木の香りが強く鼻腔をくすぐる。
木製の湯飲みにいれられた水が自身の淡く反射している。
持ち上げた湯飲みを傾けて、透き通った水を飲み込み、ディーナはようやく来た目的の人物へと視線を送る。
「あらぁ、お久しぶりだわぁ。ディーナちゃん」
「お久しぶりですわ、エフィ様」
朗らかに笑顔を浮かべながら椅子に座ったエフィはディーナの右腕を見ながら目を細めた。
エルフであるから覚える違和感。人間という種族には不釣り合いの右腕。袖と手袋で隠れていても、違和感までは隠せはしない。
「随分と、進んでいるわねぇ」
「ええ。もう感覚のほとんどはありませんわ」
自身の腕である証明のように右腕を持ち上げては何度か開閉させる。手袋の上であるから、などと言い訳はディーナには必要ない。
触覚は既に消えた。こうして自由に動かせているのも右眼と自身の魔力操作によるものである。そうして失ったのも右眼と自身の魔力操作によるものであった。
「助けてほしい?」
「結構ですわ」
キッパリとエフィの申し出を断ったディーナは右腕に満足している。歪さを正しくしていき、結果的に失った感覚と比例してディーナの魔力は誤差が減った。
こうして手袋をしているのは見た目の歪さが原因でしかない。肩から指先まで、傷痕のように幾重にも走る
「それでぇ? 指輪を届けに来てくれたのかしらぁ?」
「指輪はまだありませんわ。私が死ぬまでには届けにきますわ」
「あらぁ、思ったよりも早く返してもらえそぉ」
エルフと人間の時間感覚の違いをエフィは経験をしている。それこそ幾度も。
ディーナという存在がこのまま生き続ければ、きっと経験した別れよりも早まるだろう。
代償、と言えばそうである。エルフとの契約は先延ばしにしただけで、彼女を正常にしていない。
そして、彼女はソレを望んでもいない。
「それじゃぁ、ディーナちゃんは従者も連れずに、一人で何をしにきたのかなぁ?」
「エフィ様に、魔法の教示を仰ぎに」
「ふぅーん?」
望んではいない。助けを求めてもいない。
それなのにディーナは答えを求めた。意図せずに正解へとたどり着こうとしている。
生への執着ではない。そんな物があれば、好き好んで人間が世界と契約などしない。
「リヨースではダメだったのかしらぁ?」
「彼女は感覚で魔法を使っていますわ」
「うんうん。エルフはだいたいそうだねぇ」
一握りのエルフが感覚で用いていた物をより洗練する。リヨースはまだ若いのでその域ではない。あと六十年ほど魔法を使い続ければ理解もできるだろう。
そのエルフの六十年ほどかかる問題。その解答の門へと手を掛けている。
エフィは笑う。確かに自身に問えば簡単かどうかはさておき、問題は解決される事をわかっている。それはディーナも感じていることだろう。
けれど、それでも。
「嫌よぉ」
「嫌、という事は
「ええ。きっとディーナちゃんが満足する答えを私は持っているわぁ」
「拒否する理由をお聞かせいただいても?」
「一つぅ、私が許しても他のエルフが許さないわぁ」
いまだに選民思想の強いエルフはいる。リヨースを倒したことは知れ渡っているが、それでもディーナという人間を軽んじるエルフは複数人いる。
それらを黙らせる労力のなんと多い事か。日常のお昼寝の時間が少し削られてしまう程である。
「……他にはありますの?」
「私に得がないわぁ。――アナタは指輪も持ってきていない。私よりも圧倒的に弱い。個人として恩もない。ディーナ・ゲイルディアは私に何をもたらしてくれるのかしら?」
柔和なエルフとしての族長の顔ではなく、エフィ自身の本質としての部分が顔を覗かせる。
シャリーティアとイイ関係であるディーナではあるが、それはエフィ本人とは関係がない。ここにシャリーティアがいたのならばまた話は変わったであろう。
それでもディーナは自身の師を連れては来なかった。単身でここに存在する。
「――エフィ様に得があればよろしくて?」
