新人提督と電の日々   作:七音

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新人提督と約束された痛み・後編

 

 

 

 漂っている。

 ふわり、ふわりと。

 温かくて、優しくて、明るい場所を。

 

 ぬるま湯に浸かっているようで、違う。

 身体を動かそうとしても、思うような反応はなく。しかし不快感もない。

 丸裸になって――魂だけの存在となって、形も成さないまま、母の胎内で揺蕩っているようだった。

 

 

「――――――」

 

 

 ふと、誰かの声がした。

 話しかけられたのか、ただ聞こえただけか。

 定かではなかったけれど、どこか、惹かれる声。

 

 

「こ――船――」

 

 

 圧力を感じる。

 無いはずの背中を押されて、どこかへ向け、加速していく。

 途中、様々な“何か”とすれ違い、ぶつかり合い。

 くっついたり、砕けたり、溶け合ったりしながら、自らの質量が増していくのを自覚した。

 

 

「――なん――」

 

 

 声が近い。若い男性……。青年だろうか。

 ふと、理解する。向かっている先は、その声がする場所だと。

 加速はまだ続いている。

 水の波紋を。風を。声を。光をも超えて、まだ速く。

 

 

「なにが起――」

 

 

 そして、青年の声を耳元に感じた瞬間、壁にぶつかった。

 いや、壁と呼ぶにはあまりに薄く、穴だらけ。すり抜けられる。

 その壁を通ると、ようやく自らが形を成していく。

 腕。脚。指。爪。頭。首。髪。胸。腰。最後に、服。

 柔らかい微風が、産まれたての肌をくすぐる。

 すぐ近くにある光源が、初めて使う眼を焼く。

 

 

「……女の、子?」

 

 

 身体全体で重力を味わい、それに従って顔を下ろすと。

 見下ろす先に、白い詰襟を着る青年が立っていた。

 眩しい光を遮るよう、右手をこちらへかざす、誰かが。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 ――夢を。

 

 ――何か、とても大切な夢を、見ていた気がした。

 

 

「提督。間も無く、艦隊が指定された海域へ到着します」

 

「ん……ぐ、くぁ……ふ」

 

 

 優しく呼び掛けられ、沈んでいた意識が覚醒する。

 同時に、失ったはずの左眼を焼かれているような熱さと、無視し難い違和感も襲ってくるが、どうにか欠伸として誤魔化せたようだ。

 バイザー越しに確認できる島風、雷、電も、気付いてはいない。

 

 

「どのくらい、眠ってた?」

 

「二十分くらい? すっごく早く寝入っちゃって、ビックリしちゃった」

 

「とっても気持ち良さそうだったわよ? ね、電」

 

「なのです」

 

 

 見守ってくれていた少女たちの微笑みに、釣られて自分も笑みを浮かべた。

 周囲のみんなも、交代で見張りに立ちながら休んでいたようだ。疋田さんが装甲服から薄手のインナー姿になっている。

 さっきよりも人数が少ない……。長門や陸奥たちは、外の警戒でもしているのだろうか。

 予定より長く眠ってしまった。おかげで思考に澱みは無くなったけれど、手早く状況を把握しなくては。

 

 

「舞鶴の状況は」

 

「つい先程、連絡がつきました。事ここに及んで、またテロが起きたようです。舞鶴鎮守府の主・補、両電源設備が破壊され、本格的な支援は望めません。

 現在、呉から桐ヶ森提督の航空機が。横須賀からも二航戦と千歳、千代田が攻撃隊を向かわせています。

 舞鶴に常駐していた、桐谷提督の補用水雷戦隊とリレー装置は無事ですが、まだ暖気中です。抜錨には時間が掛かるかと。

 また、市街地上空で旋回する敵 艦載機の姿も確認されました。街への被害を考え、対応は見送っています。まずは、交渉でこれを引かせるべきであると愚考します」

 

「把握した。加古たちの状態は」

 

「問題ありません。道中の遭遇戦を考え、完璧に実戦用補給をしておいたのが功を奏しました。北上・大井の魚雷も余分に積んでいます」

 

 

