「……なぁ、■■。本当に大丈夫か?」
もうすぐ、太陽が真上から日差しを降ろそうという頃。
繋留中の重巡洋艦、■■内にある、士官用の個室にて。
提督は、ベッドへ腰掛ける■■■を心配そうな顔で覗き込む。
彼に向けて、■■■は気を遣わせぬよう、必死に笑顔を作った。
「だ、大丈夫です……。ちょっと、かつてない勢いで胃がグルグルしてるだけ、ですから……。あ、少し吐瀉っても良いですか?」
「おいおいおいおい! だからカツ丼は三杯で止めておけって言ったんだ! 勿体無いから吐くなよ!? 松を五杯だぞ五杯ぃ!?」
……が。波のように緩急をつけて襲い掛かってくる吐き気で、きっと■■■の顔は土気色。
今日は観艦式当日。日本国内へ向けて……。ううん、全世界へ向けて、■■という重巡の統制人格を、御披露目する日。
色々と頑張って準備したり、たまーに逃げ出そうともしましたが、時の流れは悲しいほど無慈悲でした……。
そして、ものすごーく出演を渋る■■■を宥めるため、提督はいつもの様にカツ丼をご馳走してくれたんですけど、まぁ、ご覧の有様で。
あ。また大きな波が。
「ごめんなさい無理そ……うっ」
「ま、待て、今なんか、容れ物用意するからっ! 堪えろよ!」
「ゔぐ……むっ……っくん。ふぅ……。どうにか、耐えました……」
「良し、よく頑張った! ええと……ほら。気休めだろうけど、水無しの胃薬」
「ありゃあほうごらいまひゅ……」
適当なゴミ箱と一緒に差し出される、小分けにされた金色のパック。
さっそく開けて中身を含むと、ほのかな苦みが口一杯に広がった。
この時代のお薬は、その気になればメチャクチャ美味しい味に出来るそうですが、そうすると薬を飲むために体調を崩す人も出そうなので、ある程度マズくしてあるらしい。
でも、やっぱ美味しくない……。
「しかし、まさか君が、こんなに緊張しいだったとはな」
「はい……。なんと言いますか、少人数の前なら平気なんですけど。両手両足の指で数えられないほどの数を想像すると……」
「群衆恐怖症、とかいうヤツか? 厄介だな……」
「いえ、そこまで大袈裟なものじゃ……。多分、根性を入れれば我慢できる……気がします」
腕組みする提督と、ゴミ箱を抱えて俯く■■■。
どうしてだか自分でも分からないけど、何故か■■■は、人の群れを想像するだけで、身が竦んでしまう。
ほんの数人なら平気で、別に、見知らぬ人とお喋りするのだって問題無い。むしろ、一人っきりだと寂しい。
でも、それが数十、数百という数になるだけで、もう……。
計画では九百人近い乗員を乗せるはずだったのに、どうしてだろう……?
■■■が怖いのは、見られる事? ううん、違う。■■■が強く思うのは、多分……。
「……すまない」
「はい?」
考え込んでいたら、いきなり提督が頭を下げた。
思わず小首を傾げると、彼は、壁際に据えられた机へと寄り掛かる。
「こんな風に、色々と強制してしまって。せっかく自由意志を持っても、人として扱ってやれないのではな……」
どこか、悔しげにも聞こえる言葉は、申し訳なさそうな表情と一緒に。
……本気だ。
機嫌を取ろうとするおべっかじゃなく、提督は本気でそう思っている。
何故だかそれが直感できて、■■■の顔には笑みが浮かんでしまう。
「平気ですよ、提督」
気分の悪さも何処へやら。
■■■はゴミ箱を置いて、提督の前に。
「■■■は、あくまで軍艦なんです。
人の意思を受けて、その思うがままに働く事こそが本懐です。
ちょっとだけ、個人的に苦手なものとかもありますけど。そんな事どうでもいいんです。
提督がお望みとあらば、■■■はなんでもやり遂げる所存です。
そうしたいって、思えるんです。……きっと、貴方だから」
「■■……」
少し、恥ずかしくも感じる言葉で締めくくると、提督は驚いたように目を剥いて。それから、しきりに帽子の位置を直し始めた。
もしかしなくても、照れてる? なんでだろ、ちょっと達成感。
個室には、もどかしいような、くすぐったいような空気が漂う。もっと味わっても良かったけれど、でも、今度は笑って欲しくて。
「だから……。カンペ持って行っちゃ駄目ですか……? じゃなきゃ絶対に喋れません! ね、良いですよね? ね?」
おどけて顔を覗き込む■■■に、彼が戸惑うような瞬きを何度か。
そして……。
「……はは。全く、しょうがない子だな。君は」
狙い通りの笑顔で、提督は微笑んでくれる。
思えば、この時が。
無邪気に笑っていられたこの時が、■■■と彼の、絶頂期だったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
軍の管理下から離れ、おおよそ三十分後。自分たちは、街中に隠されるバーに居た。
隠れ家的と聞いて、誰もが思い浮かべる落ち着いた内装。古き良き時代のジャズが流れている。
カウンター席で座る自分と、右隣のMs.ペトルッツィ。
そして、ロックのウイスキーを二つ置く、初老のマスター以外には誰も居ない。顔付きからして日本人だ。
イタリア政府か、もしくは、Ms.ペトルッツィ個人の息が掛かった店なのだろう。
「ようやっと、落ち着いて話せるわね」
グラスを傾け、Ms.ペトルッツィが微笑む。
地下へ降りた店内は薄暗く、それが彼女の妖艶さを引き立て、様になっていた。
「改めまして。フランチェスカ・ペトルッツィこと、“狼”の葉桐。
日本人としての名前は
フランでもリンでも、好きに呼んで頂戴。四十三歳、独身よ? よろしく」
山城 鈴。さんじょう、りん。
あの人と、同じ響き。思う所はあったが、それをどうにか隠し、差し出されたグラスと自分のグラスを軽くぶつける。
そのまま、琥珀色の液体を口に含めば、芳醇な香りが鼻に抜け、アルコール分が喉を焼く。
いつもなら美味しいと感じられるだろうが、どうにも、楽しむ気分にはなれなかった。
「聞きたいことがあるなら、なんでも聞いて。出来る限り答えてあげるから」
ウイスキーを置き、カクテルグラスに盛られたチーズキューブを弄ぶMs.ペトルッツィ――いや、Ms.フラン。
余裕を見せるその姿に、こちらは逆に緊張を強いられる。
状況に流されてここまで来てしまったが、別に彼女を信頼した訳ではない。付け加えるなら、これは茶飲み話でもない。
何がどう政治と関係してくるか分からない、ある種の会談でもある。
主導権を握られないためには……。
「……なぜ、二つ名が一文字なんですか? 他の“桐”は全員二文字なのに」
「あ、あら。この状況でそこに食いつく? ちょっと意外」
まず、相手にとって予想外の話題で、リズムを崩す。
Ms.フランはキューブを取り落としそうになっていた。
この慌てぶりがどこまで本気かは定かじゃないが、とにかく、予定調和を崩せたようだ。
包装を開け、チーズを口へ放り込んだ彼女は、それを飲み下してから話し始める。
「単純かつ下らない話よ。ワタシが日本人じゃなかったから。
本当なら“海狼”とでもなったんでしょうけど、当時の軍部は……いわば鎖国的でね?
