【完結】ゼロを虐めてやった   作:だら子

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前編(降谷視点): 「おっさんと手を伸ばす降谷」

 

俺、降谷零は人生最大の危機的状況の中にいる。

 

――――自分の額に銃が突きつけられているのだ。

 

しかも、その拳銃を握っているのがジンである。それだけでも悪夢だというのに、右腕の骨は折れ、全身傷だらけという体たらく。逃げようにも逃げることが出来ない状況だった。唯一の救いといえばジンもまた傷だらけだということか。だが、俺が不利なのは変わりないだろう。

 

ジンはボロボロの俺を睨みつける。奴は地を這うような声色で言葉を発した。

 

「良くもまあここまでやってくれたな、バーボン、いや、国家の犬が!」

「おや、何の話でしょう?」

 

吠えるジンに対して意味もなくすっとぼけて見せる。そんな俺の態度にジンの睨みは更にキツくなった。それを見て、場違いにも俺は腹を抱えて笑いたくなったものだ。あのジンがこれ程までに苛立っている――なんて傑作なのだろう! だが、自分が今、置かれている状況も大概傑作だな!

 

どうしてこんなことになっているのか?

理由は簡単。

 

――――黒の組織との全面対決中だからだ。

 

つい最近、組織の全貌が明らかになった。それにより、不本意ではあるが、本当に不本意ではあるが、公安警察はFBIと協力することになったのだ。

俺達は組織を一網打尽にする計画を立て、実行。しかし、腹立たしいことに、ジン率いる幹部陣によって部隊の分断をされてしまった。一応、万が一に備えて何通りも策は考えていたのだが、甘かったらしい。

 

あまりの失態に舌打ちをしたくなる。やはり一筋縄ではいかないな。しかし、その苛立ちを抑え、俺は不敵に笑ってみせた。それが不愉快だというようにジンは声を荒げる。

 

「この気に及んでトボケる気か。いけすかねぇ…! だが、まあいい。お前はここで死ぬんだからな」

「……ッ」

「あの眼鏡のガキとアメリカの犬を庇ったのがテメーの最大のミスだ」

 

確かにその通りだ。

彼らさえ庇わなければ俺はこんな状況に陥らなかっただろう。

 

組織の手によって部隊がバラバラになった後、俺はコナン君、赤井秀一の二人と行動することになった。三人で必死に組織のボス追いかけていたところ、ジンや他の構成員達と遭遇。結果、俺は囮となり、二人を逃したのである。

 

(最後までコナン君は躊躇していたな…)

 

ボンヤリとコナン君を思い出す。俺が囮になると言った時、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしていたっけ。何度も俺を引き止めようとしていた。しかし、俺の意志が変わらないことを悟ったのか、コナン君は覚悟のこもった目でこちらを見据えてきたのだ。

 

「安室さん! 必ず来てね!」

「死ぬなよ」

「僕が死ぬとでも? 必ず追いつく!」

 

そうして、俺はコナン君とFBIを見送った。普通ならば赤井秀一もいるとはいえ、守るべき子供に全てを預けるなんて正気の沙汰ではない。ましてや態々俺が囮となり、彼らを庇うなんて。

 

(だけど、どうしてだろうな)

 

何故だか分からないが、あの少年ならば必ずやってくれると思えるのだ。あらゆる理屈や理由もなしに俺は心底そう信じることができた。なんなら、命すら賭けていいと思っているのだ。何故なのだろう。何故、俺はここまであの子を――――。

 

そう考えていた時だった。ジンがゴリッと俺の額へ更に拳銃を押し付けてきたのだ。奴は口角を歪に上げる。

 

「アイツらもお前の後で始末してやるよ。地獄で会えるようにな」

 

ジンが引き金を引こうと人差し指を動かす。やけにそれがスローモーションに見えた。その刹那、走馬灯のように次々と脳裏に懐かしい顔ぶれが過ぎる。死んでいった仲間たち――――松田、萩原、伊達、景光が浮かんでは消えていった。

 

この時、初めて俺は彼らに申し訳ない気持ちになる。あいつらの代わりに日本の行く末を最後まで見るつもりだったというのに。もう皆の下へ行くことになるとは。

 

ごめん、萩原。

ごめん、松田。

ごめん、伊達。

ごめん、景光。

 