「ええ。もっとも、人間が持っているような物に価値は見いだせないけれど」
「そうですわね」
持ってきていた革袋の中から一冊の本を取り出したディーナは静かに机の上に置いた。それは変哲の無い本である。何かしらの特別な術式を施したわけでもない。単なる本。
エフィはその本を注視し、やはり価値がない物であると判断する。
「わが国に伝わる古文書の写しですわ。歴史学者いわく、建国と繁栄の記録ですわね」
「……ップッアッハッハハハハ! そんな物に価値があるって? ディーナちゃんは面白い事を言うねぇ。シャリーティアちゃんを返してくれるかなぁ?」
一頻り笑い、涙を拭ったエフィは柔和な口調でありながらも冷たくディーナの評価を落とす。
確かに、彼が建国した国は好きだ。それはディーナも把握している事かもしれない。それでも自分が見てきた事象を、思い出を記録として見る趣味はしていない。
あからさまに評価を落とされた事を感じながらもディーナは変わらず澄ました顔をして、改めて口を開く。
「エフィ様。二つ情報を提示しましょう」
「あらあらまあまあ! 結構、結構! ここから私がコレに価値を見いだせるかはディーナちゃんの言葉次第だわぁ」
『ええ、頑張ろうと思いますわ』
ディーナの言葉を聞いたエフィの表情が固まる。
百と六十と数年前から聞くことのなかった言語。もう聞くことはないだろうと記憶の奥底に大切な記憶と一緒に鍵をした言語。
たった一節でありながら、エフィは正しくその言語を思い出した。
目を見開き、ディーナへと視線を向ける。ディーナは変わらず淡々と口を開く。
『まず一つ目。私はもともとシルベスタ一世……サトウ様と同じ世界に居た存在ですわ』
「……待って、ディーナちゃん。ちょっと待ってもらえる? その言語は、ニホンゴと呼ばれるモノというのは理解しているわ。けれど、意味はつかめないの」
「では、こちらの言葉で改めて。私はサトウ様と同じ世界に居た存在ですわ」
エフィは納得したようにディーナを見つめる。彼女の魔力量もソレに起因している事なのだろう。あの人とは逆になっているけれど。
自分だけが感じていた歪さを理解したからこそ、突拍子もない発言もアッサリと吞み込めた。
「結構、結構。アナタの違和感が無くなったわぁ」
「あら、そこまで違和感を持たれる動きはしていなかったと記憶しているのですが?」
「私ぐらいしか気付いてないからねぇ」
「……まあいいですわ。アッサリと受け入れて頂けたようで何より」
「ええ。頑張って覚えようとした言葉だもの。彼に指輪を作ってから、あんまり聴けなかった言語だけれどぉ」
「急に惚気るのは――いえ、二つ目の情報を提示しましょう」
ディーナは机に置いている本を指で触れる。
歴史学者は建国と繁栄の記録と呼んだ古文書。
「コレは初代シルベスタ王の日記の写しですわ」
「……まあ、まあまあ! もしかして、元の本は固定化や他の術式もたくさん仕込んでいる本かしら!?」
「え、えぇ……あの時はまだ幼くて理解もできない術式でしたが……」
「まあまあまあまあ!」
緩む頬を抑えることもせずに歓喜と恍惚を表情に出すエフィに若干引き気味のディーナ。ディーナ・ゲイルディアに女心は理解できない。
対してエフィは百年以上も前に贈った物であるが、大切にされていた事に歓喜する。
彼が亡くなって、指輪の効力も失い、もう読める文字にはなっていないはずの本。そして彼が生きていた時に読むことを許されなかった本。
それが目の前にある。
「で、でも。ほ、ほらぁ、やっぱり彼に悪いしぃ」
「あの本はわが国の古文書であり、一般公開はされていませんが、歴史学者達の手垢が既に付いていますわ。今更一人増えて何か言うお方でもないでしょう」
「でもでもぉ」
「よろしいですか? エフィ様。かの初代シルベスタ王と私の世界では至言がありますの」
「な、なにかな?」
「バレなきゃ犯罪じゃないんですよ」
悪女の称号に恥じない笑みを浮かべてディーナはその言葉を口にした。
