他者を愛する。
それはディーナ・ゲイルディアにとっては当然のことである。
博愛主義というには歪で、偏愛というには平等で。
ただ単純に、善き人としての当然である。
故にディーナ・ゲイルディアは他者を愛する。
特別な存在はいる。
それこそ、自身の従者であるアマリナやヘリオ。
師でもあるシャリィ・オーべ。
名を奪ったシエナとその友人であるレイ。
王女であり、未来を見せると誓ったスピカ・シルベスタ。
自身を公の場で振ったリゲル・シルベスタも。
他よりも特別であることをディーナは否定をしない。
他者と特別を比べれば、当然として特別を選ぶだろう。
それはディーナ・ゲイルディアとしての当然であり、利他的な思想が行き着く先でもあった。
あらゆる理由を考えて。あらゆる論理を用いて。あらゆる道理を以てして。
だからこそ、ディーナはこれらを愛とは呼ばない。呼びはしない。
他者を信じることも、頼ることも、愛することも。自分というものを確立できなかったディーナにはできないことであった。
できない筈であった。
「ただ貴方はここにいる」
お互いに本当の名前も、本来の立場も知らない。エルタと名乗った女から、ディンと名乗った自分に言われた言葉。
その言葉はディーナにとっては特別となった。
地位も何もない自身に向かって言われた存在証明。
それはディーナ・ゲイルディアではなく、自身に向かって言われた言葉でしかない。
自分への先入観もなく、自分からの先入観もなく。
ただ自身に向けられて。
「……」
グビリと酒精を煽る。
生温い酒精が舌に苦味を広げる。
ディーナ・ゲイルディアとして飲んでいる物よりもずっと安く、ずっと苦い酒。
男装をして、ディンと名乗っている時に好んで飲む酒。
そんな安酒を呷りながら、理屈を捏ねる。
エルタという女性を自分は欲している。
誰でもない自分として、エルタという存在が必要だと思っている。
正体も何もわからない女を欲している。
能力も何もわからない人を欲している。
酒場の喧騒を耳にしながら、ディンは小さく溜め息を吐き出す。
なぜ欲している?
答えはない。
頭は回る。それこそ打てば響く会話もできる。
所作も綺麗だ。どういった学びをしたかはわからない。
自分の側にいてほしい。
無理矢理に理屈を捏ねようとして、感情が邪魔をして、酒を呷る。
店主に追加で一杯を注文しながら、今一度息を吐き出して、懐に入った木製の指輪を弄ぶ。
感情的だと、ディンは自戒する。
どうにも正しい理由というのを探しても出ない。
客観的で、自分が介在しない答えを模索する。
アマリナやヘリオはディーナ・ゲイルディアとして欲した。
シャリィ・オーべは師として欲した。
シエナは能力を以てして、レイはシエナを欲したが故に。
切っ掛けはどうであれ、今のディーナにとって特別であることは、否定しない。
切っ掛けすら存在しないエルタを欲している理由は何か。
ディンにはわからない。
けれど、欲していることは事実である。
間違いなく、事実である。
ディーナとして欲しているわけではない。
誰でもない自分として欲している。
届けられたエールを受け取りながら、ディンは今一度息を吐き出す。
「物憂げね」
背中から声を掛けられ、隣に座った女性へとディンは視線を向ける。
白髪の女性。女性にしては低めの声。所作も変わらず。悩みの種が隣に座る。
「どうにも悩みが尽きなくてね」
「どうせ重要な事ではないでしょ」
「失礼だな。どれを頼むかは重要な悩みだろう」
呆れたように笑うエルタを見ながらディンは話を逸らす。
君で悩んでいる、とはディンは口にしない。
この空間を好んでいるから、壊すことはしたくない。
あの時、頬に受けた接吻の意味が好意であればいいとも思う。単なる慰めや同情かもしれない。
そうであっても、彼女との関係を変化させたくはない。
エールを注文しているエルタを眺めながら、ディンは小さく息を吐き出す。
どうしようもなく、彼女が欲しい。
けれど、この関係を崩したくはない。
あの時の接吻の意味は何だったのか。
隣にいるエルタは何者ですらない自分には必要だ。
「どうかしたかしら?」
「君に見惚れていたのさ。酒の肴にもなる」
「世辞にしては酷いわね」
「酒飲みの戯言だよ」
ケラケラと笑ってディンは本心を見せない。
