アサヒが目を覚ました時、ぼんやりとした思考の中でふんわりと香るディーナの香りに安堵した。
記憶を緩やかに辿れば自分と共闘すると約束した彼女であったけれど、目が覚めたら姿を消しているかもしれないとも思っていた分、安堵も一際である。
その安堵を強く感じる為にアサヒはより香りを得る為に鼻を柔らかい部分に擦り付ける。
「アサヒ、起きてますの?」
「んぃ……? あと五分だけ……」
頭上から聞こえる声に反射的に声を出す。アサヒの反応に溜め息が返された。
手を小さく振り上げて、少しばかり勢いをつけて振り下ろす。
「ん゛ッ!? 何!?」
「貴女が離れないからでしょう」
突如として頭から伝わった衝撃にアサヒは飛び起きて両手で頭頂部を抑える。目の前には呆れた表情をしたディーナが座っており、改めて溜め息が吐き出された。
アマリナの方が寝起きがいいですわね、と溜め息と一緒に呟かれた言葉はさっぱり聞こえなかったアサヒであるが自分が眠っていたであろう枕が視界に存在しない事に気付く。
はたして自分は何の上で眠っていたのだろうか。柔らかく、暖かく……ディーナの香りがしたという事はディーナの所有物なのだろうけど、さっぱり無い。
「目覚めましたわね。それでは行きますわよ」
「ねえディーナさん。わたしって何で寝てたの?」
「そこらの岩ですわ」
立ち上がったディーナはアサヒの事を見向きもせずに洞窟から出ていく。アサヒは頭に疑問符を浮かべて、地面を触ってみる。硬く、冷たい。そこらの岩とはどの岩なのだろうか。
疑問符を浮かべながらも洞窟から出れば朝霧が立ち込め、澄んだ空気が森を流れている。肺に冷めた空気が満たされて次第に目が覚めていく。
「先に聞きますが、今ならまだ逃げられますわよ」
「逃げないよ。わたしはディーナさんと立ち向かうって決めたから」
「……そう」
安堵したような、呆れたような、感情の混ざった溜め息がディーナの口から吐き出される。
逃げてほしいという感情はここで置いて行くべきだ。先ではきっと邪魔になるのだから。それでも僅かばかり残る呵責をディーナは飲み込んだ。
「……あまり私を信じないでくださる?」
「なんで?」
「上手くいかないかもしれないでしょう?」
「大丈夫だよ! ディーナさんなら出来るって信じてるから」
「だから……もう」
言い聞かせた所で彼女の意思は揺らがない。二の句が繋げられなくなったディーナは諦めたように溜め息を吐き出してプイッとアサヒから顔を背ける。
何度自分に言い聞かせた所で、自身よりも上手くできる人がいる。きっと時間があれば自分よりもアサヒ個人でした方が上手くできる。その両方が今の自分達にはない。
組んだ理論は完璧とは言い難い。作戦も行き当りばったりと言っても過言ではない。
「貴女が信じるなら、ソレを信じますわ」
呟いた言葉はアサヒに届かない程度の声量である。彼女に伝える為の言葉ではない。それはきっと自身を納得させる為の言葉である事をディーナは理解している。
意識を入れ替える。失敗は両者の怪我、或いは死へと繋がってしまう。失敗など許されない。そもそも、失敗など許される理由がない。自身がディーナ・ゲイルディアなのだから。
「では作戦を説明いたしますわ」
「あんまり難しい事はわからないかも?」
「簡単な事ですわ。貴女を囮にして私が魔法を使えるだけの時間を稼いでいただければ、それで終わらせますわ」
「……ちなみにどれぐらい?」
「貴女が死なない内に終わらせますわ」
魔法式を扱えるディーナにとって、魔法の顕現自体はそれほどの時間は必要ない。式自体は既に出来上がっていたし、何も考えず起動出来るように組み込みもした。あのオークの肉体を自身の攻撃力が貫ける程に火力のある現象を組んだ。だからこそ、出来るかが不明瞭だった。
