どれほど走っただろうか。呼吸が苦しくなるほど走ったことは確かであった。走りにくい森であったという事もそうであるし、抱えたディーナ・ゲイルディアの意識が落ちたことも疲労に繋がったのだろう。それでも走り続けなければならなかった。
普段のスカートタイプの制服とは違い、戦闘を行うという事で長いボトムスを履いている彼女であるけれど、その片方は奇妙にひしゃげて、細身のボトムスを赤く染めている。
アサヒは混乱していた。どうにかしなければならない。そんな事しか頭の中に浮かばない。
安全な場所に逃げなければならない。けれど、そんな場所があるかはわからない。村とはきっと逆方向に走り出してしまった。方角を即座に理解出来るような知識も経験もアサヒは持ち合わせていない。
視界の端に見えたのは小さな洞穴であった。人が入れるサイズはあるだろうか。その程度の小さな穴である。村を出立する前に狩人の話で説明されたかもしれない。そうじゃないかもしれない。アサヒにとってソレはようやく見つけた休める場所である事には違いない。
洞穴の中は冷たく、奥も見えるほどに短い穴であった。ゴブリンなどの生活の跡もなく、安全である事を確認したアサヒはディーナを丁寧に地面へと下ろして一つ深呼吸をする。
「ディーナさん、ディーナさん……」
呼びかけても少女は起きず、汗を浮かばせて青を通り過ぎて白い顔を歪めている。アサヒの頭が最悪を思い浮かべ、それを振り払う。そんな事にはさせない。させてはいけない。
思考を落ち着けなければならない。この世界において魔法は想像力に左右される物であると教えてもらったのだから。アサヒは胸元を握りしめながら、今一度深呼吸をする。
赤黒い、ひしゃげた片脚。口の中が乾いて、空を飲み込む。
瞼を閉じて、自分に集中する。
大丈夫。出来る。出来る。
出来る。出来る。
出来る。
何度も言い聞かせながら自身の保有する魔力に触れる。
想像する。正しい形を。正しい状態を。
手をディーナの脚だった物へと向けて、願う。願う。願う。
「お願い、治って……」
薄ぼんやりと、淡く灯る光がアサヒの手からディーナの脚へと向かう。
それが回復魔法かどうかなど、アサヒにはわからない。ただ治ってほしいという想像だけで行使されている魔法である。ディーナが起きていたならば卒倒するような魔法式である。
それでも、どれほど歪であろうと、それは純然たる想像の上に成り立ち、魔力により構成された願いであり、魔法だ。
世界はそれを聞き入れる。
火が燃えるように。
水が流れるように。
風が吹き荒ぶように。
土が形作るように。
「治って……治ってよ……お願いだから……ディーナさん……」
泣きそうになりながら、アサヒは呟く。ひしゃげていた脚は歪みが戻り、正しい形へと戻っていく。
ディーナの肌の血色も戻り、呼吸も落ち着いた。それでも目は覚まさない。だからアサヒは願う。願って、願って、元に戻るようにと願い続ける。
「――ん……」
「ディーナさん!」
呻きとは違う声がディーナの口から漏れ出した。アサヒの呼び掛けに震える瞼の奥から青の瞳がひっそりと姿を見せる。彼女が目を覚ました事でようやく願う事をやめたアサヒはディーナの反応を待つ。
ぼんやりとした雰囲気のままディーナはアサヒを視界に入れて、瞳だけを動かして辺りを見渡す。石の壁。手から伝わる冷たい感触。手に付着する砂の不快感。改めてアサヒを視界へと収めたディーナは思考する。
「よかったぁ」
「ここは……」
一体自身に何があったのかを思い出し、どうしてこのような場に居るのかを考える。記憶はオークに捕まった所で断絶され、ここは住処かもしれないとも思った。それにしては自身も、彼女も無事ではあるからその可能性は少ないだろう。
違和感を覚えた。いいや、感覚としては正常なのであるが、それは違和感であった。握りつぶされた筈の脚に痛みが無く、違和感も無い。安堵して青白い顔で笑っているアサヒから視線を外して、恐る恐る自身の脚へと視線を向け、手を伸ばす。
所々が赤黒く染まったボトムスは明確に脚がどういう状態であったかを示している。痛みはない。神経ごと潰されたか? とも考えたけれどその違和感すら無い。触れた脚は正しく触られた事を伝えてくる。
治っている。感触は正しい。意識すれば明確に筋肉も反応する。いや、少し遅れはしているか。何にせよ、脚は正常にその機能を保っていた。
