新人提督と電の日々   作:七音

74 / 107
終幕 深海より、哀しみを込めて

 

 

 

 そこは、とても静かな場所だった。

 朝日が昇る前の海。

 所々に岩礁があり、そこへ打ち付ける波だけが、世界に満ちる音の要素だった。

 しかし、岩礁から少し離れた場所で、ごく僅かな変化が生じる。

 波間に気泡が浮かんで来ていた。

 海が飲み込んだ空気ではなく、何か、生き物が吐き出した泡のような。

 

 影。浮かんで来る。

 

 

「――ぶぁっ! はぁ、はぁ……!」

 

 

 突如として、水面下から少女が現れた。

 その少女は、酷く緩慢な動きで岩礁へと泳ぎ、平たい場所を選んで身を投げ出す。

 黒いフード付きコート。白い髪。異形の脚。

 “それ”は、吉田 剛志が討ち滅ぼしたはずの、かつて小林 倫太郎と名乗っていた存在だった。

 

 

「……っくくくく、ひぁっははははは! 生き延びた、生き残ってやったぞクソ共がぁ!!」

 

 

 暁の空を見つめ、しばらく。“それ”は腹の底から大笑いした。

 統制人格は普通、能力者だけでなく、本体である艦船とも運命を共にする。あくまで艦船の端末であり、艦船が沈めば用を無くすからだ。

 ところが、“それ”は違う。

 “それ”にとっては艦船こそが端末であり、出し入れ自在な固定化霊子の塊。死を共有する存在ではないのである。

 

 

「なぁにが“この罪は譲らぬ”、だ。格好付けやがってゴミ蟲めっ、勝手に一人でおっ死ねバァーカ! ヒヒッ、ヒャハハハハハ」

 

 

 だからこそ、生き延びられたのだ。

 戦艦型端末とのリンクを断ち、海へ身を投じて、異常潮流で日本海を脱し数時間。

 愚にもつかない反吐を撒き散らす老人を騙し通し、見事、生を勝ち取ったのだ。

 試合に負けて勝負に勝つ。

 先人もたまには良いことを言う。

 

 

(先ずは、身体を癒さなきゃ。端末の再構築はそれからだ。設計図は僕の頭の中にある、何度だって……)

 

 

 ひとしきり笑った後、“それ”は屈辱を噛み締めながら、次の行動予定を立てる。

 まず、傷だらけになった身体の治療。

 これは簡単だ。深海棲艦の細胞は再生能力が高く、四肢を切断したとしても、安静にしていれば数ヶ月で生えてくる。首のすげ替えはどうだか知らないが。

 出血も止まっているし、適当に魚を捕まえて腹ごしらえする位か。

 端末を取り戻すには、時間が掛かるかも知れない。

 傀儡艦か深海棲艦。どちらかへ密かに忍び込み、統制人格を喰い、乗っ取って……。ひとまずそこからだ。

 

 

(あぁ、楽しみだなぁ。楽しみだなぁ。その時のために、もっと、もっと、もっと強くならなくちゃ)

 

 

 意外な事に、“それ”の胸中は喜びで満ちていた。

 ここまでコケにされ、痛めつけられ、なお心が躍る。

 また、復讐できるから。

 霊子操作の新たな域も見た。たかが人間に到達できたのだから、自分に出来ないはずがない。

 端末を再構築し、より強化し、新たな能力行使も身につける。そうしてまた、奴らの前に現れるのだ。

 どんな顔をするだろう。どんなに焦るだろう。どんな風に虚勢を張るだろう。

 目的と手段のはき違えが、どうでも良くなるほど。

 想像しただけで胎の奥が疼くほど、楽しみで仕方なかった。

 

 

「ヤハリ、カ。生キ汚サダケハ、一級品、ダナ」

 

 

 冷やかな声。

 “それ”は一瞬で身を起こし、先端の欠けた尻尾を高く掲げて戦闘態勢に。

 周囲を見回すと、右に人影があった。

 黒い女。

 いや、黒いセーラー服のようなものを着た、白い肌と白い髪を持つ女だ。

 膝までを覆う装甲靴が、しっかりと海面を踏みしめている。

 よくよく見れば、その左眼には何も収まっていない。あるべき眼球が抜け落ちていた。

 

 

「誰だ、お前は。その姿……。深海棲艦の……?」

 

 

 警戒しつつ、“それ”もまた蹄で海面を歩く。

 片眼を失くして平然と海に立つ。どう考えても人間ではないだろう。

 となれば、この女は深海棲艦。しかも人語を解するだけの自律行動が可能な。

 キスカ・タイプ――双胴棲姫と同等の存在か。

 

 

(どうする。喰らう……いや逃げるか?)

