そうか。悪い気は、しないが」
「んな事より、早くしてくれよぉー。もう我慢できないんだよぉー。なぁー提督ぅー」
「少し待て。今、火をつけたばかりだぞ」
(ひを……? 火、ですって……!?)
いつぞやの間宮、伊良湖と同じく、いかがわしくも聞こえる会話を重ねる桐林と長波。
甘えるように“何か”をねだる長波の声と、桐林の火をつけたという発言に、鹿島の乙女回路はスパークした。
これは、アブノーマルなSMプレイをしようとしているのではないか、と。
(ここ、これはダメ! 秘書官的に、絶対に見過ごせないわ! 今すぐ吶喊するのよ鹿島っ!!)
脳内に、亀甲縛りされた長波と、低音ロウソクと革のムチを持った桐林を思い浮かべてしまった鹿島は、もはや我慢の限界と立ち上がり、しかしあくまで冷静にドアをノックした。
「て、提督さん? 鹿島です。夜分遅くにすみません、ちょっとお話が……」
不自然にならないよう、用件がある風体を装う鹿島。
傍目には楚々とした立ち姿にみえるけれど、その実、めっちゃ焦っている。
どうしよう。声掛けちゃった。お話、何か聞くこと考えなきゃ……!? と。
だが、妙に返事が遅い。
部屋の中で、何やら忙しそうに動いているような気配も。
まさか、当たって欲しくない予想が当たってしまったのだろうか。
鹿島が不安に思い始めた頃、ようやくドアが内側から開く。
「どうした、鹿島。こんな遅くに」
「い、いえ。大した用事ではない、んです……けど……? あれ、エプロン? それになんだか、とても食欲をそそる匂いが……?」
現れたのは、どうしてだか、シャツの上からシンプルなエプロンを着ける桐林だった。
しかも、部屋の奥からは香ばしい匂いが漂ってきて……。
想像していたのと著しく違う光景に戸惑っていると、長波にしたように、桐林は鹿島を招き入れる。
「入るといい。他の皆には秘密だぞ」
「あ、はい。お邪魔しまぁす……」
ただ立っているのも気まずいだろうと判断し、鹿島はこれ幸いと部屋へ。
相変わらず質素な室内だが、鹿島の記憶と違い、中央にあるテーブルには、作務衣を着る長波が居た。
そして、彼女の前にはある料理の盛られた皿が。
「あっれ、鹿島秘書官も来たの?」
「長波さん。こんばんは……って、それはもしや……」
「おお、チャーハンさ! 提督お手製のな!」
レンゲで料理を──チャーハンをがっつきながら、長波は非常に満足そうな笑顔を浮かべている。
何がなんだか分からなかった。
なんで長波はチャーハンをモリモリ食べているのだろう。
なんで桐林はムチとロウソクを持っていないのだろう。
理由を求めて鹿島が立ち竦んでいると、いつの間にか隣に立っていた桐林が、事情を説明してくれた。
「少し前、夜中に腹を空かせている長波と鉢合わせした事があってな。間宮を起こすのも悪いかと、自分が作ったんだが……」
「それがもうメチャ美味でさ?
ご飯と卵と塩胡椒だけの超シンプルな黄金チャーハンなのに、今まで食ったどのチャーハンよりも美味かったんだ。
んで、その味がどうにも忘れらんなくって、時々こうして作って貰ってんだ」
「そ、そうだったんですかぁー」
分かってしまえば、なんて事はない。
単に長波は夜食を求めていて、桐林がそれに応えただけ。
またしても鹿島の勘違いだった訳である。まぁ、いつもの事なのだが。
すると、気が抜けてしまったのか、鹿島のお腹が「くぅー」と鳴ってしまった。
「はうっ。わ、私ったら、はしたない……」
「無理もないって。夜中のこの時間に、チャーハンの香ばしい匂いとか、殺人的だよなぁ」
「ううう、それでも恥ずかしい……っ」
長波は仕方ないと慰めてくれるが、仮にも桐林の前。
実情などさて置き、慎ましくありたい鹿島は、隠すようにお腹を抱えて恥ずかしがる。
ところが、当の桐林は大して気にしていないようで、食器棚から新たな皿を取り出し、まだ残っていたらしいチャーハンを盛り付け、テーブルに置く。
「え? 提督さん?」
「鹿島も食べるといい。遠慮するな」
「で、でも、ご迷惑じゃ……?」
「提督がいいって言ってんだから、甘えときなよ。……手料理を食うチャンスだぞ?」
出来たてのチャーハンから、湯気が昇っている。