ディーナは改めてアサヒへと視線を戻す。たった数秒の確認だったのか、アサヒは未だに心配そうに、青白い顔でへにゃりと笑っている。
「ディーナさん、大丈夫?」
「……ええ。貴女は?」
「わ、わたし? 全然大丈夫だよ!」
「……強がりですわね」
「ゔっ……」
アサヒの症状に見覚え、というべきか。
不思議そうにそのブレスレットへと視線を向けていたアサヒの手を優しく持ち上げて手首に巻きつける。
「これは?」
「魔力を溜め込んでいるブレスレットですわ。気休めでしょうけど」
「そんな事無いよ! ありがとう、ディーナさん」
ブレスレットを着ければ確かに重かった空気が軽く感じる。呼吸は楽になったし、胸の奥で感じていた虚ろな感触も小さくなった。
アサヒの魔力量と自身の魔力量を知っているディーナからしてみれば本当に気休め程度の物なのだ。幼い頃から溜め込んだ魔力であるがアサヒの魔力と比べれば少なく思える。
少しだけ血色の戻ったアサヒを見ながら小さく安堵の息を吐き出したディーナは自身を落ち着けるように、見たくもない現実を直視する為に石の天井を見上げて、瞼を閉じて深く息を吸い込んでから細く吐き出して、アサヒへと向き直す。
「それで、どういう状況なのかしら?」
「えっと、あの」
「落ち着きなさい。整理して喋らなくてもいいですわ。あった事を喋りなさい」
「あの大きい緑のヤツからディーナさんを助けて洞窟まで逃げた!」
「簡潔過ぎますわね……」
起きたばかりでスッキリとした頭がどうしてか痛みそうになったディーナであるが、大凡予想通りであった。最悪ではないが、最善でもない。最良とすら言えない。現状を見てみれば最低とも言えた。
「どうして私なんかを助けに来たんですの……」
「どうしてって……勝手に体が動いちゃって……えへへ」
「えへへ、じゃありませんわ。まったく」
殿としての役目は果たせてなかったけれど、それでもアサヒ達には逃げてほしかったのがディーナの実情である。アサヒが死んでしまえば、きっとリゲルは悲しんでしまうだろう。守れなかったディーナを糾弾するかもしれない。それはディーナにとっては最悪な状況とも言えた。
それでも、きっとリゲル達に止められたであろうアサヒは自身を助けに来た。思惑は不明だ。アサヒからしてみればディーナ・ゲイルディアという存在は目障りな存在であるし、障壁になるであろう存在に違いはない。消えてしまった方が利があるのは明白なのだ。
それでも、アサヒはこの場に居る。
ディーナは溜め息を吐き出した。
「……ありがとうございますわ 」
「え?」
「なんでもありませんわ。この状況から抜け出す方法を考えましょう」
果たして呟いた言葉は矜持が邪魔をしたのか小さく漏れ出したような声であった。聞き逃したアサヒの為にもう一度言う事もなくディーナはどうしてか熱くなった顔を覚ますように思考を回転させ始める。
「……最善を言いますわね。私が囮をしますので、その間に逃げ出てくださいまし」
「え、やだ。ディーナさんを助けに来たのにわたしだけ逃げれないよ」
「なら対案を用意なさいな。私は貴女が生きて逃げ延びればいいんですのよ」
「……助けが来るのを待つ、とか? リゲル達が助けを呼びに行ってるんでしょ?」
「あの場から村に戻って早馬を飛ばしてもここに到着するのは早くて三日……いえ、四日ぐらいかしら。それまでこの状態の私達がオークから逃げ切れるとは思いませんわね」
「ならディーナさんが囮になってわたしが逃げても一緒じゃない」
「貴女は生き残れるでしょう?」
「ディーナさんは! その……死んじゃうじゃん……」
「そうですわね。私は貴族ですわ。死にたい訳ではありませんが、民を守る為に死ぬ立場なのよ」
死にたい訳ではありませんけど、とアサヒに言い聞かせるように再度付け加えたディーナの瞳は不安に揺れてはいない。絶望している訳でもない。
アサヒにはわからない感覚である。それでもディーナが本心で自分を逃がそうとしてくれているのはわかる。それでも、それでは意味が無いのだ。
「それなら、わたしだって貴族だもん!」
「貴女が貴族? 笑わせないでくださる? 生き延びて淑女教育を一から受け直してくださるかしら」
