スラムの子供たちはミューズ様の施しを受けて、犯罪やその手伝いを止め、次第に子供らしく遊ぶようになっていった。
施しといっても、大した事をしている訳ではない。
ほんの少しの思いやりを、周囲の人間に隔てなく掛け続けている、それだけの善行だ。
けれど、『それだけ』で街は変わっていった。
精神的な豊かさ、心の余裕といった形の無い支えが、旧市街には全く欠けていたのだ。
そんなある日のことだ。
俺も子供らと混じり、他愛もない平和を噛み締めていたのだが、夕刻になって皆の雰囲気が変わる。
かくれんぼをしていた子供の一人、ミッチが見つからないことに気が付いたのだ。
最後の鬼であった俺は、皆に町中を探すように頼んだものの、しかし日が落ちかけても誰も見つけることができなかった。
焦燥の中、もしかして、と誰かが言った単語は、最悪の可能性を想像させるものだった。
魔王殿。
旧市街でかくれんぼをするならば確かに最適な隠れ場所で、同時に最悪の選択でもある建物だ。
時には観光に訪れる者もいる建造物であり、中に入りさえしなければ大きな危険は無いとされている。
だが一歩足を踏み入れれば魔物が襲ってくる、駆け出しの冒険者が腕試しをする程度の強さでしかないが、幼い子供には十分な脅威となるだろう。
さらには、賞金をかけられたお尋ね者や拠点を失った盗賊などが身を隠すこともあるという。
それに、もしも深くまで降りて行ってしまったならば、大人数人でも太刀打ちできないような獣人や悪魔に出遭うかもしれない。
魔王殿の危険性は、稽古の合間にシャール師匠から強く言い含められていたのだった。
俺は同じく屋敷に住む子供の一人に、ミッチが魔王殿に入り込んでしまったかもしれないと、シャール師匠へ伝えるように頼んだ。
そして唯一の武器である木槍を片手に、俺は一人で魔王殿へとミッチを探しにいった。
この時はまだ、内部まで探しに行こうだとか、魔物とまともに戦おうだとかは考えていなかったと思う。
けれど、教わった技、鍛えた力が、人を助けるのに使えるかもしれないという状況は、それだけで慢心を生む。
不運だったのは、本当に俺が強くなっていたことだ。
探し人の名を叫んで入口へ近づくうち、重厚な扉が僅かに開いているのを目にして。
その開き具合が、まるで小さな子供が入っていけそうなくらいだ、と思ってしまった。
同時に、暗い隙間からちらりと覗いた醜い顔がゴブリンのものだと視認した途端、思考が飛んだ。
地を蹴り、身に付いた技を使うこともなく、驚愕に見開いたゴブリンの片目を、ただ全力の突きでドスリと一気に貫いた。
先に刃があろうとなかろうと、十分な速度で放たれた槍が柔らかな急所に入れば、魔物であってもダメージを受ける。
ゴブリンの口から悲鳴が漏れる前に、眼窩から引き抜いた槍を縦に回転させて、扉の隙間を軌跡に脳天を一撃で叩き伏せた。
遠心力で穂先から撥ねた体液を頬に浴びながら、自分が魔物とも戦えることを、俺は知ってしまった。
自惚れた俺は、気配を殺して
何匹も一度に相手をするのでなければ、シャール師匠に鍛えられた力は、確かに魔物ともやりあえるほどになっていたのだった。
運が良かったのか、他の種族の魔物やゴブリンの上位種であるブラザーとは対面することなく、壊れかけた大階段を降りて行けた。
そうして子供の隠れそうな場所はどこだろうかと探すうち、とある蜘蛛の巣がかかった部屋に入ってしまったのだ。
中でうろついていたのは先ほどまでと同じくゴブリン、その背後では風を纏う精霊、かまいたちという魔物が俺を睨み付けていた。
まずは前衛であるゴブリンを倒そうとするが、予想外の苦戦を強いられる。
