俺には仲の良い同期がいた。
まあ、奴とは出会った当初、馬が合わなく、顔を合わせる度に喧嘩ばかりしていたけどな。それも仕方ねぇだろう。片や俺のような不良、片や超真面目堅物男。まさに火に油。性格が正反対すぎた。そのせいなのか少し話しただけで口論からの殴り合いになるのはザラにあったものである。しかし、警察学校で互いに競い合ううちに認め合うようになり、気がつけば唯一無二の親友になっていた。不思議なものだ。
(あの馬鹿と熾烈な成績争いを繰り広げたせいで、俺は主席で、あいつは次席で警察学校を卒業するに至ったっけ)
今思えばアホ過ぎる争いである。しかし、そのお陰で俺は公安になれた。勿論、俺の親友もだ。公安所属になった後も俺達は協力し合い、共に戦った。奴と一緒の仕事ならなんでも上手くいったものだ。その活躍の目覚ましさから、周りからは『凸凹コンビ』なんていう渾名を付けられていたほどである。
だからこそ、俺達は油断した。
愚かにも、俺達なら何でも出来ると過信しすぎたのだ。
その油断の代償を払ったのが親友自身だった。
あの事件はあまりにも辛すぎて少々語りたくはない。だが、一つ言えるのは、俺達はミスをしてしまった。初めは小さなミスだったが、後々それが大きなミスになったのだ。それにより俺達は拳銃を所持した何十もの敵から逃げる羽目になったのである。
お互いに悪態を吐きながら、必死に俺達は逃げた。だが、逃げても逃げても状況は悪化するばかり。
結果、俺達はどちらかが囮となり、一人だけでも生き残って情報を持ち帰ろうという作戦を実行する羽目になったのだ。どちらが囮役――――つまり、死ぬ役になるか口論になったが、最終的にその役になったのは俺だった。理由は親友の方が俺よりも足が速かったからである。それが決まった瞬間、俺は安堵の息を吐いたものだ。
(俺が囮役になれてよかった。こいつは俺なんかよりも余程日本に貢献できるだろう。こいつなら安心して後を任せられる)
俺はじっと親友を見た。奴はグッと眉間にしわを寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をしている。俺なんかよりもずっとずっと苦しそうだった。それを俺は笑い飛ばす。
「辛気臭ぇ顔すんな! 死ぬと決まったわけじゃねぇ。また後で会おうぜ! ちゃんと情報持ち帰れよ。任せたからな」
「勿論だ。――――任せたぞ」
親友は少しの間、躊躇した。何度か意味のない足踏みをした後、クルッと俺に背を向け走り出す。いつもよりその走りは速い気がした。小さくなる背中を見て、俺は目を細める。そして、小さく笑った。
「頼んだぞ」
だが、この時、俺はおかしいと気がつくべきだった。何度後悔してもしきれない。どうして気がつかなかったのか。あの馬鹿が俺が囮役になることをあの程度の口論で納得したことに。あいつが去り際に「任せた」などと言った理由に何故、気がつけなかったのだろう。
親友は俺に『殿を任せた』訳ではなかった。奴は俺に――――…
――――日本の未来を任せたのだ。
俺はあの後、奇跡的な生還を果たす。そのことに喜びながら仲間の元へ戻るも、親友はそこにはいなかった。慌てて他の奴らに確認するが、誰も見ていないと言うのだ。嫌な予感がした。頼む、外れてくれ。そう考えながら、親友を待った。そして、数時間後、奴は帰って来る。
物言わぬ、亡骸として。