本当にごめん――――…

 

(――――おじさん)

 

仏頂面の男の幻影が目の前に現れた。

ネイビーブルーのスーツを着たその男にひどく懐かしさを覚える。

 

最後の最後で思い出したのは自分の育て親だった。

 

 

 

 

 

 

俺、降谷零には父親が二人いる。

 

一人は血の繋がった実父。

もう一人は成人まで俺を育ててくれたおじさん。

 

おじさんと出会ったのは両親の葬式の時だ。当時、小学生だった俺は葬式の最中、ただ静かに座っていた。涙も流さず、不満すらも漏らさずに。

それが親戚連中にとっては気味が悪かったのだろう。当たり前だ。俺だって親が死んだというのに、その子供が無表情であれば不気味だと思う。親戚達は一様に眉をひそめながら「私があんな子を引き取るなんて無理よ」「俺もだよ」とヒソヒソと話していた。

 

(彼らの言うことは正論だ。どうして両親が死んでいるのに泣けないんだろう。どうして、俺は、)

 

ああ、ヒーローがいたらいいのに。画面越しにいつもキラキラ輝くヒーローいれば。でも、ヒーローなんていなかった。本当にヒーローがいたなら、俺の両親は生きていたはずだ。

 

世の中のあんまりな現実に目の前が真っ暗になる。俺はギュッと拳を握りしめた。親戚達の言葉に頭がクラクラしてくる。吐きそうなくらいに気持ち悪くなった――――そんな時だった。

 

 

「子供は俺が引き取ります」

 

 

一人の男のぶっきらぼうな声が聞こえたのは。

 

まるで仕方がねぇなというような声だった。ため息混じりのその言葉に俺は特に何も思わなかったものである。他に感情があるとすれば、そうだな、『ああ、ようやく決まったのか』という少しの安堵だけだ。あの親戚達の言葉はもう聞きたくなかったから。

 

男は強引な手つきで俺を引っ張り、連れて帰った。男の家らしき場所に着いた後、彼は直ぐにこう言ってきたのだ。『俺はガキが嫌いだ』と。恥ずかしげもなく、俺を『厄介者』として扱う彼に、逆に清々しさを感じたものである。お前、仮にも子供にそんなことを言うのかと。

 

(最悪な人に引き取られたな…。それでも、感情をハッキリ見せてくれるだけましか)

 

――――そうして、俺とおじさんの生活は始まった。

 

彼は我が身の可愛さ故、俺に虐待等はしなかったが、非常に口煩かった。やれ風呂に入れだの、やれ、着替えろだの、大声で怒鳴りながらこちらの世話をしてきたのだ。何故か分からないが、彼は俺に常に付きまとってきた。それが迷惑だったものである。

 

(おじさん、いつも俺を不機嫌そうに見ているくせに何で放っておかないんだろ)

 

俺はおじさんに興味のカケラもなかったが、彼の謎の行動に首を傾げたものだ。嫌いなら嫌いで別に構わない。どうしてこんな不利益なことをするんだろう。うーん、仮にも義息子だから、みすぼらしい格好はさせたくないとかか? よく分からない。

 

(まあ、でも、害はないし…。おじさんの好きにさせておくか)

 

幼いながらも俺は理解していた。恐らく、他の親戚へ行っていたのなら、もっと悲惨な目に遭っていただろうことを。それを自覚していた俺は仕方がなくこの男の世話になっていた。

 

 

そんなある日だった。

俺が殺されかけたのは。

 

 

俺を殺そうとしたのは連続幼児殺人魔である。当時、盛大にテレビで報道されていたその男に俺は捕まってしまった。

理由は集団下校の途中で、俺は勝手に一人になってしまったからである。下校メンバーにいじめっ子がいた為、どうしてもそいつらと一緒にいたくなかったのだ。

 

集団から離れ、一人ぼっちになった俺を連続幼児殺人魔はあっさりと誘拐した。犯人はどうにも俺に薬品を嗅がせて気絶させたらしい。目が覚めたら倉庫の中にいて、ビックリしたものだ。しかも、日はとっくの昔に落ちたのか辺りは真っ暗。加えてロープで身動きが取れない。最悪な状況に愕然とした。

 

(どうする…?!)