卵をまとい、油でコーティングされた米粒は、見事な黄金色で見た目にも胃袋を刺激。よだれも出てきた。
鹿島は悩む。
正直に言えば、食べたい。
桐林の手料理など、生まれて初めてなのだから。というか、料理ができるのも今知った。
統制人格なら、この時間に食べても体形を気にする必要もない。
だがしかし。慎ましやかな女性であれば、この時間の食事は敬遠するのではないか。
かといって、この機会を逃すと、次のチャンスはあるかどうか。
鹿島は悩みに悩み、悩み抜いて。
(世界中のダイエットを頑張ってる皆さん、ごめんなさいっ)
結局、食欲に屈した。
テーブルへ着き、レンゲを取って手を合わせ、早速一口。
「いただきま〜す……。ん、んんっ!? お、美味し、すっごく美味しいですっ!」
「だぁろぉ~? 提督のチャーハンは天下一品だぜ!」
噛み締めた瞬間、卵の甘みが舌に踊り、炒められて生まれた香ばしさが鼻腔をくすぐる。
絶妙な塩加減が後を引き、鹿島のレンゲは止まらない。
新しいチャーハン仲間が出来たからか、長波も上機嫌でレンゲを動かす。
桐林もまた、そんな二人をどこか得意げに、羨ましそうに見つめる。
誰もが寝静まる中、秘密の会食は穏やかに続く。
「所で、鹿島。君の用件はなんだったんだ」
「はい? ……あっ。え、ええっとぉ……。なんでしたっけ? あまりの美味しさに忘れちゃいました」
「おいおい。そんなんで大丈夫なのか、鹿島第二秘書官……」
《こぼれ話 千条寺の娘たち+パト》
これは、千条寺 マリが舞鶴鎮守府を訪れる前日の事である。
千条寺家が保有する膨大な物件のうち、舞鶴に程近い豪邸では、小さなパーティーが開かれていた。
小さいといっても、千条寺家の主催。
訪れるのは各界の著名人や、千条寺からの融資を引き出そうとする者たち。
供されるディナーも、今では手に入れるのすら難しい、海外の食材が惜しげもなく使われる。だが、純粋に楽しもうとする人間は誰も居ない。
互いの腹を探り、弱みを見つけようと躍起になる、冷たい戦場であった。
そして、そんな人間たちから逃げ出してきた人影が一つ。
煌びやかな廊下を走り抜けるその影は、とある部屋のドアを開けて中に駆け込んだ。
「はぁ……はぁ……っ」
黒いドレスを着た、年頃の少女。
明かりの灯らない部屋の中で、月の光が、長く艶やかな茶髪に天使の輪を作っている。
控えめに言って、美しい少女だった。
浮かべている悲しげな表情ですら、美しさを彩る一因にしてしまう程の。
「もう、嫌だ……」
少女は俯き、堪えきれない激情に身体を震わせる。
どれほど苦しかったのか、彼女は弾かれるように豪奢なベッドへ駆け寄り……。
「こったら動きづれぇ服、もう着てらんねぇべさぁああっ!!」
一瞬でドレスを脱ぎ、ベッドへ投げ捨てた。
比喩でもなんでもなく、着るにも脱ぐにも時間の掛かりそうなドレスを、である。
少女の名は千条寺
ドレスを脱いだエリ(略)だが、身につけている肌着は、ブランド物の最高級品──ではなく、いわゆるババシャツと股引だ。
もう少し歳を重ねれば、絶世の美女とも称されるであろう少女なのに、発展途上の瑞々しい肉体を隠すのが、ババシャツと股引。
なんともコメントに困る有様だが、更に彼女はベッドへ向けて崩れ落ち、妙に野暮ったいごった煮方言で愚痴を吐きまくる。
「ううう……。早く旦那様のとこさ帰りてぇ……。もんぺ着て土弄りしとる方が、パーテーで薄っぺらい会話するよか、よっぽど性に合っとるだぁよぉ……」
今年で十六になるエリには、父親である桐谷公認の婚約者が存在した。
その人物は農耕に関する研究者であり、未だ三割を下回る食料自給率を向上させるため、新しい農薬や肥料の開発や品種改良に取り組んでいる。
最初こそ一流の御嬢様然とし、千条寺家の事業の一環として婚約。彼と接していたエリだが、良くも悪くも研究者であった婚約者と過ごす内に、僻地での農民生活に言葉ごと染まってしまったのだ。
エリ本人はそれを気に入っているのだが、引き換えにこれまでの上流社会生活が苦痛となってしまい、今に至る。
千条寺家当主の長女として、皆を歓待するのが仕事であり、個人的に達成しなければならない目的もあるのだから、頑張らなければいけない。
