「―――汰、紘汰!…もういいわ、ありがとう。」
どのくらいそうしていただろうか、暗闇の中で聞こえてきた優しい姉の声に紘汰はゆっくりと目を開いた。
開いた目に真っ先に映ったのは、光に呑まれる前と変わらず自分の腕の中にいる風と樹。
大事な家族がちゃんとそこにいることに、紘汰はひとまず安堵の息を吐き出した。
「二人とも無事か?」
「う、うん。でも、ここは…?」
紘汰に続いて目を開いた樹が、怯えた様子で辺りを見回しながらそう呟く。
それにつられてようやく周囲に視線を向けた紘汰は、そこに広がっていたありえない光景に思わず息を飲み込んだ。
「どう、なってんだ?さっきまで学校にいたはずじゃ…?」
さっきまでの日常の風景は見る影もなく、そこにあるのは視界を埋め尽くすほどの樹木たち。
しかし勿論、それは普通の樹木ではない。
自然界ではありえないような色彩の木々が複雑に絡み合い、ある種幻想的な風景を生み出していた。
これは、あえて言うならば―――
「ここは樹海。神樹様の結界の中よ。」
単語が紘汰の中で明確に形になる直前で、風が静かに解答を口にした。
樹海。そう、樹海だ。
確かにこの場所を言い合わらすのであれば、樹海としか言いようがない。
さっきまで学校の校舎にいたはずの自分たちがなぜこんな所にいるのかは、わからないが。
「お姉ちゃんは知ってるの…?結界って何…?」
「………。」
樹の質問に答えず、風は周りを見回していた。
風の緊迫した表情に、紘汰と樹の困惑は増すばかりだった。
これまでの事だってまだ飲み込めてはいないのに、これ以上の何かがあるというのだろうか。
「どうやら、まだみたいね。樹、紘汰。悪いけど質問は後。まずは友奈と東郷を探すわよ。」
「そうだ…あの二人!あいつらもここにいるのか!?」
「ええ、このアプリで…よし、近いわね。二人ともついてきて。」
そう言って風は、スマホの画面を見ながら歩き出した。
しかし、紘汰と樹はすぐにその後をついていくことができなかった。
自分たちが知らないことを知っているらしい姉のことが、なんだか別の人のように見えてしまったから。
不安そうにこちらを見上げる樹の手を、紘汰はそっと握ってやる。やはり怖いのだろう、すぐさま握り返してきた樹の手は少し震えていた。
聞きたいこと、話したいことがたくさんある。この場所の事、そして自分たちの知らない姉の事。
でも今は確かに残りの二人を見つけることの方が先決だ。
そう頭を切り替えた紘汰は樹を安心させるようにあえて明るく笑って見せると、その手を引いて歩き出した。
木々が少し開けたその場所で、東郷を守るような位置に立ちながら友奈は緊張した面持ちで周囲を見渡していた。
突然巻き込まれた異常事態。勿論、恐怖がないわけではない。
しかし、自分以上に怯える東郷の存在が、ギリギリの所で友奈の心を奮い立たせていた。
教室から出ていった紘汰の事。そしてその紘汰が探しに行った風や樹の事。気がかりなことはたくさんあるが、この状態の東郷を連れて何があるかわからない所を探索に行くわけにも行かない。
時間だけが刻一刻と過ぎていく状況に友奈が焦りを覚え始めたとき、近くで聞こえたガサリ、という音に友奈の体はびくりと飛び上がった。
ガサガサという物音が、徐々にこちらに近づいてくる。
喉はカラカラに乾き、冷たい汗が頬を伝った。
いつの間にか制服の袖を掴んでいた東郷の手に自分の手を重ねながら、大丈夫だよと無理やり作った笑顔を向ける。
ひときわ大きい音が響き、その向こうに黒い影が見えた。
友奈は覚悟を決めて、重ねた手を強く握った。大丈夫。何があっても絶対に一緒だから。
物音はもうすぐそこ。そして―――