 

持てる全ての力を使って逃げるため、子供なりに必死に考える。なんとかしてここから脱出しなくては。早く、早く、何か案を――――しかし、その思考は直ぐに中断させられてしまう。近くからしてきた物音によって。

 

コツコツと足音をたてながら、覆面の男がこちらへ歩いてきたのだ。それだけでも恐ろしいというのに、奴は右手に凶器を持っていた。覆面の男はニタニタと笑みを浮かべつつ、こちらに話しかけて来る。

 

「初めまして、坊や」

「ヒッ」

「今から殺してあげるね」

 

何の理由もなく、何の前触れなく、死が訪れた。突然襲いかかる『死』に俺はついていけない。それでもたった一つだけ俺の心にはある感情が浮かぶ。

 

それは、『疑問』だった。

 

(俺は普通に生活をしていたはずなのに。どうして死にそうになっている?)

 

どうして。どうして。俺は何もしていないのに。

 

そう、俺は理不尽な目に遭っている事実に対する疑問を強く抱いた。

 

引き攣った声が口からこぼれ落ちる。みっともなく身体が震えた。逃げろと全身が叫んでいるというのに何故か身体が動かない。その事実に唖然としながら俺はもがこうとした。死にたくなかったのだ。俺はただひたすら震える手を天へ向かって必死に伸ばした。

 

(だれか、助け――――ッ)

 

そこまで考えて、俺は唇を噛む。口にするはずだった言葉をグッと飲み込んだ。だって、悟ってしまったから。目をそらすことのできない現実を悟ってしまったのだ。

 

 

助けを呼んだところで、叫んだところで、

 

――――誰が俺を助けてくれると言うんだろう。

 

 

両親はこの世にいない。親戚連中からは疎まれ、学校でも『ハーフ』という理由で虐められている。一体、どこの誰が俺を心配してくれるというのだ。誰が助けるというんだ。この世界は俺に優しくない。この世界は理不尽だ。俺は何もしていないのに両親はいなくて、虐められていて、こんな目に遭っている。そうだ。この世には、

 

(ヒーローなんていないんだ)

 

そんなことあの葬式の時に知ったはずじゃないか。何で俺は希望なんて持っていたんだろう。

 

そう考えた刹那、全身からフッと力が抜ける。伸ばした手をゆっくりと下ろした。

ああ、そうだ。俺がもがく必要はない。誰にも望まれない俺が生きたところで意味はないだろう。きっとあの男も、俺が死ねば清々するはず。

 

殺人魔が俺へと振り下ろす刃を落ち着いて見つめる。スローモーションで落ちて来る刃物がキラリと光った瞬間だった。

 

 

――――誰かが俺の手を取ったのだ。

 

それと同時に鮮やかなネイビーブルーが目の前に現れる。

 

 

「テメェ何してやがる」

 

聞き慣れた男の声。ぶっきらぼうで、愛想なんかまるでなくて、口煩い男の声が聞こえてきた。

 

その時、えも言えない感覚が喉までせり上がってくる。無性に叫びたくなった。唇はわなわなと震え、握り締められた手が熱を持つ。先程とは違う感情が自分の胸の中で暴れまわった。荒れ狂うような激しい感情。幼い俺はその感情にどう名前をつけていいか分からなかった。

 

(ああ、)

 

俺は心の中で抑えきれない感情をため息と共に吐き出す。鮮やかなネイビーブルーのスーツを自分の目に焼き付けた。時が止まったかのような感覚に襲われる。気がつけば俺は自然とその男の名を呟いていた。

 

「おじ、さん、」

 

酷く掠れた声が発せられる。息をするのも忘れて、ひたすらネイビーブルーの男を見つめていた。おじさんに痛いほど握り締められた自分の手が震える。

 

――――不思議なことにもう恐怖はなくなっていた。

 

理由は分からなかった。おじさんが来たことに安心したのか。それとも、殺人犯から逃げることが出来たからなのか。或いは両方なのか。複雑で、ごちゃごちゃしていて、思考がめちゃくちゃだった。正直に言うと、救出後の記憶は曖昧である。しかし、これだけは確かに覚えていた。

 

おじさんの手の温もりを。

 

温かくて、握り締められた手が痛くて、でも、その手を離せなくて。そんなゴツゴツとした大きな彼の手の温もりだけは覚えていた。曖昧な記憶の中に熱烈に、強烈に、こびり付いた垢のように残っていたのだ。

 

――――そして、気がつけば事件は終わり、次の日にはいつもの日常に戻っていた。

 

おじさんは相変わらず口煩いが、事件については何も言わず、何も怒らない。かといって、「心配した。よかった!」とも言わなかったのである。だからこそ、改めて疑問に感じた。

 

(この人は一体何がしたいんだ…。何を考えているんだ…?!)