アサヒは少し考えてから、ニッコリと笑う。
「わかった。なるべく時間を稼ぐね」
「危なかったらすぐに逃げるのよ?」
「大丈夫だって!」
「わかって言ってませんわね……」
能天気と言うべきか、それとも考えなしと言うべきか。どちらにせよディーナは溜め息を吐き出した。ディーナの為の溜め息にむぅっと唇を尖らせたアサヒであったけれど、すぐに笑みを浮かべた。
朝霜が溶け出す森の中。重い足音で僅かに地を響かせてオークは歩いていた。
ただ本能の赴くままに足を動かす。煩わしい樹木を押し退ければ自身の腕が視界に入る。既に塞がり、薄く残るだけの
苛立つ。人間如きが自身に傷を残した事に。
苛立つ。下等生物が自身を傷付けた事に。
苛立つ。その矮小な存在が逃げた事に。
歯軋りをして、樹木を乱暴に折り曲げる。ベキベキと叫びを上げながら樹木は引き千切られ地面へと音を鳴らして伏した。
「おい!」
何かの声が聞こえた。その声の主を向けば、自身より細く、そして小さい。覚えがあった。その黒い頭と格好は僅かばかりに記憶に掠った。
果たしてソレが何であったかは思い出せなかったけれど、その存在を見ていれば苛立って仕方がない。何故かなどわからない。けれど、ただ苛立つ。
オークの目の前に立っているアサヒは一つだけ息を吐き出す。オークを見つけてから時間を稼ぐ事は既に心に決めていた事である。数分、或いは数十分。ディーナの準備が整うまで。
それまではディーナの存在はオークに知られてはいけないし、自身も耐えなくてはならない。ディーナは「危なくなれば逃げなさい」とも言ったけれど、自身がディーナの足枷になどなりたくはなかった。
「わたしが相手だよ、この、木偶の坊!」
「――グガガァッァァァアアアアアア!!」
アサヒの言葉が通じたのかはわからない。けれどオークは叫びを上げて自身の本能に従った。苛立ちを解消する為に、矮小な存在を食らう為に、自身の存在こそが唯一を示す為に。
故に、暴が森を激しく鳴らし始める。
視界の中。木々の向こうに見えるアサヒとオークの戦いが始まった事を確認したディーナは荒立つ心臓を押さえつける。
大きく呼吸をしても相変わらず空気は上手く吸えない気がするし、足りないと脳が訴える。それでもディーナはこの場所に立っていた。
逃げ出したい気持ちは当然ある。貴族の矜持として逃げ出せない義務感もある。アサヒを囮にしながらも守りたいという矛盾も、またある。
「――……フゥー」
細く、長く、息を吐き出し、空を見上げる。
薄く雲のかかり、青天が僅かに白く染まっている。空気は冷たい。左足で地面を一度蹴って、自身の不安を消していく。
指の感触。木々の香り。自身の魔力の流れ。自分には過ぎた魔法式。危険性。仮定。仮定。仮定。
いつだってディーナは前を向いていた。そうする事を義務としていた。ゲイルディアという理由で、ディーナ・ゲイルディアという理由で。
一つひとつを積み重ねた。慎重に。臆病に。仮定を潰し、過程を経て、結果へと積み上げた。
その一つひとつを噛みしめるように瞼を閉じ、意識を集中させる。自身に魔力を循環させる。
小さな炉を灯し、思考を回し、瞼を緩やかに上げる。
この世界の魔法はプログラムに近い。
この世界の魔法は世界に魔力という通貨を支払い、現象を起こす物だ。
この世界は――魔力で出来上がっている。
全ての現象に魔法という法則を当て嵌めれば、全ての現象に魔力を孕んでいる、と仮定する。
生物もその一端であり、故に生物は、人間は魔力を保有し、そして魔法を扱う事が出来る。
故に――魔力という架空物質は世界に満ち満ちている。