「―――友奈!東郷!無事だったか!!」
あらわれた見慣れた顔に、一気に全身の力が抜けた。
木の影から姿を現したのは、今更言うまでもなく紘汰だった。そしてその後ろには、風と樹の姿も見える。
安心したやら拍子抜けしたやら、色んな感情が混ざりあって友奈の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
そしてそんな友奈の元へ、紘汰が心配そうな表情を浮かべながら歩み寄ってくる。
「友奈…?大丈夫か?どっか怪我してたりとか…。」
こちらの気も知らず、そんなことを言ってくる紘汰。
でも、それも仕方のないことかも知れない。だって、友奈自身ですら気持ちの整理がついていないのだから。
で、そんな状態で不用意に近づいてくるものだから、正常な行動を取れなくなるというのも無理からぬこと。
具体的に言えば、緊張の糸が切れた友奈が紘汰に思いっきり抱きついたのだ。
「うわ~ん!紘汰くん!」
友奈の突然の行動は、紘汰をさっきまでとは全く別の理由で慌てさせるのには十分だった。
異常事態の中とはいえ紘汰も思春期の男の子だ。樹相手ならばいざ知らず、同級生の女の子に突然抱きつかれて動揺しないはずもない。
咄嗟に抱きしめ返すなんてことが当然できるわけもなく、両手を中空に彷徨わせたままたっぷり数秒フリーズして、ようやく絞りだすように声を上げた。
「お、おい友奈!落ち着けって!」
「え?あ、ご、ごめん!」
上ずった紘汰の声にようやく我に返った友奈は、自分の行動に気がつくとパッと体を離してあまりの恥ずかしさに縮こまった。
よりによって皆の前で。
そう思えば思うほど顔が熱くなっていく。
依然として変わらぬ状況ではあるが、お互いに気まずそうに顔をそむける二人の間にはほんのわずかにいつもの空気が戻ってきているようだった。
「これ、部に入るときに風先輩に言われてダウンロードしたアプリですよね。風先輩、何か知っているんですか?」
その後、ひときわ大きな樹木の陰へと場所を映した勇者部一行は、唯一この状況を把握しているらしい風の話に耳を傾けていた。
先ほどの発言は、合流できた方法を説明する際に風が見せたスマホの画面を見た東郷の口から出た疑問である。
風が見せた画面には、この場所を表しているらしい図と、その中にあるそれぞれの名前が書かれた色の違う点が表示されていた。
それはいわゆるマップ機能であるのだろうが、こんな場所で通常のマップが機能するなど正直言って考えにくい。
それに加えて不思議なのは、それを表示させるために風が起動させたアプリである。
それは東郷も言った通り、勇者部発足時に連絡用にと風の勧めで入れたアプリであり、ごくごく普通のメッセージアプリであったはずだった。
普段であればメッセージのやり取りかあるいは通話程度の機能しかないはずのそれに、明らかに別の項目が増えているのだ。
「…そうよ。この状況に陥った時に自動的に使えるようになる裏機能。」
神妙な様子の風が放った言葉に、皆の混乱は増す一方だった。
だって風の言ったことが本当ならば、このわけのわからない状況が
不安の色を隠せない皆の顔を、風はゆっくりと見回した。
突然こんな場所に連れてこられて、そして突然こんな話をされて、皆がどれほど怖がっていることだろうか。
部長として、年長者として。…そして何より指示とはいえ実際に引き込んだものの責任として、しっかりと話さなければならない。
罪悪感を押し殺すように僅かに目を伏せた後、風は意を決して口を開いた。
「皆、落ち着いて聞いて。私は、大赦から派遣された人間なの。」
大赦。
その名前を知らない者は、四国にはいない。