文字を削ってでも区別したかったのよ。下に見たかった、と言い換えてもいいわ」
まぶたを閉じ、またウイスキーを一口。
飄々としていた物言いに、ほんの少しだけ硬さが感じられた。
良くも悪くも、軍というものは昔から封建的な傾向があり、特にあの時代……。
第一次大侵攻後、桐竹 源十郎という、日本軍の根幹を失いかけていた軍部が、諸外国の手足と成り得る、外国籍保有軍人を冷遇した……と言うのなら、一応筋が通る。
しかし、そもそも何故、彼女は日本で軍人とならねばならなかったのか。疑問だ。
「イマイチ信じきれないって顔ね。なら、貴方の考えを聞かせてくれないかしら。なぜ“狼”の葉桐は、死を偽らねばならなかったのか」
その疑問を気取られたか、今度はMs.フランが質問を投げる。
ちょうど考えていたというのもあるが、仮説はすぐに立てられた。
「“狼”の葉桐は、その戦争初期から活躍していたものの、政治的な問題から存在を秘匿されていた。
詳しくは今以て公表されていませんが、外国籍を持つ人間であったならば、一応の説明がつきます」
カウンターに両肘をつき、Ms.フランは組んだ指の上に顎を乗せた。
完全に聞く体勢となった彼女の目に促され、自分はウイスキーで唇を湿らせる。
「開戦当初、政府は能力者の確保に躍起になったと聞きます。
例えば、たまたま日本へ来日していた外国人旅行者が、偶然にも能力を発現したら。
間違いなく政府は身柄を拘束したでしょう。そして彼女は、日本人として生きる事を余儀無くされた」
「……それで?」
「本人の意思はどうあれ、彼女は活躍した。けど、多分それが良くなかった。
目に見えて戦果を挙げておきながら、決して陽の目を見ることがない。
お節介な人間が余計な事をしたか、もしくは疎んじられたか。存在が明るみに出る」
「人の口に、戸は立てられないものねぇ……。ホント、馬鹿な男が居たものよ」
相槌の合間にも、懐かしむような声が挟まれる。
ウイスキーを見つめ、琥珀色を映すその瞳は、遠い過去を眺めているようだった。
「一度注目されれば、彼女の素性が祖国にバレるのも時間の問題だったでしょう。
程なくその時が訪れ、イタリア政府は事を表面化させない代わりに、葉桐の身柄を引き渡す――返還するよう求める。
紆余曲折はあったんでしょうが、最終的に日本政府は要求に屈し、開いた穴を、日本人としての顔である葉桐を殺す事で決着をつけた。
……こんな所ですか。今もなお、葉桐を説明する枕詞に“政治的”とつくのは、この時の名残なんじゃありませんか」
「凄い、大正解。ほぼその通りよ。噂と違って、考えるだけの頭は持ってるじゃない」
「……どうも」
褒められた……ようだが、あまり嬉しくない。
少し考えれば、誰にでも分かる事すら無理だろうという噂。
一体、自分はどんな風に悪評を流されているのか。まぁ、知りたくもないが。
「一つだけ補足すると、その馬鹿な男っていうのは桐條の事よ。
本名は安倍
ワタシが頑なに事情を話さなかった、というのもあるんだけど、ホントにお節介でね?
君ほど努力している人が認められないなど、間違っている! とか言っちゃって。
……そのせいで、謀殺されたわ。任務中の殉職と見せかけてね。他にも色々やらかしてたし、政治的に邪魔になったんでしょう」
言い終えてから、Ms.フランはグラスを一気に呷る。
なんと返せば良いのか、分からない。
彼女が桐條氏の名を呼ぶ時、少なくとも自分は、親しみのような想いを感じた。それを、国に謀殺された。
決して短くない時間を過ごした国を、本国からの要求とはいえ、あっさり捨ててしまえたのは、これが理由なのだろう。
彼女の言葉が全て真実であれば、という仮定の元で、だが。
「ま、この場で示せる証拠なんて一つもないんだけどね。上手く話をでっち上げただけかも知れないし」
「自分で言いますか、それを」
「だって、正直で居たいじゃない? ワタシ、そうでなかったから後悔してるんだもの」
二杯目のウイスキーを傾け、溶けて丸くなり始めた氷を回す姿は、気障で演劇染みた雰囲気と、過去を悔いる物憂げな雰囲気とを併せ持つ。
自分の中にも、信じたい気持ちと疑う気持ち。両方がある。
軍人でなかったなら、何も考えずに信じられた。
しかし、今の自分は“桐”なんだ。
自分を信じて待ってくれているだろう、仲間たちの為にも。最善を尽くさねば。
「さぁ、次のご質問は? なんだったら、英雄視されてる“桐”の本性、ぜーんぶ教えましょうか。幻滅して、それからきっと親近感が湧くわよ~?」
「……いいえ。それより別に、聞きたいことが」
「あらそう、残念。年寄りは思い出話をしたくってしょうがないのに」
再びの問いに、自分はまた誘導を遮った。
先程のリズムを崩す、というのもあるが、今度は今の自分に知り得ない、けれど知りたい情報を求めてみる。
「十年前。第一次大侵攻が起こる前に自分が遭遇したという、事故について。知っている事を教えて下さい」
「どうして、ワタシがそれを知っていると?」
「勘です。こんな風に近付いてくるからには、過去を調べ上げているだろうと思いまして」
「……侮れないわねぇ、ホント」
頬杖をつき、軽い溜め息。これまでとは違い、僅かな躊躇いが滲む。
どういう事だろう……。
「どこで知ったのか分からないけど、特に変わった事はない、運の悪い事故だったわよ?
