最近、桐竹くんに笑顔が増えているような気がした。
もともと、軍人らしい人物を装っておきながら、表情豊かな彼だったが、明るい顔をする事がとみに多くなった。
色々と難しい立場にある青年でもあるし、同僚 兼 人生の先輩として、とても喜ばしい。
ただ、問題も一つ。
彼の周囲に、妖しい人物の気配を感じるのだ。
情けない話だが、私自身の経験から、彼らは間違いなく裏社会の人間。軍とはまた違う、“力”を行使することに躊躇いのない連中と思える。
狙いは……“彼女”か。それとも……。
いずれにせよ、彼は浮かれきっているように見え、警戒など微塵もしていない。
吉田二佐――ではなく、もう大佐と呼ばなければならないのか。連携して防御網を拡げなければ。
……彪吾は。義理の息子は、今の私を見てどう思うだろう。
あの子が頼りないと言い、俺が支えてやるから、と言って貰った男は、どこに行ったのか。
皆を楽しませる物語は紡げない癖に、何故、戦いばかり上手くなる。
こんな才能、欲しくなかった。
護国五本指などという戦上手の誉れよりも、暖かい家庭を守る力が、欲しかった。
ふと、そんな寂しい……いいや。下らない考えが頭をよぎった。
薄汚れた手帳の一遍から抜粋。
誰が書いた物かは不明だが、端が擦り切れるほど、読み返された形跡がある。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ぅあっ!? ぃ、たい……!」
わずかに身体を前へ押し出すと、腕の中の少女は――雷は、痛みに顔を歪ませた。
「ごめんっ。痛かったか」
「っ……う、ううん、大、丈夫……。続、けて……?」
慌てて離れようとするが、自分の左手は、彼女の右手と繋がったまま。
健気に応えてくれる気持ちは嬉しいけれど、まなじりに浮かぶ雫が痛々しい。
「やっぱりまだ早いよ。自分も君も、こうするのは初めてなんだし。もっと準備してからの方が……」
「……だから、するんでしょ? 電との、本番のため、に……。私なら、我慢できる、から……。ちゃんと練習、しなきゃ……ね?」
「雷……」
繋いだ手に、力が込められた。
密着するほど近い身体が、緊張と苦痛で震えているのが分かる。
しかし、彼女はそれを押してでも、こんな男に尽くそうと笑みを浮かべて。
無下には出来なかった。
「分かった。ゆっくり、行くぞ?」
「ん……。うっく!」
再び、身体を前へ。
雷の顔がまた歪んでしまうも、今度はそのまま。
「ぁ、ぐ……ふっ……ぁうっ……ん゛、ん゛……」
リズムを刻むたび、苦しげな息遣いが合わせて弾む。
縋るような指が、強く絡みついてきた。ついには涙まで溢れ、柔らかい頬を濡らしていく。
胸が締め付けられるようで、もう、耐えられそうにない。
だから、自分は――
「……やっぱ止めよう雷っ。これ以上君の脚を踏むなんて嫌だ! ホントごめんな、踊るの下手くそで……」
「そ、そんなこと無いわ! 私がついていけないから……痛っ」
「あぁぁごめんごめんごめん」
――慌てて不慣れなステップを中断する。
鎮守府の片隅にあるトレーニング施設。その一室に掛けられていたワルツは止まり、繋いでいた手が離れた。
貸切にしてもらったここで、自分は上下をジャージで固め、社交ダンスの練習に励んでいるのだ。
まぁ、結果はご覧の通りなんですが……。
「ありゃりゃー。基本のステップは出来てたから大丈夫かと思ったけど、ちょっと早かったかなー?」
「そうみたいね。痛々しくて見てられないわ」
「う……。返す言葉もございません……」
「え、えと、でもでも、リズムはピッタリ合ってましたよ? 最初の頃に比べれば、絶大な進歩です! タオルどうぞ!」
涙目の赤ブルマー雷を慰めていたら、こちらへ歩み寄る影が二つと、壁際で体育座りをする少女が一人。
一人はタオルを差し出す雪風だが、残る二人は、同じ陽炎型でも新顔の駆逐艦だ。
「雪風の言う通り、リズム感は良くなってきたと思うから、この調子で行ってみよー! こういうのはノリが一番大事だしねっ!」
短めのポニーテールに結った金髪と、水色の瞳。
雷・雪風と同じく、体操服に赤ブルマーで決める彼女は、舞風。名は体を表すのか、ダンスを趣味とする陽気な少女である。
ちなみに、普段の格好はブレザータイプの学生服なのだが、スパッツは履いていないようで、首元は幅のある赤いリボンで飾られていた。
リボンで個性を出すのが陽炎型の特徴みたいだ。雪風だけ特別なのは、やっぱりその逸話ゆえだろうか?
