薄く張った氷は、たやすく砕ける。
張り詰めた風船は、いずれ儚く割れ消える。
だからこの日が来たことも、ただの必然だったのだ。
だって彼らは今まで、それから目を逸らし続けていただけなのだから。
「どうしたの東郷。私たちに話って。」
十月を間近に控えたある日の週末。
東郷に呼び出された紘汰と風、それに友奈は東郷の部屋に集まっていた。
呼び出した当の本人から、要件は告げられていない。
しかし、集められたメンバーがメンバーなだけに、その内容はなんとなく察することだけはできる。
部屋について早々、話を切り出したのは風だった。
内心はどうあれ、努めて明るいいつもの調子できっかけを作った風の言葉に、東郷はわずかに瞑目すると
「三人に、見てもらいたいものがあって。」
と、車いすを動かして自身の学習机のもとへと向かった。
その背中を前に困惑を隠せない紘汰は、何か聞いてないかと友奈の方に視線を向ける。
しかし、友奈ですら内容については聞かされていないようで、紘汰の問いかけるような視線に、友奈はただ首を横に振るだけだった。
カタン、と軽い音を鳴らしながら引き出しから何かを持ち出した東郷は、未だ戸惑ったままの三人の方へと向き直る。
東郷が取り出したのは、短い長さの棒…のように見える。
長さ30センチ程度のその棒には、黒い下地に金の装飾。そして小さく青い花が彫られていた。
自身の目の前にその棒を突き出した東郷に、三人は一層首を傾げた。それが、東郷の見せたいものだという事なのだろうか。
そんな三人を前にして、東郷は何も言わず空いた右手を棒の端に添える。
チャキリ。と一つ音がして、その中から鈍色に光る刀身が現れた。
「!オイ、東郷!!!」
嫌な予感を感じた紘汰が、東郷に向かって駆けだした。
しかし、いくら紘汰の身体能力をもってしてもその位置からでは届かない。
露わになった刀身を、東郷は自分の首筋に向け、思い切り押し付けて―――
次の瞬間。青い光と共に現れた青坊主が、刃の間へと割り込んでいた。
「馬鹿野郎!!お前、何やってんだ!!!」
目の前で起きようとしていた最悪の未来が回避されたことに安堵したのも束の間、すぐさま我に返った紘汰が東郷の手から短刀をもぎ取った。
特に抵抗するでもなく紘汰の手に短刀を渡した東郷の目は不自然なほど静かで、しかしその奥に僅かに見えた暗い空虚が紘汰の背筋に冷たいものを感じさせる。
「あ、あんた今!精霊が止めなかったら「止めますよ。精霊は確実に。」…え?」
紘汰の次に忘我から抜け出した風が詰め寄る言葉に被せるように東郷が言い放った言葉。断定するようなはっきりとしたその言葉に風は勢いを止められていた。
「私はこの数日間、十回以上自害を試みてきました。」
「なっ…!!」
そしてその次に東郷の口から出てきた言葉に、今度こそ三人は言葉を失った。そんな三人の様子を気にも留めず、僅かに俯いた東郷は尚も話を続ける。
「切腹。首吊り。飛び降り。一酸化炭素中毒。服毒。焼身…そのどれもすべて、精霊に止められました。」
まるで他人事のように淡々と東郷は語る。
その表情からは、どんな感情も読み取れない。
ただただ事実を並べるように、とても信じられないようなことを東郷は口にしていた。
「何が…言いたいの…?」
風がかろうじて絞り出した言葉は、とても弱々しかった。
カラカラになった喉がひりついて、僅かに痛みを訴えている。
風は瞬きも忘れて東郷の次の言葉を待った。
でもそんなこと、聞かなくても本当はわかっている。
でも、それでも―――
「今私は、勇者システムを起動させてはいませんでしたよね。」
「あっ…そういえば、そうだね。」
「それにもかかわらず精霊は勝手に動き、私を守った。精霊が、勝手に。」
「だから…何が言いたいのよ東郷!!」
語気を荒げる風に対し、あくまで東郷は冷静だ。
冷静に、誰にとっても――自分にすらも、残酷な事実と推測を告げる。
「精霊は、私たちの意志とは関係なく動いている。という事です。…精霊は、あくまで私たち勇者の戦う意思に呼応して私たちを助けてくれる存在だと、そう思っていました。でも違った。精霊の行動に私たちの意志など関係ない。それに気づいたら、この…精霊というシステムは―――」
勇者を、縛り付ける存在だと思えたんです。
東郷がそう告げる中、紘汰、友奈、風の三人はいつの間にか現れていた東郷の精霊たちを見た。
精霊たちは当然のように何も言わず、ただそこに浮いているだけだ。
いつもそばにいて、守ってくれて、でも時々手を焼かせて。