たまたま横断歩道を渡っていた貴方に、たまたま居眠り運転の車が衝突して。
当たりどころが悪かったのか、脳に大きなダメージを負い、植物状態へと陥った。
目覚める可能性は限りなくゼロに近く、目覚めたとしても、後遺症は確実視されていたらしいわね」
Ms.フランの言葉に、想像力を可能な限り働かせ、記憶の引き出しを刺激してみようと試みるが、まるで手応えがない。
横断歩道。車。脳へのダメージ。
テレビから流れるニュースに似た、他人事のような感覚しかなかった。
「事故から数日後。……丁度、大侵攻が終結した頃合かしら。
貴方はなんの前触れもなく、奇跡的に意識を取り戻した。
けれど、やはりダメージがあったのね。
幼児退行を起こし、赤子のように振る舞ったと記録にあるわ」
「幼児退行? そんな事が……?」
「事実よ。当時の担当医の記録にあったわ。家族の落ち込みようが酷く、見ていられない、って」
新しい情報にオウム返しすると、疑われていると思ったのか、Ms.フランはさらに詳しい補足を。
脳へのダメージという部分を考えれば、そういう事が起きても不思議ではないだろう。
しかし、それが己の身に起きていたと言われて、直ぐに信じられる人間も居ないはず。まるで実感が伴わない。
「ところが、またしても前触れ無く、貴方は以前の貴方に戻った。
当然というか、幼児退行していた間の記憶は無くしていたみたいだけど。
これを重く見た御家族と医師は、催眠療法で事故の記憶を封じ込めた、とあるわ。
近隣住民の協力も得て、徹底したようね。……愛されてるわよ、貴方」
それを見越してか、現状の裏付けとなる情報で、彼女は締めくくった。
催眠療法による、記憶の封印……。無理やり防衛機制を働かせたようなものだろうか?
これなら、自分に事故の記憶が一切無いのも、とりあえず頷ける。
一番の問題は、やはり、小林 倫太郎の言った言葉だ。
『ねぇ、後輩君。“君の中に居るのは誰だい”?
常人なら発狂するかも知れないだけの呪いを受け止め、君に傀儡能力を行使させているのは誰だい?
源兄ちゃんかな。伊吹かな。鞍馬かな。鞍馬と沈んだ深海棲艦かな。存在を抹消された、唯一の犠牲者である女の子かな。
そもそも、“君”は本当に“君”なの? その“誰か”が成り代わってるだけだったりして』
自分の中に居るという、誰か。
“ヤツ”の言い分が正しいなら、自分はこの身体に、二人分の魂を宿している事になる。
例えば、それが第一次大侵攻で死亡した、誰かだとしたら。
何故その人物の魂は消失せず、舞鶴から遥か彼方の、関東圏で植物状態だった子供に、紛れ込んだのか。
これは傀儡能力者の存在が認められてからの話だが、霊子というものを観測出来るようになって、人の生まれ変わりは科学的に否定されている。
病死寸前の人間を観測し、その霊子量を計測するという実験が行われ、結果、人間は死亡した際、内包する霊子を著しく減少させるという事が判明した。
減った霊子は、周囲へ拡散するでもなく、完全に消失したと推測されている。そう判断せざるを得ないほど、一瞬の変化らしい。
反論として、その瞬間に人間の魂は別の生命へと転移するのだ……と唱える者も、少なからず存在するようだ。
日本軍における、霊子力学の立ち位置は前者であり、自分はどちらでも無かった。どうでも良かった。
だが、もし仮に……。魂というものが、生まれ変わるものだとしたら。
舞鶴で死んだはずの誰かが、偶然にも植物状態となった器――魂だけが消え去った、入れ物を見つけたとしたら。
そこに、成長した状態の赤子が生まれる、という可能性は無いだろうか?
そして、奇跡的に肉体は回復し、真っ新な魂は海馬に宿る記憶を学習。己をその人物だと思い込んで、成長したという、可能性は……?
(自分は……。いや、“俺”は本当に、“俺”なのか?)
手が、勝手に震え出しそうだった。
馬鹿げてる。そんな訳がない。マンガやアニメの見過ぎ。
そうやって片付けられるはずの問題を、どうしても一笑に付す事が出来ない。
もしも、“ヤツ”の言う事が正しかったら。自分の考えが当たっていたら。
今、桐林として世界に認知されている男は、単なる寄生虫じゃないのか。
回復するかもしれない少年の居場所を奪い、成り代わった、ドッペルゲンガー。
誰でもいい、否定して欲しかった。
君は君だと、言って欲しかった。
でも無理だ。こんな事、誰にも話せない。話しちゃいけない。
話したところで、この恐怖は理解して貰えない。
(……違う。誰もがきっと、無意識にこの問題を抱えている)
自分が自分である証拠なんて、どこにも無い。己自身の中にしか、見つけられない。
運良く、外側に肯定してくれるものがあったとしても、結局の所、信じられるかどうか、なのだ。
自己を肯定するかしないかで、この問題は難易度を変える。
今の自分に、“自信”は無かった。
あるものと言えば、己の立場を危うくするであろう現状を、どうにかして切り抜けたい。緊張状態から抜け出したいという考えだけ。
恐れをウイスキーの味に紛らわせ、自分はMs.フランに意識を戻す。
「自分が能力に目覚めた経緯については、どこまで?」
「確か、兵藤とかいう女性能力者に見出されたのよね。表向きには」
「……という事は、知っている訳ですか。どうやってそこまで……」
自分が人工傀儡能力者である事実は、軍でも最高機密に類するものだろう。
“ヤツ”の唱えた二魂一体説までは話していないが、その実験によって能力に目覚めたという部分は、ごく限られた人間にのみ、周知されたと聞く。
表向き、という含みを持たせた言い方からして、おそらく知っている。イタリア軍部の諜報員は、どこまで深く潜り込んでいるのか……。
と、戦慄する自分に対し、Ms.フランが満面の笑みを浮かべ……。
「あーら。やっぱり裏があったの? 適当ブッこいただけだったのに♪」
しまった……っ!?
