長い間、それこそ百数十年以上は経過しているというのにその本の保存状態は良好であった。丁寧とも言えない不格好な革の装丁であるし、古びたインクと紙の香りもする。けれども確りと本としての体裁が保たれたそれは確かに本でしかない。
幾重にも魔法が掛けられたと言われるその本は今となってはこの国の古文書であり、初代のシルベスタ王が書いたと言われる本であり、解析不能の言語が端から端まで連なっている。
その本を手にとった俺は正しく息を飲み込んだ。損傷の恐れが無い事、持ち出し禁止である事、写しは問題ない事、その他様々な注意点を言い渡されたが、俺はその本の表紙にしか目がいかず、表情を抑え込むのに必死であったのだ。
そこはお嬢様生活を十数年も続けていた我が身である。表情筋も正しく動かせずに何がゲイルディアのご令嬢か。
古文書を受け取り、監禁よろしく個室を準備されていたので俺とアマリナは部屋へと押し込まれた訳であるが。しかしながら、古文書が問題である。
幾重にも守護魔法が掛けられ、保存状態も最高であり、恐らく今から数えても数十年はこの状態が維持されるであろう古文書である。実に素晴らしい魔法である、俺も少しは知りたい物だけれど、生憎魔法が見える瞳など所持していないし、見えたとしてもさっぱりわからないだろう。シャリィ先生ならわかるかもしれないが、今隣にいるのはアマリナである。アマリナも魔法式から魔法を使う事はできるけれど、実用的な物ばかりである。火を灯したりする程度だろうか。
「アマリナ、紅茶を淹れてくれるかしら」
「かしこまりました」
紅茶を淹れてくれているアマリナの後ろ姿を楽しみながら渡されたこの国に伝わる古文書へと視線を落とす。この国の文字ではない。更に言えば俺よりも頭の出来の良い学者達すらも知らぬ言語。どの翻訳された物を読んでもどこかちぐはぐで、どれも解読方法が違うのか解釈内容が一部を除いて全く違う。
パラパラとページを捲り全体を把握する。最初から最後まで流してから、改めて表紙を見る。
そこには堂々とタイトルが書かれている。この本の使用用途が書かれ、詳しく読んでいない内容もそれに準じた物になっている事だろう。
しかし、古文書である。そう、古文書なのだ。
俺は表紙に書かれた文字を撫でて、小さく息を吐き出した。
「……日記、か」
「お嬢様?」
「いえ、なんでもありませんわ」
ありがとう、と出された紅茶に感謝しながら改めて日本語で日記と書かれた古文書を見る。初代シルベスタ王もまさか自分の日記が古文書扱いされるとは思わなかっただろう。日本語という難解な言語も貴重という価値に拍車を掛けたのかもしれない。
何にしろ、十数年も見なかった言語であるけれど俺の中にはソレが確りと根付いており問題なく端から端まで読むことができる。できてしまう。この内容を公表するつもりなどないけれど、俺の中の推測が正しいかどうかの判断はできるだろう。
始まりはこの世界にやってきて数ヶ月経過した頃。日記、という体であるが日本語で書かれているという事はこの筆者は元の世界を好んでいたのかもしれない。その本意を知る事などもう出来ないし、日記の内容を読まれたくないが故に異世界言語を用いたのかもしれない。
日記ではあるけれど、コレを日記と呼んでしまうのは少し勿体無い。誇張はあるかもしれないけれど、正しくこれは冒険譚なのだ。いつの間にか勇者と呼ばれる少年が青年となり、勇者から王に至るまで、そして王として死ぬまでの話。
どこかの魔法使い達が書いた自己を高みに置いた英雄譚よりも装飾もないありのままの冒険譚。これを心踊らせず読めというのが無理な話である。
羨ましい話であるけれど、勇者と呼ばれるようになる少年はチートを得ていた。転生って凄い。転生した挙げ句チートもなく、魔力も一定以下らしい俺からすれば羨ましいと言う他ない。