全ての事象。全ての現象。一切合切。森羅万象。全て、全て、全て。
魔力を世界へと支払うのならば、世界はその魔力を溜め込んだ商人であり、銀行であり、金庫である。
全ては仮定である。けれどディーナにとってソレは確信に近い物であった。
基礎的な物理法則を無視した現象。
火が灯るのに酸素が必要であるように、この世界では魔力で火を灯す事ができる。
水が流れるのに重力が必要であるように、この世界では魔力で水を流す事ができる。
風が吹き荒ぶのに気圧差が必要であるように、この世界では魔力で風を吹かせる事ができる。
全て、全て、何もかもが魔力で解決ができ、そして魔力で作用させる事が可能で、魔力が全てに関わっている。
世界は――魔力で満ち満ちている。
灯った炉にある感触。自身が幾度も触れて既に慣れ親しんでしまった感触を今一度確かめる。
緩やかに自身を流れる風。それこそが自身の魔力であるとディーナは確信できる。だからこそ、それでは足りない。圧倒的に、何もかもが足りはしない。
足りない。ならば補填すれば良い。
魔力式を僅かに弄る。入力していた自身の魔力を
自身の中で何かが弾ける音が響いた。引き伸ばしたゴムが千切れるような、嫌な音であった。
熱が体を駆け巡る。酒精の強いアルコールが喉を焼く感触よりももっと強い熱が体を焦がす。
自身とは別の魔力が体を駆け巡るのが理解できる。
痛みも、熱も、ソレを正しく理解させてくる。故に、ディーナは嗤った。
自身の仮定が正しかった事に歓喜した。そして彼女の信に応えられる事に安堵した。
魔力が自身を中心に逆巻き、多大な魔力が自身を支配していく。
「コフッ」
何かが喉を刺激して、咳き込んでしまう。赤い液体が地面へとへばり付いたけれど、そんな事は
左手で顔を乱暴に拭い、魔法式を通している右腕を伸ばす。ブリキの様にギシギシと体を響かせる腕に無理やり力を込めて、乱暴に伸ばしていく。
関節の一つひとつがネジを強く締めたように硬く、錆びついたように音を鳴らし、棘が巻き付いたように痛みを訴える。
体には溶けた鉄が流し込まれたように熱が流れ、叫びたいような痛みが体を支配する。心臓が鼓膜に宿ったように激音が脳を揺らす。
歯を食いしばる。体の警鐘など関係ない。
願う事などしない。これは証明である。
シャリィ・オーべの理論が正しい事であると。
願う事などしない。これは立証である。
アサヒ・ベーレントの信に足る人物であると。
願う事などしない。これは真理である。
ディーナ・ゲイルディアは神を信じてなどいない。
「ディーナさん!」
アサヒの叫び声がディーナの鼓膜を揺らした。ディーナへと向かうオークが視界に映った。
指が鳴らされる。
右腕に熱が疾走り、軌跡の如く皮膚を割いて赤を咲かせる。右の視界が赤に染まり、暗転する。
オークは矮小な存在を叩き潰そうと腕を振り上げる。
けれど、全ては成った。
振り上げられたオークの腕がピタリと停止する。
オークの視界に白が舞った。季節も、気温も、何もかもを無視した白の結晶がオークの視界に舞う。
オークの目の前には血の匂いを強く醸し出す何かが立っていた。それは人間の女で間違いなかった。けれどもソレは決して人などではなかった。
青の瞳と極彩色の瞳がオークを捉えた。
自身の仮定が正しかった事を確認するように。自身の過程が正しかったと確認する為に。結果を待ち構えた。
空から一筋の極光が降り注ぐ。
地面に落ちた瞬間に白が地面を塗りつぶし、広がっていく。直下にいたオークなど意に介さないように、極光は降り注ぐ。
舞い上がった冷たい空気と白い煙がアサヒの視界を塗り潰す。視界を覆い尽くしている白から守るように腕を盾にして、それでも前へと向いた。