「はぁ……。なんで私までこんな格好……。暇だからって付き合うんじゃなかったわ」
そしてもう一人が、陽炎型七番艦・初風。
舞風と似た瞳の色をしていて、同じ色の髪は前髪パッツンなセミロング。当然のように体操服である。滅茶苦茶イヤそう。
……別に、自分が強制したわけじゃないです。なんでか酒保にブルマーしか売ってなかったんですよ。色は二十色くらいあったのに。良いセンスだゴッフゴッフ。
余談だが、彼女はブーゲンビル島沖海戦において、重巡である妙高とごっつんこ。艦首切断という憂き目に遭っていたりする。
あと、普段着の首元のリボンは黄色だったはずだ。あんまり関係ないけども。
「とにかく、雷は少し休憩しててくれるか。ほら」
「うん。ありがとう、司令官」
まだまだ練習を続けたいが、まずは雷のダメージを回復させる方が先決。
支えるようにして初風のいる方へと向かうと、そこには休暇中であるはずの駆逐艦が四人ほど。またもや体操服姿の白露型たちだ。
……いや、本当に強制したわけじゃないんですよ。彼女たちの方から欲しがったんです。だから自分は悪くないと思います。
「大丈夫? 雷ちゃん。ステップ毎に踏まれてたけど……」
「逆に見事なくらいだね。あそこまで思いっきり踏めるなんて」
「し、司令官は悪くないのっ。私がちっちゃいから、歩幅が合わなくて……」
「そもそも、身長差がある子を練習相手に選ぶ時点で、何か間違っているっぽい?」
「自分からハードル上げてるようなものよね?」
誰かに向けた言い訳を唱えているうちに、白露、時雨、夕立、村雨が群がってくる。
ヒドい言われようだけど、反論の余地はまるで無い。
舞風と一回踊ったくらいじゃ、全然ダメかぁ……。
「やっぱ、まだ一人でボックス踏まなきゃダメかな、舞風」
「んー。でも、あんまり時間ないんだよね? だったら習うより慣れろ! とにかく踊りまくって、身体で覚える! 私も付き合うから、元気出していきましょー!」
グッと拳を突き上げて、舞風はよりテンションを高めていく。
渡りに船と言わんばかりに、艦隊へやって来てくれた彼女。
ミッドウェーでは炎上中の加賀を護衛。乗組員の救助をしたり、赤城の雷撃処分をしたりと、重い過去を背負っているのだが、そんなことを感じさせない明るさは、今の自分にとって何よりありがたい。
頑張らねばっ。
「そうだな。また頼むよ。初風、水くれるか?」
「はいはい……。あーもう、見栄っ張りな提督に付き合わされて、大変だわ」
「ははは、すまんすまん」
心機一転、仏頂面な初風からペットボトルを受け取り、キャップを開ける。
そもそも、どうしてこんな事をしているかといえば、佐世保での一件が大きく関わっているのだ――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「仮面舞踏会?」
「そ。千条寺家主催のね」
「……はい、長門さん頂きました、あざーっす! あ、次は金剛さんお願いしまーす!」
「ワタシですか? 仕方ないですネー。Touchは厳禁ですヨ? それはテートクOnlyデース」
普段とは違う騒がしさに包まれる、佐世保鎮守府のドックにて。
桐ヶ森提督と自分。そして数人の統制人格たちは、係船柱へと腰掛ける彼女を中心に、ある説明を受けていた。
桐谷提督が言った例の件――つまり、「ワルツを踊れるか」と聞かれた事に関してだ。
「毎年の恒例行事なのよ。“桐”を集めて、政財界のお偉方と懇談会。アンタのお披露目も兼ねてるわ。襲名披露宴みたいなものね」
「お披露目……。そう言えば、今までは大きなニュースになってましたね」
「そうなんですか?」
「うん。子供の頃に街頭テレビで見た記憶がある」
「きゃあーん♪ これが飛燕改二! かっわいいです!」
首をかしげる電に頷き返しながら、過去の記憶を振り返る。
自分がなったせいで感覚がマヒしちゃっている部分があるけど、“桐”というのは日本を代表する存在。
当然、その襲名は世間で大きく取り沙汰され、テレビでも特番を組むのが恒例だった。
煌びやかな衣装に身を包んだ麗人。エスコートする壮年男性。部分的に公開されていた内装などが印象に残っている。
ちなみに、一番覚えているのは出されている食事のメニューだったり。よく「アレ食べたいー」とか言って、母さんを困らせたもんだ。
「でも、今更ですか? もう襲名してから半年以上経ってるのに……」
「あのねぇ……。自分がどれだけブっ飛んだ経歴なのか、まだ自覚してないの?
舞踏会に合わせて“桐”の襲名やら何やらをするのが普通であって、アンタの襲名の仕方がおかしいのよ」
「まぁ、確かに」
「あの時はびっくりしたわ~。なんだか、凄く懐かしい気分ね~」
「本当にな、龍田」
「あざしたー! お? 赤城さんの困ったような表情頂き――あ、ごめんなさい加賀さんごめんなさい。睨むのはやめて下さい嬉しくて死んでしまいます」
自分の場合は……。どうだったんだろう?
あんまりにも唐突で、オマケに赤城の受領とかで忙しくなっちゃったもんだから、よく覚えていない。
名前をネット検索とか、ボロクソに叩かれてそうで怖いから出来てないし、過去のニュースは全く把握してなかったりする。
今は世情に詳しい……というか、詳しくあろうと頑張ってくれる、青葉や霧島が居てくれるので、大助かりである。
「でも、藍璃ちゃん。なんで仮面舞踏会なの?」
「伝統よ。あと、匿名性を守るため。私の場合、ストーカー対策もあるわ。
といっても“桐”の正体なんて、その気になれば一般人でも調べられるんだけどね。
ダミーが百くらい用意してあるから、当たりを引く確率は少ないけど」
「自分の実家も、案外平穏にやってるみたいですね。良からぬ連中が集まってくるかと思ってましたが」
「ま、上層部もお飾りじゃないって事よ。ありがたいじゃない」
「はぁぁぁ……。この冷たい手触り……。最高ですぅ……」
島風の質問には、ちょっとだけ柔らかい言葉尻で答える桐ヶ森提督。微妙に寂しい。
それはさておき。昔から長い物には巻かれろ、とよく言われるように、権威という物には、蟻のように群がる連中が付き物だ。
“桐”の人物像を機密扱いするのは、そういった厄介事を未然に防ぐという意味合いがある。
自分も軍へ入隊する時、真っ先に心配したのは実家のこと。
どこからか繋がりが漏れ、家族を盾に軍からの協力を求められたり、取り入ろうと過剰な援助をされたり……。色々と考えてしまったけれど、実際にそういうことは起きなかった。
最近届いた手紙には、母さんからの「あんたいつ結婚するの?」なんてお節介な一言まで。
たぶん一生無理。電を紹介したら殴られそうだし。
そういや、仮面舞踏会ってようするにパーティーなんだから、女性客も多いはずだよなぁ……?