臆病だと自分を唾棄する。ディーナ・ゲイルディアであるなら、真っ直ぐに欲しいと言えるのに。
ディンは内心で苦笑する。
今の自分もディーナ・ゲイルディアである自分も、両方ともが自分であるというのに。
届いたエールを一口飲んでから、エルタは口を開く。
「……今日はお別れを言いに来たの」
ディンの時間が止まった。
酒場の喧騒は聞こえている。それすらも遠く感じてしまうほど、ディンの思考が停止した。
一秒、二秒。停止したディンが改めて動き出す前にエルタが言葉を続ける。
「親が私の婚約を、決めたの」
伏せられた瞳。白い髪が揺れる。
エルタにとっては確定していた事である。そうである筈だった。
だから、ここまでディンへと好意を向けるつもりはなかった。なかった筈だった。
それでも、エルタはディンへと意識を向けてしまった。
「――それは、おめでとう」
自然と出てしまった表面上の言葉。
ディンの感情とは真逆の言葉が、ディンの口から吐き出されてしまった。
知りもしない立場。親に決められた事。婚姻という家の取り決め。
ディンは否定する。
いま抱いている感情は、エルタにとって重荷になる。
エルタは否定する。
いまも抱いている感情は、ディンにとって枷になる。
「だから、これっきり」
エールを一杯。
たった一杯だけ飲み干して、エルタは立ち上がる。
語り合った仲である。想い合った仲である。
だから、これ以上はお互いの為にはならない。
踵を返し、酒場から出ていくエルタをディンは見ない。
頭の中で、理解してしまっている。
エルタはディンを想って、捨てた。
ディンもエルタを想い、言わなかった。
勝手な思い違いをしてはならない。
親の決めた婚姻に対して、何かを思っていると勘違いしてはならない。
それはディンが想像するエルタの想いでしかない。
ディン自身が嬉しいと思ってしまう想像でしかない。
ディンは懐から銅貨を幾つか置いて、立ち上がる。
店主に会計を置いている事を伝え、足早に店から出た。
左右を見渡し、右手の指を弾き、誰かわからない、地位も何もわからない女を追いかける。
それが正しい行為ではない事をディンは自覚している。
それが間違った行為である事をディンは認識している。
理性では無い部分が身体を動かす。
それが下卑た性欲なのか、それとも本能なのか、自分の本質であるのか。
そんな理解など、不必要であった。
彼女を手放すことなどできない。
エルタへの感情に蓋をすることはできない。
エルタにとって迷惑になろうと、重荷になろうと。
人通りの少ない路地を歩く白い髪の女性の腕を掴む。
驚いたようにディンへと向いた瞳が僅かに潤んでいる。
「行くな」
掴んだ手に少しだけ力が入る。
手放したくない感情が、身体を動かす。
理屈でも、理性にもない言葉がディンの口から吐き出された。
ディン自身も、内心では驚いている。
自分がこのような行動に出たことは間違っている。そう判断できる筈なのに。
それでも。
この好意はきっと間違ってなどいないことを、ディンは理解してしまった。
「どうして、止めるの?」
「俺には君が必要だからだ」
だから手放したくない。
自分にとって必要である。たったそれだけの理由でしかない。
真っ直ぐにディンはエルタを見つめる。
深い青の瞳が自分を見ている。
軽口をよく吐き出す口から、彼の言葉が紡がれる。
その言葉が本心であることは、理解できる。理解できてしまう。
エルタには立場がある。
王族であるアルタイルとしての立場が。
国にとって都合のいい存在である立場が。
それらを捨てて、彼と結ばれれば、どれほど幸せかもわかる。
それらを捨てて、彼と結ばれれば、何に追われ、何を負わされ、どうなるかなど想像に容易いこともわかってしまう。
「嬉しい、けど……無理よ」
「無理でもなんでもいい。君が側にいるなら」
「親が決めたことよ」
「そんなもの無視すればいい。君はどうしたい? エルタ」
「私は……」
「俺は君を選ぶ。君が選んでくれるなら、君が悩む全てを解決しよう。俺の全てを使って」
「……無理よ。貴族を相手にするようなものよ」
「構わない。俺は君が欲しい」
純粋な願いがディンの口から紡がれる。
エルタはこの男の本質を理解してしまっている。
誰かもわからない。立場もわからない。そんな誰でもない彼をエルタは知っている。