 書記さんが伝えてくれる情報は、吉凶がない交ぜとなったものだった。

 舞鶴鎮守府の電源設備破壊。これはテロリスト……いや、“ヤツ”の血を受けた操り人形の仕業だろう。どこまでも用意周到だ。

 桐ヶ森提督、蒼龍、飛龍たちの航空支援は純粋にありがたい。問題は、桐谷提督の補用艦隊共々、間に合ってくれるかどうかだが。

 確か、第一次大侵攻の後、舞鶴の街にはかなりの高射砲が設置されていたはずだが、それを使うとなると、敵 艦載機を街の上へ落とすことになる。書記さんの言う通り、まずはこれを撤退させるのを優先しないと。

 後は加古率いる水雷戦隊が、どこまで“ヤツ”に通用するか。

 加古・古鷹の武装は改装済み。夕立と時雨には新たに電探も配し、大井・北上の魚雷発射管は全てを五連装にしてある。兵装のコンディションとして、これ以上は望めない。

 自分が上手く指揮をとれば、勝てるはず。

 

 

「見えた! アレが……!」

 

 

 古鷹と共に先陣を切る加古が、前方に一つの影を見つけた。

 探照灯も何も点けていないけれど、空を飛ぶ水偵と明るい月光が、その姿を見せてくれる。

 鋭角な線を描く艦首。船体は中程で幅を大きくし、かと思えば船尾に向けて細くなり、艦尾の部分でまた太く。

 艦橋らしき建造物が甲板の左右に乱立しており、載せられている砲は大型。本当に船なのか疑わしいシルエットだが、とりあえず戦艦級に思えた。

 時雨を始めに、皆が所見を呟く。

 

 

《大きくて、いびつな形……。まるで、船を寄せ集めたような》

 

《なんか不気味っぽい~。船なんだけど、船とは思えないっぽい……》

 

《見た目の概算ですが、排水量は三万五千tを下回らないと思います》

 

《って事は、少なくともル級かタ級と同等かぁ……》

 

《一発、直撃弾を貰ったら終わりですね。北上さん、気を付けましょう》

 

 

 彼我の距離は、おおよそ数kmという所。腹をこちらに見せている。

 このまま攻撃しても有利は向こう、既にこちらの位置も把握されているだろう。

 どうやって位置取りするか、攻撃に移るタイミングと、その陣形は。

 下手をすると、流れ弾が陸へ届いてしまう距離。逆に言えば、沿岸部に設けられた大型固定砲台の支援を受けられるかも知れないけど、難しいか。

 

 

《やぁやぁ、怖じ気づかずによく来たね! 後輩君と、そのヒトカタ共》

 

 

 様々な思考を巡らせる中、不意に、不愉快なほど明るい声が聞こえてきた。

 よくよく見ると、艦首付近に小さな人影が。

 小林、倫太郎。

 もう戦いは始まっている。気をしっかり持て。呑まれるな。

 ここからが、自分の仕事だ。

 

 

『約束は果たした。単刀直入に言う。艦載機を戻してくれ』

 

《う~ん、どーしよっかなー? 今から戻したって戦闘へは参加できそうもないし、面倒なんだよねー》

 

『……頼む。背後に敵機が居ると、戦いに集中できない。自分は弱いんだ。その位のハンデはあっても良いじゃないか。……先、輩』

 

 

 二重に口が腐る思いで、あの人への呼び方を使う。

 その甲斐はあったらしく、思わせぶりにステップを踏んでいた影は、含み笑いに手を掲げた。

 

 

《フフフフフ。良いよ、良いねぇ。憎しみと、屈辱と、冷たい闘争心の混じった声。OK! 気分がいいから戻してあげよう! そっちでも確認しときなよー》

 

『……感謝する』

 

《でぇもぉ……。やっぱ六 対 一じゃ多勢に無勢だよね? まぁ、絶対に負けることは無いだろうけど、数ぐらい揃えないとねぇ。という訳で……》

 

 

 しかし、月明かりで半分だけ照らされた“ヤツ”の顔は、変わらず毒に塗れていた。

 白い指が、パチリ、と鳴る。

 聞こえるはずがない距離なのに、確かに聞こえた。

 