己の迂闊さに、思わず顔を顰めてしまう。
つい、彼女が実験の事を知っていると早合点してしまった。
やはり自分には、こういう交渉ごとの経験が不足している。
……いいや、まだ肝心な部分を口にしていない。というか、言わずに済むよう仕向けられた?
Ms.フランにとって、自分はヒヨっ子。その気ならもっと情報を引き出せただろう。そうしなかったのは何故だ。
ますます以って、彼女という人物が分からない。
「そんな顔しないの。これ以上は聞かないであげるから。イタリア人は友達作りが上手ってだけよ。
ま、それで色々と調べがついちゃった方がビックリだけど。やっぱりスパイ天国だわ、この国は」
「……なら、先ぱ――兵藤 凛の、事も」
「いいえ。残念だけど、彼女の過去については把握しきれていないわ。巧妙に隠されていたし、本命じゃないから調べもおざなりだったしね」
一縷の望みをかけ、あの人の事も尋ねてみるが、返事はそれこそ、おざなりだった。
兵藤 凛。
自分を導き、守り、そして裏切った人。
用意された二杯目のウイスキーが、水鏡となって、あの人の笑顔を映す。
いっそ、忘れてしまえれば楽なのに。笑顔の仮面の裏に、どんな情念を隠していたのか。今更、知りたくてしょうがない。
そんな時、二つ折りの紙切れが、カウンターの上に置かれた。
Ms.フランは、ボールペンを挟んだ二本の指で、それをこちらへと押しやる。左利きのようだ。
「これは?」
「唯一、彼女について分かっているのが、この病院に関わっていたという事よ。気になるなら、後で調べてみなさいな。記憶だけして、燃やしてちょうだい」
紙切れに書かれていたのは、とある病院の名前と、その住所だった。
先輩が関わっていた病院……。
どんな形にせよ、先輩の過去を知る手掛かりには違いない。
内容を深く脳裏に刻み込んだ後、マスターがタイミングよく置いた灰皿へ紙切れを入れ、その隣にあったマッチで火をつける。
五秒と掛からず、紙切れは灰になってしまう。
……これ以上話を引き伸ばしても、意味が無いかも知れない。
時間は貴重だ。この店だって、いつ軍に見つかるか。
後になって話したくなっても、もう、二度と話せないかも知れない。会えないかも知れない。
燃え尽きた灰に焦燥感を煽られた自分は、少々強引に本題へ入る。
「なぜ、自分に近づいたんですか。Ms.フラン。あなたの目的はなんですか」
それは、自分がここに居る原因。
下手をすれば、誘拐犯として指名手配を受けかねないリスクを犯してまで、接触を持とうとしたことの、理由だ。
これを聞いておかないと、先に進めない。
「一言で言えば……貴方に興味があったから」
こちらの真剣さを感じ取ってくれたようで、Ms.フランもまた、おどけた雰囲気を消す。
「と言っても、色気のある話じゃないわ。
あの人と、あの人の弟子が、命懸けで守った青年。どういう人間なのか。どうしても知りたかったの。
大変だったわよ? この国へ来る事を頷かせるためだけに、首相やら役人やらの弱味を握りまくって。帰ったら殺されちゃうかもね」
けれど、真面目な表情も一瞬。すぐにまた、冗談めかした笑顔が向けられた。
名前以外に関連性の無い、面識すら無いはずのこの人は、どこか、あの人と似ている。
決して本心を悟らせようとしない。
「本当に、それだけですか」
「もちろん、そんな訳ないじゃない。本当の目的は、可能な限り貴方の情報を得て、最低でも遺伝子情報を確保。あわよくば身柄を……ってね。ま、そっちは無理そうだけど」
それで諦められるはずもなく、重ねて問い掛ければ、溜め息混じりの流し目が。
イタリア本国から日本へは、恐らく陸路を使って移動したはず。
あまり西欧諸国の地理には詳しくないが、最低でもロシアと中国を経由しているだろう。
この情勢下で、軍人が彼の国を通過する。イタリアはかなりの代償を払ったに違いない。
そこまでしたのだから、諜報活動が求められるのは自然だ。本意でないのも、投げやりな言葉から理解できる。
しかし、彼女の言葉には続きがあった。
「ただね。貴方がそれを望むのであれば、受け入れる準備はしてあるわ」
「……それは、自分に選択権がある、と?」
「ええ」
Ms.フランは頷く。
受け入れる準備……。亡命?