だから、彼は心から自分を求めている。貴族を相手にしても。自分が背負っている悩みを解決しようとしてくれている。
全て、本心なのだ。
だから、だからこそ。エルタは言葉を吐き出さなくてはならない。
彼の気持ちに答えなければならない。
貴族は相手にできるかもしれない。
普通の親なら無視もできるだろう。
「……っ、ぁ」
意味もない音が口から出ていく。
言葉にすらならない音が、漏れ出る。
彼のことが好きだ。支えてあげたい。一緒に過ごしたい。
彼となら苦難があっても笑い合えるかもしれない。
彼と幸せになりたい。
彼を幸せにしてあげたい。
だから、エルタは奥歯を噛み締め、感情ではなく言葉を吐き出す。
「…………ごめん、なさい」
王は無視できない。
それは自分の役割としても。彼を縛ってはいけない。
国は相手にできない。
彼の言葉に答えなければいけない。
何もない女であったなら。
彼の手を取れた。
けれど、ディンからは見えない役割がそれを否定する。
そんなものが許されるわけがない。
既に決まっていた婚姻を反故になどできない。
親である王もそれを許しはしない。
決まっている婚姻相手もそれを許さない性格をしている。
エルタの腕を掴んでいた左手から力が抜ける。
落胆か、諦めなのか。ディンの顔を直視できないエルタには確かめる事もできない。
「……そうか。そうか……」
短く、ディンはそう呟いた。
エルタの感情はわからない。けれど、自分よりも立場を選択された。
それを否定することはディンはしない。
エルタが涙を流そうと。
この選択がエルタ自身にとって辛いものであっても。
その選択をせざるを得ない覚悟がエルタにはあった。
そう、想っていたい。
「……わかった。けれど、君との出会いとして。君に指輪を渡してもいいかい?」
懐に入れていた木製の指輪を手に取る。
エルタはようやくディンの顔を見て、指輪を見る。
出会いの印としての贈り物。二人の関係が記憶だけではない証。
ディンの右手に摘まれた木製の指輪。表面に規律のある模様が刻まれた簡素な指輪。
「受け取ってくれるか?」
「……ええ」
「それは嬉しい。特に深い意味はないけれど、左手の薬指に嵌めてくれ」
エルタは眉を寄せる。意味のない要求であった。それが何の意味を持つかもエルタにはわからない。
けれど、彼の願いを反故にするつもりもない。
お互いに、これで最後なのだから。
もう、会うことも出来ないかもしれない。
「不出来な祈りだけれど、君が幸福であることを願うよ」
「……」
エルタは言葉を返せなかった。
掴んでいた左手が離れ、二人を繋ぐものはこの指輪しかなくなった。
指輪を左手の薬指に嵌めて、手ごと包む。
このままここにいては、感情が、本心が口から溢れてしまいそうになる。
必死に飲み込んで、苦しくなって、呼吸すら上手くできているかわからない。
エルタはディンへと頭を下げて、顔を向ける出来ずに踵を返して、足を進めた。
追いかけてくる足音はない。
振り返って確かめることもできない。
飲み込んだ筈の感情が瞳から溢れる。
自分が振ったのに。
自分が切り捨てたのに。
自分よりもディンの方が辛い筈なのに。
止め処なく流れる感情を拭って、嗚咽を飲み込んで、呼吸を整える。
呼吸は整わず、嗚咽は漏れ出て、感情も拭いきれずに流れていく。
それでも、エルタは選んでしまった。
選ばざるを得なかった。
理性はそれを肯定する。仕方なかったと、言い訳まで準備してくる。
感情はそれを否定する。今からでも彼の胸に飛び込めと命令してくる。
奥歯を噛み締めて、エルタは感情を押し殺す。
何度もしてきた行為である筈なのに、今はできない。
アルタイルとしての自分も。
エルタとしての自分も。
どちらも自分である筈なのに。
次挿絵のキャラは誰がいい?
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リヨース
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騎士ディーナ様
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シャリィ先生
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エフィさん