アサヒはその日、今までよりも晴れやかな気持ちで朝を迎えた。
未だに心に積もった物はあるけれど、それでも
王城に滞在しているアサヒは柔らかすぎる枕から頭を離し、両手を天へと伸ばす。
寝心地の良し悪しはさておき、慣れていない枕ではそれほど深い睡眠にならないアサヒは二度寝の魔力などは感じずに小さく息を吐き出してからベッドから降りて、絨毯の上に正座をする。
元来の日本人であるアサヒが集中出来る姿勢というのが正座であったから、という安易な理由でディーナから魔法を教えてもらってからは毎朝の習慣となってしまった行為。
窓から見える日の昇りかけた空を瞼の奥へと閉じ込めて、体内にある魔力へと集中する。
あの時のようにディーナに怒られないように、と初めて魔力を破裂させた翌日に頂いた説教を思い出しながら、アサヒは魔力へと意識を集中させる。
魔力という異物から違和感を取り除く。ある物を当たり前のように使う為に。触れた魔力が確かにある事を認識する為に。
数分ほどの習慣はあっさりと終わり、アサヒは大きく息を吐き出した。
先日までは、ここから悩む時間があった。けれど、それはもう無い。信じた事を信じればいい。
「……アサヒ様、よろしいでしょうか?」
「うん、大丈夫! おはようございます!」
ノックに即座に反応したアサヒは扉を開けたメイドに今日は無理やり作った笑みではなくて、自然と溢れた笑顔を向ける事ができた。
アサヒ・ベーレントの新しい日常というのは実に忙しい。平穏を享受していた倉嶋朝日という存在にとっては目まぐるしい日常とも言えた。
朝食を取ってからは教育の連続である。元々異世界に住んでいたアサヒは当然の如く貴族としてのマナーなど知らない。いや、形だけは知っていたけれど、それもハリボテでしかない。
そんな形だけのマナーと最低限の禁止事項だけであの婚約発表の舞踏会に立っていたのも隣にいたリゲルの補佐があってからこそである。
頭が痛くなるほどの情報量であったけれど、アサヒはゆっくりとではあったがそれを自身の物にしていく。尤も、アサヒはこの教育の事を躾と頭の中で言っている。
躾ではあったけれど、アサヒは煩く吠える犬ではない。ドレス着る貴族となり、負える義務が証明となった。
誰かと比べられる事はあった。当然言葉には出ていなかったけれど、まるで誰かの為に用意されていた王族としての儀礼説明を口早に説明された一度目の教育とそれに比べて随分と稚拙でゆっくりとした教育になった二度目からでアサヒは理解した。アサヒにとっては丁度いい速度の教育であったが、この時より教育は躾となった。
その誰かというのは理解が早く、ある程度の貴族としてのマナーを振る舞える存在。そして元から自分が立っている場所に立っていた人である。
そんな事、アサヒは簡単に気付く事ができた。
だから、メイド達を責めるような事もしなかった。自分にその権利は無い。
ともあれ、躾にも思える教育を終えれば別の躾が待っている。アサヒには王族に入るにしても足りない部分が多すぎる。それらを十全に、まるで元から知っているように、簡単に熟すことも出来ない。
この時ばかりはアサヒは現代に伝わる数ある物語に登場していた似た境遇の主人公たちを羨んだ。もしも、これが物語であったのならば一文で終わった事だろう。
彼女にとって現実であったし、『物語』の漢字すらこの世界には存在しない。
陽が昇りきった頃にようやく暫しの解放をされたアサヒは中庭へと急いで向かう。躾から解放された事もあるが、普段ならばもっと足取りは重い。肉体に感じる疲労度は据え置きであるけれど、精神的には足は軽い。
リゲルと話す事が嫌だったワケではない。それでも自分の中に引っかかる物はあった。それが解消されたのだ。だからこそ、アサヒはリゲルに言いたい事があった。
中庭に備え付けられたガゼボにリゲルは既に座っていた。既に政務についているリゲルが自由になる唯一の時間であり、その隣には幼馴染であるレーゲンも座りお茶菓子を食べている。
「リゲル!」
「アサヒか。今日は早いな」
「うん! ちょっと頑張っちゃった!」
「その調子で頑張れよ、アサヒ。リゲルの嫁になるんだから」
「わかってるよ!」
ケラケラと、からかうように笑うレーゲンの言葉にしっかりと返したアサヒは椅子に座り、リゲルを前にする。
カップを傾けながら仕事の事でも思い出していたのか、それとも苦かったのか、難しい顔をしていたリゲルはアサヒの視線に気付き、カップをソーサーに置いて口を開く。