こういうのに出る女性って、たいていは玉の輿狙い。サボっちゃおうかな……。
「一つ言っておくけど、断ろうなんて馬鹿なこと考えないでね。アンタは絶対参加させられるから、そのつもりで」
「う。……どうしても、ですか?」
「お披露目って言ったでしょう。それに、アンタが居ないと私と桐谷が二人っきりになっちゃうもの。そんなのイヤよ」
「あれ。間桐提督は……出てくるわけないですよね」
「そういうこと」
「もやしっ子だねぇ、間桐提督ってのは。そんなんじゃ風邪ひいちまうよ。ねぇ五月雨?」
「ダメだよ、涼風ちゃん。そんな風に言っちゃ」
「はい、あざしたー! あ、妙高さんと那智さんは並んでもらって……。はいっ、美人OL風姉妹艦、頂きましたー!」
面倒臭さが顔に出ていたのか、碧い色のジト目がこちらを向く。
桐谷提督と二人っきり。自分も絶対にイヤだ。あの人と一緒にいたら半日で胃がおかしくなるよ。
間桐提督は公の場に顔を出した事がないらしいし、襲名の時とかどうしたんだろう。
「あの、具体的な式次第とかは?」
「詳細は桐谷から招待状として送られてくるはずよ。
初期訓練で軍人のマナーは学んでると思うけど、それだけじゃ恥をかくから、きちんと勉強しておきなさい。
私のエスコートするんだし。いいわね」
「はい。分かりまし――はぁ!? え、エスコートぉ!?」
「……ねぇねぇ。えすこーとって何?」
「男の人が、女の人を守りながら先導することよ~。分かった~? 島風ちゃん」
「あ、こんな所に油汚れが。……うんっ、これで良し!」
思わず目を丸くすると、桐ヶ森提督は足を組み替え、ジト目から心外そうな顔に。
「何よ。嫌なの? こう見えても“桐”なんだから、他に釣り合う相手なんて居ないでしょ。
去年までは虫除けも兼ねて、私が桐生を逆エスコートしてたから良かったけど、今年は無理だもの」
「それは、そうですが……。自分に、桐生提督の代わりが務まるでしょうか……」
「……前々から思ってたけど、アンタって妙に自己評価が低いわよね。卑下してるっていうか」
「卑下、ですか」
「はぁい利根型姉妹のお二人もあざーっず! 次は……重雷装艦の――さーせんしたー。邪魔するつもりはないんで、そのままでどうぞー」
自己評価が低い……。周囲のみんな――電や島風。龍田、五月雨、涼風を見回せば、納得しきりという顔付きで首を縦に。
そんなこと言われても、根っこが小市民なもんで。始まりが単なる偶然だったし、デカい面しちゃいけない気がしてるんですが。
なんて事を思いつつ後頭部をかいていたら、桐ヶ森提督はおもむろに立ち上がり――
「いつまでも学生気分でいるのはやめなさい。
アンタが自分をどう思おうと、その一言は多くの人間に影響を及ぼし、人生を左右する。
もうそれだけの事を成し遂げて、見合うだけの影響力を持っているんだから」
「……ふぅ。堪能しちゃった。今度はぁ……Ju87C改ちゃあんっ♪」
――ツン、と指で胸を一突き。
言い聞かせるような口振りに、不器用な優しさみたいなものを感じる。
こんな風に気を掛けてくれるなんて、意外だ。いや、島風のことを考えたら不思議じゃないのか?
明らかに学生の年頃な女の子から言われるのは、ちょっと変な感じだけど。
「あぁもうっ、しょうがないわね。一回しか言わないから、よく聞きなさいよ?」
「は、はい」
「さぁ気を取り直して、そこのお美しいレディ! 一枚お願いします! ……あー違います。暁ちゃんじゃなくて、扶桑型のお二人のつもりだったんですけど」
少々戸惑っていると、今度は彼女が後頭部をかきむしり、鼻息荒く腕を組む。
そして、「不本意だけど」と前置きをしてから、静かに口を開く。
「舞鶴での言葉、撤回するわ。アンタは強くなった。
技量うんぬんだけじゃなく、肩を並べる者として、信用できる。……“貴方たち”は、信頼できる。
誇りなさい。“桐”を名乗れる男、そうそう居ないんだから」
「零戦の緑とは少しだけ違う緑……。あえて残されてるサイレン……。はぁぁ、格好良いよぅ……」
見上げてくる瞳には、欠片ほどの照れと、小さな身体に収まりきらない自信が溢れていた。
京都は舞鶴で初めて出会い、それから数ヶ月ほど。
侮られ、歯牙にもかけられなかった自分が、ようやく得た戦友の信頼。
……うん。元養鶏場の長男がここまで来たんだ。ちょっとだけ、自信持とう。
「ありがとうございます、桐ヶ森提督。お言葉、嬉しく思います」
「ん。素直でよろしい。調子には乗らないようにね。まだ背中を預けるには早いんだから」
「電も嬉しいです。ありがとうございます、なのです!」
「もう聞いたわよ。ったく、本当に健気な子ねー」
「はわわわ、あの、髪が乱れちゃうのです……」
「はぁい。お嬢ちゃんたちもありがとねー。さって次、古鷹さんと加古さん! ポーズお願いしまーす!」
自然と笑みが浮かび、釣られた桐ヶ森提督や、電たちも表情を柔らかくした。
戦いを経て紡がれる絆……なんて洒落た言い方、自分にゃあ似合わないけど、確かな繋がりを感じる。
それが照れくさいのだろう。年若い戦友は、もはや見慣れた小悪魔フェイスに。
「あぁそうそう。ワルツもしっかり練習しておくように。脚踏んだら承知しないから」
「はい……って踊るんですか? 自分と桐ヶ森提督が!?」
「踊らないでなんのための舞踏会よ。さっきから驚き過ぎ。……まさかとは思うけど、ダンス未経験とかじゃないわよね」
「へ? い、いやぁ、流石に踊った事くらいはありますよっ。大学時代に、ですが」
「そ。良かった。アンタを狙ってる御令嬢方からも誘われるでしょう。失敗したら末代までの恥よ? 頑張んなさい」
「マジですか……」
「やっぱり欲しいなぁ、飛燕改二とJu87C改……。ううん、いっそのこと載せるだけでも……」
ポン、と肩を叩かれつつ、盛大にため息をつく。
あんまり関わりたくないんだよなぁ、そういうの。
うちの親は恋愛結婚だったし、それで上手くいってるのを見てるから、自分もそうなりたいって子供の頃から考えてるのだ。
法的には難しいかも知れないけど、日本には内縁関係という素晴らしい習慣だってある。水を差されないよう、警戒を厳重にしとこう。
……いや。それと同じくらい重要で、なおかつ差し迫った問題がもう一つ。
勢いで踊れるとか言っちゃったけど、実際にはワルツなんて踊れません。
踊った事があるのは本当だ。しかしながら、それは学園祭の催し物の一環であり、結果なんて言うまでもない。というか思い出したくない。
ならば撤回するのも一つの手なのだが、それも無理。何故ならば。
「司令官さん、凄いです。ワルツを踊れるなんて、ぜんぜん知らなかったのです」
「踊りねぇ。あたいは盆踊りくらいしか出来そうにないやー」
「私も知りませんでした。大人の男の人って感じで、五月雨、尊敬しちゃいます!」
「あぁぁ、うん。軍では踊る機会なんか無かったしね。自分の数少ない特技だよ。
ちなみに他の特技は、口の中でサクランボのヘタを結べる、とかだったりするんだけど」
「あら~、良いこと聞いちゃった~。どんな感じにするのか、見てみたいわ~?」
「え、あー、き、機会があれば……」
「むむむ、ダンス……。ようするに、くるくるーって早く回れば良いんだよね? だったら私も踊れるよ!」
「いやいや。早くても意味ないわよ、島風さん。……にしても」
これ以上ないくらいに、持ち上げられちゃってるからだ。
裏切れない、裏切れないよ、この純粋な瞳たちだけは。
龍田さんは気付いた上で放置してるっぽいけど。相変わらずドSですね!