鼻で笑いながらアサヒを嘲るディーナ。王族を呼び捨てにし、言葉遣いもなっていない少女が何を言っているんだ、と言わんばかりに肩を竦めてみせる。けれど視線だけは真剣な物で、それが余計にアサヒの二の句を詰まらせる。
自分の出自など信じてもらえる訳もなく、バレてしまえばどうなるかなどわからない。
「……まあ、貴女の事情はいいですわ。対案が無いようなら――」
「そんなの嫌!」
「子供みたいに駄々をこねないでくださる? 他に案は無いのでしょう?」
「えっと、その……そうだ! あのままアレを放置したら村にも被害が及ぶんじゃないの?」
「その為の救援ですわ」
「それでも短くて四日掛かる」
「……本気で言ってますの?」
魔力が枯渇しかけているアサヒと持ち得る限りの攻撃方法が防がれた自分。その二人でオークを倒せるなどと楽観的な事をディーナは口が裂けても言えはしない。
現実的ではない、愚策にも等しい考えだ。それでもアサヒは真っ直ぐにディーナを見て、応える。
「本気だよ」
「馬鹿ですわね」
「馬鹿でも私もディーナさんも助かる道だよ」
「……勝算はありますの?」
「それは……えっと」
えへへ、と誤魔化すようにディーナからの視線を逃げてアサヒは笑う。思わず溜め息が溢れ出た。
勝算は少ない。現状、ディーナが思いついている方法が正しければ、ゼロではない。それでもソレは不確かな計算だ。自分だと出来ないと言ってもいい。だからこそ、勝算はゼロに近しい。
「勝算は少ないですわよ」
「……ゼロじゃないの?」
「さっきも言ったでしょう? 死ぬつもりはありませんわ」
死ぬつもりはない。そう言葉にはしたけれどディーナの中でその方法は不確かで、不可能にも近くて、無理な方法なのだ。
この実習が終了して、自宅に戻った時にシャリィ・オーべと共に理論を詰めて実践しようとしていた計算だ。自分では不可能な理論だからこそ、シャリィであれば出来るとも考えた。シャリィと共であるのならば危険も少ないとも思った。
「二人ならきっと出来るよ」
「出来るかはわかりませんわ」
仮説に仮説を重ねた理論だ。だから出来ない可能性の方が大きい。
小さな実験すらしていない。どれほどの危険があるかもわからない。自分などでは扱いきれないかもしれない。才のある存在へと託すべき理論である。
「ディーナさんになら、出来るよ」
思考の沼へと入っていたディーナの冷たい手を握る。温めるように強く、指を絡ませて握る。自身の信頼が伝わる様に、しっかりと青の瞳を見つめる。
手は振り払われない。
僅かな静寂が二人を包む。冷たかった手がアサヒの熱量を得たように少し温かくなる。
ディーナの溜め息で静寂が途切れ、彼女はアサヒの視線から逃げるように目を伏せた。
「わかりましたわ。ともあれ、貴女の魔力が無いことには始まりませんわ。少しでも眠っておきなさい」
「……その間に行かない?」
「二人で立ち向かうと決めたでしょう? いいから寝なさい、アサヒ」
「うん……じゃあ、ちょっとだけ……」
既に気力だけで話していたのか、アサヒはディーナに倒れるように意識が落ちる。寄りかかって来たアサヒを支えて、静かな寝息を耳にしたディーナは小さく息を吐き出して安堵する。
彼女が起きてしまわないように優しく横に寝かせ、足音を立てないように洞窟から出る。
外は満天の星であった。
僅かに痺れと違和感の残る脚に眉を寄せて、自分が逃げられないと悟る。
星達を見上げ、瞼に閉じ込めたディーナは大きく息を吸い込み、細く、細く吐き出す。
「……現金だな」
自らの感情をそう評価してしまう。
上手く乗せられた、と言えばいいのかをディーナはわからない。それでも、決意は出来た。
死なせるつもりはない。死ぬつもりも、無い。
だからこそ、机上の理論であった理論が正しいかを実践しなければならない。
魔力の残りは少ない。欠乏している訳ではないから、普通に動く事はできるだろう。それでも、あのオークを止めるだけの魔力は自分の中に存在していない。
それでも、ディーナにはソレが可能であった。仮説ばかりの机上理論で可能と言えるまでにした。まだその理論に穴はあるかもしれない。不可能かもしれない。
それでも、自身には可能であると彼女が信じた。だからこそ、ディーナはソレを可能と断じた。
「出来なきゃアサヒが死ぬ」
声にして、言葉にして、自身の立っている位置を明確にする。
星空を見上げて、深く、深く息を吸い込み、吐き出した。