親友はシートを被せられ、仲間に運ばれてきた。奴は公安内でもガタイがよかったため、シートを被せられても直ぐにあいつだと分かったものだ。悲痛な顔をしている仲間達を視界に入れながら、俺は覆い被されたシートを捲る。やはりと言うべきか、親友がそこにいた。口から血が垂れたまま、眠るように穏やかすぎる表情で死んでいたのだ。
「おい、何で寝てんだよ」
声がみっともないくらいに震える。親友が死んだ事実を俺は受け入れることができなかった。目眩がして地べたに座り込む。ぐらんと世界が回った。吐き気がして、身をかがめる。
それと同時に俺の胸からマイクロフィルムが入ったネックレスがこぼれ落ちた。カシャンという金属音を聞いて、耳を疑ったものだ。あいつに渡したはずのネックレスの音がしたのだから。
「一体、いつ、どうやって…」
目ン玉をかっ開き、息をするのを忘れる程に俺はそのネックレスを見つめた。ガチガチと歯が鳴る。震えは全身に広がり、痙攣のようにガクガクと震え続けていた。
そして、ジワジワと胸の内に広がるとある感情。血の気が引くほどの絶望感と驚愕。そんな感情を味わったのは初めてだった。俺はポツリと呟く。
「囮は俺じゃなかった。あいつだったんだ…」
泣くことも、嘆くことも出来ずに俺はただ唖然としていた。ひたすら親友の亡骸を見つめ続けていたものだ。同僚に無理やり引っ張られるまで俺はずっと座り込んでいた。
(どうして、)
気持ちの整理ができなくて、四六時中ボーッとしている日々が続いたぐらいだ。仕事と寝る時以外はずっと俺は空虚を見つめていた。
死にたかった。何も出来ずに親友を死なせてしまった自分が憎かったのだ。確かにあの場面ではどちらかが犠牲にならねば全滅していただろう。だが、何故お前が死ぬんだよ。俺で良かっただろ。どうして嘘なんかついたんだ。どうして――――。
どれほど疑問を持とうとも、親友の死は変わらない。あいつが何を思って死んでいったかなど、どんなに考えようとも分かるはずもない。この思考は全てが無駄。それは分かっていた。
だが、理性と感情は違う。感情はロジックでは語れない。感情すら制することのできぬ己の未熟さに血反吐を吐きそうだった。
「俺にできることは、」
俺に出来ることは、あいつが守ろうとしたものを守るだけ。
生きて、日本を守ることだけなのだ。
それだけがあの馬鹿に助けられた俺に出来る唯一の贖罪。
そのことだけを考え、俺は怠惰に生き始めた。今思うと死ぬように生きていた日々だったと思う。死を恐れずに危険な事件へ飛び込んで行った。その危うさに流石の上司も同僚も心配になったのだろう。何度も何度も窘められ、俺が死なないように配慮してくれていた。本当に彼らには頭が上がらない。
そんな時に出会ったのがあのガキ――――零だったのだ。
零を見た瞬間、こう思った。「俺に似ている」と。あまりの衝撃に泣くこともできない馬鹿で不器用で救いようのない人間。そう思ったのだ。
しかも、俺も高校の時に親を亡くしており、『未成年の頃に両親が死んでいる』という部分まで零と同じだった。勿論、小学生の方が高校よりもショックがデカく、大変だと思う。だが、その時の俺はどうしようもなく零に親近感を抱いていたのだ。だからこそ、俺は思った。
(こいつを引き取ろう)
俺に似た子供には俺と違う道を歩んで欲しい。
俺が目指した未来へ辿り着いて欲しい。
そう考えのだ。
これは俺のエゴだ。愚かにも俺は自分が出来なかった可能性を見たいがためにガキを引き取ろうとしていた。零の未来を完全に無視し、自分の願望を押し付けようとしていたのだ。なんて浅ましく、なんて恥知らずなのだろう。