 

《僕も手下を呼ばせて貰うよ。まずはこいつらを相手にしてもらおうかな》

 

 

 冠島の影から、新たな船影が猛スピードで現れた。加古・古鷹の水偵がそちらへ。

 軽巡洋艦にしては大きい。あれは……阿賀野型だろう。

 甲板には、自分と同じような入院着を着た少女が、それぞれ一人ずつ乗っている。

 長い黒髪の少女。赤み掛かった茶髪を、二本の三つ編みにしている少女。黒髪をポニーテールにする少女。色素の抜けたような髪をショートカットにする少女。

 背中には艤装とよく似た機械部品を背負い、マニピュレーターと一体化した砲塔らしき物が繋がっていた。

 ……嫌な、予感がする。

 

 

「何さアレ。深海棲艦じゃ、ない? 普通の船……ってーか軍艦……」

 

『……嘘だろ、アレは!?』

 

《流石に勘がいいね。そ、こいつらはね、僕が作り出した新たな研究成果。使い捨て型の統制人格だよ。元 人間の、ね》

 

 

 背筋に悪寒が走った。

 海の上に居るみんなと、自分の周囲に居るみんな。息を飲む音が重なって聞こえてくる。

 人間を改造して作られた、人工の、統制人格。

 あんな、虚ろな顔をした少女たちが?

 

 

《まぁ、制御性能に個体差があり過ぎて、安定実用化には程遠い出来なんだけどね。

 脊柱の八割を人工物に置き換え、その中へ僕の骨髄液を流し込み……。

 とか言っても理解できないだろうから、無駄話はやめよう。僕の機体が戻ってくるまでは、これと踊って貰おうかな》

 

 

 狼狽えるばかりのこちらを無視し、“ヤツ”は得意げに語り続ける。

 人間の乗る船が、軍艦が、最大戦速で近づいてくる。

 何も言えない自分の代わりに、加古が怒りを爆発させた。

 

 

「……ふっざけんなっ、こんの腐れ外道がっ! お前それでも人間かよ!?」

 

《随分と失礼な口汚いヒトカタだな……。まぁ良い。お怒りのとこ悪いけど、僕は“元”人間さ。勘違いしないで欲しいね。

 それに、先にやったのはその人間なんだ。やられた事をやり返してるだけ。目には目を、歯には歯を。実験には実験を。何が悪い?》

 

《そんなの、子供の屁理屈です! 自分の受けた痛みを他人に返すなんて、それじゃあ何時まで経っても終わらない……!》

 

《そうさ、僕は子供さ! 吐噶喇列島のあの日から、一日たりとも前へ進んでいない子供なんだよ。だから僕は悪くない、悪いのは全部、僕以外の要素だ!》

 

 

 続く古鷹の言葉にも、自らを省みる事なく、外にだけ要因を求める天の邪鬼。

 こいつは、なんだ。本当に心があるのか。まるで理解できない。

 

 

《……なんか、言ってることが本格的に理解できないっぽい?》

 

《なんて悪童……。反吐が出ますね》

 

《うん。ちょっとどころじゃなく、ものすっごくムカムカする。これは許しちゃダメでしょ》

 

《悪い子には、お仕置きが必要だね。それも、かなりキツいのが》

 

 

 自分の気持ちを代弁してくれるのか、夕立、大井、北上が隔意を示し、時雨も戦闘態勢に入った。

 それを見咎め、“ヤツ”はまたほくそ笑む。

 

 

《クフフ。好き勝手言ってるけど、理解してる? これから君たちは、“人を殺す”んだよ?