「どうした?」
「ディーナさんの事なんだけど……」
「……やはりあの時、ゲイルディア嬢がお前に何かしたのか?」
「そんなことないよ! その、あの時にちょっとだけ話して」
「おいおい、あの悪女の話を真に受けたのか? あいつはオレたちを何年も騙して、お前の虐めの主犯だぜ?」
「違うよ! ディーナさんはそんな事しない! しない、と思う……」
自身の感情と心に嘘はない。信じているというのも本心である。けれどもレーゲンの言葉に尻すぼみになってしまう。
ここで自分が折れてしまっては、きっとディーナはもっと辛い所に行ってしまう。そんな確証もない予想が、アサヒを奮わせる。
「……レーゲン、少し外してくれ」
「ん?」
「二人で話をしたい」
「……それはいいが、言ってもオレは護衛も兼ねてるからな。近くにはいるぞ」
「ああ」
立ち上がったレーゲンは話に入らない事を示すように、ガゼボの屋根の外へと出る。
アサヒはレーゲンを横目で見送り、リゲルへと視線を戻す。目を細め、厳しくレーゲンを睨めつけるようにして、その表情を隠すようにカップに口を着けた。
「それで、ゲイルディア嬢の事だったが」
「うん。わたしは違うと思う」
「……あの時、ゲイルディア嬢にそう言われたのか?」
「ううん……。わたしがディーナさんを信じたいから」
客観的な意見ではない。それはアサヒだけの意見であり、心である。
あのディーナ・ゲイルディアが自分をイジメる筈がない、とは言わない。少なくとも、あの時ははぐらかされた。
単なる直感であった。それがあの時ディーナと話し、確信になった。
ディーナ・ゲイルディアは主犯ではない。
「……アサヒの主観で、ゲイルディア嬢を信じろ、か」
「ダメ、かな?」
「駄目だな」
「どうしてッ!?」
「お前が苛められていたという事実と、その主犯がゲイルディア嬢だという情報があるからだ」
アサヒに言い聞かせるように言葉を放つリゲルに息を飲み込む。
自分よりも長い日々をディーナと過ごしたというのに。ただ一点、アサヒ自身の為に。それだけの為に、リゲルはディーナを突き放す。
原因である自身。想ってくれるリゲルの気持ちもわかる。それでも、それでももっといい方法があったのではないか、と夢想してしまう。
アサヒは口を開けない。自分も要因である。だからこそリゲルだけを責めるのは間違えている。
それでも、ここで自分が折れてしまってはいけない。
沸騰しそうになる頭の熱は冷めはしない。口を開けばリゲルの事を「わからず屋」と罵りそうになる。
「……あのディーナさんがわたしをイジメるとは思わない」
「それはアサヒの気持ちだろう」
「違うッ! ディーナさんならッ! ……ディーナさんはそんなリスクを負わないと思う……」
そう。そもそもが間違っているのならば。
信じていた心が熱となり、頭が回転する。原動力に沿った、事実を並べただけの現実を、変換していく。
イジメの主犯であるディーナ。悪女と呼ばれる女。
自分を叱るディーナ。誰にでも厳しく、自分にはもっと厳しい
矛盾する。
賢い彼女が自らの墓穴を掘る。そんな事はしない。それこそ彼女には地位があった。権力があった。そして力も。
だからこそ、矛盾する。
人の口に戸は立てられないにしろ、それでも何かが変なのだ。
自分が耳にする噂話も、イジメてきた人たちが言う言葉も。どれもディーナへ罪を集中させるように……。
「……アサヒ、夜にちゃんと話そう。そろそろ教育の時間だろう」
「待ってっ!」
「大丈夫だ。アサヒ。
優しく語りかけるようにリゲルは言葉を零す。
アサヒはその言葉がすっと心に落ち、目を伏せてから「わかった」と呟いた。
夜までに、頭の中にある物を少しでも信憑性のあるものにする。きっとそれは正しい事だ。自分の妄想であったとしても、自分の信じたいという心が突き動かした幻想だったとしても。
思いを胸にガゼボから出ていくアサヒを見ながらリゲルはカップを傾け、その中身が無いことにようやく気付いた。
溜め息を一つだけ吐き出して体の力を抜く。
「アサヒも困ったやつだな。あのゲイルディアを信じるなんて」
「ああ……。どうにか落ち着くように話し合ってみるさ」
「まったく、女ってのはわかんねぇな! 自分をイジメてた奴だぜ?」
「……そうだな。比べてお前は単純そうで楽だよ」
「オレは戦えればいいからな!」