この国を捨てるという選択肢が、用意されているというのか。
「貴方が望むのなら、今の貴方を捨て去って、別人として生きる選択も出来る。ワタシのように。
……ああ、そうね。やっぱりワタシは何処かで、この国を憎んでるのよ。憎んでいるわ、確かに。
ワタシは、この国の勝手で人生を捻じ曲げられ、結果として多くのものを得たけれど、それ以上に喪った。日本への意趣返し、かしらね?」
微笑みに、拭い切れない影が落ちる。
深海棲艦との戦いが始まって、おおよそ二十五年。
四十三歳と言っていたから、開戦当時の年齢は十八歳。青春真っ只中を、戦争に奪われたことになる。
多くの出会いがあっただろう。多くの別れもあったはず。そして、十数年間の穴埋めもなく、物のように引き渡された。
どんな想いだったのか、想像すら出来ない。どれほど悔しかったのか、見当すら。
だが、自分がそうするには、捨てなければならない。
桐林という男を構成する、全ての要素を。
「自分に、家族を。仲間たちを、捨てろと」
「強制なんてしないわ。ただ、そういう選択肢もあると言いたいだけ。
ちなみに、イタリアには可愛くて情熱的な子が多いわよ? ほら、この子とかどう?」
「えっ。あ、えと、か、可愛いんじゃ、ないですかね……。っていうか、ホントに可愛いな……」
「でっしょー? 親戚の子なんだけど、オススメよー。ついでに言うと、イタリア国籍を持つ人間同士なら、男は十六歳、女はなんと十四歳で結婚できるわ。未だにね」
「え゛っ。そ、そうなんですか……?」
「そうなのよ。能力者確保を目的とした、場当たり的政策の弊害ね。
おかげ様で、今じゃ国別離婚率ワースト一位。馬鹿げてるわー。
あ、その子も十四歳。日本文化に興味があるらしくて、文通相手を募集してるらしいの。どう?」
「はぁ。左様で……」
手渡された写真には、赤毛に程近い茶髪を持った、小麦色の肌の美少女が、妙に薄着で水遊びする姿が切り取られていた。
……多分、家族写真か何かなんだろうけど、他所様に見せて良いのだろうか。
タンクトップと短パンが水に濡れて、下着の形が丸わかりで、目のやり場に困る……。
だから、という訳ではないが、自分は写真を伏せ、Ms.フランへと返す。
「……ダメですよ、そんなの。許されるはずがない。みんなを捨てるなんて事になったら、自分を許せません」
いつの間にか、彼女のペースに呑まれかかっていたけれど、そこだけはブレちゃいけない。
この国を捨てるということは、今の自分を殺すということだ。
沢山の迷惑を掛けて、今尚、心配させてしまっているだろう、家族を捨てる。
自分の都合で命を与え、戦場へ向かわせた仲間たちを、見捨てる。
そんなの、許されない。例え誰かに許すと言われても、自分が許せない。
間違っていないはずだ。
色んな事を間違えてきた自分だけど、この選択だけは間違っていないと思える。
「その責任感は立派だと思うけどね。そもそも、“それ”は貴方が背負うべきものだったのかしら」
「……え?」
なのに。
Ms.フランは、ゆっくりと首を横へ振った。
「ご家族の事は、まぁ、普通に考えてそうなるでしょう。
希望するなら、全員分の席くらいは用意できるわ。救出もする。
でも、貴方が背負おうとしている“それ”は、この国に押し付けられたものじゃないの?」
「っ!」
反論、出来なかった。間違っているとは思えなかったからだ。
この“力”は小林 倫太郎によって付加された。
戦う義務は国によって強制された。
そして、“彼女たち”はその過程で産み出された、副産物。
能力者になる妄想くらいはしたが、心から願い、望み、得たものでは無い。
「本来なら負うべきでない責任を、貴方は無理やり背負わされたのよ。
貴方が大切にしようとしている“それ”は、本来持ち得なかったもの。
最初から持つべきじゃなかった。持ってしまったから苦しんでいる。
こう思えば、そんなしがらみなんて、簡単に捨てられるんじゃない?」
冷たく、突き放すような言い方が、胸を抉る。
分不相応なものを背負わされたせいで、自分は苦しんでいる。
これは、常日頃から、心の何処かで感じていた事だ。そうやって、無意識に言い訳を続けていた。
間桐提督に殴られたのも当然だ。
口に出さないまでも、自分は自分を憐れみ、謝って楽になろうとしていた。
自分は被害者だからと、逃げようとしていた。誠意の欠片もない。
見苦しい男。
(捨てるべき、なのか。あの子たちを縛り付けているのは、自分? 自分が、しがらみになっている……)
思考がグルグルと、暗澹な灰色に染まっていく。
持たざるべきだった“力”ならば、それによって呼び出された皆も、本来は別の誰かに付き従うべきだったんじゃないのか。
自分が呼び出したせいで、要らぬ苦労をかけ、服従させている。
だったら、自分なんて居ない方が、彼女たちは幸せになれるんじゃないのか。
そもそも、幸せに出来るのか。自分程度の男が。
何一つ、自分で選んでこなかった男が。誰かを幸せになんて。
(金剛。赤城。妙高。北上。イムヤ。鳳翔さん。……電)
閉じた瞼の裏を、見知った笑顔がよぎる。
思い出されるのは笑顔ばかり。
騒がしくも、楽しくて、ずっとこんな日々が……と、過ぎた事を祈ってしまう、温かさ。
右眼を開き、手を見る。
単なる八つ当たりで、車一台を破壊してしまった手。傷一つ付いていない。
そういえば、だが。間桐提督に殴られて、口の中を切ったはずなのに、ウイスキーを含んでも痛みがなかった。舌で探ってみても、傷は見当たらず。
治ってしまったのか。この短期間で。本当にもう、人間じゃないんだ。
こんな自分に、居場所なんてあるのだろうか。
ここに居て、良いんだろうか。
『司令官さん』
――と、そこまで考えて、なんとなく思い出した。
それは、意外なほど遠く感じる、あの日。
まだ先輩が隣に居て、電とも出会ったばかりだった、あの頃。
(……ああ、そうだ。“俺”は、何も出来ない“俺”が嫌で、だから“自分”になろうとして)
この手に触れた体温を、覚えている。
軍服の袖をつまむ、か弱い手を覚えている。
居場所を見つけようとして、料理に失敗して、泣いていたあの子を、覚えている。
押し付けられてばかりじゃない。
自分で選んだ事だってあった。いいや、自分は常に選んで来た。
その、最初の一歩は。あの子の居場所になりたいという、願い。
(どうして忘れていたんだ。こんなに大切な、最初の気持ちを)
ここで逃げ出したら、あの願いが嘘になる。
例えどれだけ間違っても、自分自身に嘘は吐きたくなかった。
自分がどんな存在だって、もう構わない。
大切なのは、どう在るべきかじゃない。自分がどう在りたいか。
ちょっとした事で迷い、躓いて、大切なものを見失う、情けない自分だけど。
あの人たちに。この命を繋いでくれた人たちに報いるためにも、こうするしかないと。
……違う。こうしたいと思えた。
もう一度、始めなければ。
今度こそ、己に恥じぬ“自分”となる為に。
「答え。見つかったみたいね? あーあ、この分だとフラれちゃったかしら」
拳を握りしめていると、不意に、横から溜め息が届いた。
そこにあったのは、酷く残念そうでありながら、とても嬉しそうな、矛盾した表情。
ああ、なんて事だ。結局、自分は最初から最後まで、Ms.フランの掌の上に居たんだ。
この人は信じてくれている。
見ず知らずの、会ったばかりの人間を、こんなにも。
どうしてかは分からない。ひょっとしたら、何か思惑があったのかも知れない。
でもきっと、それで良い。
どんな裏があろうと、彼女のおかげで、自分は最初の気持ちを取り戻せた。
感謝こそすれ、恨むなんて出来ようはずがない。
慈しみ、と呼ぶべきだろう気持ちに応えるため、自分は彼女へと向き直る。
「自分は――っ?」
その刹那、“何か”を感じた。
頭の奥がピリッとするような、奇妙な感覚。
これは……。近づいて来る? 何が?