エフィにとって実に魅力的な本である事には間違いない。そして彼はきっとコレを読んだことを怒るけれど、許すだろう事もエフィには理解できる。
何より、既に彼は亡くなっており、今唯一彼との繋がりを明確にできるモノが目の前にある。
「……しかたありませんわ。エフィ様の意思に感服いたしました。私は私なりの方法で魔法を研鑽いたします」
スッと、机の上に置いていた本に手を置いたディーナの腕をエフィはとっさに掴んでしまった。右腕でなければディーナは痛みに顔を歪めていただろう。
とっさに掴んだ腕と本から視線をディーナの顔へと向ける。貴族から悪女と呼ばれる女は笑っていた。
「ディ、ディーナちゃんがそこまでお願いするなら、し、仕方ないわぁ」
「そうですわね。けれど、やはり他のエルフを抑える労力に見合う対価を私はお支払いできませんわ」
「他のエルフなんてへーきだわぁ。私が言えばすぐに黙るんだものぉ」
勝ったな。ディーナは心の奥底で勝利を確信した。
本から右手を浮かせば、童女がお気に入りの人形をそうするように本を慌てて抱え込んだエフィ。
「エフィ様」
「もう返さないわよぉ?」
「いえ、写しと申しましたが、一つだけ訂正しておきますわ」
「……なにかなぁ?」
「日本語の写しと――共通語で翻訳していますわ」
「私、ディーナちゃんのそういう準備がいいところ、とぉっても好きだわぁ!」
「――ということで、一ヵ月程オレが姉貴の代行となる。質問などはあるか?」
館の入り口、階段が扉の正面に構えられた場所で姉の代わりとして、その場所に立つことになったアレク・ゲイルディアが淡々とした口調で事実を告げる。
給仕人、執務官、警邏隊をまとめる数人。数えれば数十人程度である。
ある程度の混乱などを予想していたアレクであるが、そういったこともない。
「問題がないのなら、業務に戻れ。ご苦労」
その一言で給仕人も執務官達もアレクに一礼して自身に割り振られている業務へと忙しなく移動し、警邏隊士達は肩をぐるりと回したり、欠伸をしたりと思い思いに僅かな疲れを見せながら持ち場へと戻っていく。
アレクにしてみれば拍子抜けであるが、告げられていた通りである。
「ご苦労さまです、アレク様」
「……アレでよかったのか?」
「ええ、問題ありません。そうですよね、ベガさん」
「ええ、とても御立派でしたよ」
「世辞はやめろ」
自身の後ろに控えた白髪の少女と白髪の優男は補佐に就けられた二人である。少女の優秀さはこの数日で理解させられた。そして、その少女が認めるこの優男もまた同列なのであろう事はアレクにも予想できた。
少女と優男ともに笑顔なのが非常に気に食わないが、少女があまり感情や思考を外に出さないことを考えれば、この優男もまたそうなのであろうことはアレクにも理解できた。
一ヵ月。カチイにとって二度目の主不在である。一度目はディーナ・ゲイルディアの軟禁。そして二度目となる今は不在でありながら弟であるアレクがこの場にいる。そう考えれば以前の方が問題点があったと言えるだろう。
その問題点もディーナが出立前に修正を施している。
アレクがディーナに任されたのは「大きく動かさなければ何をしてもよい」という何とも大ざっぱな指示である。
補佐として就いた二人であるが、これが監視であることをアレクは理解している。
何をしてもよい、という文言をそのまま受け取ってはいない。姉による試験、そして二人は試験官であり、監視者である。
全てを否定する気はないが、自身が姉から期待されているという言葉は十二分にアレクにとって重圧となっている。
比べ続けられた姉と自分。常に先にいる姉。
領地を既に任されている姉。騎士団にいた自分。
慢心があったと認めているが、決闘でも負けている。勝てると思った決闘。自身こそが強者であると思い込んでいた。けれど、姉は容易く弟である自分を打ちのめした。
他者から呼ばれているように、間違いなく。