それが、一体何のためだったのか。
「で、でも!守ってくれるなら、悪いことじゃないんじゃないかな!」
「…そうね。それだけなら悪いことじゃないのかもしれない。でも、精霊が勇者の死を阻止するものだとしたら…乃木さんの、言っていたことは…。」
「勇者は…決して死ねない…。そして、その代償は………。」
「戻らないって…そういう事なのかよ…っ!!」
勇者の不死性。そして満開の代償。
あの日、乃木園子が語ったこと。誰もが信じたくないと目を逸らした勇者の真実。
今、東郷が行った『検証』によって、少なくとも半分は正しいということが証明されてしまった。不確かな情報が、確かな事実へと変わってしまった。
「ちょっと待てよ。だったら…それじゃあっ!!」
「そう。乃木園子という前例がある以上、大赦がそれを知らないはずはない。大赦は勇者システムの代償について、知っていて私たちに隠していた。私たちは何も知らされず、ずっと…騙されて…。」
後ろから聞こえた大きな音に、ずっと東郷の方へと視線を向けていた紘汰はすぐさま振り返った。音が聞こえた場所、自分の背後にいたのは―――
紘汰が向けた視線の先、そこに見えたのは膝から崩れ落ちた姉の姿だった。
何かを考えるよりも先に駆け寄り、倒れそうなその体を抱き留めた紘汰に風はなんの反応も示さない。
普段の姿は見る影もなく、ただ、その大きな瞳から大粒の涙をとめどなく溢れさせていた。
「姉ちゃん!おい姉ちゃん!!」
「じゃあ………樹の…樹の声は…もう、二度と…。私…なんで…。そんなこと、知らなかった…知らなかったのよ…!体を捧げて戦う…それが勇者…。私が樹を…あなた達を勇者部に入れたせいで…!!…なんでそんなこと、知らなかったの…?」
血を吐くような慟哭と懺悔が、部屋の中に響いていた。
涙を流し続ける姉の体を、紘汰はただ抱きしめてやることしかできなかった。
「紘汰くん…その…風先輩は…。」
「友奈、俺は姉ちゃんを家まで連れていく。だから東郷のこと、見てやってくれ。…ごめんな。今回のことはお前だって…。」
「…わ、私は大丈夫だよ!だから、紘汰くんは風先輩のこと、しっかり休ませてあげてね。」
「ありがとう友奈。それじゃあ、落ち着いたらまた連絡するよ。」
そう言って友奈と別れ、風を連れて家へと向かう。
風は心ここにあらずといった様子で、時折何かを呟きながら危うい足取りで歩いている。
時々躓きそうになるので、紘汰は風の肩を抱きながらゆっくりと並んで歩いた。
今、家に樹は居ない。
朝から定期健診があり、その後はクラスメイトと遊びに出かけるといっていた。
あの歌のテストの後ぐらいから急速に仲良くなった子たちだ。樹がああなってからも、変わらず樹に接してくれる、とてもいい子たちだった。
ともかく、樹がいないことは今に限っては幸いだ。風の今の姿を見せるのは、樹にも風本人にもあまり良いとは思えない。
限界だ。
もう、誰もが限界だった。
横を歩く風も、さっき別れた友奈と東郷も、そしてここにいない二人も。―――勿論、紘汰自身すらも。
今、横にいる風と、東郷は特に危険だった。
風の様子は今更言うまでもない。
そして東郷は、一見冷静なように見えてはいる。
冷静に、事実を確認し状況を整理して結論を出しているように見える。
だがしかし、例え精霊が止めるという確信があったにせよ、
紘汰が愛し、守りたいと強く願った日常が壊れかけている。
同じものを守りたいと、恐怖に耐えて一生懸命戦った彼女たちは今、敵ではなく自分たちの力であるはずのものに壊されようとしていた。
報われて然るべき彼女たちの献身は、清廉な心は、無残にも踏みにじられた。
誰かの為に頑張れる、勇気ある心を利用された。
治ると信じて頑張る樹と、それを本気で応援してくれている夏凜の姿が、浮かんできた。
空虚さを感じさせる東郷の目と、隠しきれない不安を抱えながら無理に笑う友奈の顔が、浮かんできた。
そして紘汰の腕の中では、いつも紘汰達兄妹の姉として、そして親代わりとして家族を支え続けてくれた風が泣いている。
怒りと悔しさで、明滅する視界。
今にも叫びだしたくなるほどの感情の奔流を、紘汰は今にも砕け散りそうなほどの力で歯を食いしばることで堪えていた。
心のなかで生まれた激情は行き場を求め、そして一つの場所へとたどり着く。
紘汰の大事な人たちを、ここまで追い詰めたのは―――
(姉ちゃんを騙して、皆を利用して傷つけた。どんな理由があったかなんて関係ない。―――大赦。俺は、お前たちを…絶対に、許さねぇ…!!)