しかし、理性が自分を支配するよりも前に俺は零の手を既に取っていた。その行動に何度も自己嫌悪をしたものだ。
(だから、俺はずっと自分に嘘をついてきた…)
『零を引き取ったのは奴を虐めて自分の鬱憤を晴らすため』と、俺は己自身にそう言い聞かせた。最低クソ野郎を敢えて演じることで、俺の最も醜い部分を覆い隠そうとしたのだ。例えるなら、少し汚れている車の近くにもっと汚い車を置いて、初めの車を目立たせないようにするような感じである。「こっちよりは余程マシだ」と思えるように俺は自分自身に嘘を吐いた。汚いものを汚いもので隠したところで何ら変わらないのにな。
だが、何の罪もない零を虐めていくのは流石に辛いものがあった。
その償いが小学校の弁当作りだ。
可愛らしいお弁当ばかり作っていたのは、零の両親が残したレシピにそれしかなかったからである。どうにも奴の親御さんは子供が好みそうなファンシーな弁当ばかりを作っていたみたいだったのだ。独身歴が長い俺はそこそこ料理ができるため、罪滅ぼしにレシピ通りに弁当を作り始めた。
(矛盾しているのは分かっている)
『零を引き取ったのは奴を虐めて自分の鬱憤を晴らすため』という体をとっているのに、こんなことをするなど。俺は本当に何をしたかったのだろうか。今でもこれを考えるだけで恥ずかしくて死にそうになる。
零へ様々な弁当を作った。一つ一つ丁寧に作った。だが、零は俺の弁当を食わなかった。当たり前だ。俺みたいなやつの弁当を食いたいわけがない。
しかし、ある時、急に零が俺へと空になった弁当箱を持ってきたのだ。驚いたさ。一体、どんな心境の変化があったのかと。驚愕を隠せないまま零の目を見る。そして、目を見張った。
アイツの瞳はもう死んでなどいなかった。
両親の死を受け入れ、前に進もうとしている者の目をしていたのだ。
このことに気がついた刹那、俺は痺れた。雷に撃たれたような衝撃に襲われたのだ。
(このガキは、零は俺なんかよりもずっとずっとずっと強い)
俺と一回りも二回りも年齢が違う未成年の子供。そいつが既に立ち上がっている。その事実に言葉を失ったものだ。このガキは、零は、精神構造が俺とまるで違う。傷つき、絶望の淵に落とされようとも何度でも立ち上がる不屈の精神力を持っている。例え、一度足を止めることがあったとしても、こいつは何回だってまた歩み始めるのだろう。
こいつは俺となんか似ていない。
零は『零』という立派な人間なのだ。
そう考えた時、俺は初めて零に敬意を持って奴の目をしっかりと見据えた。そして、俺は気がつく。
「ああ、なんだ、お前はこんなとこにいたんだな…」
俺はその時、零の瞳の奥に親友の姿を確かに見た。もう何処にもいないと思っていた親友は、『不屈の精神』を持つ者と共に存在したのだ。気がつけば俺は零を抱きしめていた。
そう、きっとあの時、始まったのだろう。
零が大声を上げて泣いた瞬間、新しい俺が産声を上げたのだ。
それからというもの、俺はできるだけ零と共にいるようになった。奴の親代わりとして生き、零へ恩返しをしていこう――――そう思ったのだ。
だから、零がやりたそうにしていることは全てさせた。零が寂しくないように家へ頻繁に帰るようになり、それに加えて、積極的に有給も消化するようにもなった。上司達はそれを見て安心したように笑っていたものだ。
(まあ、でも、今までの傍若無人な零への態度は恥ずかしくて改められなかったけどな!)