勢いよく、スツールを倒しながら立ち上がると、Ms.フランが間を置かずマスターに目配せ。
カウンターの裏に設置されているらしい何かを操作し、彼は一つ頷いた。
「もう嗅ぎ付けられたみたいね。思っていたよりやるじゃない、あの坊や」
同じように頷き、腰を上げるMs.フラン。
嗅ぎ付けられたという事は、軍に見つかったのか。
坊や、というのは誰だか分からないが、とにかく行動を起こさないとマズい。
「どうするおつもりで」
「どうするも何も、八方塞がりかしら? けっこう行き当たりばったりな計画だったし、逃げ道も無さそう。投降するしかないわねー」
「……マジですか」
「マジマジ大マジ。ま、いきなり撃たれるってこたぁ無いでしょ。気楽に行きましょう? マスター、
「えええ……」
きっと秘策があるに違いない、と思っていたのだが、この人けっこうアバウトだ……。
まるで、居酒屋を後にするみたいな感じで出て行こうとしてるけど、ホントに良いのか?
途方も無い不安に襲われる自分だったが、地上に向かう階段へのドアを開けた所で、彼女はこちらを振り返る。
「そうそう。引き離されちゃう前に、一応返事を聞かせてくれない? 貴方、どっちを選ぶの?」
答えは分かってるけど……と、天邪鬼な笑顔。
どちらを選ぶか。亡命の是非の事だろう。
ああ、確かに。答えはもう決まっている。
自分が自分で居るために。
そして、“俺”を“自分”にしてくれた子たちと、共に居るために必要な答え。
「自分は……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ビルの谷間。
人一人がやっと通れる細い路地裏を抜けた先の、二~三坪ほどの袋小路に、多くの人間がひしめいていた。
路地の正面のコンクリート壁には、場違いな高級感を漂わせる、木製の扉がある。
インターホンも設置され、店に通じると知る者でなければ、怪しく感じてしまう事だろう。
それを取り囲むように、SMGを構えた黒服の兵士たちが十人ほど。
更にその背後には、彼らを指揮する軍人が二人。
梁島 彪吾と、“梵鐘”の桐谷こと千条寺 優介が居た。
厳しい眼差しに、微動だにしないアルカイックスマイル。
両極端な表情を浮かべる彼らは、扉の向こうにあるはずの店……。桐林と、彼を拐かしたイタリア軍人に投降を促すため、インターホンを通じた呼び掛けの準備をさせていた。
他の出入り口にも人員を配置してある。袋の鼠だ。
が、いざ兵士が勧告を行おうとした瞬間、内側からドアが開く。
「自ら出てくるとは、殊勝なことだな」
現れたのは、二人の男女。当然、桐林とフランチェスカ・ペトルッツィだった。
インターホンを操作しようとしていた兵士が離れ、一斉に銃口が向けられる。
しかしフランは意に介さず、梁島の言葉へ皮肉を返す。
「随分と偉そうな口を叩くようになったわねぇ。でも、その分だとまだ親離れはしてないのかしら」
「……貴様」
「梁島殿、落ち着いて。……葉桐さん。いえ、Ms.ペトルッツィ、でしたか。分を弁えて頂きたい。テロリストとして射殺されても文句は言えないのですよ?」
「貴方も相変わらずね、千条寺のお坊ちゃん。人形遊びは楽しい?」
一層顔を険しくする梁島に、目を細める桐谷。ボイスチェンジャーを使用しているらしく、声は重低音だ。
銃口を向けているのは彼らの側だが、フランの放った言葉こそ、銃弾に等しい威力で二人を貫く。
反論しようと思えば出来るだろう。けれど、怒りで目的を見失うような未熟者でもない。
梁島は矛先を変え、桐林へ目を向けた。
「貴様、何を考えている。この状況下で他国の工作員とつるむなど、国家反逆の罪に問われたいか」
よほど肝が据わった人物でもない限り、反射的に萎縮してしまいそうな、恐ろしく強い語気。
桐林はなんの反応も示さなかった。
身動きが取れないほど竦んでしまったか、敢えて無視しているのか。
後者と取った梁島は、兵士たちの一歩前へ。
「だんまりも良いがな。貴様の行動が、貴様だけに代償を求めると思うなよ。……貴様の家族、こちらが確保しているのだぞ」
舞鶴事変の際、疋田 蔵人が保護した桐林の家族は、現在、全員が軍の監視下に置かれている。守るためではあったが、同時に彼らは人質でもある。
桐林が祖国に反旗を翻した場合や、他国へ亡命する可能性が出た場合に、取引材料として使うためだ。
これは前々から計画されていた事であり、いざとなれば、政府は彼の家族へと、容赦なく危害を加えるだろう。
恐らく、殺しはしない。殺せば怒りが憎しみに変わる。
だが、障害が残る程度に痛めつければ、怒りと共に罪悪感を覚える。自分があんな事をしなければ、と。
無論、桐林が恭順の意を示すなら、そのような非道は行われない。
統制人格と馴れ合い、人間以上に大切にする桐林であれば、こう言えば逆らうという選択肢を選べないだろう。
梁島はそう判断し、外道に等しい脅しをかけたのである。
ところが……。
「まさかとは思いますが、それが脅し文句になると思っているんですか」
「……何?」
桐林はわずかに右眼を細め、冷たく吐き捨てるだけだった。
予想外の反応を受け、梁島の眉間にシワが寄る。
「舞鶴での戦いで、得た教訓があります。
それは……敵とはどこにでも存在し、いつ牙を剥くか分からないこと。
だからこそ、相対したら容赦をしてはいけない。完膚なきまでに、叩き潰す必要がある」
桐林は、己が手を確かめるように顔を伏せ、やおら歩き始めた。
不穏な気配を察知した兵士が二人、彼を拘束しようと詰め寄る。
「“ヤツ”は自分から大切なものを奪った。
だから、“ヤツ”を憎み、拳を振るった事に後悔はありません。
万が一、また現れる事があったとしたならば、何度でも同じ事をしましょう」