今ならまだ間に合うか? でも失望されないか?
とか悩んでいるうちに、「さん付けやめてよー」と突っ込まれる桐ヶ森提督の視線が、別方向に向かい――
「あざしたー! じゃあ陽炎型の三名様、そこに並んで……あ、容量が足りねぇ。桐ヶ森提督ー、デジカメとか持ってませーん?」
「さっきからウルッサイのよ軍艦オタ! 潰すわよ!」
「ねぇねぇ提督ー! 今からちょっとだけ海に出ない? その……飛燕改二ちゃんとシュトゥーカちゃん借りて!」
「瑞鳳もいい加減にしてくれっ、普通に無理だから!」
――背景でずうっっっっっと騒いでたオタ調整士とオタ艦娘へと、突っ込まざるを得なくなってしまった。
こうして、小さな見栄を訂正するタイミングは、永遠に失われたのである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……振り返ってみると、やっぱ自分がバカなだけだなぁ。
水で一息つきながら、つくづく思う。
あの翌日、書記さんに言おうか言うまいか悩みながらの励起で、舞風が踊りを得意とする統制人格として顕現してくれなかったら、どうなっていたか。
都合が良い気もするけど、それを言ったらこの能力そのものが御都合主義の塊。
運が良かったんだと思っておこう。とりあえず。
「じゃあ、提督。もう一回基本をおさらいしましょーか。初風、音楽はスローでお願ーい!」
「分かった」
「了解よ」
空のペットボトルを潰し、差し出された手に従って部屋の中央へ。
背後でラジカセ型再生機器が操作され、練習用のループ音楽――スローテンポのクラシックが流れ出した。
にっこり笑う舞風と向き合えば、あとは手を合わせ、背中に腕を回したら準備完了なのだが……。
「っ……。どうしても、緊張するな」
「ダメだってばぁ。変に意識しちゃうから身体が硬くなっちゃうの。ほら、グッと!」
「お、おう……」
そうするには、互いの吐息を感じる距離まで近づかなければならず、伝わってくる体温が心臓を高鳴らせた。
嗚呼、何故に神は女の子という存在を、こんなにも柔らかく作ったのか。
顔には出さないまでも、胸中で自分は悶えまくる。手だって小さいし、妙に細くて温かいし、拷問です。
「じゃあ左足からですよー。……はいっ。いち、に、さんっ。に、に、さんっ。さん、に、さんっ。よん、に、さんっ」
「ん、む、お、ほ」
煩悩とクラシックが脳内でせめぎ合う中、意外にも、身体はキチンとステップを踏んでくれる。
左足を前に。今度は右足。「さんっ」で向きを少し変えつつ、左足を引く。
他にも色んな動き方があり、それを組み合わせることで、ステップは大きな円を描くのだ。
まぁ、付けられてる名前とかは全然覚えてないんですが。
「いい感じです、司令。そのまま、そのまま」
「舞風の脚、踏んじゃ駄目よー? 散々踏んでるんだからー」
「雪風はいいとして、村雨は少し黙っててくれっ」
回転する視界に、手拍子で応援してくれる雪風と、笑顔のままからかう村雨の姿。
見ているだけの子は気楽だよ、全く。いい太ももしやがって。
って視姦してる場合じゃない。もうそろそろ終わりだ。最後まで気を抜かないように……。
「はい、お疲れ様でしたー。やっぱり基本は大丈夫みたいですねー。ステップもターンもOKです!」
「じゃあ、歩幅の問題か。正しく踊るのに精一杯で、気が回らないのかな……」
「ぁう……。ごめんね、司令官。私の身体がちっちゃいせいで……」
「ん……。僕は、違うと思うな」
「ぽい? なら、時雨ちゃんはなんでだと思うの?」
ほどなく、自分たちは踊り始めた位置に戻り、即席ペアが解消された。音楽も同時に。
舞風のリードが上手いというのもあるが、踊れてしまった。雷はさらに身体を小さくしてしまう。
しかし、彼女を慰める時雨がそれを否定し、夕立の声を背に進み出る。
「舞風。代わって貰えるかな?」
「いいよー。身体は半分くらいズラして、左手は二の腕辺りにね?」
「うん。見て覚えたから、大丈夫。……それじゃあ、提督」
「え、あ、分かった」
そのまま立ち位置を入れ替え、正面にはブルマーな時雨が立つ。
断るなんて選択肢があるはずもなく、出された右手に左手を絡め、軽く触れる程度に背中へ腕を回す。
が、なぜだか彼女は不満そうな顔を見せる。
「もっとしっかり頼めるかな」
「え? えっと、こうか」
「駄目だよ。抱き寄せるつもりで、こう」
「だ、抱き寄せるって……! えぇ……」
グッと距離がつまり、思わず上体が反ってしまった。
前々から思ってたけど、一人称は「僕」な癖して、仕草や雰囲気がしっとりしてるから、ドキドキさせられる事が多いんだよな、この子。
もちろん悪い意味じゃないんだけど……。
「提督は、僕じゃ嫌……?」
「とんでもない! ……時雨の方こそ、嫌じゃないのか」
「嫌ならお願いしたりしないよ。遠慮しないで」
「そうか……。なら……」
「うん」
寂しそうに伏せられるまぶた。
慌てて問い返すと、ゆらゆら一本お下げが揺れる。
ここまで言われては、是非もない。時雨の肩甲骨辺りに右手を置く。
うぅ……。舞風もそうだったけど、ブラ紐の感触が生々しいぃ……。
雷の時は、逆にそれが無くてマゴマゴしちゃったし。社交ダンスで飯食ってる男の人を尊敬するわ……。
「ねぇ、テンポはどうするの」
「スローでお願いするよ、初風」
「ん、了解っと。じゃ、これで行けるわね?」
再び音楽が流れ出す。