その理由は、ゴブリンの後方からかまいたちが放ってくる術攻撃に対処する必要があったからだ。
ゴブリンが二匹いたところで、どちらも武器の棍棒を振るい向かってくるだけだが、この精霊は違う。
遠距離攻撃である
何より、受け流すことのできるゴブリンの打撃と違い、無形の投矢はなかなかに速く、槍で受けることすら難しかった。
積極的に動き回りながら守勢に回るものの、攻撃の目を見つけない限りジリ貧であることは変わらない中、なんと事態は悪化した。
二体目のかまいたちを、目の端に捉えてしまったのだ。
この時、意を決して逃走するという手もあったはずである。
目的であるミッチの捜索を思い出せば、怯えたにしても幼い子供がわざわざ魔物のいる部屋に籠るはずがない。
複数の魔物や悪意のある人間に連れ去られたとしたら、俺一人では力不足に決まっている。
けれど、戦いの刺激と勝利の高揚に酔った俺は、あえて部屋の奥へと床を軋ませつつ駆けた。
そして、腐った床に開いていた大穴を一足に飛び越して、魔物どもを置き去りにするという決断をしてしまった。
単純な力なら兎も角、移動という意味でのゴブリンの脚力は大したことがない。
そして浮遊しているかまいたちだけが床の穴を超えて俺に向かって来れば、先ほどより有利に戦えると判断したのだ。
結論から言えば、愚考だった。
かまいたちは――――二体のかまいたち「たち」は顔を見合わせ、ゴブリンという前衛を盾に、大穴を隔てて待ち構えるという作戦に出た。
つまるところ、完全に逃げ場を失った状態で、倍の量の遠距離攻撃を相手にすることになってしまっていたのだった。
前衛のゴブリンは的である俺の近くにはいないから、躊躇いなく術を撃つことができるが、俺は回避する以外に防御手段を持たない。
失策を悟ったが、既に遅い。
窮鼠の如く決死の突撃をするのでなければ、ただ甚振られながら己の体力が尽きるのを待つしかない。
短い人生において最大に次ぐ後悔を胸に、俺は死の足音を再び聞いた気がした。
ああ、勿論、最大の後悔というのは師匠の炎を前にした時である。
不意に透明な羽根が俺の目の前を過ぎたかと思うと、かまいたちたちは攻撃をやめた。
朱鳥術の一つ、フェザーシール。
それは、対象にした味方の姿を消して敵から狙われないようにする、シャール師匠の得意術の一つだ。
かつてミューズ様の屋敷を襲った際に、床に臥せていた人物が急に見えなくなったことを、俺はぼんやりと思い出していた。
標的を見失った魔物たちは、殺気を感じたのだろう、後ろへ振り向くも大した意味は無い。
三体の魔物は殺気の主を視認する前に、瞬く間に両断され、虚空に弾け飛び、顔面を貫かれた。
俺は安堵から槍を取り落とし、腰を抜かして、深い深い息をつく。
救援――――しかし、誰だろうか。
術を掛けてくれたシャール師匠は兎も角、魔物を一撃で倒すほどの技量を持つ人が、三人も。
そう考えていると、大穴をひょいと飛び越えて、見知らぬ青年が大丈夫かと手を差し伸べた。
少し逆立った、草原のような緑髪。
長剣を携えた立ち姿は、男の子なら誰もが憧れ目指すような、鍛え抜かれた剣士のそれだ。
しかし、どうして、本当に何故なのだろうか。
彼の柔らかな微笑みが、まるで御伽話の魔王の、歪んだ表情に思えてしまったのは。
駆け寄って来たシャール師匠に抱きしめられながら、魔物を倒したのは青年の仲間たちだと知らされる。
礼を言い、ミッチが既に見つかっていたことを知り、シャール師匠に本気で一発殴られてから。
いとも気軽に、それじゃあ、と緑髪の青年が提案した言葉は、今も忘れられない。
「このままアラケスのとこに行ってみようか!」
御伽話における最大の怪物の名を出して、彼は笑みを醜く深めた。