姉は化け物であった。
普段はディーナが使っている椅子に座り、アレクは小さく息を吐き出した。
間違えてはいけない。ここで間違えたところで貴族として終わりは迎えない。人としての終わりも迎えない。けれど、間違えば自身よりも遥か先にいる姉に追いつくことができなくなる。
少しは背が見えてきた影がより遠くなる。
「……」
「なにか?」
「……なんでもない」
机の上に静かに置かれたカップを視線を落としてから、置いた本人である姉の従者へと視線を向ける。
褐色の肌に深い青髪。表情の読めない従者。姉が手ずから育てた片割れ。
そして、アレク自身の罪の象徴である。
読めない表情が、何も言わない口が、向けられる青い瞳が。その何もかもが苛立たしく映っていた。
暴を振るったことは否定しない。それは真実だ。
暴を向けたことに弁明はない。それは弱さであった。
小さく溜め息を吐き出して、カップを持ち上げて口を付ける。
香りの高い紅茶は舌に甘味と少しの渋みを残して喉を温める。
「……美味いが、少し苦く感じるな」
「お嬢様の好みですので。調整なさいますか?」
「いや、いい。お前は姉貴の従者だろう」
毒でも仕込まれていたのならば、自身が引っ掛かっているこれも嚥下できただろうに。
変わらず、何を考えているかわからない無表情。人を写すような瞳。
あの時感じていた苛立ちは、今は感じない。
今思えば、なぜ暴を振るったのか。
顕示欲。支配欲。苛立ち。色々と自身で決着はつく。
「あの時は……すまなかった」
「……」
「いや、これはオレが満足する為の言葉でしかないな。忘れてくれ」
「お判りのようで幸いです」
「……姉貴は口が悪い人間しか雇わないのか?」
「……お嬢様は能力さえあれば出自を加味せずにお雇いなさるので」
ふと窓から外を見たアマリナにアレクは眉間を寄せる。
自身が優秀だからこそ、優秀な人間を集めているのか。そういう人間が姉の元に集まるのか。アレクにはわからない。
何にしろ、謝罪は贖罪たりえない。
わかりきったことであるが、言葉に出てしまった。
「あー……その、なんだ。何かあれば言ってくれ。オレができることであるなら叶えよう」
贖罪というわけではないが。それでも貸しはある。償いきれない罪がある。
自刃しろと言われればアレクは困り果てるが、命に関わること以外であるならば、自身にできることであるのならば叶えようと思う。
これもまた傲慢であるが。今の自身にできることはこの程度である。
「……そうですね。では一つだけ」
「ああ。なんだ?」
「お嬢様――ディーナ様をお止めください」
その言葉にアレクは停止する。
止める? 姉を?
不正や様々な事柄が自身の中に駆け巡り、アレクはアマリナへ視線を向ける。
怒りなどの感情ではないことはわかる。負の感情ではない。
反旗を翻そうとしているわけでもない。そうであるのならば、止めるという言葉ではないだろう。
何を思っているかはわからない。
何が起こっているかもわからない。
姉が何をして、何を思い、何をしようとしているかも、自分にはわからない。
「――わかった。最善を尽くそう」
けれど自身には罪がある。
これが贖罪となるとも思えない。
けれど、この従者が――この兄妹が姉のことを想い続けていることは知っている。
だから、アレク・ゲイルディアは伸ばされた手を掴んだだけだ。
次挿絵のキャラは誰がいい?
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リヨース
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騎士ディーナ様
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シャリィ先生
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エフィさん