しばらく続いた前奏が終わる瞬間、自分は時雨と頷き合い、恐る恐る一歩を踏み出した。
「うぉ……っと……おぅ……わっ」
「ダメだってば提督ー! もっと寄り添うように、息を合わせて! はいっ」
「頑張って、司令官っ」
「あ、あっ、わわ、見てるだけでハラハラしますぅ」
あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
危なっかしいステップに、舞風を始め、雷や雪風が声を上げた。
それでも、なんとか足を踏まないよう全力を尽くす。
冷や汗をかきながら、ようやく一通り踊り終えると、「お疲れ様」と頭を下げる時雨が、困ったように口を開いた。
「やっぱり、原因はアレだね」
「うん。私も分かっちゃったよ! 真実はいつも一つ!」
「どう考えても、アレよね?」
「え、えっと……。夕立はよく分かんないっぽい? 時雨ちゃん、説明してー?」
続いて、白露や村雨たちも、しきりに頷き始めた。
夕立と同じく、なんのこっちゃ? と首を傾げていたら――
「提督は、物理的に女性と接触するのに、慣れていないというか。そのせいで及び腰になって、ステップが乱れているんじゃないかな」
――実に言いにくそうな顔で、侘しい真実を突きつけられた。
ううむ、なるほど。詰まりは喪男なせいだと。なるほどなるほどー。
いや認めちゃいかんだろ自分!?
「そ、そんな事ないだろう? よく駆逐艦の子たちを撫で回してるし……」
「主に頭を、だよね。他の所に触ったことは? 肩や腰に腕を回した事とか、身体を密着させた事はある?」
「んなっ、あ、ある訳ないっ……いや、ある、あるぞっ。電と赤城は励起した時に抱きとめたし、この前は初雪と一枚のコートにくるまってだな!」
「ちょっと、そんな事してたの?」
「あ」
どうにも認めがたく、ついセクハラ自慢をしてしまうのだが、初風からの冷たい視線で正気に戻る。
やばい。なに言ってんだろ。舞風と雷は「やるねー提督ぅ」「いいなぁ」なんて言ってるけど、全然良くない。
出会ったばっかで打ち解けてもいないのに、マズった……。
「とりあえず、置いておこう。質問を変えるけど、提督の方から接触を持ったことはあるかな。頭や肩以外に」
「………………ない、と思います」
「つまり、時雨ちゃんの言う通りってことね。女の子とのスキンシップに慣れてないから、ドギマギしちゃう、と。困ったわね~」
「そういえば、背中に添えられた司令官の手がモゾモゾ動いて、ちょっとくすぐったかったかも……」
「それは……なんか、お、落ち着かなくて」
「うー、想像しただけで悶えちゃうっぽい~」
改めての質問に答えると、村雨は人差し指で自身のおデコを叩き、難しい顔。夕立はくすぐったそうにモジモジしている。
く……。こんな形で喪男なのがバレるとは……っ。もともと気付かれてた気もするけど、なんか悔しい。
「んー、ダンスを踊るには致命的かもねー? 中途半端に組んでるだけだと、怪我の元になっちゃうし」
「こうなったら、相手を取っ替え引っ替えして慣れるしかないと思う。初風、お願いするね」
「……っえ!? な、なんで私が踊らなきゃいけないのよ!?」
コーチである舞風も、片脚立ちでお悩み中だ。
そんな所へ、時雨がまたしても爆弾を投下。直撃を食らった初風は慌てふためく。
「別に踊る必要はないよ。ただペアを組んで、リズムを合わせるだけでも効果的なんじゃないかな」
「うんうん。私たちはけっこう提督と付き合い長いから、刺激っていう意味でも丁度いいと思う! この中では一番の新人さんだし!」
「おー、なるほどー。初風だけに初々しい……なんちゃって」
「舞風ってば、オヤジ臭いわよ~? とにかく、見てるだけじゃ退屈でしょ、ほらっ」
「頑張って下さい! 司令のためです!」
「え、え、ちょ」
時雨の説明に白露が賛成し、突っ込む村雨が初風を引っ張り上げる。
雪風から応援されては断れないのか、たたらを踏みながらも進み出て、こちらの真正面で立ち止まった。
どうやら、自分の意思は無視されるらしい。
「あ……う……えと……。へ、変なとこ触ったらぶつわよ、叩くわよ! 妙高姉さんに言いつけるわよ!?」
「言われなくても分かってる。だから後半はマジでやめて」
身を庇うようにする初風は、顔を真っ赤にして警戒心も露わに。
気持ちは分かるけど、妙高を引き合いに出すのはやめて欲しいなぁ。
先に挙げたが、ブーゲンビル島沖海戦でこの二隻は衝突。初風は艦首を切断するほど大きな損害を受けた。
そして、パプアニューギニア・ニューブリテン島にあるラバウル基地への帰投中、敵艦からの集中砲火を受けて、その身を海に沈める。
苦手とする……っていうか、鬼のように扱うのも理解できるんだけどさ。あんがい気にしてるんだよ、妙高も。廊下ですれ違うたびに怯えられて。
仲良くしてあげて下さい。
「それじゃあ、しばらくループして音楽かけますから、ゆっくりリズムを取ってみて下さいねー。ミュージック……スッタートォ!」
「って、もう始めるのか!? ああと、ほら初風、手、手!」
「わ、分かってるわよ……っ」
こちらの都合も御構い無しに、ダンスミュージックが流れ出してしまう。
自分たちは大慌てでペアを組み、舞風たちの視線を一身に受けつつ、左右に身体を動かす。
「ううう、なに、なんなのこれ……。恥ずかしくて死にそう……っ」
「考えるな初風、自分だって同じなんだから」
赤くなった頬を隠したいようで、あちこちに目線を投げ、俯き加減な初風。