 物言わぬ深海棲艦じゃない、親兄弟の存在する、哀れな哀れな女の子たちを。

 君たちに出来るかなぁ。親の借金を肩代わりさせられたり、他ならぬ身内に金で売られた被害者を、殺すことが。

 さぁ、行けっ! 金で買われた命の価値を証明してみせろ、アバズレ共っ!!!!!!》

 

 

 高く翳されていた“ヤツ”の腕が、勢いよく振り下ろされる。

 同時に、阿賀野型四隻が――人工統制人格が襲い掛かってきた。

 砲音。

 

 

「どうすんのさ、提督っ。正直、アレは相手にしにくいんだけど!?」

 

 

 反射的に回避行動を取る加古が、歯噛みしつつ命令を求めてくる。

 北に冠島。手前数kmに、砲を乱射する阿賀野型四隻と、“ヤツ”の本体。こちらは右に回頭しながら、北東へ速度を上げていた。

 どうすれば良いのか。どう戦えば良いのか。

 砲弾の雨に晒されているというのに、不思議と思考は研ぎ澄まされていた。

 冷たく、硬く。左眼があった場所の熱を、吸い上げるが如く。

 

 

『全艦へ通達。回避行動に専念せよ。使い捨て型と付くからには、稼働時間に制限があるはず。時間切れを待つ』

 

《……それって?》

 

 

 古鷹が、悲愴な表情を浮かべた。

 自分だって、こんなのは嫌だ。けど、他にどうしようもない。

 こんな冷酷な選択肢を、正しいと確信できる自分自身を、軽蔑する。

 けれど、こうしなければ勝てないだろうと分かっているから。

 あの時と同じように、あえて冷たく言葉にする。

 

 

『……ああ。見捨てる。あの子たちを助ける術は、自分たちには……無い。砲弾も魚雷も、ヤツに取っておけ』

 

《……提督さんは、良いの? 本当にそれで――》

 

《夕立さん、そこまで。他に選択肢は、ありません》

 

 

 今にも泣きそうな声で問う夕立を、大井が止める。

 拳を握りしめているのが、伝わってきた。血が滲むほど、硬く握り締められているのが。

 人工統制人格たちの照準は緩い。

 おそらく精神と肉体、そして船体のバランスが取れていないのだろう。

 キチンと回避行動を続けていれば、まず当たらないと確信できた。

 ならば、どれほどの能力を秘めているのか、全く判明していない本命を叩くため、弾は残しておかねば。

 自滅を待つのが、正しい選択なのだ。……正しい、はずなのに。

 

 

《そうくると思ってたよ……。そんな、お優しくも残酷な君たちに、これを聞かせてあげようか》

 

 

 それが間違いであると、“ヤツ”の悪辣な手口が囁く。

 

 やめて。痛い。痛いよ。

 暗い。寒い。帰りたい。

 死なせて。苦しい。殺して。

 私が何を。なんで。お母さん。

 

 か細い声は、耳ではなく魂へと、直に苦痛を、悲哀を、絶望を訴えてくる。

 少女たちだ。

 阿賀野型に組み込まれた少女たちが、死へ向かわされている中で、慟哭している。

 

 

《こ、これって!? あぁ、そんな……っ》

 

《酷い……。こんなの、酷過ぎるよ……!》

 

 

 時雨が口元を手で覆い、北上は首を横に振りながら、真っ青な顔で後ずさる。

 戦意は失われつつあった。

 無理やり軍艦と直結され、己の意思とは関係なく戦わされ、命を削らされる少女たち。

 耳を塞いでも聞こえてくる叫びに、目を閉じても見えてしまう光景に、心が挫かれて……。

 

 

《あ、忘れてた。時間切れを狙うのは良いんだけども、そうするとあっちの方が保たないかもよ? ほら、後輩君と一緒に居た、赤毛の女》

 

『……何?』

 

 

 息継ぐ暇も無く、“ヤツ”はまた別の事柄で揺さぶりを掛けてきた。

 赤毛の女。自分の知る中で、それに該当する特徴を持つ人は、彼女しか居ない。

 主任、さん。

 まさかそんな、彼女も捕らえられていた?