しかも、救えないことにその態度を改める機会を見失い、ついにこの歳まできちまった…。何してんだよ俺…。ツンデレかよ…。そのせいで零の名前すらまともに呼んだことねぇんだけど…。後、俺が暴言を吐くたびに零が「わかってるよおじさん!」というようにニコニコしてくんのが辛い。やめてくれ。俺はツンデレじゃない。
まあ、そんな感じの零との生活は楽しくて楽しくて。もう零の為に生きていると言っても過言ではなかった。
――――だから、これはきっと報いなのだ。
己の浅ましさを忘れた俺への。
腹に手を当てる。手の間からゴポリと血が流れ出た。止血しようとも止まることを知らないその血に俺は舌打ちを零す。先程と同じようになんとか動こうとしたが、やはり力が入らない。もうダメか。そう思った瞬間だった。
「おじさん…!」
零の声がしたのだ。思わず耳を疑った。重過ぎる瞼をなんとかこじ開ける。
幻聴か? 頼む、そうであってくれ。アイツが俺のせいで死んだら、それこそ俺は俺が許せなくなる。
零の存在を否定したかった。だが、瞼を開けた先にはやはり零がいた。俺はその刹那、死にかけであることを忘れ、唸り声を上げる。
「テメェ…何で来た…?! ここは危険だ…! 殺されるだけで終わるならまだしも、捕まり、情報を取られたらどうする気だ…!」
「俺がそんなヘマをするわけないだろ」
「なんつー危ねぇことを…! 馬鹿かお前は!」
「馬鹿なのはおじさんだろ! 何、死にかけているんだ! ――――本当に、何で死にそうになってるんだよ…」
零がぐしゃりと顔を歪めた。そして、奴は動けない俺の腕を取り、自分の肩へ腕を回そうとする。しかし、既に力が入らない俺の身体はスルリと簡単に滑り落ちた。零はゆっくりと瞳を見開かせる。唖然とした様子で俺を見下ろしてきた。その姿を見た俺は静かに口を開く。零に言い聞かせるように窘めるように言葉を発した。
「帰れ」
「嫌だ。まだおじさんは生きている」
「お前も分かっているんだろう。俺はもう駄目だと。なあ、頼む、行け――――零」
「…ッ!」
「お前と暮らせてよかったよ。ありがとう」
この時、俺は初めてこいつを『零』と呼んだ。零を引き取ってから何年も経っているというのに呼べなかったその名前。初めて発したはずの奴の名は、何故だか自分の舌にとても馴染んだ。
零、れい、降谷零。
ゼロと称される公安警察として相応しい名前だ。
最後に俺が「ありがとう」と告げた刹那、零の目からボロッと涙が流れ落ちる。次々と奴の瞳から涙という涙がこぼれ落ちていった。零はわなわなと口を震わせる。そして次の瞬間、ギュッと唇を噛み締めた。震える手で俺を担ぎ始める。「死なせない。死なせないからな」と何度も何度も繰り返しながら零は歩き出した。奴の背中に全身を預けながら、必死にこじ開けていた瞼を俺は静かに下ろす。
(本当に本当にありがとう)
この言葉だけは絶対に言いたかった。エゴまみれのこの俺を慕ってくれたこいつにだけは。零のお陰で俺は変われたから。お前がいなければ、きっと俺は闇を彷徨い続けていただろう。
そこまで考えて俺は小さく笑った。零からずるずると鼻をすする音が聞こえたからである。
(何だお前、まだ泣き虫が治ってなかったのかよ。小学校で卒業したんじゃなかったのか)
最後に零の涙を見たのは小学校の卒業間近だ。あんまりにも泣き虫だったから、「泣き過ぎると俺みてぇな警官になれねぇぞ」と言ったのである。それを聞いた零は酷くショックを受けた様子で、「もう泣かないからな!」と宣言。その宣言通り、零は泣くことはなかった。もう何年も泣かなかった零が泣いている――――その事実が俺の胸へ刺さる。
意識が朦朧とする中、零の声が俺の頭の中で響き渡った。
「俺も貴方と暮らせて良かったよ。引き取ってくれてありがとう。だが、まだ貴方はここで死んではいけない。頼むから死なないでくれ…
――――父さん!」
やっぱり零、お前は気に入らねぇ。
こんな俺を父と呼ぶなんて。
馬鹿野郎。俺もお前のこと――――
その言葉が発せられる前に俺の意識はブラックアウトした。
闇の中へ落ちていく