半ば皮肉めいた言葉であったけれど、戦闘好きの幼馴染にはさっぱり効かず、リゲルはわかるように溜め息を吐き出してから午後に差し迫る仕事へ意識を傾けていった。
アサヒの教育は時間の経過と共にアッサリと終了する。尤も、躾を受けていたアサヒにしてみればアッサリなどとは言えずにバッサリ「がんばりましょう」と言われたのだけれど。
普段よりも自分のやる気があったからか、それともリゲルに伝える言葉を考えていて少し上の空だったからか。とにかく疲れたアサヒはふらふらと王城を歩き、リゲルの私室へと向かう。
連れていくと言ってくれたメイドの申し出は断り、一人でふらふらと廊下を歩く。
ふらり、ふらり。
アサヒの意識は目の前にはなく、頭の中である。
リゲルに伝えたい。ディーナさんという人物の事。自分の感じた矛盾。
変なのだ。
辻褄があっているようで、おかしい。
もしも、仮に、今となっては微塵も思わないけれど、ディーナが自身のイジメに加担していたのならば。
あのディーナが本気で自分を貶めようとするのならば、あの時、オークとの戦いで巻き込んで殺せた筈だ。結果としてそれは事故になるだろうし、誰も怪しまない。
けれど、ディーナはそれをしなかった。
主観的な見方もあるけれど、客観的に見ても矛盾している。と思う。
それにディーナが本気であったならば自分はこの世にいないと思う。それは再三にゲイルディアの危険性を説いていた酒場で出会ったディンが言っていた事だ。
アサヒは考えはしたけれど、そのどれもがリゲルに言っても聞いてくれなさそうである、とも感じている。変な所で頑固だ、と口を尖らせても見せたがディーナがこの場に居たのならば「似た者同士ですわね」と嫌味っぽく言ったに違いない。
この場にディーナは居らず、ぶぅたれたアサヒだけが居るのだけれど。
そんなアサヒの前を誰かが横切った。
目を引いたのは自分の知っている人であったからだ。あの舞踏会で沢山ある挨拶の内の一つではなく、あの学校に通う前に一度だけ会ったことのある人。
イワル公。そう戸籍上の両親から言われていた人が足早に歩いていた。
見た目的にも温和で、喋った限り優しい人であった。それに文官職の重役であり、頭も良いのだろう。
そうだ。少しだけ相談に乗ってもらおう。
断られたのならば、足を止めてしまった事を謝って自分で考えればいい。
イワル公爵へ追いつくように足を進め、けれど走れば怒られるのだから早足で。きっと何かいい案を教えてもらえるかもしれない。
曲がり角を曲がったイワル公爵を見て、アサヒも同じく曲がったけれど、部屋に入った姿を見て機会を失う。さすがに仕事の邪魔をするように部屋に入る度胸は無い。
惜しかった、とアサヒは溜め息を吐き出して踵を返す――、返そうとした。
『ゲイルディアの件、どうですか?』
ピタリと、アサヒの動きが止まり、聞き間違いを疑いながらイワル公爵が入った扉を凝視する。
ゲイルディア。確かに聞こえた。聞こえた気がする。たぶん。
不安と葛藤、けれどももしかしたら自分以外にも矛盾に気付いた人がいるかもしれない。
アサヒは、そっと扉へと近づいて、耳を寄せる。
『ご安心ください、イワル公。万事順調でございます』
『聞き飽きた言葉ですね。幾ら貶めても気がつけば奴だけが無事だったのです。徹底しなさい』
『御心のままに。しかし、あのゲイルディアの娘はエルフとの交友ですか』
『だが、計画に支障はありません。娘が王の元へ向かった時は舞踏会の時です。持ち物も検査していました』
『ならばイワル公の計画も問題ありませんな』
『私の計画? 間違えないで頂きたい。陛下が勝手に死に、そしてあの王子がこの国を統べるのです』
『そしてイワル公はその裏で操る』
『忌々しいゲイルディアを排して、ですね。今度こそ、次こそは』
息が詰まりそうだった。
聞こえた話の内容は頭に入って、けれども信じたくなくて、けれども、もしも。
呼吸が浅くなる。けれど音を漏らしてはいけない。
足音を鳴らさずに、後ろへと足を引き、音を鳴らさずに、急いでこの場を逃げる。
聞いてしまった。
もしも、それが本当であったのならば。もしも、それが事実であったのならば。
リゲルに伝えなくてはいけない。
自分達が何に巻き込まれているかを。誰が起こした渦なのかを。そしてその結果、どういう未来が見えているのか。
アサヒは走った。次は怒られてもいい。怒られる前に、仲間を見つけなければならない。メイドでもいい。誰でもいい!