 

おじさんが理解出来なかった。どうして彼は俺を助けたんだ。どうして彼は俺を引き取ったんだ。どうして――――そう考えた時、不意に目に入ったのがお弁当箱だった。

 

「ああ、そういえばあの人、毎日お弁当を渡してくるよな…」

 

最近の俺は食欲が本当になかったのと、おじさんへの意地返しに、いつもお弁当をそのまま彼へ返していた。最初は何を言われるか身構えたものだが、不思議なことにおじさんは何の反応もしなかったのだ。「ああ、そうかよ」だけで終わったのである。それ以来、ずっと俺は渡された弁当を突き返していた。

 

その日、何故か分からないが、俺はお弁当を手に取り、蓋を開けていた。そして、驚いた。

 

「これ、俺の家の弁当だ…」

 

なんで、どうして。

 

蓋を開けた先にあったのは、所謂、キャラ弁と言われるお弁当。可愛らしくて、ファンシーで、最近は学校へ持っていくことが恥ずかしかった、俺のお弁当だったのだ。

 

それを見た瞬間、俺は自然とお箸を手に取っていた。もうとっくに昼食の時間は終わり、学校から帰宅しているというのに。俺は『そう』することが正しいかのように箸を動かした。小刻みに箸が震える。眉をひそめながらコロッケを箸で摘んだ。そのままひょいと口にコロッケを入れ込み、咀嚼する。モグモグと口を動かしていたが、段々と咀嚼の速度は遅くなっていく。それもそうだろう。

 

 

――――だって、俺は泣いていたから。

 

 

「うぇ、」

 

歯でコロッケを潰すごとに目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。一つ、また一つと涙の数は増え、気がつけば数えることが出来ないくらいになっていた。鼻水は出て、えずきながら食べる俺は不恰好極まりなかっただろう。だが、口を動かすことはやめなかった。だって、だって、同じだったから。

 

両親が作ってくれたお弁当と、同じ味だったんだ。

 

「おとうさん、おかあさん…」

 

もうこの世にはいない俺の両親。会うことは二度とできない俺の父と母。本当に、本当に、もう俺は彼らと話すことは出来ない。抱きしめてもらうことも、頭を撫でてもらうことも。色鮮やかに残っていた懐かしい映像が脳裏で何度も再生された。何度も、何度も。

 

次々と流れ行く記憶にギュゥと胸の辺りの服を握りしめる。胸が痛くて、涙は止まらなくて、頭がどうにかなりそうだった。

 

そして、俺はぼんやりとする頭で唐突に葬式での出来事を思い出す。

 

(ああ、そうか。あの時、あの葬式で俺が泣かなかったのは――――)

 

認めたくなかったからだ。

認めてしまえば、泣いてしまえば、本当に両親と会えないと思ってしまったからなんだ。

 

今考えると本当に馬鹿な理由だろう。だが、俺はどうしようもなく、そう思ってしまっていた。泣いても泣かなくても、両親の死を認めても認めなくても、父と母が死んだ事実は変わらないというのに。

 

「ごめん、おとうさん、おかあさん。ごめん、ごめん、泣かなくて、ごめん。認めなくて、ごめん。俺はまだ二人と一緒にいたかったよ…」

 

この時、ようやく俺は両親の死を受け入れた。どうしようもなく、愚かで、馬鹿で、恥知らずな俺は、ようやく、ようやく、彼らの死を認めたんだ。

 

本当に俺は馬鹿だ。受け入れなきゃ、前へ進めないだろう。俺は生きている。なら、二人がいなくても生きるしかない。生きるしか、頑張るしかないんだ。例え、死の淵に立たされようとも、不幸のどん底に落とされようとも、どんな理不尽な目に遭ったとしても、俺は足掻かなければならない。躓いて、泥だらけになって、ボロボロになっても、自分という世界と戦わなければならない。

