生まれてからヒトに対して大きな負の感情を抱いたことは一度もなかった。
自身を取り囲む環境がそう育てたのか、接していたヒトが自身を隠すことが上手かったのだろうか。いいや、相手の思惑の表層は察することができたのだから後者ではないだろう。
相手の思惑がわかる。と言ってもそれが正しいかはわからない。自分を陥れようとしているヒトや自身をよく見せて取り入られようとしているヒトが多かったのは環境が原因なのだから、やはり理由は前者にあるのかもしれない。
それでも、たった一人だけわからないヒトが居た。
平穏を望んでいると思っていたのに自ら危険の渦中へと身を投げ込む。自分の幸せを祈っていた筈なのにソレを容易く他人へと渡した。
もう姉と慕うことを許されない、ディーナ・ゲイルディアはそんな人間であった。
彼女の能力であったなら容易く勝ち取れたであろう平穏も幸せも、売払い、汚名を買った。彼女が得た物はきっとそれだけだ。
結果として、許嫁であった兄が恋をしているらしい女が彼女の持っていたであろう全てを奪った。
目を細め、小さく息を吐き出して意識を逸らす。
全てを奪われた筈のお姉様を可哀想だとは思わない。それはきっと彼女に対しての侮辱になる。
お姉様は彼女の事を否定せずに、客観的に彼女を見てくれ。と願った。その想いはきっとわたしとあの女の関係が悪くなればソレを狙う輩も出てきてしまう。そうなればどちらかの立場が悪くなるだろう。
「おはようっ、スピカちゃん」
「おはようございます。アサヒさん」
笑顔を作って挨拶を交わす。この女は与えられた立場に満足しているのか、それとも持ち前の楽観からか、わたしと喋る時も笑顔である。
数ヶ月、実時間にしてみれば数日程この女の観察をしてわかった事がある。この女は実にわかりやすい。おそらく、私が出会った中で最もわかりやすい存在だ。
悪意が無く、害意が無く、純粋な感情で生きている。百面相の達人、と皮肉を込めれるぐらいにはころころと表情を変える。それも感情のある表層を見せるのだから、腹芸の出来ない人である事はすぐにわかった。
それこそお姉様とは真逆の存在である。
真意を隠し、外聞を掌握して、表面を僅かに見せる程度のお姉様。
真意を曝け出し、外聞を気にして、表層どころか真意まで見えてしまうこの女。
影で護衛してくれている娘から受け取った報告書ではこの女の事が書かれていた。それこそ危険性は無いと書かれていたし、実際に会って無害と断じられた理由もよくわかる。
彼女は楽観的であるし、裏表の少ない存在である。これであの女が全て計算尽くでお姉様の存在を除去したのならば、それこそお姉様よりも能力の高い存在である証明になるだろう。そんな事は無いけれど。
他愛もない世間話。明るい女らしい取り留めのない話。
思わず笑ってしまったのは、この女があまりにも楽しそうに話すからだろう。
「アサヒ!」
「あ、リゲル! またね、スピカちゃん! 勉強頑張って! ファイト!」
「アサヒさんも頑張ってください」
激励を言葉にした女はお兄様を前にしてよりいっそう笑みを輝かせた。
守護役であるレーゲン・シュタールも相変わらずの人懐っこい笑みを見せて、どうやら誂われたらしい女が膨れ顔を見せながら、笑う。
その笑みを見て、お兄様も柔らかく笑っている。
まるで日だまりのように、穏やかで、優しい空間だった。
その場所には本当は、お姉様がいた筈なのに!!
心がザワつく。
笑みの奥で歯を食いしばり、自分の心を抑えつける。これ以上、見ていればどうにかなってしまいそうだった。
左手首に付けている小さな石が連なった、今にして見れば不揃いなブレスレットを手で撫でる。お姉様が魔除けと贈ってくれた物を支えにして、心を落ち着ける。
贈られた時から片時も放さなかった大切な物。
これをしている間はお姉様と一緒であれる気がする。本当は隣にいて欲しかった。けれどそれは叶わない。
悔いはある。自分がもっと上手く動いていれば、という悔いはわたしの心に確かにある。けれど同時に現状が最善で無いにしろ、正しい事もわかる。
「……損な役回りですわ」
ポツリと吐き出した言葉が誰を指すのか、わたしですらわからない。
お姉様なのか、わたしなのか。それともお兄様なのか、あの女なのか。それとも他の誰かであるか。
何にせよ、お兄様がお姉様を手放した事はわたしにとって僥倖である事は間違いない。お父様への宣言もしたから大きく動いても問題は起きないだろう。
あの女の事はこの上なく嫌いだけれど、感謝もしている。彼女のお陰でお姉様を手に入れる事ができる。わたしだけのお姉様にする事ができる。それはきっと甘美な未来になるだろう。
どうせお姉様の事だからあの褐色も連れてくるだろう。それを拒むほどわたしは狭量ではない。
それに上手く調教してやればお姉様も褒めてくれるかもしれない。いいや、お姉様はアレでも独占欲の強い人だ。きっと取り上げてしまうとわたしを咎めるかもしれない。わたしが、叱られる? お姉様に?
「ふふっ」
漏れ出た笑いを微笑みに薄める。あのお姉様の瞳が絶望と欺瞞に染まり、けれど正しく敵意を向けてくるのを想像してしまった。
胸の底がぞわぞわと逆撫でられ、身が震える。
それはきっと堪らなく不快で、とてつもなく悲しく、途方もなくわたしを悦ばせてくれる。お姉様を独り占め出来た証明にきっとなる。
けれど、それはしない。少なくとも今は。する必要もない。雫が天から落ちるように、川が流れるように。だからあとは流れを逃さないように、石を置いていくだけ。そうすればお姉様はわたしの側に居てくれる。
本当は学校など行かずに貴族達へ根回しておきたかった。幾らか手中に治めなければ、
王族としての生活と比べれば学校のほうが幾分か動きやすくはある。わからない相手に対しても少しは隠す事ができるだろう。
「……ま、窮屈なのは変わりませんが」
それでも、何も問題はない。
あの女は警戒するに値しないし、お姉様の弟であるアレク・ゲイルディアもいる。何か問題を起こしたらしいけれど、お姉様が上手く隠したらしい。これを暴く事をお姉様との遊びだと思おう。そうしないとやっていけない。
それに、あの女には同情もしている。
これは女としてのわたしの感想であるし、王族としてのスピカ・シルベスタとしても思う。嫌いだけれど。
彼女がどう思おうと、彼女は波紋を起こす石になった。何が要因かはわからない。生まれ持った黒髪か、それとも彼女の本質か。別の何かか。それを推理するのも一興かもしれない。目的の片手間程度には考えてやろう。
石になった事は同情しよう。彼女の性格を考えても放り投げられた事も、同情してやろう。
ただ、それを許すかどうかは別の問題である。
精々、苦しんで、絶望して、お姉様に知られず、死んでくれ。