なんでか知らないけど、みんなジィッとこっちを見てるし、本当に羞恥プレイしているみたいだ。
(考えるのやめよう。心頭滅却すれば火もまた涼し。慣れてしまえば視線も快感ってことにしよう。新境地開拓っ)
羞恥心をアホな考えに誤魔化し、無心でリズムを刻み続ける。
音楽は何度かループ。時間的に、十分程度は経過しただろうか。
ふと、間近から見つめられている事に気付いた。初風だ。
「……どうかしたか?」
「見てるだけよ。いけないの?」
「いけなくはないけど……」
みんなに聞こえないくらいの、囁き声で聞いてみるのだが、視線は動かない。
先程までと趣の違う、居心地の悪さ。
天井のシミを数えて耐えていると、今度は彼女がささめく。
「ねぇ。なんで提督は、こんな必死に練習するの。みんなに隠れてまで」
「そりゃあ……。あんな見栄を張った手前、『実は踊れません』とか言うの、悔しいし」
「でも、本当に踊りたいのは電ちゃんなんでしょ? さっさとありのままを打ち明けて、あの子と練習した方が楽しいんじゃ、ないの……」
言葉が終わりへと向かうにつれ、瞳は伏せられた。
電と練習、か……。そりゃあ、そっちの方が楽しいに決まってる。
さんざん恥ずかしいところも見られてきた。今さら一つや二つ、恥が増えたって問題ないだろう。
……しかし。自分にだって、意地はあるのだ。
「よくさ。ありのままの自分を見て欲しいとか、好きになって欲しいって言う人、居るけど」
「……けど?」
「自分は、その“ありのまま”に、あんまり自信がないんだ。
みんな褒めてくれるけど、なんていうか……。その“みんな”が居てこその自分だしさ。
軍人としてはそれなりでも、一人の男としては、まだまだ未熟だと思う」
例えば今、自分から傀儡能力を取り上げたとして、後に残るものはなんだろう。
材料限定の料理の腕。良くも悪くも平凡な顔。同年代よりは鍛えてある肉体。たぶん、この程度。
ハッキリ言って、人間的な魅力があるとはお世辞にも言えない。
だから。
「だから、自分一人でも頑張れることがあるなら、努力して、昨日より成長したい。もっといい男になりたい。
少しでもマシな自分を見てもらって、いざ両想いになった時、恥ずかしくない男でいたいから。
……とまぁ、ちっちゃい理由なんだけど。結局は巻き込んじゃってるし、雷には代役なんて頼んじゃったし」
「ふぅん……」
良いことを言ったつもりだったけど、実際はそうでもない事に気付いて、最後に苦笑い。
呆れられるかとも思ったが、初風はバカにしたり、笑ったりせず。
ただ、頷きを返してくれた。
「ま、ナルシストとかよりは、良いんじゃないかしら。ダンスはまだまだですけどね」
「よく言うよ。初風だって踊れないだろ」
「残念でした。舞風のを何度も見て、完璧に覚えてるわ」
「ほぉ? なら、試してみるか」
しかし、すぐさま自信家な一面へと取って代わり、自分も挑戦状を叩き返す。
無言は数秒。微笑み合うのは同時に。
そうして――
「いいわっ。足手まといになったら、置いて行くんだから!」
――生まれたばかりの即席ペアが、ステップを踏み出すのだった。
《こぼれ話 ああっと! どこからともなく謎の光線が差し込み、濃厚な湯気が立ち昇ったぁ!》
「はぁー。生き返るー。やっぱり、お風呂は気持ちいいわねー」
ちゃぷん。
と水音を立てながら、一糸纏わぬ雷が大きく背伸びをする。
頭の上で組まれた指が反り、細い腕をお湯が伝っていた。
「うんうん。みんなで踊りまくっちゃったもんね。一番踊ったのは白露ですけどっ」
「足がパンパンー。しっかりマッサージなきゃ」
膨らみかけの胸を張る白露。湯船から足先を露出させる、髪をお団子に結い上げた村雨など、先程までダンスの特訓をしていた彼女たちが居るのは、桐林艦隊宿舎にある大浴場であった。
中央に四角形の大きな湯船があり、そのさらに中央にはお湯を吐き出すマーライオン。
浴場壁際にはジェットバスを楽しめる小型の浴槽、打たせ湯コーナーなども作られていて、ちょっとしたスーパー銭湯気分を味わえる。
これら設備には全て使役妖精が宿っており、掃除しなくても自動的に清潔さを保ってくれる、夢のメンテナンスフリー大浴場なのだ。
欠点として挙げられる点は一つ。誰かが湯船に浸かってくれないと、使役妖精がヘソを曲げてしまうことだろう。
「結局、みんなが提督と一回は踊って、一回は踏まれちゃったね」
「全くあの提督は……。いい感じで踊れてたのに、最後の最後で思いっきり踏んづけるんだもの。本当にダメダメなんだから」
「まぁまぁ。初風だって踏んでたし、まだ練習始めて一日目だよ? 思い切りが良くなっただけでもスゴイってー」
「すっごく楽しかったっぽい~。お仕事もやり甲斐あるけど、こういうのも提督さんと遊べて嬉しいな~」
縁に腰掛ける時雨が思い出し笑いをし、初風は隣で足を揉みほぐしながら溜め息をついた。
あの後、息を合わせてステップを踏み始めた二人だったが、思いの外それは好調であり、もしや初成功か? ……と皆が思った瞬間、互いが互いの足を踏んづけ、見事に転倒してしまったのだ。押し倒されてしまった初風が怒るのも無理はない。
しかし、舞風の言うことも間違ってはいないだろう。何もしないで恥をかくよりも、思い切り失敗して学ぶ方が有意義なはず。
そんな理由もあり、初風の次は村雨、村雨の次は夕立、雪風、一番最後に白露……といった具合に相手を交代。猛特訓は続いた。