けれど、疲れるものは疲れる。「はぁ……」と、大きく溜め息をつくエリだった。
そんな時である。
エリ以外に誰も居ないはずの部屋の片隅から、ガサリ、という音がした。
「誰じゃ!? ここぁ親族以外立ち入り禁止……って、パトやんかぁ。びっくらこいたぁー」
一気に意識を戦闘態勢へ持って行き、堂に入った空手の構えを取るエリだったが、のそりのそりと進み出てきたのは、人間大の身長を持つ、マリの家族。ハシビロコウのパトリック・吉良・ヨシヒサJr.であった。
パトリック(略)はエリに歩み寄り、まるで慰めるように嘴を寄せる。
エリも構えを解いてベッドに腰掛け、人懐っこいパトリックを優しく撫でる。
「なぁ、パトやん。なして人は、もっと自由に生きられねぇんだろなぁ」
呟きに、パトリックは応えない。
応える術を持っていないからではあるが、もし言葉を喋れたとしても、きっと沈黙していただろう。
エリは、誰かへ問いかけたかったのではなく、己自身に問いかけているように見えたからだ。
「マリちゃんは大丈夫だべか……。オラみてぇに、ええお人が旦那様なら良かが、あん子は……」
寡黙なパトリックを撫でつつ、その保護責任者──飼い主である妹へ想いを馳せるエリ。
腹違いの五人姉妹は、複雑な生まれにも関わらず、キラキラネームという哀れな共通点から互いを慰め合い、良好な関係を築いていた。
エリは比較的“あり”な名前を持っていたため、八つ当たりに等しい激情をぶつけられる事も、しばしばあった。それでもなおエリは手を差し伸べ、妹たちもやがて心を開いたのだ。
そんなエリだからこそ、最近、とある軍人との仲が取り沙汰される三女のマリが、心配でならない……のだが、彼女の普段の言動を思い出し、エリは破顔する。
「よぉく考えっと、心配する必要なかとねぇ。マリちゃんは自由人じゃし。オラと違って、逆にお相手を振り回すかね」
エリは婚約者に振り回され、結果として精神の自由を得たが、マリは産まれながらに自由だった。
幼い頃から様々なペットを父にねだり、人任せにせず自分で世話をして。いつも楽しそうに、忙しくしていた。
彼女であれば、どんな相手とでも上手くやれる。
もし相手が悪人だったとしても、調教して真人間に戻してしまうかも知れない。
自分の想像がおかしくて、「ふふ」と笑うエリ。ババシャツ股引姿ではあるが、その微笑みは品が良く、慈しみに満ちていた。
「さっさと帰りてぇ。帰って旦那様とラブラブしてぇ。
んだども、ここで投げ出しては、旦那様と出会わせてくれた御父様に顔向けできねぇな。
……っし! 気合い入れんべ! まっててけろ、旦那様。キチンとスポンサーGETして帰っから!」
すっくと立ち上がり、頬を叩いて気合を入れ直したエリは、クローゼットから別の青いドレスを取り出し、瞬く間に着替える。
元々、お色直しという名目で逃げ出してきたため、着替えなくてはいけないのだ。
そして、成功すれば食料自給率を5%は引き上げられるだろう、新種のサツマイモの研究費用を金持ち共から毟る──もとい、理解あるスポンサーを得るために、エリは力強く一歩を踏み出し、部屋を出る。
かと思いきや、思い出したようにとって返して、「話聞いてくれてあんがとな」と、パトリックの嘴にキス。今度こそパーティー会場へ戻って行った。
一人きり……いや、一羽きりに戻ったパトリック(略)は、部屋の隅っこにマリが用意した専用の巨大鳥籠(出入り自由、自動餌やり機能付き)に戻ろうと、のそりのそり。
ところが、突如として背を向けていたドアが《ドバンッ!》と開き、驚いた様子で振り返る。
するとそこには、エリとはまた違ったタイプの美少女が、怒り肩で立っていた。
蹴破るような勢いでドアを開けたのは、間違いなく彼女であろう。
「あー、だるっ。チョーだるいわー。いい歳こいたオッサン共が、中学生を狙ってんじゃないわよ。死ねロリコン。できるだけ苦しんでから、生まれてきた事を後悔して死ね!」
「ねぇや……。ドア、こわれちゃう……」
黒髪を短く切り揃え、浅黒い肌に白いドレスを映えさせる彼女の名は、千条寺