 

生きる、ために。

 

泣いて、泣いて、泣きまくる。この感情が悲しみなのか、不甲斐ない自分への怒りかまでは分からなかった。だが、一つだけ分かることがある。俺は生きなきゃいけないってことだ。

俺は必死にお弁当を口へ詰め込む。食べ物が喉を通り、胃へ落ちていくごとに『生』への実感が湧いた。

 

(馬鹿、馬鹿、馬鹿。俺の馬鹿。おじさんの馬鹿)

 

この馬鹿げたお弁当を作った張本人へ意味もなく暴言を吐く。そうでもないとやっていられなかった。泣きすぎてぼんやりとする頭にネイビーブルーのスーツの男が過ぎる。

 

(おじさんの馬鹿野郎。普通、おとうさんとおかあさんの味がを出せるわけないだろ。何で出せてんだよ)

 

おじさんは俺の父と母には会ったことがないはずだ。そんな彼がこんなお弁当を作れるわけがない。本来ならばあり得ない。あり得るはずがない。けど、あり得ないのに、あり得てしまっている。

 

これが意味する事実に俺は気がついてしまった。気がつかざるを得なかった。どうしようもないく、ありきたりで、凡庸な真実にたどり着いてしまったのだ。

 

(ああ、そうだった…。おじさんは…)

 

おじさんは決して俺を見放さなかった。どれほど文句を言おうとも、どれほど無愛想だろうと。決して、決して、俺の手を離さなかったのだ。確かに彼の言葉こそ自分勝手ではある。

 

だが、おじさんの行動は俺を守るものであった。

それは目の逸らしようのない『真実』。

 

おじさんは不思議な人で、正直なところ意味が分からない部分が多い。『どうして俺を引き取ったのか』すらもイマイチ不明だ。でも、でも、それでも俺はいいと思った。

 

あの時、あの場所で俺の手を取ったのは――――

紛れもなくおじさんだったから。

 

本当のことを言えば、俺を助けてくれるなら、おじさん以外でも良かったのかもしれない。しかし、俺を守ったのはおじさんだった。他の誰でもなく、おじさんただ一人だったのだ。

 

(ちゃんと謝りにいこう…)

 

空になったお弁当箱を見つめる。そこには米粒一つすら残っていなかった。ゆっくりと蓋を閉めたあと、俺は立ち上がる。泣きっ面で、情けない顔を隠そうともせずに、おじさんの下へ向かった。部屋から出て、リビングへと足を進める。

 

「おじさん」

「あ? なんだよ」

「これ、返す」

「は?」

 

リビングのソファーで寝そべっていたおじさん。彼は面倒臭そうに起き上がり、俺の方へと顔を向けてくる。そんなおじさんへ俺はぶっきらぼうに弁当箱を突き出した。

 

――――その瞬間、おじさんはポカンとした表情を曝け出したのだ。

 

彼は食い入るように俺の顔、いや、瞳を見つめ始めた。目をまん丸く見開き、ありえないものを見るようにこちらを射抜く。そして、郷愁にかられたような表情をした。まるで俺を通して『何か』を見ているようだったのだ。一瞬、それに俺は面食らう。まさかそんな『目』をされるとは思わなかったからである。

 

(一体、何を、)

 

見ているんだ。そう思う前に、おじさんは何かを小さく呟いた後、びっくりするような大声を上げて笑ってみせた。本当におかしくておかしくて仕方がないといった風に笑い出したのだ。それにより、先ほどの疑問も簡単に吹き飛んだ。

 

「ハハ! ようやく俺様に屈したか! ガキが大人に敵うと思うなよクソが!」

 

その時、俺は初めておじさんに抱きしめられた。

 

身体が痛くなるほどの抱擁。通常通りであれば、「痛い! やめて!」と言っただろう。だが、何故だかその痛みがずっと続けばいいのにと思っていた。温かくて、苦しくて、涙が再び溢れるくらいには心地良かったのだ。俺もまた力一杯に彼を抱きしめ返す。そして、腹に力を入れて、声を上げた。声を上げて泣いてみせたのだ。

 

この日、ようやく声にならなかった叫びが音となって零れ落ちた。

 

多分、この日だ。この日、降谷零は生まれ変わったのだ。

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