突然の話で悪いが、俺は転生によってこの世界に生まれた、らしい。
天国だか地獄だか分からない、色の無い、見渡す限り俺以外の存在も果てもない空間が、俺の最初の記憶だ。
そこで俺は、神だという声に従って、来世を享受することに決めた、らしい。
らしいらしいと言わざるを得ないのは、決定したという実感と、前世の記憶がないからだ。
どうやら俺は転生するにあたって、『前世での記憶を消去してほしい』と願ったようなのだ。
だから俺の人格は生まれる前、つまり前世での人格と連続していない。
前世で死んだ理由も、転生することになった経緯も、前世の記憶を消したかった理由も、そして来世であるこの世界のことも何も知らない。
どうやらこの世界は、前世においてはとある創作物の世界であったようなのだけれど、全く記憶にない。
しかし記憶はなくとも精神と一般的な知識は保持したまま、というバランスの悪い状態で俺は生まれ、再び人生を歩むこととなるのだった。
さて、俺の名前はゴンという。
この名は実を言えば、親から貰った名ではない。
俺が物心つき、転生したという事実や前世で習得した知識を思い出すその前に、不幸にも捨てられてしまっていたからだ。
両親がどんな理由で俺を捨てたかもさっぱり分からないまま、俺は気付けば今の名前で、スラムで暮らしていた。
前世も含め、自分という存在が何なのか分からないままでも、なんとか生きていけるものなのだな、と今になって思う。
街の名前はピドナ、裕福な層が住む新市街とそうでない旧市街、両者が東西で住み分けている街だ。
新市街は貴族や裕福な市民が暮らしている、俺から見れば眩しいほどに真っ白で煌びやかな場所だ。
対して俺の住むスラムは西の旧市街の中でも掃き溜めのような場所で、時折暗い路地に子供が捨てられていく。
その捨てられる場所というのは大体決まっていて、旧市街でもあまり人が近寄らない、魔物の巣窟にほど近いところ。
巣窟は、魔王殿と呼ばれている。
聞いた話では、魔王殿は六百年も昔に世界を闇に染めた魔王の居城なのだという。
魔王の力が今も働いているのか、魔王殿には
不思議と魔王殿の外には魔物は現れないが、そんなところに捨てられた子供など、つまりは死んでくれと頼まれたようなものなのだ。
これがまだ何も知らない子供の精神だったなら、『そういうもの』として諦めきることができたかもしれない。
けれど残念なことに、転生者である俺は、平和な世界が存在するという知識と、人間が(それなりに)善であるという理想とを有してしまっていた。
加えて幼い子供の弱い心ゆえに、俺が身に受けた現実とのギャップは相当なものだったのだ。
そんな訳で魔王殿前に捨てられた子供たる俺は、人生だとか将来だとか、あるいは人の優しさだとかを諦めつつも渇望していた。
矛盾する面倒な感情を持て余していた俺を、救ってくれた人物がいる。
その人物とは、何の因果か旧市街に住居を移したミューズ様と、その護衛シャール師匠である。
ミューズ様の父親は軍人にしてピドナでも有数の権力者だったらしく、その娘であるミューズ様は筋金入りの御嬢様。
さらには生まれつき体が弱く、いつも床に臥せていて外出すらままならない、まさに深窓の令嬢である。
そんなお嬢様が何故旧市街に、という疑問は、父親が権力者『だった』という過去形が答えである。
現在二桁にも達しない年齢の俺が訊くのも憚られて詳しいことは知らないのだが、どうやら権力争いの末、父親を失ったらしい。
そして娘であるミューズ様は、父親の死を切っ掛けに旧市街に逃げてきた、という次第のようだ。
実際に家が没落したかどうかは不明だが、静かに暮らすミューズ様を見る限り、貴族社会には戻らないつもりなのだろう、と俺は推測している。
シャール師匠はミューズ様の護衛を務めている様子を鑑みるに、ミューズ様の父親に忠誠を誓った部下、といったところだろうか。