 

 

 負けたばかりである事も手伝い、“それ”は用心深くなっていた。

 十mほどの距離に佇む、あのトンデモ双胴戦艦と同類の統制人格。躯体の能力は如何ほどだろう。

 あの戦いを盗み見ていたからこそ分かる。喰い尽くして乗っ取るにしても、一撃喰らわせて逃げるにしても、一筋縄ではいかないはず。

 前傾姿勢に尻尾を頭上で揺らめかせ、警戒心を顕にしていると、女は右目を閉じ、静かに首を横へ振った。

 

 

「残念ダガ、オ前ノ相手ハ、私デハナイ」

 

 

 そして、緩やかに左腕を持ち上げたかと思えば、彼女の背後からもう一人。小さな影が進み出た。

 まるで御披露目のように。

 紹介でもされるように示された、“それ”は。

 

 

「やぁ、どうもどうも。初めましてですね。……“先輩”」

 

 

 黒いフード付きコートと、マフラーを翻し。

 中途半端に止められたファスナーから、青白い肌と、ビキニのような布当てを覗かせ。

 先端に開口部がある尻尾と、有蹄類のような、逆関節の脚を持っていた。

 

 

「なん、の、冗談だ、これ……」

 

「おや。意外と察しが悪いんですね。それとも、理解できない振りですか?」

 

 

 鏡でも現れたかと思ったが、“それ”は気安く、嘲りを込めて微笑んでいる。

 瓜二つだった。

 かつて小林 倫太郎と名乗っていた“それ”と、黒い女の背後から現れた“それ”は、顔立ちこそ違えど、双子の如く似通っていた。

 あり得ない。

 

 

「認めたくないのでしたら、僕がハッキリと言って差し上げましょう。

 他人の人生を散々に振り回し、好き勝手に実験材料としてきた貴方ですが……。

 その実、貴方こそが実験台だった、という事ですよ。この躯体を作り上げるためのね」

 

 

 楽しそうにステップを踏み、両腕を広げて、もう一人の“それ”は得意気な顔で語った。

 あり得ない。あり得ない。あり得ない。

 

 

「嘘だっ、そんな馬鹿げた話があるか!

 僕は自分の意思で、自分の考えで、生き延びるために戦ってきたんだっ。

 その結果が人工能力者、人工統制人格、この身体、あの戦艦だ! 僕の、僕の成果だぞ!?」

 

「いいえ、違います。貴方が統制人格と融合した後、貴方は“こちら側”と常に繋がっていました。

 人工血液も、“彼”へのアプローチ方法も、人工統制人格も。無意識に情報を引き出していた結果。

 つまり、貴方は知らず知らずカンニングを行い、それを自分の成果だと思い込んでいただけなんです」

 

 

 憤り、大きく踏み出す“それ”に対し、黒い女の周りをクルクルと踊り続ける“それ”が、またしても信じ難い言葉を並べ立てる。

 “こちら側”と繋がって? 深海棲艦と?

 情報を、盗み見ていた。元々あった技術。カンニング。

 混乱していた。

 苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて歩んで来た道程が、実は誰かの手の平で踊っていただけなどと、信じられるはずもない。

 なのに、心のどこかで納得している。真実だと、“理解”している。何故。

 

 

「まぁ、あの戦艦級だけは、貴方の貢献がなければ産まれませんでしたけどね。

 深海棲艦の中で捕食本能を持つのは、純粋種である“姫”のみ。しかし彼女たちは“絶対数が決められている”。

 人類の急成長を踏まえ、来たるべき時を前に、僕たちは戦力を増強する必要があると判断した。

 そこで始動したのが、“鬼”や“姫”、“水鬼”のような単一種を、雑級種の中で作り上げる計画です。いわゆる、蠱毒(こどく)の壺ですよ」

 

 

 訳が分からなかった。何を言っているのか、理解できるのに分からない。知らないのに分かる。

 唯一、純粋な知識として“それ”の中にあるのは、蠱毒という単語だ。

 古代中国で広く用いられ、行ったと判明すれば死罪を免れない、禁術の類である。

 蛇、蛙、蠍など、毒を持つ生物を百集め、一箇所に留め置いて放置し、共食いを起こす。

 そして、生き残った一匹の毒を使い、呪術を行うのだ。日本では、厭魅(えんみ)蠱毒と称する禁術群に含まれ、恐れられていた。

 

 

(僕が、巫蠱(ふこ)の贄。共食いの果てに縊り殺される、虫けら?)