同時に憐れみも感じてしまう。青年は、勇者になってしまったのだから。
彼の伝記を見れば勇者は勇者と成るべくして成り、成るべくして王へと至ったと書かれていたけれどそうではない。彼はいつの間にか勇者と呼ばれるようになった単なる青年だ。
本当は勇者という称号も、王という地位も何も必要はなかった。困っている人を助けていたらいつの間にか勇者と呼ばれ、自身の助けられる範囲が広がるにつれて、自分を慕う者達の為に国を作り上げた。
この辺りからは他の翻訳にも似たような事が書かれている。常に書かれている日付から客観視された事実を読み取り、日付が日付である事を割り出したのであろう。称賛したいけれど、建国した日の内容が耽美に書かれた翻訳書よりも実物の内容が「くぅ~疲れました~! これにて建国完了です!」とか書かれているのはどうにも笑いを誘う。
本文を見れば察する事ができるが、勇者――初代シルベスタ王は厳格な性格はしていなかったようだ。身内に甘く、他人にも優しく、敵にすら情を与えるような……そんな人だったのだろう。日本人らしい、と言えば日本人らしい人であったのだろう。
幸い、というべきか歴史書を紐解いてみればこの国が戦争をしていた時代は初代王が崩御してからであるし、彼自身が意図せずに抑止力となっていたのだろう。まあチートな勇者相手に戦争とか起こせんよね。
政策内容も元々仲間であった人達に任せていたが、それでも未来の為に学校という教育機関や技術力の発展を目指したのも書かれていた。
……節々に「まぁ日本語だし! 俺以外読めないしなガハハ!」みたいな事を書きながら部下の評価というかあの子が色っぽいとか書いてるのはどうだろうか。この時点では既にいい年してただろ。
英雄色を好む、などと言われるけれど、実際初代シルベスタ王の妻は一人だ。他に妻が居たというのは伝わっていない。日記にも当時の宰相から世継ぎの事を煩く聞かされていた事も書かれている。それでも男だもんな、わかるぞ。女の子はなぁ、可愛いんだよ……。
「? どうかいたしましたか?」
「なんでもありませんわ」
可愛いと思っていただけだゾ。
ともかく、読むのは別に後々ゆっくりでも構わない。写し自体は問題なく、時間も限られているのだからサクサクと写してしまって自宅で読み解こう。ゲイルディアが初代シルベスタ王の古文書の写しを持ち出す、というのは……まあ悪名なんて今更だろう。お父様には謝っておこう。
久しく書く漢字とひらがなに悪戦苦闘しながらも大凡の内容を写し終えた。新しいインクの香りに満足しながらカップを手にとって、ようやく冷めてしまっている事に気がつく。
「アマリナ、紅茶を――」
既に俺の生活には欠かせなくなったアマリナの名前を呼んで振り返る。誰もいない。
見渡しても、この殺風景な部屋の中にはアマリナの影すら無い。どこかに行った気配は無かった。魔法の練習をしていた所までは知覚していたけれど、今現在姿が無い。
椅子から立ち上がり、今一度部屋を見渡す。誰も居ない。
「アマリナ?」
「どうかなさいましたか?」
「きゃ!?」
突如背後に現れたアマリナに驚いてしまい染み付いた声を出してしまった。我ながら染まってしまったモノである。
不思議そうにこちらを見ているアマリナは先程まで居なかった筈だ。それは間違いない。驚きで脈打つ心臓を落ち着ける為に深呼吸をする。
「紅茶を淹れてくれるかしら?」
「はい、お嬢様」
俺からカップを預かったアマリナが俺の影を踏んで、トプンッと影を波立てて沈んだ。
……?
…………ンンンンン?
え、何? どういう事? 俺の影は沼だった……? 膝を折り曲げて影がある絨毯を触っても手触りのいい絨毯でしかない。
でもアマリナはこの中に沈んだ訳で? アマリナは今居なくて? さっきまで居て? ンン?