だがしかし、それが具体的に何をしている組織なのか明確に知っているものはそう多くはない。
それは勿論、この場にいる風以外の面々も同じだった。
「大赦って…。」
「神樹様を奉っているところでしたよね。風先輩は、そこから特別なお役目を頂いているということですか?」
東郷の疑問に、風が頷く。
そんな二人のやり取りに誰よりも驚いているのは当然、紘汰と樹。風の、たった二人だけの家族。
「でも、ずっと一緒にいたのに、そんなこと初めて聞いたよ…?」
「あぁ、俺もだ…。」
「当たらなければずっと黙っているつもりだったからね。でも、いくつもあるグループの中で、私たちの班が当たりだった。」
東郷の方へ顔を向けたまま、風は少し早口でそういった。
二人から顔をそむけているのは、ずっと秘密にしてきたことに対する罪悪感からだろうか。それは風本人にしかわからない。
今日これまで、紘汰も樹も本当にそんなこと聞いたことがなかった。
それほどまでに普段の姉の口からは、大赦のたの字すら出たことはい。
だが、これでようやく一つ得心がいった。
姉が時々見せる思い詰めたような表情はきっと、これが原因だったのだ。
そんな秘密を、これまでずっと誰にも―――家族にすら話せずに隠してきたのだ。
それはどれだけこの姉を苦しめていたのだろうか。
「紘汰達にはさっき少し話したけど、今見えているこの世界は神樹様の結界なの。神樹様に選ばれた私たちは神樹様の力でここに飛ばされてきた。本来このお役目は、この年代の女性が承るものだから、なんで紘汰まで巻き込まれたのかはわからないけど…。」
その風の言葉に、紘汰に注目が集まった。
そして紘汰も、内心でもう一つ納得していた。1年の教室の前で二人に合流したあの時に、風が浮かべていた表情の意味はそういうことだったのか。
「そういえば紘汰くん。その、腰のそれは何?教室からずっとつけてたみたいだけど…。」
そんな中、紘汰の腰に巻き付いた黒い機械を指さして友奈がそう言った。
皆の視線が集まる中、そういえばと紘汰は腰の前にあるそれへと手をかける。
これが腰に巻きついてから畳みかけるように色んな事がおこりすぎて、今友奈に言われるまですっかり忘れてしまっていた。
少し引っ張ってみたものの、相変わらず外れる様子はない。
それはもうひとまず諦めることとして、紘汰は今朝あったことをかいつまんで皆に説明した。
「見たことのない妙な男ね…もしかしたら大赦の関係者かも。紘汰がここにいるのも、それの影響なのかしら…。」
実のところ風自身、大赦という組織について知っていることは少ない。
何人か顔見知りはいるものの、紘汰の話した特徴に合致するような人物について心当たりはなかった。
その人物が大赦の人間だったとして、なぜ風ではなく無関係であるはずの紘汰に接触してきたのだろうか。
そこまで考え始めたところで、風は頭を振ってその思考を追い出した。
気になるのは勿論だが、それは後で確認するとしてまずはこの状況を何とかすることが重要だ。
「話がずれてしまったけれど、神樹様に選ばれた私たちはここで敵と戦わなければならないの。それが、このお役目の内容よ。」
そこまで言って小さく息を吐いた風を前に、部員たちは首をかしげるばかりだった。
”敵と戦う”だなんて急に言われても、そんなこととてもじゃないが現実の話とは思えない。
だがしかし、そんな言葉を放った風の表情は真剣そのもの。とても冗談を言っている雰囲気ではない。
例えそれが本当なのだとしたら、こんな特殊な状況の中で自分たちが戦う敵とはいったい何なんだろう。
誰もがそう思ったとき、自分のスマホを見た友奈が目を見開いて、少し震えながら画面を皆の前に差し出した。
