新人提督と電の日々   作:七音

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在りし日の提督と甲標的な日々

 

 

 

「その発言、聞き捨てなりませんね」

 

「こちらこそ、発言の撤回を求めましょうか」

 

 

 本来は憩いの場であるはずの、横須賀鎮守府の談話室では、二人の男性が睨み合っていた。

 元作家という奇妙な経歴を持つ傀儡能力者、■■ ■■さん。

 そして、世界でも指折りの大財閥である■■■家の次期当主にして、新しく同僚となった■■■ ■■さん。

 年長者としての貫禄と、若き傑物の持つ迫力とが、鋭い眼光を介してぶつかり合う。

 まさに一触即発。

 この二人の他に、■■■と■■■君しか居ないのをこれ幸いと、彼らは。

 

 

「いいですか? この世界で一番可愛い女性は、僕の妻です!」

 

「いいえ違います! ワタシの妻です! 元がつきますけども!」

 

 

 猫ちゃんが後ろ脚で砂をかけるような、立ち入り辛~いケンカを続けるのでした。

 ■■さんのちょっとした家族自慢を起に始まったこれは、■■■さんの意外な一面を■■■たちに教えてくれた。

 家族想いというか、奥さんラブな人なんだ、■■■さん。

 それは素晴らしい事だと思いますが、そろそろ止めて欲しいです。

 

 

(何やってんだろーなー、あのオッサンたち。いっせーの、に! ダメか……)

 

(意外と気が合いそうだけどね……。いっせーの、ゼロ! やたっ、■■■の勝ちー!)

 

(んぁー! また負けたー! 姉ちゃん強過ぎー!)

 

 

 真面目に取り合うのも面倒で、握り拳を付き合わせる■■■と■■■君。

 数字の合図と一緒に親指を立てたり立てなかったり、ちょっとした暇潰しにやる“アレ”も、もう二十戦目だったりする。

 ちなみに十五勝五敗で■■■が勝ち越し中。意外と才能あるのかな?

 とか思っていたら、一向に治まる気配のなかった妻帯者二人に動きがあったようで。

 

 

「なかなかやりますね……。ここまで僕に着いてきた人は初めてですよ」

 

「あなたこそ、なかなかに人間味溢れる人のようですね。色眼鏡で見る所でした」

 

 

 あ。握手した。

 なんか、互いの健闘を称え合う好敵手的な雰囲気になってる。

 無駄に笑顔が爽やかなのは何故ですか。

 

 

「失礼を承知でお尋ねしますが、そこまで愛しておられるのなら、どうして離婚を?」

 

「……単純に、収入面の問題ですよ。物書きとしての仕事が全くなくて、バイトやら何やらで食いつないでましたが、それも限界で。離婚した方が色々と国から援助して貰えますしね。お恥ずかしい話です」

 

「いえ。難しい決断をされたのだと思います。心中、お察しします」

 

「ははは、大丈夫ですよ。離婚はしましたが、家族関係は良好なので」

 

 

 やはり妻帯者同士という共通点があるからか、出会ったばかりなのに、かなり突っ込んだ話もしているみたい。

 というか、■■■さんの人徳? 常に人の良さそうな笑顔を浮かべていて、好青年に見える。

 笑顔のまま■■さんと言い合ってたから、若干怖くもあったんですが。

 

 

(なんか、めっちゃ仲良くなってない?)

 

(本当……。でも、険悪になるよりは良いんじゃ?)

 

(それはそうなんだけどさ。なーんか納得いかないっつーかさ)

 

 

 交流を深める二人を遠目に、■■■たちは声をひそめる。

 これから共に戦う仲間なんだし、反目し合うよりはずっと良いと思うけれど、■■■君は何やら思うところがあるらしい。

 そういえば、■■■君の事情とか、あまり知らない。

 彼自身が話さないというのもあるけど、小学生が軍人として戦わなきゃいけなくなったんだから、色々と抱えていそう。

 ■■■たち、大人が気を配ってあげなきゃ。まぁ、自意識が芽生えてからの時間で言えば、■■■の方が年下な訳ですが。

 

 

「ところで、そちらのお二方」

 

「げっ」

 

「は、はいっ!? ■■■の事でありますか!?」

 

 

 ヒソヒソ話をしていた所に、いきなり掛けられる■■■さんの声。

 驚いて、思わず直立不動になってしまう■■■がおかしかったのか、浮かべていた笑みを更に深く。

 

 

「ふふふ。そこまで畏まらなくても良いでしょうに。どうです? あなた方ともお話をさせて頂けませんか」

 

「え、ぁ、もちろんです。けど……」

 

 

 断る理由もないので、とりあえずは頷く■■■だったけれど、■■■君の存在を思い出し、躊躇してしまった。

 自然、三人分の視線が■■■君に集まり、居心地が悪そうに顔を背けた彼は……。

 

 

「オレ、部屋に戻る。金持ちは、キライだ」

 

「あっ、■■■君っ!」

 

 

 まるで、その場を逃げ出すように駆け出し、談話室を出て行く。

 止める暇なんて無くて、部屋には沈黙が広がった。

 それがあまりに気まずく、■■■は■■■君のフォローをしてみる。

 

 

「ご、ごめんなさい。普段は元気が良い子で、あんな事を言う子じゃ……」

 

「いえ、気にしないでください。僕も同感ですから」

 

「え?」

 

 

 変わらず笑みを浮かべ、穏やかに対応してくれる■■■さん。

 でも、その言葉の意味を図りきれなかった■■■は、知らず首をかしげていた。

 すると、彼は緩やかにまぶたを伏せ──

 

 

「同族嫌悪ですよ。僕も、金持ちは嫌いなんです。特に、死んだまま生きてるような連中は」

 

 

 ──事も無げにそう言った。

 変わらぬ笑顔が告げる、確かな憎しみが。

 ■■■の身体に怖気を走らせたのだった。

 この人は、一体……?

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 潮騒が聞こえる。

 ざぁ、ざぁ、と。寄せては返す波の音が。

 肌を撫ぜる風は心地よく、まぶた越しにも眩しい光が、肌を焼いている。

 ……自分は、どこかで日光浴でもしながら、眠っているらしい。

 断言できないのは、まだ寝ぼけているからだろうか。

 眠くて、眠くて、仕方ない。

 

 

「おーい。寝てるのかーい?」

 

 

 今度は、声が聞こえた。

 覚えのある声だ。

 親しみが湧いて、でも、どこか騒動を予感させる、楽しげな声。

 

 

「おーい、ねぇーってばー。寝てるなんてもったいないよー?」

 

 

 何故だろう。呼びかけてくる声に、涙が出そうになっていた。

 理由は分からない。

 ただ、切ないような、苦しいような、胸を締め付ける“何か”に、自分は喘ぎ……。

 

 

「どっせい!」

 

「ぬぉあ!?」

 

 

 次の瞬間、ひっくり返っていた。

 何か、ジャリジャリとした物に顔が埋まる。……砂?