さっぱりわからずに立ち上がって考えていると俺の影から藍色の髪が浮かび上がり、褐色の肌をした俺のメイドが何食わぬ顔で姿を現して、考えてた俺を不思議そうに見ながら紅茶のカップを手渡してくる。
「ありがとう」
俺好みの味に淹れられた温かい紅茶を一口飲み込んで、椅子に座って足を組む。
「それで……今のはどういう事かしら?」
「どういう、というのは?」
「私の、その、影の中に入っていたようだけれど?」
「はい。影を渡り、ご邸宅まで向かいました」
……あのさぁ! そういう俺の思考よりも上の事するんなら一言言ってくれよぉぉぉ! 何? 影を渡ったってなんだよ!? 城から城下にある邸宅まで結構な距離があるんだけど!? そういえばココに来た時も紅茶を淹れてくれてたな!
なんだよ!? ホント、マジで、なに!?
あーはいはい、魔法ですね。魔法だろうな! 魔法以外だったらもう理解するのやめるからな!
頭を抱えた俺を見て首を傾げて、自身が何か粗相をしたのかと少しだけおろおろとするアマリナ。くそ、俺のメイドが可愛すぎる。
「影を、渡った……というのは、魔法かしら?」
「はい。恐らく」
「恐らく?」
「……そ、その……」
「いいですわ。別に怒っている訳ではないの。上手く言葉に出来なくてもいいから言いなさい」
「……いつの間にか……」
「はぁ……」
思わず深い溜め息を吐き出してしまった。その溜め息でアマリナがビクッと動いて身を竦めているけれど、改めて怒っている訳ではない事を伝えておく。
いつの間にか、いつの間にかである。もう……なんなの? そういうのってさ、俺の役目じゃないんですかねぇ……。俺は転生者な訳ですよ。悪役令嬢だけど。
これでアマリナが「私、何かやっちゃいましたか?」みたいな事を言い始めたら俺はアマリナを徹底して魔法式を今以上に教え込んで、シャリィ先生に紹介して、剣術も教えて……いや、シャリィ先生に紹介する以外は大体やってるわ……。転生主人公かな?
いや、しかし待ってほしい。その転生主人公が俺のメイドさんな訳である。俺のメイドさんが転生主人公とかラノベタイトルかな?
「距離や能力は把握してますの?」
「ある程度は……。私の決めた影にしか移動できない様で……その、距離によって、魔力? が減っている感じが」
「それを感覚でしている、と」
「申し訳ありません」
「構いませんわ。色々と制約があるようですし。他に何かわかっている事は?」
「……見えている影なら、おそらく……」
「そう……。アマリナが使えるという事はヘリオはどうですの?」
「ヘリオも……その……」
「何を震えてるのかしら? 何度も言うけれど、怒っている訳ではないのよ」
段々と見てわかるぐらいに震えてきたアマリナに再度伝える。本当に怒っている訳ではない。なんで兄妹揃ってそんな魔法に目覚めてるんですかねぇ……。ベリル人特有の魔力質なのだろうか。
ともあれ、王様やこの国の制約としてアマリナをこの城に入れる事を拒んでいた理由がわかった。精々、奴隷という身分がいけないと思っていたけれど、なるほど、これは入れたくはない。
その許可を受けたということは、本当に身に余る程の信用を受けているのか。何か王様に返す事ができるだろうか……。
「いいですわ。二人とも一緒に話を聞きます」
「ディーナ様、申し訳ありません。お許しください」
「許すも何も、怒ってなどないわ。ただ、力も把握できないまま使っているのは許さないわ」
何か問題があって二人の身に悪影響が及ぶというのなら禁止しよう。魔法に関してはある程度把握しているといっても俺はまだ見習いもいい所なのでシャリィ先生にも相談しなくてはいけない。
震えるアマリナの頬に手を当てて、しっかりと視線を合わせる。
先程まで、ちゃんとお嬢様だったのに俺が素である時のように『ディーナ様』と呼んでしまったあたり、焦っているか、本気で怯えているのだろう。
「大丈夫よ、アマリナ。私が貴女を手放す時は私か貴女が死ぬ時だけよ」
絶対に逃すつもりもないし、どこかに放すつもりもない。
……ヘリオは知らん。アレはどこでも生きていけるように教育をしているし、俺の元を離れても大丈夫なようにしている。ただ今はまだ俺の護衛役としては必要なのである。
写しも完了したので俺の監視役でもあったであろう扉前に控えていた騎士さんに挨拶を交わしてから帰路に就くために王城を歩く。その俺の後ろをしっかりと付いてくるアマリナは先程の怯えなど無かったようにいつもの鉄面皮である。俺の前だけではしっかりと表情が出るようになってきたけれど、他の場では無口なメイドで表情も乏しい。……俺の前だけでは特別なメイドとか最高かよ。教育は正しかったな!