シャール師匠の振る舞いからはミューズ様自身への忠誠というより、護衛を任務として全うしているような、義理堅い印象を受けるのだ。
そんな二人の素性までは知らずとも、偉いとこの御嬢様が隠遁生活を始めたらしいという噂は当然、スラムに一瞬で広まった。
当時の俺は、前世の知識を悪用してスラムで狡猾に生き抜くことだけを考えていた、屑な子供だった。
だから迷わず、スラムで最低な生活を享受している子供たちと共に、御嬢様の屋敷を襲い金目の物を奪おうと画策した。
計画は一瞬で破算し、決着した。
元とはいえ軍人、しかも術戦士であったシャール師匠は、いとも容易く俺たちを無力化してしまったのだ。
目の前で仲間が炎に巻かれていく光景は十分すぎるほどにトラウマものであり、抵抗の意思を根こそぎ焼き払った。
実際に炎が焼いていたのは衣服だけで、ごく短時間の熱と若干の衝撃による失神くらいしか身体には被害がなかったのだが。
そんなこんなで身柄を拘束された俺たちだが、ここでミューズ様を様付けで呼ぶようになる出来事に繋がる。
なんと襲撃者たる全員を許し、挙句の果てに身寄りのない奴らを屋敷で引き取るとまで言い出したのだ。
彼女を底抜けの阿呆というか、天井知らずの聖人というかはさておき、もとより生殺与奪の権利を奪われている俺たちには選択肢がない。
貧しくとも家族のいる子供たちは釈放されていき、俺を含む天涯孤独な数人の子供が、ミューズ様の屋敷で暮らすこととなる。
後に女神の住む家とすら呼ばれる屋敷での生活は、俺の中の世界を瞬く間に一変させた。
環境がどうの、とかいうレベルの話ではない、前提が違うのだ。
何処かから奪うか、誰か持つ者に従うかしなければ、その日を生きる糧すらも手に入れられなかった、スラムの生活。
それを思えば、大人が子供を養うべしという正論の下、見返りも何もなく食事を与えられるなんて事は、異世界のルールにすら思えるほどだった。
勿論、転生者である俺はミューズ様の厚意を、単に恵まれた人格者の行為、と理性で捉えることもできたろう。
だが、実体験としての最下層の日々は、ミューズ様の優しさが沁みて心に痛みを訴えさせるほどには、俺の精神をがさがさにしていたのだった。
ミューズ様を一人助けるシャール師匠の姿も、俺の目には強く印象付けられた。
臆面もなく言うならば、人間の素晴らしさという価値観を、二人に教わったのだ。
子供たちが望むなら、言葉の正しい使い方、文字の読み書き、計算などもミューズ様は教えてくれた。
国語の授業代わりに絵本を読んで貰うのはさすがに遠慮したが、俺もこの世界の言葉や習慣といった有用な知識をありがたく享受した。
転生者の精神と子供の幼さが入り混じった結果だろうか、ただ与えられるのに満足などできるはずがなかった。
師匠という呼び名が定着したのは、ミューズ様を守りたい、と子供ながらに宣言した俺に、苦笑しながら戦いの稽古を請け負ってからだ。
シャール師匠は軍に所属していた頃、槍と朱鳥術に長けた優れた術戦士ではあったらしいが、しかし今の実力には陰りがあった。
戦いの知識や術の扱いは兎も角、利き腕に深い怪我を負っていて、実戦で使えるほどには武器を取回すことができないのだという。
戦い方を教えてくれという子供の戯言を真に受けたのは、自身がミューズ様を守りきれないかもしれない、という懸念からだろうか。
体の鍛え方から始まり、穂先の無い木槍での槍術訓練、派生して剣術や体術、杖術…………というか棒術なども僅かながら教えて貰った。
刃のついた武器を扱うのはまだ早い、というシャール師匠の言葉はおそらく、下手な自信を付けさせない為なのだろう。
若干の物足りなさを感じながらも、しかし実力の無さを炎の記憶とともに身に染みて感じている俺は、師匠との訓練を地道に続けていた。
それが束の間の安寧だと、気付くこともなく。