 

 

《ほらほら、覚えてない? 人工統制人格には、完全適応型もあるって言ったでしょ。

 実はさ。あの子にはその被験者になって貰ったんだ。先天的疾患で動きの悪い、心臓を治療する代わりにね。

 いやはや、あの子は僕好みの悪女だよ? あの時の発作は、君に同情して貰って、治療費を出させるための作戦だったんだって》

 

『……どういう、事だ。被験者って、彼女に何をしたっ!?』

 

 

 思わず声を荒らげると、実に楽しそうな顔で、“ヤツ”は嗤う。

 

 

《ヒヒヒ、さっきも言ったじゃないか。改造手術を施したんだよ。

 心臓も入れ替えたし、上手くいったと思ったんだけどさぁ、意識が戻らなくって。

 仕方なく医療ポッドに低温保持していたんだ。

 でも、どっかの誰かさんが変なことしたでしょ? 多分、管理プログラムもおじゃんさ。

 循環液の作用で一~二時間は保つはずだけど……。あとどれくらい生きてられるかな~?》

 

『……貴、様ぁあぁぁ……っ!』

 

 

 自分の腕に装着した籠手と、奥歯の軋む音がする。

 激しい怒りが、頭の中で白く燃え上がっていた。

 どこまで、どこまで命を、尊厳を玩べば気が済む。こいつの悪意に底は無いのか?

 なんでこんな“ヤツ”が……!

 

 

「提督、ブラフです! 彼女はこちらで既に保護しています! 惑わされないで下さい!」

 

「……書記さん? 本当に?」

 

「はい。信じて下さい。身柄は確保していますので」

 

 

 そんな時、清廉な声が鼓膜を直接揺らし、暴走しかけた激情をピシャリと叩いてくれる。

 書記さんの声には、絶対的な自信を感じられた。

 言葉を弄して人を嘲る下衆と、共に戦ってきた仲間。どちらを信じるかなんて、考えるまでもない。

 

 

(じゃあ、木曾があの時、言い淀んだのは?)

 

 

 いや、疑うな。疑ったら思う壺だ。

 きっと、改造手術の後遺症が残ってしまったとかで、保護しているのは嘘じゃない。

 そうだよ。そうに決まってる。

 

 ……なら、もう一人は。

 あの時、木曾が名を呼んだ、あの人は……。

 

 

《あらら、そう来たか。うーん、困ったなぁ。兵藤はもう死んじゃってるし、手札が尽きちゃった》

 

『はっ?』

 

 

 間の抜けた声が出た。

 思いも寄らぬ形で、答えのようなものが脳へ滑り込む。

 死んじゃってる。死んじゃった。死んだ。

 誰が。あの人が。先輩が。

 

 “ヤツ”は、意外そうに声を上げる。

 

 

《……あれ? もしかして、まだ聞いてなかった? っちゃあ、そうと知ってれば、もっといいタイミングで教えてあげられたのに。ざーんねん》

 

『な……にを、言ってる……。せんぱ……い、が……。死んだ?』

 

《嘘……。知らない、僕たちも知らされていないよっ》

 

 

 口から勝手に溢れ落ちる、引きつった言葉。

 至近弾を貰う時雨が、同じように酷く揺れた声で叫んでいる。

 雨あられと降り注ぐ砲弾の音は、テレビの向こう側の出来事みたく、現実感に乏しい。

 

 

「……そうだ、嘘だ。これもブラフだ。そうだよ、そうですよね、書記さん!?」

 

「は、はい。兵藤提督も――」

 

《嘘を吐くな屑共が!!!!!!》

 

 

 縋り付くように書記さんへ向けられた問い掛けは、圧を感じる怒声によって掻き消された。

 悠然と甲板で佇む“ヤツ”の姿を、古鷹の水偵が切り取る。

 

 

《後輩君。これだけは断言してあげよう。僕の命と、受けてきた苦痛に賭けて誓おう。

 兵藤 凛と名乗っていた女は。君を守ろうとした裏切り者は、僕がこの手で始末した。

 軍病院での治療も施せないよう、予め設備を破壊しておいたからね。確実に、死んでるはずだよ》

 

 

 初めて見る、とても静かな表情を浮かべて、“ヤツ”は語る。

 頭の中で、何か、とても五月蝿い音が騒いでいた。勝手に五感が拡張していく。

 砲弾に込められた怨み。魚雷に宿る痛み。潮騒。月光の別つ空と海。

 みんなは減速し、二隻ずつの単横陣で魚雷と砲に対処しようとしているが、とても動揺しているのが伝わってきた。

 

 