 

 

 呆然と立ち尽くす“それ”だったが、もう一人の“それ”も、不意にステップを止める。

 どうしてだか、周囲は静まり返っていた。

 岩礁に打ち付ける波も、風の音も、何も聞こえない。

 ただ、耳慣れぬ女の声だけが響いている。

 

 

「けれど、それにも問題がありました。

 先ほど言った通り、捕食本能を持つのは、最初から受肉して産まれる“姫”だけ。

 共喰いを起こすには、餓えという概念を理解し、腹を満たそうとする渇望がなくては。だから……」

 

「……僕、が?」

 

「御名答です」

 

 

 鏡合わせのように向かい合った“それら”は、一方が楽しげに柏手を打ち、もう一方が真逆の表情を浮かべていた。

 ステップが再開され、パシャリ、パシャリ――と、軽やかな水音が加わる。

 

 

「極限の飢餓を味わえば、捕食本能は十分に強化された筈ですが、加えてあの時、貴方には潜在的な意思傾向が植え付けられました。

 貪欲に食し、欲望を満たそうとする……。理性のタガを、ほんの少しだけ外したようなもの、と認識して下さい。

 貴方は本能的に、自らの弱点を補う捕食を行い、理想的な躯体と端末を作り上げる予定でした。

 ……いやはや、全くもって予想外の結果に終わってしまいましたが。

 あまりにも性能が高くなり過ぎて、ただの統制人格には御せなくなってしまい、“鬼”になるはずの僕と霧島へ当てがわれるとは」

 

 

 まぁ、顔はいじらせて貰いましたけどね――と、もう一人の“それ”は、自身の顔を指して微笑む。

 確かに、姿形を見れば瓜二つだが、顔だけを比べると別人だ。

 しかめっ面をしている“それ”は、ボーイッシュな少女。天真爛漫な笑顔が似合うかも知れない。

 余裕たっぷりに微笑むもう一人の“それ”は、正しい意味で中性的な女性。まるで、一組の男女をモンタージュしたような、どちらとも取れる造形美である。

 

 こいつは一体なんだ。口振りからして、元人間の能力者。霧島……高速戦艦? まさか……。

 いや、施設は破壊したが、それだけで何もしていない。こんな所に居るはずがない。

 それよりも、あれが――愛宕と再会し、餓死寸前まで追い込まれた事が、誰かの意思によって引き起こされたという事実に、腹が立つ。

 愛宕だったから許せたのだ。最後は身を犠牲にして助けてくれたと思っていたから、憎まずに済んだと言うのに。

 

 

「……それで、今更なんの用があるって言うんだ。ご褒美でもくれるって言うなら、受け取ってやっても良いけど?」

 

「残念。クリスマスはとうに過ぎました。それに、貴方は悪い子です。……やり過ぎたんですよ。

 御せない駒ほど邪魔な物はありません。十年前も、それで失敗してしまったらしいですからね」

 

 

 ぶっきらぼうに、憎しみを込めて睨み上げる“それ”の視線を、もう一人の“それ”は肩を竦めて受け流す。

 今度はこちらが笑う番だった。

 

 

「やり過ぎた? ……もしかして実験とか、舞鶴でのこと? ハッ!

 何を言うのさ、今さっき自分で言ったじゃないか。理性のタガを外したって。

 つまりはお前らがそうさせたんだ。お前らがそう望んだんだ! 僕は悪くなんかない!」

 

 

 最初から悪人だった訳ではない。望んでこんな身体になった訳ではない。

 人生は常に誰かから弄ばれ、運命の荒波に対抗することが、生きるということだった。

 技研の研究者共を喰い殺したのも、多くの人間を傀儡としたのも、クローン人間をゴミのように使い潰したのも。兵藤や吉田、桐林に関する事だって、必要だと思ったから行った。

 しかし“それ”の理性は、奴らによって意思傾向を植え付けられ、阻害されていたと言う。ならば全ての責任は自分にない。全て奴らの所為なのだ。

 鬼の首を取ったように、“それ”は指を突きつける。

 だが、もう一人の“それ”は呆れているのか、小さく溜め息をつき否定を返した。

 

 

「いいえ。いいえ。違いますね。

 僕らが――といっても僕のいない頃の話ですが、今までも。ともあれ、そうではないんです。

 貴方に施されたのは、ほんの少しの後押しなんですよ。例えるなら……。

 落ちていた小銭を見つけても、誰かに見られたり、誤解されるかも知れないから、気付かなかった事にするという人が居ます。

 そんな人を、周囲に誰も居ないなら、小銭を確実に拾わせる……と、思い切りを良くさせる程度なんです。

 みっともない命乞いはさせても、根本の倫理観に影響するような事は。人格を書き換えるような事はしていない――出来ないんですよ」

 