年齢は十四で、肌の色は日に焼けているのではなく、金で卵子を提供した、インド人の母親譲りである。
楚々としていれば、エキゾチックな魅力溢れる少女なのだが、まるでヤンキーの如く悪態をつき、後ろ足にドアを蹴り閉め、ガニ股で歩く姿が残念感を醸し出していた。
その背後に続くのは、今年で六歳になる四女の
綿毛のようにふわふわとした明るい髪。薄桃色のゴシック調ドレス。腕には大きなワニのぬいぐるみを抱え、幼いながらに整った顔立ちを、不安げに歪めている。
余談になるが、彼女の母親は桐谷の調整士を務める女性である。
今回のパーティー。表向きはアリス(略)の誕生日を祝う席であり、その実、彼女の婿探しを兼ねている。
本人にその気がなかろうとも、周囲はそういう場であると認識していて、多くの実業家や政治家の子息などがひっきりなしに挨拶に訪れては、歯も浮くような美辞麗句を並べ立て……。
アリスはヘドが出る思いで耐え続け、それに耐えきれなくなった今、「申し訳ありません、酒気当たりしてしまったようで……」と嘘をつき、クレア(略)と会場から逃げてきたのだ。
そんな訳で、アリスは不機嫌そうにドスドスと足音を鳴らしながらベッドへ向かい、途中でパトリックの姿に気づき、ヤンキーモードを終了させた。
「あら、パトっちじゃない。おひさー。んー、相変わらず鳥臭いー」
「ヨっちゃん……? あ、くーちゃんも、さわる……」
先程までの怒りを忘れ、アリスはパトリックに文句を言いながら、笑顔で抱きついている。
クレアもチョコチョコと歩み寄っては、羽毛へ頭をうずめた。
何かとストレスの多い上流社会であるが、楽しみも少なくはなかった。そのうちの一つが、妹であるマリのペットと触れ合う時間だった。
マリにそのつもりがあるかどうかは分からないが、アニマルテラピーと同じような癒しを、アリスたちは感じているのである。
「あの子は良いわよねぇ、適度に年が近くて、しかも将来性抜群の軍人さんの所に決まったんだから」
「ぐんじん、さん……? パパと、おんなじ?」
「そうよ。同じ軍人で、同じ“桐”。ま、それも結婚前に戦死しなけりゃだけど」
パトリックの手触りを堪能しきったアリスが、ベッドに背中からダイブし、やっかみ半分の独り言を呟く。
今現在、二周り以上も歳の離れた初老の男たちに言い寄られている身としては、桐林は喉から手が出るほどの優良物件に思えた。
本音を言うと、すぐにでも紹介して欲しいくらいなのだが、父である桐谷も、マリを桐林に当てがうと決めているようだし、叶わない願いだと知っている。
知っていても、口に出さずにはいられなかった。
「はぁ……。この年まで贅沢させて貰ったんだから、パパに恩返しくらいはしたいけどさぁ。……普通に恋くらい、してみたかったな」
好きな時に好きな物を食べ、欲しい物は大概手に入れられても、唯一、千条寺の女が手に入れられないもの。
それが普通の恋である。
桐谷自身が、権力者の恋愛結婚ほど不幸なものはないと実証しているため、望んではいけないのだと理解しているのだが、稀有な例であろう姉の姿を見ていると、もしかしたら……なんて、淡い期待を抱いてしまうのだ。
「ねぇや……。しっこ……」
「は?」
唐突に、クレアがモジモジし始めた。どうやら催してしまったらしい。
アリスはベッドから身を起こし、大きな溜め息を。
「アンタねぇ、今年で小学生になったのよ。トイレぐらい一人で行けるようになりなさいよね、全く」
「う……。ごめん、なさい……」
「ああもう、そんなすぐ泣かないの! 他の家のクソ女共に舐められるわよ!」
クレアの眼に浮かぶ涙を、アリスは叱りつつもハンカチで顔を拭う。
ついでにティッシュで鼻水も「チーン!」させ、部屋に備え付けのトイレへ。口は悪いが、面倒見の良いアリスだった。
だからこそ、見た目通りに気の弱いクレアも懐いているのだが。
諸々の些事を済ませると、二人は並んでベッドに腰掛ける。
「くーちゃん、もどりたく、ないな……」
「気持ちは分かるけど、行かなきゃダメ。
絵本も洋服もお菓子も、好きなだけ買って貰えるのは、こういう事をキチンとやるからなのよ。
それと、その言葉遣いもダメだかんね?」
「……はい。おねえさま」