 寝ぼけ眼で自分を確かめてみると、上半身は裸で、ゆったりとした短パンに薄手のジャンパーという、まるで海水浴にでも行くような格好をしていた。

 なんで? こんな水着、持っていただろうか。そもそも、どうしてこんな格好を?

 疑問符ばかりが頭に浮かび、ただただ混乱する自分だったが、ふと、間近に人の気配がある事に気付いた。

 

 

「やぁやぁ、やっとお目覚めかい。新人君!」

 

「……先輩?」

 

 

 顔を上げてみれば、そこには見知った顔が。

 赤いハイレッグのワンピース水着を着るその人は、兵藤 凛先輩。

 真っ青な空をバックにする中、得意満面な彼女を、自分は……。

 

 

「どうしたのさ? まるで幽霊でも見たような顔して」

 

「い、いや……あれ? 先輩……なんで……」

 

 

 頭がボーッとする。

 自分が誰で、先輩がどんな人で、自分たちがどんな“力”を持っているのかは、キチンと思い出せた。

 けれど、ここがどこだか、分からない。

 周辺に広がる砂浜と、空との境目が分からないほど青い海。海水浴場っぽいのは確かだが、どうしてこんな場所に?

 全く現状を理解できず、ひたすら困惑する自分を見て、先輩は同情するように肩を叩く。

 

 

「よっぽど働き詰めだったんだね……。今日はお休み! で、揃って海に繰り出したんじゃないか! ほら、みんな待ってるよっ」

 

 

 そのまま手を引かれ、無理やり連れて行かれた先には、見覚えのある少女たちが居た。

 横須賀鎮守府に在籍する、自分の仲間が。

 いつも通りの格好で、パラソルやビーチチェアなど準備をしている妙高型姉妹。

 ラムネを一気飲みしようとしてビー玉に邪魔される利根へと、隣でコツを教える筑摩。

 ヨシフと一緒に走り回っているのは、長良だろうか。その後ろを陽炎、不知火、黒潮が、笑いながら追いかけている。

 他にも、思い思いに休日を過ごしているらしい皆の姿が、確かにそこにあった。

 

 どうしてだろう。胸が苦しい。

 懐かしいような、寂しいような感情が、目尻から溢れそうに。

 毎日会っているはずなのに、どうしてこんな気持ちになる?

 ……分からない。

 分からないけれど、それを見られるのは恥ずかしい気がして、みんなに手を振る先輩に気づかれないよう、隠れて目元を拭う。

 

 程なくして先輩の足は止まり、自分も同じように立ち止まる。

 どうやら、そこはいわゆる海の家らしかった。

 奥で誰かが食事の準備でもしているのか、やたら美味しそうな匂いが漂ってくる。

 そして入り口には、二人の水着姿の少女が立っていた。

 

 

「やっほーい、雷ちゃんに電ちゃーん! 彼を連れて来たよー」

 

「あ、司令官!」

 

「もう大丈夫なのですか?」

 

 

 こちらの姿に気づくと、二人が──雷と電が、笑顔で駆け寄ってくる。

 雷は、白いセパレートタイプ。スポーティーな感じが似合っていた。

 対する電は、同じく白い色のワンピースタイプ。胸元の大きなリボンがポイントだろうか。

 この二人の水着姿を見るのは初めてだけど、これはなかなか……。

 

 

「普段は酔わない車に酔っちゃうなんて、本当に疲れてたのね。みんな心配してたんだから!」

 

「なのです。でも、顔色も良くなってるみたいで、安心しました。……司令官さん? どうか、しましたか?」

 

「……可愛いな」

 

「へっ。や、やだもう、司令官ったら……。そんな面と向かって褒められたら、照れちゃうじゃない……」

 

「な、なのです……。恥ずかしく、なってきちゃったのです……」

 

「え、あ、ごごごごめん! い、いやいやいやっ、違……くはないんだけどっ、ちょっと寝ぼけてて!」

 

 

 思わず口をついた感想に、真っ赤になってモジモジし始める雷電姉妹。

 い、いかんいかん! ナチュラルにセクハラ発言してしまった!

 自分は慌てて取り繕うも、隣に居た先輩の顔は、まるで獲物を見つけた猫のように。

 

 

「おやぁ。新人くぅん、いくら愛らしい少女の水着姿が目の前にあっても、本音ダダ漏れはマズいんじゃないかぁい?」

 

「う、あー、その……。あ! 先輩も水着が似合ってますね! 無駄な露出がらしいです!」

 

「思い出したように褒められても嬉しかないやい! でもエロかろう? 背中には自信があるのさ!」

 

 

 話題をすり替えるために先輩を褒めてみると、一旦は拗ねて見せたが、すぐさま得意げに背中を見せつける。

 何を隠そう先輩の着ている水着、一見普通のハイレグ水着だけれども、実は露出が超スゴイ。

 背中はお尻辺りまでザックリ開いてるし、体の両サイドも編み編みのスケスケ。

 提督生活で女体に耐性が出来てなかったらヤバかった。

 

 と、安心したのも束の間。

 

 

「Heeeeeey,テェエエトクゥゥゥウウウッ!!!!!! ワタシを放ったらかしてMs.兵藤とイチャつくとは、どういう了見デェスかぁああっ!?」

 

「うっ。その声は……」

 

 

 背後で、とても聞き覚えのある怒声が轟いた。

 この口調。間違いなく金剛だろう。また厄介な所を見られてしまった……。

 どう言い訳したものか、必死に考えつつ振り向けば、そこには金剛……じゃなく、榛名? が居た。なんか困った顔してる。

 彼女も水着を着ているのだろうが、上は白いパーカー、腰にパレオと防御は完璧だ。残念。

 両隣には比叡と霧島も立っていたのだが、こちらは雷と同じようなセパレートだ。健康的な肉体美が眩しい。

 しかし、金剛はどこに? まさか榛名が声真似した訳じゃないだろうし。

 

 ……あ。見つけた。

 榛名の後ろに隠れて、こっち覗いてるわ。

 

 

「なんで隠れてるんだ、金剛?」

 

「だ、だってェ……。テートクに水着を見せるの、なんだかんだで初めてデスし……。恥ずかしくテ……」

 

「まぁ、気持ちは分からなくもないけどさ。榛名も同じか?」

 

「は、はい……。こういった、面積の少ない衣服は、ちょっと……」

 

 

 金剛も水着らしいのだが、よほど恥ずかしいのか、すっかり榛名の影で縮こまっている。

 ふむ。恥ずかしがる金剛だなんて、珍しいものを見れた。

 いつもこのくらい大人しければありがたいのだが。

 

 

「その点、比叡は堂々としてるな」

 

「はい! 別に自信があるとかじゃないんですけど、私まで恥ずかしがっていたら、金剛お姉様も恥ずかしいでしょうし!