「あの…私たち以外のこの点。この点ってなんです?紘汰くんってわけでもないと思うんですけど…。」
友奈が指し示す画面の中。紘汰以外の4人の現在地を示す小さな点が表示されていたそこに、新たな点があらわれている。
新しくあらわれたその大きな点は、結界の境界線の方向からゆっくりとこちらに近づいてきているようだった。
「『乙女型』…?」
それが何を表しているのか、友奈たちにはわからない。
しかし、それを見た風の反応は劇的だった。
はじかれるように顔を上げ、点が表示されている方向をにらみつける。
「…来たわね。」
「え?」
風がにらみつけるその先。樹木の隙間のその奥に、『何か』が姿を現していた。
ぼろきれのようなものを羽織った、曲線的なフォルムの巨大な『何か』。
白と桃、二色で構成されたそれを、なんと言い表せばいいのだろうか。それを表現する言葉を、誰もが持ち合わせてはいなかった。
だがそれでも、これだけはなんとなくわかる。あらわれたそれは、この異常な世界においてすら明らかな異物であった。
「あれは『バーテックス』。この世界を殺すために天の神から遣わされた、私たち人類の敵。」
「世界を…殺す…?」
スケールが大きすぎてよく呑み込めない。
『結界』だとか『敵』だとか『世界』だとか…そしてなぜ自分たちがそんな状況に巻き込まれているのか。
だって勇者部の部員とはいえ、今日まで確かに自分たちは普通の中学生だったのだから。
「奴らの目的は、この世界の核である神樹様にたどり着くこと。奴らが神樹様にたどり着いたとき、この世界は終わる。それを止められるのは、私たちしかいない。」
「私たちしかって…。なんだよ世界って!なんで姉ちゃんたちがそんなこと!」
「この日に備えて、大赦は極秘裏に適正検査を実施していた。その中で最も適性が高かったのが私たちなの。」
「だからって…。いきなり戦えって言われたって…。」
そういってうつむく東郷ははっきりと震えていた。
それを横目に、風は言葉を続ける。
「戦う方法はあるわ。そのために用意されたのが『勇者システム』。戦う意思を示せば、このアプリの機能で私たちは、神樹様の『勇者』となるの。」
皆が一斉に自分のスマホを見る。
紘汰を除く3人の画面には、いつの間にかそれらしきものが表示されていた。
もし、風の言う通りなら、確かに戦う方法はあるのだろう。
だが、だからと言って戦えるかどうかは別の話だ。
誰もが画面を見つめながら動き出せないでいた。
「あれ、何…?」
東郷の声に、皆が一斉に彼女の見つめる方向を見る。
視線の先には、先ほどよりも徐々にだが確実に近づいてきているバーテックスの姿。
そしてその本体下部、短いしっぽにも見えるその先端に光が集まっている。
あれは、まさか―――
「ヤバい!あいつ、こっちに気づいてる!」
風が皆を逃がそうと声を上げたその瞬間、光の塊は発射された。
放物線を描きながら飛んでくるその光は、紘汰達の居る場所にまっすぐ飛んでいき―――
着弾、爆発。
風が樹を、紘汰が友奈と東郷を咄嗟にかばう。
その直後、凄まじい砂塵と衝撃が5人の体を呑み込んだ。
間近で発生した衝撃に体全体が大きく揺さぶられ、視界はチカチカと明滅する。
誰かが上げた悲鳴さえ爆音の中に呑み込まれ、誰の元へも届かない。
そして爆発が起こって数秒。
砂塵が晴れた時、5人の視界に飛び込んできたのは自分たちのいる場所の数メートル先で絡み合っていた木々が消し飛んでいる光景だった。
目の前で現実に起こったこと、そしてそれがもたらした結果に全員が息を呑み込んだ。
着弾点は少し離れていたため、衝撃はあったが今の攻撃で怪我を負ったものは誰もいない。