「っと、アサヒか。そんなに急いでどうしたんだ?」
「レーゲンッ!」
走るアサヒを受け止めたのは逞しい胸板であり、顔を見上げれば赤毛で爽やかな顔をキョトンと傾げたレーゲンであった。
共に学業を熟し、リゲルの忠臣であり、そして自分にとっても仲間だ。
「お願い、レーゲンッ! リゲルに伝えてッ、わたし達、巻き込まれてるのッ!」
「おいおい、どうしたってんだ?」
「イワル公爵が、全部全部計画してたのッ! 陛下の事も! ディーナさんの事も!」
「本当か!? それはヤベーな!」
「だから――」
急がないと、とは吐き出せなかった。
足を進めようとしたのに、レーゲン・シュタールがアサヒの腕を放さない。
アサヒはレーゲンの瞳を見た。慌てたような口調であったのに、その瞳は慌てた様子もなく、顔には笑みが浮かんでいる。
掴まれた右手。その人差し指に嵌った木製の指輪がレーゲンによって抜き取られた。
「どう、して……」
ニッと歯を見せて笑うレーゲンであるが、それどころではない。
その指輪があれば、その指輪さえあれば、その指輪がなければ――。
「返してッ!」
「っと、あぶねぇあぶねぇ」
聞こえる流暢な日本語。その声は確かにレーゲンの口から発音されていて、指輪がどういう物かを告げる。
「おや れえげんと」
レーゲンの後ろから現れたイワル公爵に息を飲み込む。けれども腕の拘束は解けず、逃げる事すら出来ない。
聞いた事のある、意味のわからない言葉。きっと今の今まで自分の口からも出ていたであろう言葉が、確かに
どうして。
どうして――!!
「おいおい、旦那ぁ。何アッサリとバレてんだよ」
「もんだいありません」
「本当かぁ?」
「ええ」
どうして指輪は取られた?
どうして自分は逃げられない?
現実が朝日の頭に事実を突きつける。否定などする余地もなく、ただ純然たる事実だけが、朝日に突き刺さる。
「なんで、なんで!」
「うるせぇなぁ」
「どうしてリゲルを裏切ったの!? 彼は貴方を信じているのにッ! あんなに仲が良かったのにッ!!」
「れえげん ゆびわをかしてください」
「あいよ」
目の前で渡される指輪を目で追いはする。けれど、抵抗など許さないようにレーゲンの拘束が緩む事はない。
イワル公爵は朝日に対して普段どおりに人の良い笑みを浮かべてみせる。
「さて、まずは安心してほしい。私は君の命を奪わない」
「どうして……どうしてこんな事を」
「そうですね。本当はもっと早かった筈だ。あのゲイルディアが邪魔し続けなければ私が玉座に座っていた筈でした」
「……全部、全部貴方の仕業なの?」
「ええ。私が全てを計画して、実行しています。貴女のイジメも、ディーナ・ゲイルディアを貶めたのも、あの時にオークで襲わせた事も。貴女が居てくれて、私の計画も順調に進みました。まずはその事に感謝します」
すっと頭を下げたイワル公爵は笑みを浮かべる。まるで喜劇を楽しんだ礼をするように、とてもいい喜劇であったと、笑う。
「わたしが、リゲルに言います……そうすればッ」
倉嶋朝日がリゲル・シルベスタに言葉を告げればいい。そうすれば全てが解決する。
「どうやって? 君の言葉は誰にもわからない。誰一人、この国に存在する人全て。正に、君は孤独になりました」
けれど、それは叶わない。倉嶋朝日はアサヒ・ベーレントとして振る舞う事を奪われた。
イワル公爵は顎に手を当てて、考えるような仕草をしてみせる。
「そうですね。これを機にこの国の言葉を学べばいい。そうすればリゲル殿下に気持ちを伝えられるかもしれない」
「――ッ」
「そう。それは遅い。全てが終わった後だ。君は全てを知りながら、無力で、孤独で、何も出来ない。もう一度君にはお礼を言おう」
イワル公爵は仰々しく、まるで喜劇の幕を降ろすように頭を下げてみせる。
「ありがとう。君は愚かで、無知で、扱いやすい、とても都合のいい人形でしたよ」
次挿絵のキャラは誰がいい?
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リヨース
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騎士ディーナ様
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シャリィ先生
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エフィさん