 ……そうなったら、いつまで経ってもお姉様の水着姿を堪能できませんし。どぅへへ」

 

「比叡姉様、本音が漏れてますよ」

 

 

 まるでセクハラ親父が如き発言と表情を浮かべる比叡。

 霧島のツッコミと共に、その場の全員がドン引きして距離を取るが、それでもニヤケ顔のまま。

 美少女じゃなかったらとっくに通報されてるぞ……。

 とまぁ、こんな風に騒いでいれば、周囲の注目を集めるのは当然で。

 

 

「おぉーい! 一緒にビーチバレーやろーぜー!」

 

「みんな待ってますよぉ~?」

 

「あ、てーとくー! ほらほら見て! わたし、ビーチフラッグで一番になったんだよ! いっちばーん!」

 

「う~、負けちゃったっぽい~……。次は絶対に勝つっぽい!」

 

 

 真っ白ビキニな天龍、黒いパレオをはためかせる龍田、お揃いのビキニで統一している白露や夕立など、水着少女たちが、けしからん物を揺らしながら手を振ってくれる。

 燦々と降り注ぐ光の中、彼女たちは太陽にも負けない笑顔を輝かせていた。

 いつの間にそんなに育ったのか……。全くもって嬉しい限りです。ありがとうございます。

 こんな美少女に囲まれたら、自分も頑張って楽しまなければなるまい!

 

 そう。

 楽しまなきゃ、いけないのに。

 

 

「新人君? どうかした?」

 

「……いえ」

 

 

 黙り込んでしまう自分を、先輩が覗き込む。

 短く返すが、それだけで精一杯なほど、胸が痛かった。

 楽しげな皆が作る輪に、飛び込もうと思えない。

 今すぐ逃げ出したいくらいに、居た堪れない。

 どうしてこんな風に感じる?

 どうしてこんな事を考える?

 どうしても言葉にできない、複雑怪奇な感情が、胸の内を占めていた。

 

 ……だめだ。こんなんじゃ。

 

 

「ごめん、まだ寝ぼけてるみたいだ。ちょっと顔を洗ってくるよ」

 

「そうなの? じゃあ、私たちは先に行ってるわね。さ、行きましょ電!」

 

「あっ、い、雷ちゃん、引っ張らないでほしいのですぅ!?」

 

「早く戻って来るんだよー新人くーん!」

 

 

 適当な言い訳をして、自分は先輩たちから離れる。

 皆に気づかれる前に、気持ちを切り替えなくちゃマズい。

 何も思い出せないけど、誰もがこの時間を楽しんでいる。壊したくなかった。

 

 店の奥、男女に分かれたトイレに入ると、清潔なタイル張りの壁の一画に、洗面台があった。

 少し多めに蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 そのまま、正面にある鏡を覗くと、冴えない顔をした男の顔が。

 

 

(……いかんいかん。気合い入れろ。みんなに心配されるぞ)

 

 

 濡れ手で両頬を叩き、軽い痛みで自分に喝を入れる。

 まだ頭はハッキリしない。

 しかし、気分は変えられた。

 そう思い込む事にして、備え付けのペーパータオルで顔を拭く。

 早く戻ろう。みんなと遊べば、こんな不安な気持ちは──

 

 

「何を笑ってる」

 

「……っ!?」

 

 

 ヒビ割れた、男の声。

 驚いて周囲を確認するが、人影はない。

 個室のドアも開いているし、聞き違いだろうか? いや、まさか。

 

 

「だ、誰か居るのか」

 

 

 返事はなく、ただ、不穏な気配だけが漂う。

 おかしい。ついさっきまで、店の外から皆の声が聞こえていたのに、今はもう聞こえてこない。

 何か、異常な事態が起きている。

 そう判断し、急いでトイレから出ようとする自分だったが、出入り口に振り返る途中で、ふと鏡が目に入った。

 なんの変哲もない、ごく普通の鏡だ。

 自分が映り込んでいる。

 “出入り口に向けて身体を傾けている自分”を、“直立不動で睨みつける自分”の姿が。

 

 

「──な」

 

 

 んだ、と続けようとして、胸への圧迫感に遮られる。

 鏡の中から這い出たもう一人の“自分”に、押しのけられたのだ。

 次に感じたのは、強い背中の痛みと、大きな破砕音。

 軽く押されただけで、自分の身体はタイル地の壁を突き破っていた。

 

 

「ぁ、ぐ……ッ、なに、が……!?」

 

 

 砕けたタイルと一緒に、砂浜へと投げ出される。

 理解が追いつかないまま、どうにか身体を起こすと、今度は周辺の景色に驚愕する。

 止まっていた。自分以外の何もかもが。

 空も、海も、思い思いに水着で遊ぶ皆も、宙に浮かぶタイルの一欠片まで、コントラストを逆転させたような世界で、一時停止している。

 訳が分からない。この状況に、思考が適応しない。

 そうこうしている内に、今度は喉に圧迫感が。

 

 

「ぁガ、お゛……っ」

 

「逃げるな。こんな夢に逃げるなんて、許されると思ってるのか」

 

 

 首を支点に、身体が浮く。

 いとも容易く、左腕一本で自分を持ち上げるのは、“自分”と似た怪物だった。

 顔の左半分に歪んだ傷を負い、紅い異形の左眼を輝かせ、白髪を陽炎のように揺らめかせる、鬼。

 その、血の涙を流す眼が告げる。

 全てが、憎いと。

 

 

お前(オレ)のせいで、先輩は死んだ。

 お前(オレ)>のせいで、未来は奪われた。

 この光景はまやかしだ。もう二度と、こんな幸せは、得られやしない」

 

 

 自分は無意識に抵抗するが、怪物は微動だにしなかった。

 腕に爪を立てても、みぞおち目掛けて蹴りを叩き込んでも、全く怯まない。

 それどころか、空いた右腕がこちらの顔に伸び、親指が左眼の真上に。

 

 

「忘れるな。忘れるな。忘れるな。

 痛みを忘れるな。苦しみを忘れるな。憎しみを忘れるな。

 この未来を閉ざしたのは、他でもない……」

 

 

 反射的にまぶたを閉じたが、怪物はお構いなしに親指を押し込む。

 首への圧迫感も同時に強まり、呼吸もままならず、意識が遠くなっていく。

 メリメリ、ギシギシ。

 皮膚と骨が、悲鳴を上げている。

 もはや抵抗もできず、ダランと両腕を垂れ下がらせる自分の耳に、最後に届いたのは──

 

 

 「自分(オレ)たち自身なんだからな」

 

 

 肉の潰れる音と、己への呪詛だった。

 

 

「──────ッッッ!」

 

 