「ディーナお姉様!」
「スピカ様?」
廊下の向こうの方から俺を見つけたのか満面の笑みで俺へと駆け寄ってくる可愛い天使がいらっしゃった。今日の疲労も吹き飛んでしまう。
いつものように両手を広げて天使が俺の胸に飛び込んでくるのを待つ。待ったのだけれど、スピカ様は俺の胸に飛び込んでくる事はなく、数歩手前で停止してジィ……と俺の方を向く。正確には俺の背後へとその視線は向いていた。
「……そのメイド、誰?」
「この子は私の大切なメイドですわ。アマリナ、挨拶を」
「……お初にお目にかかります、スピカ王女様。ディーナお嬢様に仕えさせていただいている、アマリナと申します」
「……ふぅーん……」
ん? なんか険悪な雰囲気がするけど、どうしてだろうか。そうか、なるほど。
「ベリル人ではありますが、彼女は私の一部であり、我が国に害になるような事はさせませんわ」
だから安心してネ! と思って言ったんだけどどうしてスピカ様の視線がキツくなって珍しくアマリナの表情が柔らかいんですかね?
「お姉様、
「え? ええ。あの時の感謝だけで私は胸がいっぱいですわ。それ程、気に入っていただき嬉しく思います」
うん、嬉しいんだけどさ。なんでスピカ様勝ち誇ったお顔をしてるんです? いや、可愛いんだけどさ。
あとアマリナ。表情が表に出てないからわかりにくいんだけど、お前が威嚇してるのこの国のお姫様だからやめて。ホント、落ち着いて、頼むから。いつもの冷静なアマリナに戻って……。
「お姉様は何をしていたの?」
「初代王の古文書の写しを戴きに」
「アレ読めるの!?」
「そういう訳ではありませんが……」
写しを持っているアマリナの手元へと視線を向けた後に否定する為に困った顔を作り上げる。
ガッツリ読めるけど、そんな事実を伝える意味も無いだろう。それに元勇者様も日記を大多数の子孫に読まれたいとは思わないだろう。たぶん。
スピカ様は読書が好きらしくて沢山本を読んでるらしいし、あの古文書の内容が気になっているんだろうか……。それでもなぁ……。
「解読できれば、内容を教えさせていただきますわ」
「ホント?」
「ええ、約束です」
天子様の笑顔の為に元勇者のプライバシーは犠牲となったのだ……笑顔の犠牲にな……。
抱きついてくるスピカ様の柔らかさを堪能しながら抱きしめ返して蕩けそうになる表情をなんとか引き締める。グエッヘッヘッヘ、いい匂いもするんじゃぁ。天国はここであったか……。
しっかりとスピカ様成分を補給した俺は帰宅した後にどうしてか珍しく甘えてくるアマリナに困惑しながら抱きしめたりイチャイチャ過ごす事をまだ知らない。