暫くして、白が晴れた。
吹き荒んだ風が白を吹き飛ばし、その中心に居たオークの姿を顕にする。
それは既に芸術品でしかない。白へと染まり、動く事もできなくなった、オークを象った氷像でしかなかった。
地面には空気を凍らせたのか、白が天へと手を伸ばすように生え揃って空間を隔絶していた。
そんな白の世界の中、唯一の金が揺れ動く。
白い棘の絨毯をシャクリと音を鳴らしながら歩き、白い吐息が細く宙へと伸びる。
赤に染まっていた腕をゆるりと上げれば赤が剥がれ落ちて白い肌が晒され、自身の結果を確かめるように氷像が撫でられた。
「――綺麗……」
思わず吐き出されたアサヒの呟きをかき消すように金属が擦れる音が聞こえた。幾つも重なった音にアサヒがそちらを振り向けば藪の中から見知った顔が姿を見せた。
「アサヒ! 無事だったか!?」
「リゲル!?」
現れた人は想い人であるリゲルであった。その後ろからはレーゲンと武装した騎士の集団。その全てが氷像を視界に入れて息を飲み込んだ。
「これは……ゲイルディア嬢が……?」
「ディーナ!」
アサヒから視線を外してリゲルは氷の絨毯を踏み荒らして氷像の近くにいたディーナへと走り寄る。咄嗟にディーナは顔を背けて、熱を持っていた右目と血を乱暴に拭っただけの顔を慌てて拭う。幸いな事に凍ってしまった赤は簡単に剥がれ落ちて普段通りの表情を浮かべる事が出来た。
右腕を体で隠しながらリゲルへと振り向く事が出来たディーナはなんて事のない顔をしながら困ったような表情を浮かべる。
本当は怒った方がいいのだろう。という事は理解している。けれど、どうにも心配そうな顔をしてこちらを向いているリゲルに怒る事はできなかった。自分なんかを心配してくれた嬉しさも、ある。
本当は仮にも許嫁である自分よりも恋心を優先してアサヒを一番最初にした事だとか、騎士団を連れてきたにしてもリゲル自身が来た事だとか、色々と言いたいことが思考を過ぎったけれど、ディーナはその全てを飲み込んだ。
「怪我は? 無事か?」
「大丈夫ですわ」
「……ディーナ、右の瞳が」
「――……大丈夫ですわ」
左手でスッと右目を隠し、瞼を閉じたディーナは静かにそう溢した。
リゲルは何かを言いたそうに口を少し開き、その言葉を飲み込んで、「そうか」と短く応えた。
「それで、後ろの騎士団の方々は? 思ったよりも随分と早いご到着ですわね」
「あ、ああ。偶然近くでヴァリーニ子爵が訓練をしていてな」
話を逸らすようにリゲルの背後へと視線を向けたディーナの問いかけにリゲルは辿々しいながら応える。
少しだけ考えるような素振りをしたディーナは納得したように頷く。
「そうですの……。何にしても助かりましたわ」
「俺達の助けなんていらなかったと思うが?」
「それは過剰な評価ですわ、レーゲン」
小さく息を吐き出してディーナは呆れたように首を振る。
果たして過剰な物か。単一でオークを圧倒し、殺しきった存在の評価としては過小と言ってもいいだろう。
「……あとは騎士の方に任せますわ。レーゲン、報告を任せてもよろしくて?」
「ああ。ゲイルディア嬢は休んどきな」
「お言葉に甘えますわ。それと、アサヒに治療を受けさせなさい。あの娘、どうせ怪我しても言わないですわよ」
「了解。そっちはリゲルに任せるか」
「そうですわね。リゲル様相手なら逃げもしないでしょうし、リゲル様も自分の行動がどういった結果を得るのかを認識していただかないと」
酷く痛んだ頭が更に痛くなった気がした。ため息で痛み全てを流してディーナはしっかりとした足取りで歩く。
痛みで叫びたい気持ちも、今スグにのたうち回りたい刺激も、奥歯で噛み締めながら、その場から逃げるように歩き去った。