 身体が勝手に飛び起き、次に、左眼と首元を確かめる。

 どちらも、潰されていない。

 夢。

 夢だった。

 そう理解した瞬間、自分は思い出したように息を吐き出す。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

 心臓は早鐘を打っていた。

 身体が熱い。しかし、腹の奥底は冷え切っているようで、朦朧とする。

 悪夢を見るのはいつもの事だった。

 いつもの事なのに、夢の中の自分は毎度必ずそれを忘れ、内容も手を変え品を変えなので、飽きる事すらできない。

 

 

「……あぁぁ」

 

 

 両手で顔を覆い、ベッドの上でうずくまる。

 気を落ち着かせないと、叫び出してしまいそうだった。

 寝汗が眼に入ったようで、痛くて堪らない。

 

 どれほど時間が経ったろう。

 しばらくそうしていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。

 

 

「ぁ、あの、提督……? 瑞穂です。大丈夫、ですか……?」

 

 

 疲弊した精神に、一時の清涼感をもたらしてくれるような、可憐な声。

 自分が励起した水上機母艦の統制人格だ。

 おそらく、自分は目覚める時に叫び声でも上げていたのだろう。……また。

 

 

「問題ない。ちょっと、寝ぼけてベッドから落ちただけだ」

 

「そ、そうなのですか? それにしては……」

 

「それより、悪いんだが風呂を用意してもらえるか。寝汗を流したい」

 

 

 ドア越しに心配してくれる瑞穂だが、あえて話題をそらし、無理やり話を切り上げる。

 逡巡するような間を置き、やがて、諦めの気配を吐息に感じた。

 

 

「はい。分かりました。では、失礼致します……」

 

 

 ごく僅かな絹擦れの音が、瑞穂の気配と一緒に遠ざかっていく。

 人間離れした感知力も、今や普通に使いこなせている。慣れとは恐ろしい。

 ベッドから降り、改めて部屋を見回せば、そこは慣れ親しみつつある舞鶴鎮守府の自室……ではなかった。

 丸く切り抜かれた窓を覗くと、外には日の光を受ける、一面の海と水平線。

 ここは海の上。水上機母艦 瑞穂の船室だ。

 自分が乗り込むに当たり、船体と共に近代化改装を施された室内は、旧世代の技術しか使えないとはいえ、非常に快適に過ごせる造りとなっている。

 問題が、それを使う側にあるだけで。

 

 ふと、壁に掛けられた小さな鏡を見てみる。

 そこには、虚ろな眼をした自分が居た。

 顔の左半分に歪んだ傷を負い、紅い異形の左眼を細め、根元が白くなった黒髪をそのままにする、“自分”が。

 

 

「未練がましい」

 

 

 そう吐き捨てて、湧き上がる感情に任せ、拳を振り上げ。

 どこにも行き場を見つけられず、投げ出した。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 軽く寝汗を流し、眼帯を着け、瑞穂の用意してくれた軍服に袖を通した自分は、なんとか仕事を始めるだけの気力を取り戻していた。

 手狭な脱衣所を出れば、ずっと控えていたのだろう、瑞穂が通路に立っている。

 

 

「すまない。朝から手間をかけた」

 

「いえ。滅相もございません」

 

 

 淑やかな仕草で、瑞穂は首を振る。

 見目の美しさと相まって、普段の自分なら見惚れてしまうだろうが、そうならないという事は、まだ余裕がないのか。

 心配されるのも嫌だし、気づかれないようにしないと。

 

 

「朝食はどうなさいますか? すぐに御用意できますが……」

 

「早く仕事を始めたい。握り飯にして貰えるだろうか」

 

「承りました」

 

 

 仕事に没頭すれば気も紛れるだろう。

 そう考えた自分は、瑞穂に軽食を頼んで、一人先に上甲板へ。

 濃厚な潮の匂いと、眩しい朝日が出迎える。

 現在、瑞穂が停泊しているのは、日本海沿岸からおよそ四十八海里。安全領域の端近くにある人工島群、日本海泊地の付近である。

 何故こんな場所に居るかと言えば、もちろん仕事だ。

 自分と梁島提督が舞鶴鎮守府に配属され、本格的な日本海の深海棲艦攻略が開始された。

 その第一歩として上から命じられたのが、「日本海における高速航路の実用化」だったのだ。

 

 伊勢や日向、浜風に瑞穂と、一応は艦隊と呼べるだけの戦力が整ったが、だからと言って無策に打って出るのは愚の骨頂。

 太平洋と同じように張り巡らされているであろう、高速航路を利用できるように調査し、万全の体制を整える事こそが重要、という判断だ。

 この方針には自分も賛成であり、こうして瑞穂に乗り込み、甲標的の使役に勤しんでいる。

 まぁ、本当なら自分がここに居る必要はないのだろうが、もう一つの目的を果たすためには必要な事だった。

 

 新品同然の木の甲板をしばらく進むと、その場に似つかわしくない、上げ畳の置かれた四畳半ほどのスペースがある。

 柔らかそうな座布団の置かれたここが、甲標的の使役に集中するための場所だ。

 なぜこんな場所で同調するのかと言えば、増幅機器無しでの過同調を防ぐためである。

 陽光と風を浴びる自分の肉体と、冷たい海中を進む甲標的。

 二つの感覚を同時に受け取る事で、機械的リミッターのない状態でも、自分を見失わないようにする、原始的なやり方だった。

 最初こそ混乱したものの、今ではもう慣れ、普通に使役できるようになっている。

 

 ……改めて見ると、本当に場違いだな。

 そんな事を言っても今更どうしようもないし、とりあえず、座って瑞穂を待とう。

 

 

「提督。お待たせ致しました」

 

 

 座布団に腰を落ち着けると、程なく瑞穂が三方を持って現れる。

 完璧な作法で畳へ上がり、恭しく置かれた三方の上には、握り飯が三つと沢庵が、それぞれ小皿に載せられていた。

 加えて、小ぶりな水筒も。中身は……昨日と同じなら、焙じ茶だろうか。

 

 

「ありがとう。君も早く休むといい」

 

「お気遣い、有り難く存じます。ですが、瑞穂は提督にお仕えする身。主を差し置いて休む訳には参りません」

 

「……そう言って、もう三日だぞ。疲れていないはずがないだろう」

 

「いいえ。この程度、なんの事は」

 

 

 ごく当たり前に休息を固辞する瑞穂だが、実は彼女、日本海泊地近辺に停泊してから一睡もしていない。

 平然としていられるのは、やはり統制人格だからなのだろうけども、なんというか、居た堪れなかった。

 美女を侍らせ、身の回りの世話をさせるだけでなく、仕事もさせた上で一切休ませないとか、鬼畜の所業だ。

 そのせいで悪夢を……とは言わないが、心置きなく自分が休むためにも、瑞穂にはしっかり休んで欲しいのに、何度言ったってこの有様。

 もうこれは、アレか。ちょっと怒ったふりでもするしかないだろうか。

 うん。その路線で試してみよう。

 

 

「そんなに自分は信用ならないか?」

 