肩に手を掛け、腕を捻じろうとする兵士たち。
だが、出来なかった。まるで、鉄パイプでも曲げようとしているのではと、そう思わせる異様な硬さだった。
それだけでなく、歩みにも淀みが生じていない。
「でも、それは“ヤツ”が敵だからだ。大切なものを奪った、仇だったからだ」
大の大人二人を引きずり、桐林は歩く。
更に二人が加わり、背後からもまた一人、彼を引き止めようと纏わり付くが、止まる気配すら無かった。
成人男性の平均体重を七十五kgとして、装備や服を含めれば八十kg。単純計算で四百kgの重石を物ともせず、ついに梁島の眼前へと。
「梁島提督。自分の敵にならないで頂きたい。
今度は、何も分からずにではなく。己の意思で、“力”を振るいます。
たとえ相手が、どのような存在であろうとも」
両眼を見開き、桐林が梁島を睨み付ける。
縦に裂けた瞳孔の奥に、奇妙な光を宿す赤眼。
梁島は怯まなかったが、脇からそれを覗き込んでしまった兵士たちが、たたらを踏むように後退った。
脅迫に対して、桐林はこう返したのである。
もし、お前たちが大切なものを侵そうとするならば。
この国の敵になってやる、と。
梁島が鼻で笑う。
「稚拙な恫喝だ。貴様にそんな事をする度胸があるか?」
「度胸は、無いかも知れません。でも、二度とあんな思いをするのは嫌だ。瀬戸際に立たされたら、何をするか自分でも分かりませんよ」
せせら笑う梁島に、左眼を閉じた桐林も、歪んだ笑みを浮かべた。
まなじりが下がり、口端は逆に上がっている。
ごく普通の笑みのはずが、どこか、焦点を合わせられないような、狂いを感じさせる。
そうさせるのは異形の左眼か。あるいは、立ち昇って見えそうな戦意か。
己の不安定さを逆手に取った、示威行動。
少なくとも、梁島をして本気だと思わざるを得ない雰囲気があった。
「因果は巡る、ですか……。梁島殿、引きましょう。これでは私たちが悪者です」
「だが……」
「貴方も分を弁えなさい。貴方と彼、どこか違う所があるとでも?」
このままではマズいと判断した桐谷が、梁島の肩を叩き、やや強引に下がらせる。
桐林の前に立った彼は、意外にも最敬礼で謝罪して見せた。
「桐林殿、まずは謝罪を。ご家族のことを持ち出すのは卑怯でした。
私も家庭を持つ身。憤慨するお気持ちは分かります。
ただ、理解もして頂きたい。貴方はすでに、国一つ揺るがす存在なのですから」
梁島の取った行動は、桐林が国外へ向かうのを阻止するための、あくまで最終手段。
元よりそんなつもりは無かったと、桐谷がおためごかす。当たり前だが、本心ではない。
梁島に屈するなら良し。そうでなければ桐谷自身が前に出て、妥協案を示す腹積もりだったのだ。
どちらにせよ、桐林の身柄を保持したいが故の、苦肉の策である。
そんな桐谷を見やり、桐林はまた笑う。
不敵に。大きく。
「だったら、せいぜい揺るがしましょうか。Ms.フラン」
「はいはーい」
桐林が振り返りつつ、背後に呼び掛ける。
いつの間にか両脇を固められていた彼女は、身構える兵士を他所に、何処からとも無く小型通信機らしき物を取り出して、止める間も無くスイッチを入れた。
「ワタシ、フランチェスカ・ペトルッツィは、イタリア政府から桐林提督への公的援助を、正式に申し出るわ」
「受けます。どうか、戦争の早期終結に、ご助力願いたい」
形式張った受け答えは、打ち合わせ通りといった様子で、簡潔に終わった。
予想外だったのか、今度は桐谷の笑みが歪む。
「あ、貴方たちは、何を勝手に」
「何か問題でもありますか?」
「無いはずよ。表向き、彼の扱いは今まで通りで、正式なルートからも今頃、同様の文言が届いるはず。
彼はそれに回答したの。日本政府が公布する、デジタルタイムスタンプ付きの音声証文。無視できるかしら。
ああ、因みにだけど。この時間に作成された音声証文、三百件以上はあるはずよ。
買収するとして、時間と手間とお金は、どれだけ掛かるでしょうねぇ?」
余裕綽々なフランの態度に、彼女の用意周到さが伺える。
科学技術が進歩した現代では、人間の声も簡単に複製可能だ。
故に、デジタル音源の証拠能力は低くなりつつあるが、どうしても音声を記録し、証拠としなければならない場面もあった。
その場合、旧式のテープレコーダーなど用いる他にも、デジタルタイムスタンプという物が考案された。
国がインターネットを介し、標準時間と共に暗号化された情報鍵を公開。
同期した機器で録音する事によって、音声データに情報鍵を内包させ、一分毎に変化する暗号が、証拠能力を高めるのだ。
公平性を保つため、データは日本も参加する、国際司法機関運営のサーバーにも保存される。
国が総力を挙げない限り、改竄は不可能だろう。
加えて、日本政府は現在進行形で、管理体制の甘さを追求され続けている。
例えば、今回の録音データをイタリア側が公表し、日本側が捏造された物だと反論した場合。
デジタルタイムスタンプ自体は正式な物であるはずなので、国側が情報鍵を改竄するしかない訳だが、先程、フランは他にも音声証文が作成されたと言った。
おそらく、彼女が用意させた物も含まれるのだろうが、不特定多数の同一する暗号鍵と、国が用意した暗号鍵。人々はどちらを信用するだろうか。
軍部だけでなく、司法の分野でまで国民の信頼を裏切るような事は、流石に避けなければならない事態だ。
国家が一丸となって隠蔽を計れば、この場を凌げるだろう。
しかしそうなると、今後の諸外国との関係性が危ぶまれる事態となる。
勝手な都合で情報を改竄する国など、信用できるはずがない。
そして、隠蔽を計った場合、桐林はどちらに有利な証言をするのか。
イタリア側なら、正義を貫く姿勢で、多少なりとも世論を味方につけられる。協力者は必ず現れるだろう。