しかし、体は無事でも心はそうとは限らない。
先ほどよりもより鮮明に感じられた『死』の予感に、東郷の心は完全に折れてしまっていた。
「無理よ、戦うだなんて…あんなの…殺されちゃう…。」
震えながらつぶやく東郷に、誰も何も言うことができなった。だって皆多かれ少なかれ、同じ気持ちだったから。
そんな後輩たちの姿を見て、風は最後の覚悟を決めた。
この子達は、何も知らずに巻き込まれた。…私が巻き込んでしまった。
だから私が―――皆を守るために、私が戦わなければいけない。
自分のスマホを強く握りしめ、風は紘汰の方を向く。
紘汰もまた、他の皆と同じく爆発の跡をじっと見つめていた。
平静を装おうとして強張った紘汰の顔。そこに僅かに浮かんだ恐怖の色を姉である風は見逃さなかった。
初めて見る弟の表情に、風の胸に罪悪感が募る。
誰に似たのか人一倍強がりで危なっかしい所もあるけれど、家族の前ではどんな時でも前向きに明るくふるまおうとする自慢の弟。それでもやっぱり、命の危険を前にして平気でいられるわけがない。
けれどこれから言うことは、紘汰にしか頼めないことだ。
「紘汰。皆を連れて逃げて。あいつは私が何とかするから。」
「な…っ!?」
風の声に我に返った紘汰は、信じられないといった面持ちで風の顔を見返した。
紘汰がこう言って素直に聞ける性格じゃないことは重々承知している。だから次にどんなことを言うのかも風にはなんとなくわかっていた。
「何言ってんだ!そんなの姉ちゃんだけに任せられるわけないだ「あんたにはっ!!」―っ!?」
だから風は、予想通りのその言葉を強い口調で遮った。
そしてそのまま、あえて突き放すように言葉を続ける。苦悶に歪んだ弟の顔を、なるべく見ないように目を背けながら。
「…あんたには、勇者システムは使えないのよ。あんたが私と一緒に来たところで、やれることは何もないの。」
「それ、は…でも…っ!!」
それだけ言っても尚、紘汰は食い下がろうとする。
それも当然だろう。紘汰は昔から人一倍家族や周りの皆を守りたいという気持ちの強い子だったのだから。
だがしかし、それは風だって同じだった。
だからそれがどれだけ紘汰を傷つけることになったとしても、譲ることなどできはしない。
「お願い紘汰。ここは私に任せて、あんた皆を守ってあげて。ほら、樹も…樹…?」
そこで風にも予想外のことが起きた。逃げろという姉の言葉に、樹が首を横に振ったのだ。
怖くないわけではないということは、何よりもその表情が物語っていた。
しかしたった一つ、いつもと違っていたのはその目。いつも自身なさげなその目には、強い意志の光が宿っていた。
恐怖を超えるその意思で、樹は真っ直ぐに風の目を見つめていた。
「嫌。私はついていくよ。勇者になれば、お姉ちゃんを助けられるんでしょ?」
「樹、お前まで!」
予想外の樹の行動に、紘汰が悲痛な声を上げた。
しかし樹はそんな兄に向かって、穏やかに微笑んで見せる。それは樹がいつも二人にやってもらっている、誰かを安心させるための微笑みだった。
「大丈夫。お姉ちゃんは私に任せて。お兄ちゃんは、二人をお願い。」
「樹…。」
樹の決意に、風はうれしいような、苦しいような表情を見せる。
樹が戦いに巻き込まれることも覚悟はしてきたつもりだった。それでも、自分で巻き込んでおいて何を今更という話だが、できることならば紘汰と一緒に逃げてほしいと思っていたのも偽りのない風の本音だった。
逡巡は一瞬。
樹の視線に頷きでもって応えた風は、樹とともに自分たちの敵へと向き直る。
「姉ちゃん、俺は…。」
覚悟を決めた二人に、紘汰は何も言うことができなかった。