「え?」

 

 

 握り飯(中身は鮭)を頬張り、右眼をほんのり細める。

 すると、瑞穂は目に見えて動揺しだした。

 

 

「こうまで休息を固辞するのは、君が寝ている間に、自分が“何か”するかも……と怪しんでいるからだろう? 残念だ」

 

「ちっ、違いますっ! 瑞穂は、瑞穂は決して、そのような……っ!?」

 

 

 視線を逸らしつつ、悲しそうに沢庵をポリポリ齧れば、瑞穂は大慌て。弁解しようとにじり寄ってくる。

 その様子があまりに必死で、申し訳ないと同時におかしくなってしまい、早めにネタばらしする事にした。

 

 

「冗談だよ」

 

「……え……?」

 

「悪かった。あんまり頑なだったから、意地悪したくなっただけだ。君がそんな風に思ってないのは分かってる」

 

 

 話について行けなかったのか、目を白黒させる瑞穂。

 もう一度、「悪かった」と繰り返しながら笑いかけると、ようやく合点がいったらしく、表情を崩す。

 

 

「も、もう……。提督も、お人が悪いですわ」

 

「すまない。だが、休息を取ってもらわないといけないのは変わらない。

 いざという時、この艦を一番上手く動かせるのは君なんだ。

 自分が動けない時に、君が動けないのではマズいしな。

 だから休んでくれ。これは命令だ」

 

「……分かりました。申し訳ありませんが、瑞穂、少しだけ休ませて頂きます」

 

「ああ。そうしてくれ」

 

 

 命令とまで言われては、折れない訳にもいかなかったのだろう。

 素直に頷き、上げ畳から降りようとする瑞穂だったが、ふと何かを思い出したように、両手を皿にしてこちらへ。

 

 

「では、使役妖精(この子)を側に置いておきますので。何かありましたら、ご遠慮なくお声がけ下さい」

 

 

 瑞穂は、まるでそこに“何か”が居るよう振る舞い、「お願いしますね」と呼びかけてから、楚々とした一礼と共に去って行く。

 彼女が“何か”を下ろしたであろう場所を、自分は静かに見つめる。

 

 

「……そこに、居るのか?」

 

 

 呼びかけても、返事はない。何も見えない。

 左眼を使えば、そこになんらかの“力”が作用しているのは分かるだろうが、ただそれだけ。

 あの一件──霞を失いかけた戦い以降、見えるようになったはずの使役妖精たちは、舞鶴事変を境にして、また見えなくなってしまったのだ。

 原因は定かでないが、きっと、この左眼のせいに決まっている。

 

 

「もう、二度と見えないんだろうな」

 

 

 愛らしくて個性豊かな、あの小さな命と、もう会う事が叶わない。

 もともと見えなかったはずなのに、横須賀の面々との別離とも重なって、やけに寂しかった。

 ……止めよう。今は仕事に集中すべきだ。

 残りの握り飯と沢庵を焙じ茶で流し込み、「ご馳走様」と手を合わせてから、座禅を組む。

 右眼を閉じて意識を集中すれば、いつの間にか、空から自分を見下ろしていた。

 瑞穂の船体との同調が、増幅機器無しで完了したのである。

 

 自分がわざわざ瑞穂に乗り込んだのは、意図せず増大してしまった“力”の程度を測るためでもあった。

 元々、ある程度の練度を持つ能力者と統制人格同士でなら、増幅機器を使わずとも、物理接触しているだけで同調が可能だという。

 しかし、その有効範囲は狭く、艦から飛び立たねばならない航空機などは、ほんの数百m、長くても一千mで制御を失うらしい。

 中継機を使えばこの問題は解消できるようだが、今回、瑞穂には中継機も載せていない。

 素の状態で瑞穂と同調。甲標的を使役して高速航路を調査する事により、有効範囲がどれだけ広がっているかを確かめるのだ。

 

 調査の進み具合いは遅い。

 最初は、同時使役数の限界である十二隻の甲標的を、一千m間隔で並行して進ませ、異常潮流に遭遇した場合、記録しながら流れに身を任せる……という方法を取っている。

 有効範囲が通常の上限である一千mを超えている事は、この時点で確認でき、その後も最長距離を伸ばしていったのだが、いかんせん地道過ぎるのだ。

 何せ、数km進んでは異常潮流に引っかかって戻され、ようやく進める潮流を見つけたかと思えば、今度は数十m進んだだけで戻される、といった事の繰り返しなのだから。

 

 

(高速航路……。こんな物をごく当たり前に活用する深海棲艦。一体、どんな技術が可能にしているのか)

 

 

 元来、海中には複数の海流がひしめき合っている。

 黒潮や親潮といった暖流・寒流。

 潮の満ち引きに合わせて変化する潮流だったり、同じ場所でも深さが違えば、温度の差で変わってしまうと聞く。

 今回は水上艦が影響を受けるだろう喫水に深度を設定して調べているが、これが潜水艦だとどうなるか。

 ひょっとしたら、水上艦と潜水艦で、違う航路が必要となるかも知れない。面倒だ。

 

 

(今、考えても答えは出ない。甲標的に集中しないと)

 

 

 雑念を振り払い、進発させた甲標的群に意識を向ける。

 水深十m程を進む六隻は、今現在、奥へと進める潮流を進むため、三隻ずつの複縦陣を組んでいる。

 北西へ向けて安全領域を抜け、二海里で最初の異常潮流と出くわす。

 この手前で針路を真西へ変更。八海里で北西へ回頭し、一海里で真北へ。

 三海里ほど進んだら今度は北東へ進み、また一海里で北西に。

 まるで、正しい道順で進まないと入り口に戻されるダンジョンを進んでいる、そんな気分だ。

 

 

(千歳たちは、よくこんな地道な作業をしてくれたもんだな)

 

 

 横須賀での日々が、もう遠い昔ように感じられる。

 硫黄島へと向かうために航路を開拓してもらったけれど、いざ自分でやってみると、骨が折れるってレベルじゃなかった。

 幸い、甲標的から受け取った自分が情報は、使役妖精たちが勝手に読み取って紙へ書き出してくれるが、未踏領域に到達するまでも大変で、到達してからは更に忙しくなる。

 異常潮流発見のために気を張っていなければならないし、ぶつかったらぶつかったで、動力を最低限にしてどこをどう戻るのかを確かめ、かつ他の甲標的は進めなければならない。

 その上、新しい甲標的を脱落した分だけ発進させて、また面倒な道筋を行く。

 今更だけど、千歳と千代田をこれでもかと労いたくなってくる。

 

 

「二人は、どうしてるかな」

 

 

 千歳と一緒に晩酌したり、そこに千代田が乱入して、結局は三人で騒ぐ。

 時たま、那智さんが混ざったり、隼鷹は呼んでもいないのに来てツマミを食い散らかして。

 今は遠く、手も届かない、懐かしい光景(ゆめ)だ。

 本当に、懐かしい……。

 

 

(……マズい。頭がボーッとしてきた。夢見が悪かったせいか……?)