普段の倍以上の時間をかけマンションへとたどり着いたころには、風の涙は止まっていた。いや、今の風の様子を思えば、枯れてしまったという表現の方が正しいだろう。
未だ茫然自失といった状態の風の手を引き、リビングに座らせる。
とてもじゃないが手慣れたとは言い難い手つきで湯を沸かし、風用のマグカップにティーパックの紅茶を注いだ。
すこしでも落ち着いてくれたら…と思っての行動だったが、風は相変わらず何の反応も示さず、ただぼぅっと正面を眺めているだけだった。
とにかく今は、休息が必要だ。
紘汰は風の手を取り立たせると、そのままもう一度手を引いて風を彼女の部屋まで連れていく。
風は紘汰に促されるまま体をベッドへと横たえると、やがて意識を失うように目を閉じた。
静かに寝息を立て始めた風の体に布団をかけてやった紘汰は、風の目尻に残った涙の跡を優しく拭ってから玄関へと向かった。
そしてそのまま外に出た紘汰の表情は、さっきまでの家族を気遣う弟の表情などではなく、ただ強い怒りに染め上げられていた。
蹴りつけるような勢いでペダルを回す。
普段から碌に整備もされていない紘汰の自転車は、無茶な負荷に抗議するかのようにギシギシと軋み音を立てていた。
しかし紘汰はそれを無視するように、いやむしろ壊れても一向にかまわないというように更に足に力を込めた。
競技用でもない自転車が、すさまじい勢いで街中を駆け抜ける。
―――直接、問い詰める。
あの状態の風を置いて一人こうして外に出てきたのは、偏にそのためだった。
紘汰は大赦に連絡する術を持っていない。また、大赦がどこに拠点を構えているのかもわからない。
だがしかし、
だから紘汰は、それだけを頼りに一度行ったことがあるだけのその場所へと自転車を走らせる。
そうして走ること数十分。紘汰は遂に目的の場所へとたどり着いた。
相変わらずボロボロなその建物の前で、乗り捨てるように自転車から飛び降りた紘汰は、そのままの勢いで中へと突き進む。
目指す場所は一番奥。そこに続く一本道を、散らばるごみを蹴散らしながら走り抜けた。
やがて目的の場所へとたどり着き、そこにあったのは見覚えのある錆の浮いた鉄の扉。
紘汰はそれを、一切の躊躇なく蹴破るような勢いで開け放った。
「戦極、凌馬―――!!!」
開口一番、そこにいるはずの人物の名前を叫ぶ。
今日ここに、この時間にいるなんて保証はどこにも無かった。
しかしそれでも紘汰は、その男がここにいることを半ば確信していた。
そしてその確信は違わず、飛び込んだ部屋の奥には―――
「おや、騒がしいと思ったら君か犬吠埼紘汰くん。全く、ノックもせず入ってくるだなんて、随分とマナーがなっていないじゃないか。」
戦極凌馬が、いつものように薄い笑みを貼り付けて座っていた。
大赦絶対許さねぇ!!
ようやく言わせることができた第36話です。
日常は遂に破綻を迎え、お話はいよいよクライマックスへ。
次回はその第一歩。プロフェッサー劇場の開幕です。