何もできない自分への悔しさで、震えるほどに握りしめられた拳からは血が滲み始めていた。
そしてそんな弟を、風は優しく抱きしめる。
「大丈夫。あんたがすごい奴だってことは、私がちゃんとわかってる。だからあんたに任せるの。私の大事な後輩を…どうかお願いね、男の子。」
こんな時でもやっぱり風は偉大な姉だった。
その姉の期待に、応えなければならない。今の自分がするべきことは、こんなところで駄々をこねていることではない。
握りしめていた拳をゆっくりとほどき、紘汰は風を強く抱きしめ返した。
掌についた血が風のカーディガンを赤く濡らすが、そんなことを気にするものはここにはいない。
「…わかった。絶対に死んじゃだめだぞ姉ちゃん。樹も。」
「あったり前よ!あんたのお姉様を信じなさい。それに、可愛い妹がついてくれるんだから、今日の私は絶対無敵!この日のために鍛えた女子力、見せてやるわ!」
「お兄ちゃんも、気を付けてね。」
そういって、犬吠埼家の兄妹たちは分かれた。
姉と妹は敵へと向かい、弟は守るべき仲間のもとへ。
「行こう友奈。東郷は俺が運ぶ。東郷、少し荒っぽいけど我慢してくれ。」
「紘汰くん…。」
気遣うような表情を見せる友奈と、うつむきながらも小さくうなずく東郷。
東郷の車いすのハンドルを握った紘汰は、振り返ることなく駆けだした。
何も言わず走っていく紘汰に僅かに遅れ、その少し後ろを友奈がついていく。
激情を押し殺したようなその背中に何か言おうとして、結局何もいえなかった。
そして友奈は、前から零れてくる水滴に気づかないふりをした。
「…行ったわね。樹、そろそろ私たちも行くわよ。ちゃんと、ついてきてね?」
「わかってる。いつでもいいよ、お姉ちゃん。」
3人が去っていく足音を背後に聞きながら、風は気合を入れなおした。
スマホを取り出し、勇者システムを起動させるためのアプリを開く。
戦う意思。
必用なものがそれであるというならば、今の自分に不足などあるはずもない。なんせ弟の前であれだけの大口を叩いたのだから。
そんな風の意志に応えるように、画面にあらわれたつぼみはいつの間にか鮮やかな黄色い花を咲かせていた。
何かが変わる予感がする。高揚とも、不安ともとれるその感覚を振り切るように風はその花を勢いよくタップした。
その瞬間、花がはじけた。
はじけた花は光となって広がり、風の体を覆いつくす。
風を包んだその光は神樹様の力そのものだ。その光が普通の少女を神樹様を、そして世界を守る勇者へと『変身』させる。
やがて二つの光が大きくはじけ、中から二人の勇者が姿を表す。
光の中からあらわれた風と樹はそれぞれ黄色と緑色を基調とした勇者服に身を包んでいた。
変わってしまった衣服、そして湧き上がってくる力に戸惑う樹。それを横目に左の手のひらを数回握りしめて体の感触を確かめていた風は、一つ大きく頷くと変身と同時に現れた大剣を数度振るって肩へと担いだ。
身の丈を超えるほどの幅広な大剣を片手で振り回すなど、普段ならば絶対にできるはずもない。
なるほどこれが神樹様の―――勇者の力。
確かにこれならば、あんな化物が相手でも何とかできるような気がする。
このまましばらく慣らし運転…と行きたいところだが、状況はそれほど優しくはない。二人の変身が完了したちょうどそのタイミングでバーテックスが攻撃を再開したのだ。
再び発射された砲撃は、先ほどとは異なり今度こそ二人のいた場所へと直撃する。
常人ならば間違いなく無事ではすまないほどの衝撃。―――だがしかし、生憎今の二人は『常人』ではない。
着弾とともに巻き起こった爆炎の中から、二つの影が飛び出した。