 

 

 そんな事を考えていると、次第に思考が鈍くなっていくのを感じた。

 単純作業を長く続けているとなるような、身体は動いているのに、脳が勝手に休息し始める感覚。

 甲標的の視界が……。

 青い静寂の世界と、波間から差し込む陽光とが、意識を拡散させていく。

 

 

(しまった……。制御、が……っ)

 

 

 なんとか甲標的の使役を続けようと努力していたが、一隻、また一隻と制御を失い、水底へ沈み始める。

 マズい。このままでは、甲標的を無駄に損耗してしまう。

 休むにしても、瑞穂に同調を変わって貰ってからでなくては、ダメなのに。

 

 

「だ、め……。みず、ほ……」

 

 

 どれほど気力を振り絞っても、這い寄る睡魔には抗えず。

 自分の意識は、甲標的たちと共に沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、静かに落ち続けている。

 そこは、全身を暗闇に包まれる世界だった。

 身体を持ち合わせているのかすら危うくなる、何もかもが曖昧な、けれど心地良い、闇。

 恐怖と安心感がない交ぜになる、混沌。

 

 

(ドウシテ)

 

 

 不意に、声が聞こえた。

 声と言っても、鼓膜を揺らすものではなく、身体に伝わる振動でもない。

 精神に直接訴えかけるような、声だと感じる方がおかしい、あり得ない“音”だ。

 

 

(マダ、ダイジョウブ、ナノニ)

 

 

 落ちて行くにつれ、音が大きくなる。

 一つではない。二つ、三つ、四つ。いや、それ以上の音が重なり、結果、大きく聞こえているのだろう。

 ……痛い。

 

 

(ドウシテ、ソンナ、カンタンニ)

 

 

 痛い。痛い。痛い。

 鼓膜が破れる。頭が割れる。心が裂ける。

 音源に近づいているのか、もはや我慢できないほどに、音はさざめく。

 

 

(カンタンニ、ステラレルノ)

 

 

 光。

 上からでなく、下から差すその光は、紅い。

 やがて辿り着いた水底で、光と音を放っていたのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「提督、提督っ!」

 

「──っう──?」

 

 

 今にも泣き出しそうな瑞穂が、青空を背にしていた。

 さっきまで下を向いていたはずなのに、今は上を、空を向いている。

 ここは……。

 

 

「瑞、穂」

 

「はい。瑞穂はここに」

 

 

 混乱したまま名前を呼ぶと、安心したのか、目尻を拭う瑞穂。

 身体を起こせば、そこは間違いなく甲板の上だった。

 が、どうしても現実感が乏しく、ボウっとしてしまう。

 

 

「あの子が呼んでくれました。一体、どうなされたのですか? 明らかに尋常な状態ではありませんでした」

 

 

 そんな自分へ、瑞穂は問いかけるのだが、すぐには答えられない。

 彼女が愛おしげに撫でる肩口には、やはり何も見えない。どんなに頑張っても、眼の焦点が合わない。

 何故だか妙に心苦しく、畳と甲板の境目に視線を落とし、白々しいと分かっていながら誤魔化す。

 

 

「いや……。たまたま居眠りをして、たまたま夢見が悪かっただけ……」

 

「嘘です。提督はずっと、毎日のように悪夢にうなされているではありませんか」

 

 

 驚き、反射的に瑞穂へ眼を向ける。

 強い言葉で断言した彼女は、厳しい表情でこちらを見つめていた。

 

 

「分かりますよ。わたくしは、この艦──瑞穂そのものですから。その気になれば、提督がどこで何をしているのか、手に取るように」

 

 

 かと思えば、悲しそうにまぶたを伏せ、理由を明かす。

 考えてみれば当たり前だ。

 この水上機母艦は、瑞穂。目の前に居る彼女は、その現し身。

 人間は自分の体内を覗けないけれど、統制人格なら、使役妖精の眼を借りて、何時でもどんな場所でも、全てを把握できる。

 毎日の悪夢。魘されて飛び起きる朝。

 バレていたのに、気づかないフリをしてくれていただけ。

 なんだか、途端に意地を張るのがバカらしくなり、自分は胸の内を吐露する。

 

 

「いつもの事なんだ……。

 救えなかったはずの人が居る、もう実現しない、幸せな光景と、それを壊すもう一人の自分。

 飽きるくらい見たのに、そのつど忘れて、慣れやしない」

 

 

 悪夢を見るようになったのは、舞鶴艦隊が発足してしばらく経ってからだった。

 最初こそ数日に一回程度だったけれど、ここ最近は二日に一回は確実、運が悪ければ毎日の事で、睡眠不足を解消するための昼寝でも見る事があった。

 ただ、先程ような──水底へ沈み行く夢は、初めて見たのだが、続く瑞穂の問いかけに、思考は止まる。

 

 

「愛して、おられたのですか」

 

「え?」

 

「……兵藤、凛様。舞鶴事変でお亡くなりになられた、のですよね……。提督とご親交が深かったと、聞き及んでおります」

 

 

 ハッとし、申し訳なさそうな瑞穂の顔を見つめて、やがて、空へと視線を移す。

 愛していた。

 先輩を。

 自分が。

 まぶたを閉じずとも、簡単に思い浮かべられる、あの人の笑顔。

 愛していた?

 しっくり、こない。

 

 

「……分からないんだ。先輩の事を愛していたのか。そうじゃなかったのか。

 人並みに恋をした事もあったけど、もう分からなくなった。

 自分が恋だのなんだの言っていた物は、本物だったのかどうかすら」

 

 

 好きや嫌い程度なら、自信を持って断言できる。

 先輩の事は好きだ。いや、好きだった。

 家族や初恋の人。舞鶴のみんな。明石。書記さん。横須賀のみんな。……電。

 しかし、愛しているかと言われると、言葉にできない。

 気恥ずかしいとか、照れくさいとか、そんな理由じゃなくて。自分の気持ちが理解できない。

 きっと自分はもう、人として肝心な所が──

 

 

「大切だったとは思う。ああ、大切だった。

 大切だったから、あの人を喪ったと知った時、自分は」

 

 

 ──壊れてしまったんだ。

 

 そう続けようとして、でも、口にはできなかった。

 言ってしまえば、認めてしまうような気がした。

 自分はこんなにも弱く、脆い心の持ち主だと。

 駄目だ。

 みんなの命を背負うには、もっと、強くならなくてはいけない。

 弱い“自分”なんて必要ない。

 大切な誰かを守れないような“自分”なんて、消してしまえばいい。

 

 だから。

 何事もなかったフリをして、仕事に戻ろうとする。

 

 

「悪かった。つまらない話を聞かせたな。甲標的も無駄に失ってしまった。遅れを取り戻さなくては」

 