『……信じない。信じないぞ、お前の言葉なんか……。お前の言葉には悪意しかない。絶対に、信じない……』

 

《嘘だと思うのなら、確かめてみるといい。きっとそこに居るよね? あの時、青い制服を着てた女が。おそらく、女狐の死を看取った女がさ》

 

 

 言い聞かせるように、みっともなく呟き続ける自分に、“ヤツ”は更なる追い討ちを掛ける。

 青い制服……。警備員の制服。疋田 栞奈。

 信じたくなくて。嘘だと言って欲しくて、自分は一時的に視界の同調をカット。

 沈痛な面々の中から、彼女を見つけ出した。

 

 

「疋田さん……。疋田さん?」

 

「えっ、あ……!? ぁの、私……っ」

 

 

 “ヤツ”との会話は、自分が居る遊戯室の皆にも聞こえていたはず。

 だから、きっと否定してくれる。そう思っていた。

 けれど彼女は、吃りながら顔面蒼白に。離れていても、その身体が震えていると、理解できた。

 

 書記さんを見る。

 唇を噛み、眼を細めていた。

 

 雷と村雨を見る。

 顔をそらし、スカートの裾を握りしめていた。

 

 すぐ側の、電を見る。

 顔を伏せたまま、こちらの肩に額を押し付けてきた。

 消え入りそうな嗚咽と、入院着の濡れる感触があった。

 

 左眼のあった場所が、疼く。

 

 

《……どう? 驚いた? 自分を裏切ったと教えられてた女が、自分を守るために死んだんだ。傷付いたかい?

 ならもっと良い事を教えてあげる。あの女はね、自分で自分を売りに出したんだよ。老い先短い祖父に、安らかな余生を過ごさせる為だけに。

 あぁ、傑作だったなぁ。僕の息のかかった病院で、その老人が死を迎える直前に、孫が人殺しをしていると教えてあげた時の、あの顔、絶望、後悔。思い出すだけで、もう……》

 

 

 満点の星空の下、“それ”は愛撫されているように身悶え、恍惚に表情を蕩けさせていた。

 加古が震える。

 

 

「なんだよ、こいつ……。なんなんだよ、なんなんだよコレ……」

 

《人間の所業じゃありません……。悪魔なんて言葉じゃ、全然足りない……っ》

 

 

 古鷹の誹りにも、“それ”はただ嗤っているだけ。

 理解できなかった。全くもって、理解できなかった。

 

 

『お前は、どうして……。どうしてそこまで、他人を辱められるんだ。なんで……』

 

《……どうして?》

 

 

 疑問が口をつくと、“それ”はキョトンと首を傾げ、然も当たり前のように言い放つ。

 

 

《そんなの、決まってるじゃないか。

 僕という存在の価値が、他より高いからだよ。

 僕はこの世で、ただ一人の深人類。

 人間如きと比べるべくもない、希少な存在だ。

 その僕が、雑多な前時代生物を弄んで、何が悪い?》

 

 

 心底不思議であると、もう一度首を傾げた後、急に顔が伏せられた。

 光が。

 紅い妖気が、噴き上がる。

 

 

《痛みを。苦しみを。憎悪を先に押し付けてきたのは、お前らなんだ……。

 復讐するは我にあり? 巫山戯るな! この手でやらなきゃ、神頼みなんかじゃこの傷は癒せないんだ!!

 だからお前らは大人しく、僕に八つ当たりされてりゃ良いんだよぉ!! ヒャハハハハハハハハハハハッ!》

 

 

 清涼なる海の上に、腐りきった嬌声が響く。

 聴く者の心を。意思を。魂を穢す、漆黒に澱んだ悪意の鑑。

 

 ここに来て、ようやく自分は理解できた。

 決して理解してはいけないという事が、やっと理解できた。

 

 

「もう、いい……黙れ……」

 

「……司令官さん?」

 

 

 全身から力が抜け、なおかつ、その全てが身体を登り、ある一点へ注がれていく。

 呼び掛けてくれる電の声が、遠い。

 

 

【まダ、言えテない言葉があっタのに】

 

 