その疲れを癒そうと、こうして湯船に浸かっているわけである。
ここで、誰もが知りたがっているであろう情報を公開しよう。
現在、この大浴場には濃厚な湯気が立ち昇っている。
さらには窓もないというのに、どこからともなく謎の光線が差し込み、ところどころ視界を遮っていた。
故に、見えない。
湯船へと入るため、タオルで長い髪をまとめる時雨たちが両腕を思い切り上げても、何がとは言わないが……見えない。
どう頑張っても、普段は隠れている白いうなじや、なだらかな曲線を、腰のくびれに向けて下る水滴しか、見ることが叶わない。
これが世界の修正力である。悪しからず。
「どうしたの? 雪風。さっきから黙ってるけど」
「提督に踏まれた所が痛いとか?」
「あ、いえ。違います。ちょっと気になることが」
どこからか憤怒の叫びが聞こえてきそうだが、そんな物は少女たちに届かない。
大人しく湯を楽しむ雪風を、雷と白露が気遣う。
提督と別れてからというもの、彼女は口数が減ったように思えたからである。
けれどそれは否定され、ジィ……っと茶色い瞳が雷を射抜く。
「あのぉ……。雷ちゃんは……司令のことが、好きなんですか?」
「ブッ!?」
「んわぁ! 汚いっぽいぃ!?」
脈絡のない指摘に、雷は吹いた。夕立が直撃を受け、顔を洗う。
あまりに反応が大きかったからか、時雨や村雨もワラワラと。
「しかし、唐突だね」
「前々からそういう気配あったじゃない? いきなりどうしたの?」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや、無いから! そんな気配無いから! 司令官のことを好きなのは電で、私は……別に……」
珍しく狼狽えまくりな雷。
両腕を振り回して「好き」という言葉をかき消そうとするが、次第に声のトーンを落とし、顔を半分だけ潜水させる。
否定したいのに、したくない。矛盾だらけの気持ちが気恥ずかしい。
「でも、司令とダンスのペアを組んでる時、とっても楽しそうだったような気がして」
「あぁー。それは確かにそうだねー。笑顔が輝いてて、見てる方も楽しくなる、良いダンスだったなー」
「言えてるかも。明らかに表情違ってたわ」
「うむむ……。そればっかりは、この白露でも認めざるを得ないかも……。二回目に踊った時の雷ちゃん、一番に輝いてた!」
そこへ追い討ちをかける、雪風、舞風、初風。
腕を組む白露が最後を飾り、包囲網は完成した。
周囲を敵に囲まれ、絶望的状況かと思われたが、雷も足掻く。
「……わゎ、私の事より、時雨とかはどうなのっ? 自分からペアを進み出てたし!」
「あ。露骨にすり替えたっぽい。まぁいっか。で、そこのところどう?」
この場における最も有効な戦法。話題のすり替えである。
……まぁ、すり替えと言っていいのか怪しいレベルではあるけれど、夕立がそれに食いつき、視線の集まる場所も変化した。
が、思いも寄らず注目を集めた時雨は、平然と答える。
「恋愛感情の有無はさておき。……好意に値する男性だとは、思うかな」
「おぉー、直球ストレートだー」
「意外……。理由は? 少なくとも顔じゃないでしょ?」
「あの、初風ちゃん? 雪風、それはヒドいと思っちゃうんですけど……」
妹の剛気な発言に、白露は驚く。
普段から物静かな彼女が、こうもハッキリと感情を言葉にするなんて、滅多にないからだ。
同じく驚いた初風の質問にも、小さな笑みを浮かべている。
「村雨、聞かせてあげてよ。あの話」
「えっ。わ、わたしが? でも……」
「あれ? 村雨ちゃん、なんか照れてるっぽい?」
また注目される少女が変わり、今度は村雨。
時雨の言う“あの話”はすぐに思いついたようだが、雷と似たような表情でためらっている。
しかし、無言の圧力には耐えられず、やがて溜め息を一つ。
おもむろに口を開いた。
「あの、ね。みんなもあの事は、聞いてるでしょう? 雷ちゃんたちが、あの戦いで経験したこと」
その一言で、和やかなガールズトークから雰囲気は一転。茶化してはいけない、真面目な空気に。
雷たちが経験した戦い。間違いなく、双胴棲姫との戦いであろう。
「わたし、みんなの前では平気な振りをしてたけど、後になって凄く怖くなっちゃったの。
まだ一度も実戦を経験していないのに、あんな事実を知らされて……。撃つのが、怖くなっちゃった」
かの戦いにおいて、敵に統制人格が宿り、彼女たちに取り込まれた船が“堕ちてしまう”ことも確認された。
この事実は、戦闘に関われなかった留守番組みにも伝えられた。口頭のみならず、望む者には完全同調し、提督の記憶を追体験する事で、である。
今まで鉄の塊だと思い込んでいた――思い込むことで目を逸らしてきた現実を、突きつけられたのだ。
どれほどの衝撃だったのか、想像するまでもない。
「その日も眠れなくて、夜中にフラーっと散歩して。そんな時よ、吹雪ちゃんや妙高さんと一緒に、庁舎の方から帰ってくる提督と会ったのは」
村雨は記憶を振り返り、目を閉じる。
昼間から降り続いていた雪が、段々と小粒になっていく中、パジャマに
誰にも悩みを打ち明けられず、モヤモヤとした気持ちを抱え込んだまま。
そこへやって来た賑やかな気配が、○一○○を回ってようやく仕事を終えた、彼らだったのである。
「提督ね、わたしの様子がおかしいことに気付いて、疲れてるはずなのに時間を取ってくれたの。
ちょっと恥ずかしいんだけど……。わたし、話しながら泣いちゃった。