「………………」

 

 

 だが、瑞穂は答えてくれない。

 俯いて顔を隠し、ただ、沈黙している。

 やがて肩が震え始め、どうしたのかと手を伸ばすと。

 

 

「どうして、そうまでして心を偽るのですか。

 今の提督は、ただ徒らに、御自分を痛めつけているようにしか見えません。

 瑞穂はもう、見ていられません……」

 

 

 瑞穂は、大粒の涙を零していた。

 止めどなく溢れるそれを、どうすれば止める事ができるのか。

 今の自分に分かるはずもなく、時間だけが、無情に過ぎ去って行った。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「……ご馳走様」

 

「お粗末様、でした」

 

 

 これでは仕事も出来ないだろうと、瑞穂と二人、艦内へ戻って数時間。

 自室で摂る遅めの昼食は、正に針のむしろに座らされている気分だった。

 お互いに、何を話していいのか分からないのだろう。

 必要最低限の言葉だけを交わして、目も合わせられない。

 まぁ、自分が瑞穂を泣かせてしまったのが悪いのだけは、間違いないけど。

 あと一週間は共同生活を送らねばならないというのに、気不味い。

 食後のお茶を出してくれる彼女へ、どう話しかけていいやら。

 

 

(本当なら、カウンセリングを受けるべきなんだろうな。けど、本当の事は誰にも言えない。それじゃあ時間の無駄だしな……)

 

 

 舞鶴事変以降……。先輩の死を知って以降、自分が心の均衡を保てていない事は、自覚していた。

 一人でいると、どうしてもあの事件の事を考えてしまうし、不意に、全てを投げ出し逃げたくなる事だって。

 だが、それは許されない。生き残った自分には、あの人の分まで幸せになる義務がある。

 ……まぁ、長期的な課題として、だ。すぐにどうこう出来る訳でもないし、まだ置いておこう。

 今問題なのは、そんな自分と瑞穂の間に、更に精神を擦り減らすような緊張感が漂っていること。

 可及的速やかに解決したい。

 

 

(何か突拍子のない発言でもして、無理やり空気を変えてみるか)

 

 

 何かきっかけが、会話の糸口が欲しかった。

 瑞穂はテーブルの食器を片付けている。

 豚の生姜焼き定食は凄く美味しかったが、そのまま部屋を出られては、次に会うのは夕食の時間となってしまう。

 こういった事は、後になればなるほど、解決が難しくなる。

 昼間は上手くいったんだし、なんでも良いから、とにかく話さないと。

 

 

「瑞穂。一ついいか」

 

「……はい。なんでしょう、提督」

 

 

 具体的な案も出ないまま、こちらに背を向ける瑞穂へと声をかける。

 やはり彼女も気不味いのか、振り向く事はない。

 数秒の沈黙があって、ようやっと自分は言葉を捻り出す。

 

 

「昼間、君は言っていたな。その気になれば、どこで何をしているのか手に取るように分かる、と」

 

「はい。それが……?」

 

 

 とっさに出た内容だったが、口に出してみると、それは確かに気になる事だった。

 この艦は瑞穂そのもの。

 この艦内で起きた事なら、彼女はどんな事でも把握できる。

 それはつまり……。

 

 

「という事は、だ。もしかして、自分の風呂や着替えも、見られていたんだろうか」

 

 

 どんがらがっしゃーん。

 

 言い終えるか否かといったタイミングで、瑞穂が思いっきり体勢を崩し、食器が見るも無残な有り様に。

 

 

「み、瑞穂? 大丈夫か……?」

 

 

 普段の落ち着きぶりからは考えられない失敗に、思わず身を乗り出して様子を伺う。

 すると、ギギギギギ、とでも音を立てそうなぎこちなさで振り返り、彼女は真っ赤な顔で、眼をバタフライさせながら言い訳を始めた。

 

 

「ななな、何をおおおお仰っているるるのか、理解ででできませんわわ……。みみみみ瑞穂は、そそっそそのような破廉恥なここここと……」

 

「そこまで狼狽えるなんて……。まさか……?」

 

「ちっ、違うんですっ! 瑞穂が覗こうとした訳ではなくて、あの子たちが! 見なくてもいいと言っているのに、勝手に情報を持ってきてしまって、で、ですからっ……!」

 

「……見たんだな?」

 

「ぇえぇぇええぇっと……。それは、ああ、あの子たちが……」

 

「経緯はともかく、結果として、見たんだな?」

 

「……申し訳、ございません。う、後ろ姿、だけですが、チラッと……」

 

「マジか……」

 

 

 適当に思いついただけの質問が、意外な真実を掘り当ててしまった。

 知りたくなかったよ、そんな事実。こういうのも墓穴を掘ったって言うんだろうか。

 舞鶴事変で不可解に引き締まったとはいえ、異性に裸を見られるとか恥ずかしいだけだ。露出狂でもあるまいし。

 あああ、なんと言えばいいのか……。質問する前よりも空気が重い……。

 

 

「……そんな事を仰るのでしたら、瑞穂も提督に責任を取って頂きたいです!」

 

「はっ!? な、なんでそうなるんだ!?」

 

「当然です。瑞穂の中を土足で踏み荒らし、色んな所をつぶさに観察したり、撫で回したりしただけに飽き足らず、か、厠や寝床としてもお使いになったのですから。もうお嫁にいけませんわぁ……。しくしく……」

 

 

 どうしたもんかと頭を抱えていたら、今度は瑞穂が言い掛かりをつけてくる。

 いや、言い掛かりでもないのか? 艦内で用を足したり風呂に入ったり、眠ったりしたのは間違いないし……。

 いやいや、やっぱり言い掛かりだ! そんなこと言われたら、もう何も出来ないぞ!?

 

 

「ちょっと待て! 確かに言ってる事は一字一句間違ってないけど、それは船体の方じゃないかっ。君の事をどうこうなんて……」

 

「私は水上機母艦 瑞穂の統制人格なのですよ? つまり、この艦とは一心同体に他なりません。なので、この身を汚されたも同然ですわ?」

 

「そんなの屁理屈だ!」

 

「いいえっ、当たり前な権利の主張です!」

 

 

 妙に強気な瑞穂と顔を突き合わせ、睨み合いが続く。

 そりゃあ、統制人格とその本体である艦は一心同体だろう。そこに異存はない。

 が、だからってあんな言われ方したら、納得出来るはずもないに決まっている。

 じゃないと自分、明石と瑞穂と伊勢と日向と浜風と香取の全裸を、常日頃からガン見してた事になる。自分はそんな変態じゃない! 見たくないとも言わないが!