影の正体は言うまでもなく犬吠埼姉妹。神樹様より与えられた超常の力が爆風を防ぎ切り、それと同時に通常ではありえない跳躍を実現させていた。
傷一つなく初撃を切り抜けた二人だったがしかし、実際の所そこまで余裕があるわけではなかった。
生身で空を『跳ぶ』という今まで勿論経験したことのない感覚に、事前に聞いていた風ですら少々戸惑い 、ぶっつけ本番の樹は既に目を回しかけていた。
「樹、しっかり!着地するわよ!」
「うぇっ、とぉ!」
態勢を整えきれなかった樹を、緑色の光の幕が受け止める。
想像していたのとは大きく異なる感触に戸惑いながらも何とか立ち上がった樹の顔の横に、いつの間にか黄緑色の毬藻から芽が生えたような不思議な生き物が現れていた。
重力を感じさせないような動きで顔の周りをふよふよと浮かぶそのかわいらしい姿に、戦闘中にも関わらず目を奪われてしまう樹。
「これが勇者の力、そしてこっちはこの世界を守ってきた『精霊』よ。神樹様の導きで、この子達が私たちに力を貸してくれる。」
そう説明する風の横にも、犬のような姿をした精霊が現れていた。
樹海、敵、勇者、そして精霊。次から次へと押し寄せてくる情報に、樹の許容量はとっくに限界を迎えている。しかしそれらの情報をじっくりと呑み込む暇などはやはりない。
警戒を続けていた風の視線の先、桃色のバーテックスは卵型の球体を大量に生み出していた。
これまでとは違う攻撃。それがどんなものなのかはわからないが碌なものではないのだけは疑いようがない。
向かってくる球体の群れに対し、風の判断は早かった。
二度目の跳躍。絡み合う木々の間をまさに風のようにすり抜ける。
ジェットコースターのように流れていく景色の中、風の目ははっきりとこちらに向かってくる球体の姿を捕らえていた。
彼我の距離がゼロへと近づく。
球体に変わった様子はなく、依然としてまっすぐこちらに向かってくるだけだ。恐らくは体当たりがこの球体達の攻撃方法なのだろう―――だが、そうはさせない。
大剣を振りかぶり、体を軸に一回転。
勇者の膂力と遠心力を十分に乗せたそのひと振りは、すれ違いざまに二体の球体を見事に二つに切り裂いた。
中心から上下に分割された球体たちは慣性のまま風の左右後方に流れ、一拍ののちに爆発を起こす。
後方で響いた爆音に風は怯むことはなく、むしろそれを追い風として更に先へと進んでいく。
切り捨てた相手を気にすることもなく、風の目はただまっすぐに本当に倒すべき敵を見据えていた。
そんな姉の背中を、樹は少し後方から見つめていた。
いつもより一層力強く、凛々しく見える姉の姿。しかしいつまでも見とれているわけには行かない。
何か、できることを。
そう考えた樹の元へ、前方から声が飛び込んだ。
「手をかざして、戦う意思を示すの!」
「え?え?こ、こう?」
風の声に従って、空中で勢いよく突き出された樹の手。
次の瞬間、勇者服の手首にある花の形をした飾りから緑色の光の線が飛び出した。
それはそのまま、樹の前方に再び現れた球体を切り裂いていく。
「なんか出たぁ~!」
「いいわよ樹、その調子!」
空中に、爆炎の花が咲く。
風の大剣が、樹のワイヤーが、次々に襲い来る球体をことごとく潰していった。
何度かの襲撃を潜り抜け、二人はとうとうバーテックスの前に立つ。
身構える樹の前に進み出た風が、桃色の怪物に真正面から刃を突き付けた。
「よくも皆を怖がらせてくれたわね。このお礼は、私たちがたっぷりしてやるわ!!」
勇者としての戦い。
その最初の火蓋は、こうして切って落とされた。
当然のごとく勇者立ちをキメるお姉ちゃんなのでした。
おかしい、予定ではもう変身するはずだったのに・・・。
※2021年7月11日 修正