 

 何処からともなく、五百円玉を取り出したもう一人の“それ”は、手品師の如く硬貨を弄ぶ。

 右手の小指から親指へ、指の背を渡り、次は左手の親指から小指へ。

 一度握られた両手が開かれ、硬貨が姿を消したかと思えば、尻尾の口から手に吐き出される。

 見せつけるように示された硬貨は、細い指によって潰されてしまった。

 

 

「貴方の残虐性は、餓えの本能だけでは説明できない。

 例えそれが、人間たちの悪意によって醸成されたのだとしても。

 ごく普通の倫理観が、欠片でも胸の奥に残されていたならば、踏み留まれたはずです。

 あの方々だって言っていたでしょう。……捨てたのは貴方だ。

 歳や環境を言い訳になど使わないで下さいね。稀代の神童さん?」

 

 

 挑発的に言葉を締め、もう一人の“それ”が硬貨を弾いてよこす。

 ひしゃげた五百円玉。懐かしい呼び名。二つの意味する所は……。

 思い浮かんだ言葉ごと、“それ”は五百円玉を口に含み、嚥下した。少しは腹の足しになる。

 

 

「……結局、何が言いたいんだ。お前ら、何をしに来た」

 

 

 もはや疑うべくもない。こいつらは敵だ。言葉を弄したのも、単なる気まぐれであろう。

 獲物を前に舌舐めずりする狩人……。探偵にトリックを解説する犯人?

 言い方なんてどうでも良いが、とにかく対極に位置する存在。同じ躯体を持つ二人は、これから雌雄を決するのだ。

 その証拠に、頭の中で戦術を組み立てる“それ”へと、もう一人の“それ”が、再び何かを投擲した。

 

 

「ある方の出迎えと……性能試験です。試作品と完成品を戦わせての、ね」

 

 

 緩やかな軌道を描くのは、緑色に蛍光するピンポン球ほどの宝石。

 翠緑玉(エメラルド)にも思えるが、“それ”が受け取ってみると、鉱石ではあり得ない温かみと、脈動を感じた。

 同時に、「食べてみたい」という原始的な欲求もこみ上げる。

 

 

「これは……?」

 

「それもお食べ下さい。超自然素材(ナチュラル・マテリアル)。“こちら側”の高速修復材です。あれ程の端末であろうと、丸ごと瞬間再構築可能になるでしょう。条件が対等でないと、試験にもなりませんし」

 

 

 尋ねると、もう一人の“それ”は余裕綽々に微笑み、距離を取った。

 黒い女も場を離れ、巻き込まれない位置で観戦するつもりのようだ。

 完全に、侮られている。不快だ。

 

 

「後悔するなよ……。だいたい、この世は試作品の方が強いって相場が決まってるんだ!」

 

「それは量産機に対してでしょう。雑級種の範疇を超えた、僕たちに当てはまるとでも?

 被造物である限り、弟に勝てる兄……。おっと、もう違いましたね。妹に勝てる姉は、居ないんですよ」

 

 

 鋼材を尻尾で捕食すれば、言われた通り、全身に活力が漲った。

 疲れも痛みも吹っ飛び、胎の奥で怒りの火が灯る。

 一足飛びに“それ”も後退し、彼我の距離は数十m。端末再構築地点は更に後方三kmほど。

 両脚を肩幅に開き、前傾して左手を海面に。右手は顔の横へ構え、尻尾が頭上高くで咆哮。

 奇しくも二人は、全く同時に、同じ戦闘態勢を取る。

 

 そして。

 

 

「人馬一体となった絶技、その身でとくと味わうがいい」

 

「ほざけ模造品。その不遜、骨も残さず噛み砕いてやる」

 

 

 東に太陽が顔を覗かせる頃。

 赤黒い霊子力場の柱が二本、天へと昇って行った。

 海が、震える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……あれ? 僕は……。沈んでる? あれ……?)