 と、目線で火花を散らすこと数秒。

 何を思ったのか、瑞穂は不意に表情を柔らかくし、ポンと手を打ち鳴らす。

 

 

「いい事を思いつきました。提督? 瑞穂は今晩から、提督に添い寝をさせて頂きます」

 

「……はぁ!?」

 

「瑞穂が添い寝していれば、提督が悪夢に魘されたとしても、側に居ることが出来ます。

 そして何より、提督に御寵愛を賜ったのだという証拠にもなりますから。

 正しく一石二鳥ですわぁ。うふふふふ」

 

「いやいやいや、いやいやいやいや」

 

 

 うっとりと。誰もが微笑み返したくなる微笑を浮かべ、トンでもない事を宣言する瑞穂。

 この胸の高鳴りは、きっと恋ではなく不整脈であろう。

 どこまで本気だか分からないが、これはマズい。とにかくマズい。

 

 

「自分が悪かった。変な事を言い出したのは謝るから、とにかく添い寝だけは勘弁してくれ」

 

「あら。瑞穂では不足ですか? やはり浜風さんのようでないと……」

 

「どうしてそこで浜風が出てくる」

 

「殿方は小さくて、かつ大きい方がお好きだと、風の噂に聞きましたもので」

 

 

 頭を下げ、早急に話を切り上げようとするも、瑞穂は怒っているらしく、許してくれない。

 どちらかと言えば、怒るべきなのは覗かれた自分の方なのだけれど、こういう時に正論を言っても女性は頑なになるだけだと、姉たちで学んでいる。

 この場を収めるために、自分は嫌々ながら頭を下げる事にした。

 

 

「もう、本当に許して下さい。二度とあんな事は言いませんから」

 

「……本当ですか?」

 

 

 小首を傾げる瑞穂に、ブンブンと首を縦に振る自分。

 また見つめ合い、十数秒。

 やがて、瑞穂は鷹揚に頷いた。

 

 

「では、提督の発言はなかった事に致しましょう。そして瑞穂も、提督に対して何も言っておりません。なので添い寝もいたしません。それで宜しいですね?」

 

「あ、ああ……」

 

「食器を片付けます。提督? 今日はお早く休まれて下さいね」

 

「はい……」

 

 

 輝く笑顔でそう言い、見事な手さばきで割れた食器を片付けて、彼女は部屋を出て行く。

 その気配を感じなくなってから、ようやく自分は大きな溜め息をつき、ベッドへ身を投げ出した。

 

 

「……話題、間違った……」

 

 

 失敗。失敗だ。大失敗である。

 確かに最初の気不味さよりはマシかも知れないけど、これはこれで心に来る。

 もうちょい、女性の扱いが上手くなりたいと、そう思わずにはいられない自分だった。

 ……今日は本当に早く寝よう……。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 夜半過ぎ。

 全く人気がない代わりに、使役妖精たちがそこかしこに溢れる艦内を、瑞穂は歩いていた。

 彼女たちは何をするでもなく、ただそこに存在し、時おり戯れ、そして働いている。

 全くもって自由気ままな姿を横目に、瑞穂が向かう先は。

 

 

「……提督?」

 

 

 恐る恐る、声を掛ける。

 内開きの扉の向こうは、彼が平時を過ごすために用意された部屋だった。

 返事はなく、時間を考えれば、眠っているのだろうと判断できる。

 が、瑞穂は躊躇いながらも、その扉を開けた。

 

 

「……う……う、う……」

 

 

 部屋に踏み入った瞬間、苦しげな唸り声が耳に届く。

 簡素な室内のベッドの上で、彼はもがいている。

 顔を歪ませ、脂汗を浮かべ、拳を固く握り締めて。

 

 

「ちがう……せんぱい……じぶん、は……っ……」

 

 

 薄く開いた唇から漏れるのは、悔恨の念だろうか。

 何度も聞いた……聞かされた声だ。

 今も彼の周りで、心配そうにしている使役妖精たちが、否応なく伝えてくる。

 傀儡能力者には、使役妖精は見えない。

 だから、使役妖精も能力者を見ようとはしない。統制人格とだけ意思を通じ、それで事足りるのだ。

 でも。彼女たちは彼を見守っている。

 悲しそうに。

 寂しそうに。

 

 

「添い寝はしないと言いましたが……。側に居ないとは、言っておりませんから」

 

 

 彼を起こさないよう、細心の注意を払って、瑞穂はベッドに腰を下ろす。

 そして、手が汗で汚れるのも厭わず、彼の額へ乗せる。

 熱く感じるのは、瑞穂の手が冷たいからではないだろう。

 

 

「………………」

 

「提督……?」

 

 

 ほんのわずかだが、彼の顔が穏やかになったような。そんな気がした。

 彼が魘されていると、使役妖精たちが騒いで、瑞穂も休めない。

 だからこれは、自分自身のため。

 誰へともなく、そう言い訳をしながら、瑞穂は目を閉じる。

 

 良い夢を見れなくても。

 せめて今宵だけでも。

 どうか、悪夢から逃れられますように。

 

 祈りを言葉にしないまま、時計の針だけが動き続ける。

 夜明けは、まだ遠い。

 

 

 

 







 瑞穂さん、紆余曲折ありつつも、最終的に良妻ポジに落ち着くの巻。

 という訳で久々の本編更新でございます。
 本当はもう少し早く更新出来たはずなんですが、まぁGod of Warが面白くて。アトレウス君マジ最強。君が居なかったらパパ上は何回も死んでるよ。居ても数十回と死んでるけど。
 今回やっと、主人公が妖精さんを見れない状態に戻ってしまっている事が確定しました。
 そして、瑞穂さんはここからヘタレ攻めへと再び属性変換していきます。楽しみですな。
 ……主題はそっちじゃないだろ? 本編が重いとふざけたくなるんですよ……。

 というかですね。五周年記念任務で実装されたサムちゃん、可愛い過ぎてヤバないですか?
 ツイッターの部分アイコンにティンと来て、実装翌日にはGETしてしまいましたが、それだけの価値はありました。
 もしもまだお迎えしてない人が居るなら、「新任務めんどクセェ」とか言わず迎えに行ってあげて下さい。超可愛いですぜ。おへそ舐めたい(オイ
 あ、浜風浦風磯風改二はエロい。それ以外なんと言えばいいのか分かりません。

 二隻目のアイオワ? 二隻目のグラ子さんが来た時点で諦めました。
 嬉しかったけど! 嬉しかったけどさぁ! せめて夜戦能力の強化をぉおおっ!


 最後になりますが、気づいてない方も多いでしょうから宣伝をば。
 現在、同じチラ裏にて当作品のオマケ話集「某提督の徒然ならざる日々」を更新中です。
 大して話数はありませんが、本編を更新していない間はこちらを更新する事が多くなると思いますので、暇つぶしにでもお読み頂ければ幸いです。
 https://syosetu.org/novel/143881/


 さてさて。
 次回こそは浜風のシリアス話に行きたいですが、その前に何回もsage更新すると思いますので、お手数ですが気になる方は要チェック。
 それでは、失礼致します。



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