 頭の中で、誰か……知らない少女が喋っている。

 失ったはずの左眼には、奇妙な光景がダブっていた。

 

 夜。

 燃え盛る海。

 沈みかけた無数の船。

 飛行甲板。

 矢で縫い止められた男女。

 

 

【まだ、伝エられテない想いガあったノに】

 

 

 手前に居る、長い黒髪の女が光の粒と化す。

 奥の白髪の男が、こちらへ微笑む。何かを囁き、事切れる。

 視界は横へ。

 遠くに、黒い女。

 

 

【アの人ハもう、応えてクレない。モウ何も……届カナい】

 

 

 細い腕が弓を構える。

 男女を貫いた物と同じ、二股に分かれた矢尻の延長線上。

 意識が収束し、不鮮明だった顔が、“ヤツ”の哄笑と入れ替わった。

 

 あぁ、ダメだ。ダメだ。

 ダメだダメだダメだダメだダメだ。

 もう無理だ。もうイヤだ。もう止めだ。

 

 

【貴様ダけハ】

「貴様だけは」

 

 

 コイツの顔が気に入らない。

 コイツの声が気に入らない。

 コイツの存在が気に入らない。

 

 

【コの手デ】

「この手で」

 

 

 息遣いを感じるだけで鳥肌が立つ。

 笑っているのを見ると虫唾が走る。

 呼吸し、心臓を脈打たせている事そのものが許せない。

 

 だから。

 少女の悲しみが、憎しみに変わるのも。

 敵に向けた言葉が重なるのも、至極当然。

 

 

【殺シテヤル】

「殺してやる」

 

 

 間違いなく、胸を張って憎悪と呼べる感情を込め。

 自分は“両眼”で敵を見据える。

 左眼の違和感は、とうに消えていた。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「殺してやる、だって? フヒヒ、大きく出たねぇ。戦艦の一隻すらいない、たった六隻の水雷戦隊なの……に……?」

 

 

 “それ”は思わず言葉を失った。

 眼前に広がる光景が、高笑いを止めるだけの驚きに満ちていたからだ。

 中継器を積んでいると思しき重巡洋艦――加古を中心にして、不可視の“波”が放たれる。

 瞬間、手下の阿賀野型は動作不良を起こし、まだ活動時間を残しながら停止。

 次いで、桐林の統制人格が乗る六隻が、紅い光を……霊子力場を纏ったのである。

 

 

「……は? え……え? な、んで?」

 

 

 両の手で眼を擦り、幾度となく見返しても、その光は確かにあった。

 人外の視力が、桐林の統制人格を捉える。

 紅い燐光に輝く、六対の瞳を。

 

 

「ッハハ、なんだろ。急に力が漲ってきたよぉ……! 全力で、ブッ飛ばしてやる……!」

 

「……左舷、砲雷撃戦、用意。ふふ……」

 

「駆逐艦、時雨。……行くよ」

 

「アハハ! ソロモンの悪夢、見せてあげる!」

 

「あぁ……。もう、ヤっちゃいましょーかぁ……」

 

「はい、北上さん……。海の藻屑にしてあげましょう……?」

 

 

 哀れな犠牲者に同情し、狼狽えるだけの少女たちは、もうそこには居ない。

 誰かの憎悪で塗り潰され、破壊衝動を剥き出しにする、軍艦の現し身が存在するだけ。

 あり得ない。

 あり得ないあり得ないあり得ない。

 

 

「そんな馬鹿な、なんで、まだ僕は何もしてない、何もしていないのにっ」

 

 

 骨髄移植も、体組織の植え付けも、まだしていない。

 なのにどうして。

 ましてや、稀有な環境に恵まれてしまった“それ”ですら、制御するには数年かかったのに。

 

 

「どうしてお前が、ただの人間がっ、“その力”を使えるんだよっ!?」

 

 

 何故、桐林が、力場発生能力を。

 深海棲艦にだけ許された力を、振るっているのか。

 目の前の不合理に、自覚せぬまま、“それ”は恐れ慄いている。

 軍艦が六隻。

 水を得た魚の如く進む。

 

 戦場となった海に、雪が降り始めていた。

 

 

 


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