日本側なら、イタリアとの関係は危うくなっても、日本の尊厳を守ったという、大きな貸しを作れる。たとえマッチポンプであろうとも。
フランにとっては危険な賭けを含むが、桐林には、どう転んでも得にしかならないのだ。
「独断で諸外国と協定を結ぶなど、認められる訳がないでしょう。巫山戯るのも大概になさい」
「これをお巫山戯としか取れないなら、あなたはその程度の人間という事になりますね。……過大評価していたんでしょうか、自分は」
凄味を増した笑顔で詰め寄る桐谷だったが、桐林は彼を見上げながら、値踏みするように右眼を細めた。
独自に伊国との協力関係を結ぶ。
言ってしまえば簡単な事実だが、そう単純に片付けられる問題ではない。
国を相手取る約束事という物は、基本的にギブアンドテイク。表面上は一方的な支援に見えても、そこには必ずなんらかの代償が発生するものだ。
恩恵を受けるのが桐林だけであっても、彼が他国の援助を求めたという事実は、日本という国に大きな影響をもたらす。
我先にと、同じような協定が持ち込まれるかも知れない。代償として、桐林の遺伝子情報を要求される可能性は低くない。
申し込もうとする国同士が、日本国内で小競り合いをするやも。そうなれば、再びテロが起こる危険性を孕む。
だが、拒んでしまえば、イタリアだけでなく、EU諸国を敵に回す可能性すら。
仮に受け入れるとして、日本政府は大忙しとなるだろう。
そして、舞鶴事変を経て、新たに高い地位を約束された桐谷も、無関係ではいられないはず。
国葬を前に脱走を計った人間への、表立った処罰など、後回ししなければならぬ程に。
イタリア側との関係性を考慮すると、処罰らしい処罰すら与えられない事まで考えられる。
桐林の行動は、まさしく奇手。
ワイルドカードだった。
「ふふふ。怖い、怖いですねぇ。どうやら、虎の尾を踏んでしまったようで。
喰い殺されないうちに退散しましょう。細かい所を詰めなければいけませんしね。
一応、本日中には施設へ戻って下さい。それだけはお願いします。仕事が増えてばかりですよ、全く……」
ニコニコと、閉じる寸前まで目を細め、桐谷は背を向ける。
会話のイニシアティブを取られ、仕切り直しが必要だと判断した為だ。
細かい所を詰める、という部分を鑑みるに、桐林とイタリアの同盟、事後承諾されたようである。
未だ輸入がなければ立ち行かないこの国には、他国を軽んじる選択肢は無かったのだろう。
兵士たちもそれに続き、最後に梁島が、無表情で桐林を見つめた。
「どうして、お前には……」
そこまで言って、梁島は歯噛みし、踵を返す。
袋小路から、桐林とフラン以外の人影が消え去って一~二分。
桐林は突然、その場にへたり込んだ。
「っはぁあぁぁ……。どうにかなった……」
完全に気を抜き、疲れ切った情けない顔。
どう見ても、ワイルドカードを切った勝負師と同一人物とは思えなかった。
そんな彼に、フランが歩み寄って微笑む。
「お疲れ様。上出来だったわよ? あのとっちゃん坊やを狼狽えさせるなんて、誰にでも出来ることじゃないわ」
「……どうも。ハッタリや嘘ばかり上手くなって、不本意ですけどね」
自嘲するような桐林の笑みに、フランはその肩を軽く叩く。
彼女の協力があったとはいえ、交渉の場に於いて、千条寺家当主を引かせたという事実は、目覚しい成果である。
事、交渉に関しては、白黒ハッキリと勝敗が定まる事は少ない。
それどころか、全てを綯い交ぜに、灰色のまま決着がつかない事の方が多いだろう。
だが、場合によってはその曖昧な決着こそが、望むべき結果をもたらす事だってある。
桐林の狙いは、脱走者という現状を有耶無耶とし、かつ、今後も蔑ろにされないだけの理由を確保し、己の立場を未来へ繋ぐ事にあったのだ。
この情勢下で、イタリアとの同盟という奇貨を、使いこなしたのである。
(全く。あの人が放って置けないわけね)
彼は、答えを求めるフランに言った。
自分は両方を選ぶ、と。
『日本を選べば、飼い殺される。
かといってイタリアを選べば、仲間を捨てる事になる。
だったら、両方を選んで、両方を拒む。Ms.フラン。自分と、同盟を結んで下さい』
『両方? それはちょっと、欲張り過ぎないかしら』
『ええ、欲張りなんです。ついでに言えば独占欲も強い。
あの子たちは、他の誰にも渡しません。
その為ならなんだってしますよ。例え借り物の“力”でも、最大限利用します』
ほんの一年前まで、平凡な一大学生だった青年を、ここまで成長させた。いや、させてしまった。
相変わらずあの人は――吉田 剛志という人は侮れない。
けれど、同時に彼は危うい。
異常な成長を遂げた桐林は、目を離すと何をしでかすか分からない、そんな危険性すら持ち合わせてしまった。
これでは気になってしょうがない。
本当なら、彼という人物を見極め……。あの人の孫弟子に相応しくないようであれば、骨髄までを搾り取って、闇に葬ろうと考えていたのに。
そういう約束なのだ。
日本という国が暴走し、人に害を為さんとするならば、その時はおヌシの手で滅ぼしてしまえ、と。
それが、あの日。フランを見送りに来た……遅い初恋の人との、約束だった。
ひょっとすると、彼はここまで見越して居たのだろうか。
……あり得そうで、恐ろしい。
「なんですか?」
「いいえ。帰りましょうか、送るわ」
「お願いします。道、分かりませんから」
不思議そうに、己を見つめるフランに問いかける彼へと、手を差し出す。
握り合ったそれは、互いの体温を確かに伝え合う。
いつからか、雨は止んでいた。
ビルの谷間に居る彼らは見る事が叶わないだろうが、空には薄く、虹も架かっている。
決して手は届かないけれど、確かに見ることの出来る、淡い虹が。