 

 

 全身を、冷たさが包んでいた。

 見上げている。

 海面(そら)にはオレンジ色の雲が広がり、とても美しかった。

 その向こう側で何か、影が動く。

 二本足。人影だろうか。

 

 

「冥途の土産に教えて差し上げます。

 この躯体……。人間の作った枠組みだと、未だ相当する物のない戦艦級。さしずめ、戦艦レ級、とでも呼称しましょうか。

 僕はレ級と名を改めて、いずれ歴史の表舞台へ立ちます。

 良かったですね。貴方の存在は消えても、貴方の作り上げた物だけは、歴史にちゃんと残りますよ。

 では、御機嫌よう。試作品さん」

 

 

 ついさっきまで、戦っていたはずの相手――レ級の声が、脳に直接響いていた。

 見下ろされているらしい。

 

 

(負けた、のか。僕は、アイツに、負け……)

 

 

 頭がボウっとしている。

 覚えているのは、禍々しい赤黒さから移り変わる、金色の光。

 今見上げている海面(そら)のように、眩しく、高貴なる光。

 

 

「さて。あの方はどうなりますかね?」

 

「……後悔ヲ遺シテ逝ッタ人間ハ、遥カ昔カラ“鬼”ト成ル。彼モ、オソラク、ハ」

 

「ですか……。“鬼”と呼ばれた人が、死して本物の“鬼”となる。皮肉ですね」

 

 

 影が離れていく。

 いや、こちらが離れて行っている。

 青い血で視界は煙った。

 

 

(身体が動かない……。痛い……。寒い……)

 

 

 海面(そら)へ伸ばされた腕は、指一本すら動かせなかった。

 思い出したように痛みが襲い掛かり、傷口を潮が撫でる。

 熱が、奪われていく。

 

 

「動いたらお腹が空いてしま――した。何か――る物を持ってま――?」

 

「……ナイ。マテ――ル モ、サッキ――最後、ダ」

 

「味が無――、す――く不味かっ――すよ、あれ……。――――――」

 

 

 やがて、光と共に声も遠ざかる。

 陽光の下へ踏み出すレ級たちと違い、“それ”はどんどん、暗がりに落ちていった。

 

 

(光が、遠く……。暗い……。暗いのは、やだよ……)

 

 

 暗闇は、周りとの繋がりを切ってしまう。

 独りは嫌。

 例え憎しみや嫌悪の果てでも、誰かと繋がっていたかった。

 独りは嫌だ。

 誰も見てくれないのなら、死んでいるのと変わらない。

 独りは、嫌だ。

 

 

『あれ、こんな時間に何やってんのさ』

 

『うん? おお、■■■か。夜更かしはいかんぞ』

 

 

 突然、ドアが開いた。

 くぐった先は、執務室。

 机に着く初老の男。

 ノイズが掻き消す名前は、誰の。

 

 

『……これ、来週の任務予定表じゃんか! なに考えてんだよ!?』

 

『ど、どうしていきなり怒る。ワタシに与えられた任務だ、あって当然だろう』

 

 

 机へ近づき、書類を奪う。

 初老の男は困惑している。

 この声、は。この、会話は。

 

 

『……オレが行く。その任務、オレが代わりに行くから』

 

『おい、どうした? そんな事を言うなんて、お前らしく――』

 

『この任務に行ったら! ……息子さんの命日、過ぎちゃうじゃんかよ……』

 

 

 忘れるはずもない。

 忘れられるはずがないのに。

 今の今まで、思い出せなかった。

 ああ。あぁあ。ぁああぁぁあああぁぁぁ。

 

 

『……良いのか? (みなと)の墓参りなど、ワタシの個人的な事情で……』

 

『良いも何も、オレが行くって言ってんだから良いんだよ! い、いいからヘボい年寄りは引っ込んでろ! さっさと引退しちまえ!』

 

 

 驚く初老の男に、暴言を吐く。

 その先に、何が待っているのかも知らず。

 自分がどうなるのか、想像もせず。

 

 

(違う、どうして、違う、なんで、僕は、こんな、違う)

 

 

 まだ、辛うじて輪郭を確かめられる、薄闇の中。

 “それ”は凍えるように、やっとの思いで自分を抱きしめる。

 

 

『……ありがとう、■■■。お前は、優しいな』

 

『ちょ、にゃ、うっ、やめ、撫ーでーるーなーっ!』

 

『ははははは』

 

 

 無造作で、乱雑だけれど。

 とても優しく、頭を撫でられていた。

 懐かしい記憶の中では、確かに。

 あの温かさを、嬉しく感じていた。

 

 

(違う、あれは僕じゃない、違う、僕じゃない、違う、僕は、違う、違う、違う)

 

 

 体温を失いながら、何者にもなれなかった“それ”は、ただ、沈んでいく。

 己の姿すら見ることの出来ない、深淵へと。

 そこに待っているのは孤独。

 時の流れをも凍らせる、永劫の孤独。

 

 輪廻の輪を外れた魂に、差し伸べられる手は無い。

 死の救いは、訪れない。

 

 

 

 




 第三章、開眼編、完結。

 第四章、別離編へ続く――。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告