「よく出来ました。……あ~あ、そろそろ戻らなきゃダメかぁ」
ぐずる妹を窘め、そして褒めながら、胸の内で溜め息をつくアリス。
千条寺家が開くパーティーは、常に一流の人間ばかりが出席する。
彼らの目的はもちろん、アリスを始めとする桐谷の娘なのだが、しかし彼らを目的に出席する者も少なくない。
権力争いに負け、二流三流に落ちぶれた家の娘が起死回生を狙うには、桐谷の眼鏡に敵わなかった男でも十分な場合がある。
そういった男を狙う手合いは、まだ社交界慣れしていないクレアにとってストレスの対象でしかない。だから一緒に逃げ出してきたのだ。
しかし、いつまでも目玉と言うべき二人の姿がなければ、千条寺家のパーティーだという事も忘れて婚活する女たちを増長させてしまう。そろそろ戻らねば。
「じゃあね、パトっち。マリによろしく」
「……ヨっちゃん。またね……?」
アリスは素っ気なく、クレアはぬいぐるみの手を小さく振って、別れを告げる。
パトリックがクラッタリングで応えると、二人は自然に手を取り合い、薄暗い部屋を後にした。
「パーティー、おわったら。えほん、よんでくれる?」
「えぇ? またぁ? メンドくさいわねぇ……。ってか、なんでアタシなんかに懐くのよホント……」
「ねぇや、やさしい、から」
「……どこがよ。ちゃんと御姉様って呼びなさい」
「ん。おねえさまが、いっしょなら。がんばる」
部屋のドアが閉まるその瞬間まで、幼い姉妹は言葉を交わしていた。
また一羽きりに戻ったパトリックは、ゆったりとした動作で窓辺へ寄り、雲に隠れそうな下弦の月を見上げる。
彼が何を想っているのか。青い瞳からは読み取れない。
しばらくすると、またまた部屋のドアが、今度は静かに開く。
身を滑らせるように入室して来たのは、通っている学校のブレザーを着るパトリックの主、マリだった。
翌日の桐林艦隊襲撃(誤字に非ず)に備え、一時的に預けていたパトリックを迎えに来たのである。
「パトリック、お待たせ。……行こ?」
マリが手を差し伸べると、パトリックは《クァ》と一鳴き。自ら鳥籠へと入る。
それを確認してから、マリは入り口に鍵をかけ、籠自体にもカバーを。最後に、鳥籠の足場に設けられた足踏みボタンを踏む。
するとどうだろう。鳥籠がわずかに浮き上がった。目には見えないけれど、移動用のキャスターが展開された証拠である。
子供の細腕にはかなり重たいはずだが、精一杯、渾身の力を込めて鳥籠を動かす。
これから市内のホテルへ移り、そこで一晩を過ごした後、横須賀から送迎されて来る暁、響と合流。舞鶴鎮守府へと向かう予定だ。
「暁さんと、響さん。仲良くできたら、いいな」
マリの呟きに、パトリックが《クァウ》と鳴く。
途中で使用人が彼女らを発見し、交代を申し出ても、マリは己の手で押すことに拘り、オロオロする大人たちの中をひたすら進む。
エリーチカ。アリスリデル。マリアンヌ。クレアリーネ。そして、まだ赤子の
千条寺家に産まれついた少女たちは、日本人離れし過ぎた名前にも負けず、己が意思で歩いていく。
いつか、千条寺の女としてではなく、この世界でたった一人の、自分自身の幸せを得るために。
改名への道のりは、まだ長く、遠い。
はい。以上、「鹿島さん食欲に負ける」「パトリック・吉良・ヨシナカJr.さん大人気」なお話でした。
興味のある方は少なかったかも知れませんが、桐谷の娘たち(エヴァちゃん除く)がお目見えです。
特に賢い可愛いエリーチカちゃん、凄まじいネタキャラになってしまいましたが、彼女はあれで幸せですので御安心を。ババシャツ愛好家ですけど。
鹿島さん? いつも通りなので割愛です。
さてさて次回は、放ったらかしだった舞鶴遠征陣……。とっきーや天津風たちのお話。
横須賀へ向かった彼女たちが、姉妹艦や古巣の仲間と出会い、どのように触れ合うのか。今しばらく時間をください。
それでは失礼致します。
「……見えてきたわね。横須賀が」
「んぉー? なになにー? ……おー、ホントだー。いよいよだねー。楽しみ?」
「べ、別に! 島風と会うのなんて、アタシは楽しみになんかしていないわ!」
「いやいや、誰も島風の名前だしてないんだけど……。素直じゃないなー、全くー」