戦う事が怖い。死んでしまう事が怖い。……あんな風になっちゃうのが、怖い」
先に吹雪たちを戻らせた彼は、「ちょっと待ってな」と言い残し、二人分の卵酒を用意する。
普通なら飲んではいけない見た目の村雨だが、そこは統制人格。深く考えずに口をつけた。
シンクに寄りかかって、初めて感じる日本酒の匂いと、柔らかい甘さと、温もり。
複雑に絡み合ったそれらが、村雨の心を解いていた。
「てっきりね? 怒られちゃうかと思ってたのよ。優しい電ちゃんですら乗り越えられた事なのに、情けないって。けど……」
涙ながらの告白に、彼はしばらく無言を貫いた。
抱え込んでいた全てを出し切れるよう、ただ静かに、目をつむり。
そして、漏れ聞こえるのが嗚咽だけになった頃、ゆっくり瞼を開ける。
今、雷たちへと語りかける、村雨のように。
「それで良いんだよ。怖くて当たり前の事なんだから、無理をする必要なんかない。
君が今までやってきた輸送任務だって、それが無ければ戦えないんだ。砲を撃ち合うことだけが戦いじゃないさ。
十分に、みんなを支えてくれてる。我慢だけは絶対にしないでくれ。怖いことを素直に怖いと感じられる、そのままの村雨でいて欲しい」
口振りを真似る村雨は、一言一句間違いなく、彼の言葉を再現した。
堪らず胸に飛び込み、また涙を流してしまった時の、温かい気持ちを乗せて。
「……とまぁ、こんな事を言われちゃいまして。村雨さんはこう思っちゃったのよ。
あぁ。この人に呼ばれて良かった。この人の船でいられて、良かった……って。
だから……。けっこう好きだったりするかも……ね?」
だが、大きな手で背中を叩かれる恥ずかしさも、一緒に思い出したのだろう。
笑顔に照れを誤魔化して、ほんの少しだけ本音を零す。
まだ生まれたばかりの、お湯に溶けてしまいそうな“何か”を。
「も、もうっ、なぁに? みんなして黙らないでよ~。せっかく恥ずかしいのを我慢して話したっていうのに!」
「あっはは。村雨ちゃん、やっぱり照れてるっぽい~」
「ごめん、ごめんね村雨ちゃんっ、私、一番艦なのにっ、お姉ちゃんなのに、全然気付いてあげられなかった……。ホントにごべん゛ね゛ぇええぇぇぇ」
「泣かないで、白露。……僕も、この話を聞いて思ったんだ。
彼なら信頼できる。信じたいと思う僕自身を誇れる。
だから、好きかと聞かれたなら、胸を張って好きだって答えるよ」
見惚れていた皆は、思わずそうさせる気品が崩れたことで、一気に表情を柔らかく。
夕立など、プンプン怒ったふりの姉に抱きついている。
逆に、妹の悩みを気付いてあげられなかった白露は、時雨に抱えられて泣きそうになり、程なく決壊した。
けれど、悲しみから溢れた雫でないのは一目瞭然。慰める方も穏やかに微笑む。
「ふぅん……。自分はそのままじゃ嫌な癖に、他人にはそのままで良いとか言っちゃうんだ……」
「初風、どうしたのー? なんか顔が笑ってるよー?」
「わ、笑ってないってば。それと、私はまだそういうレベルじゃないから。出会ったばかりだし、これからよ、これから」
「ふぅん? まぁいっかー。確かにこれからだもんね、あたしたちっ」
「ちょっと、重いってば……」
小さく呟き、火照った顔を背けるのは初風だ。
ニカっと笑う舞風に乗しかかられ、迷惑そうにしているが、自分から離れようとはしない。
彼女が艦隊へとやって来た時。
笑顔で迎えてくれる彼に向かい、「提督さんにとって私は、何人目の私かしら?」などと皮肉ったのにも関わらず、彼はこう言い切る。
――君が最初で、最後の“初風”だ。
あの時は世辞としか受け取れなかったけれど……。信じて良いかも知れないと、初風は思った。
恐れで迷い、和らげる言葉を貰って、それをまた誰かに伝え。
こうして絆を結ぶことで、少女たちは、過酷な真実に負けない強さを得ていくのかも知れない。
余談だが、部屋へと戻ったはずの吹雪たちも、しっかりと村雨の涙を目撃している。
物陰に隠れ、「良いなぁ、卵酒」「注目すべきはそこじゃありません」と言い合い、互いにハンカチを差し出して友情を深めた。
これからはきっと、書類仕事では戦々恐々としつつ、肩を並べる仲間として信頼を築くことだろう。
「雷ちゃん、嬉しそうです」
「え。そう、かな。……うん、嬉しい。みんなが司令官を好きだって言ってくれて、私も嬉しいっ」
それぞれに笑い合う皆を、雷は静かに微笑み、見守っていた。
雪風から指摘され、ようやく自身が笑っていると気付いた彼女は、わずかに沈黙した後、再び大輪の花を咲かせる。
(でも、おかしいな……。良い事のはずなのに、どうして羨ましいって思ったんだろ、私……)
小さな胸に。
小さな小さなわだかまりを、ひた隠しながら。
最後に、どうでも良い事実をもう一つ。
「どうしよう……。出て行くタイミング完全に逃しちゃった……。
盛り上がってるねーみんな? 実は私も提督さんのことが? お母さんは許しませんよ?
ううう、どうすれば……っ。このままだと茹だっちゃうぅ……」
実は雷たちが入って来る前から、マーライオンに寄っかかって湯を堪能する整備主任が居た。
偶然にも影になっていた彼女。潜水して驚かしちゃおうかなー、などと、持病持ちとは思えない事を考えているうちに、なんだか重い話が始まってしまい、出鼻をくじかれる。
その後も和やかな空気に入り込むタイミングを伺ったが、機を逸し続け、最終的に茹でダコとなった所を救助されるのだった。
どんとはらい。