地獄を垣間見たあの日から幾日が経っただろうか。
死んだはずのユリアンは、俺の前に姿を現した。
ユリアンではない者の姿で。
あの迂遠な自殺につきあった、ユリアンの仲間だった女性。
ウンディーネという名の妙齢の玄武術士が、ミューズ様の屋敷に訪れた。
ともにユリアンに付き従っていたもう一人の仲間も、彼女の後ろに立っている。
悪いが今は忙しいのだ、とシャール師匠が息巻くと、目を細め、言った。
夢魔に侵されているミューズを助けに来た、と。
背筋が震えたのは、誰にも口外していない事情を知られていたから、それだけではなかった。
怖気が走るような彼女の笑みは、緑髪の青年剣士のそれと、実によく似ていたのだ。
屋敷に暮らす子供の一人が、見知らぬ男に薬を貰ったのが今朝のことだ。
病弱なミューズ様に届けてくれ、と渡されたそれは、人を夢に囚えるという夢魔の秘薬だった。
知らず、子供の善意に包まれた悪意を、ミューズ様は受け入れてしまった。
シャール師匠が気付いた時には、ミューズ様は助けの及ばない夢の中。
救うためには自らも夢へ入り込むしかないと決心したまさにその瞬間、ユリアンの亡霊は戸を叩いたのだった。
シャール師匠の言葉によれば、夢魔とはその名が表すように、夢に巣食う魔物なのだという。
夢の中の登場人物として、入り込まれた人間の弱い心を鋭く突くように姿を変える。
肉親、恋人、敬愛する人物ーーーー多くは二度と会うことの出来ないはずの死者の姿で現れ、立ち向かう心すらを奪うのだ。
本体が魔物である以上、倒さなければ夢から醒めることはない。
夢に囚われた者を助けようにも、倒すべき夢魔は夢の中。
夢魔の秘薬を煽り、自らも夢に入り込まなければならないということになる。
下手を打てば、ミイラ取りがミイラになるが如く、被害者が増えることになりかねない。
そして生命維持装置どころか点滴も無いこの世界では、目覚めぬ眠りと死は限りなく近いのだから。
どれほど優れた術士でも、怪我を治し体力を回復させたところで、失われゆく命を取り戻すことは決してできない。
そんな窮地に、ウンディーネたちは図ったかのように現れたのだった。
確かに仲間は多い方がいいが、命懸けであることを考えると、気軽に手を貸してもらうことはできない。
渋るシャール師匠だったが、元々病弱なミューズ様の体調からすれば、躊躇している猶予はない。
逡巡の後、感謝すると頭を下げ、夢魔の秘薬を手渡す。
救出に向かう彼らは瓶に入った薬を飲み干すと、ほどなく眠るように床に倒れ伏した。
俺は無力にも、ただ見ているだけだった。
穏やかな呼吸音と悪夢にうなされる声を聞きながら、俺はいくつかのことを考えていた。
夢魔の秘薬などというものは、簡単に手に入るものなのだろうか。
ミューズ様の命が狙われる理由はあっても、盛られたのが単純な毒薬でない理由は謎である。
さらに、夢魔の秘薬のことをシャール様が何故知っていたのだろうか。
その存在だけならいざ知らず、対応までも熟知しているのは、不自然といえば不自然だ。
たとえば玄武術士ならば秘薬とも無関係ではないだろうに、と思考を進めたところで、床に寝そべる女性に目をやる。
回復や治療に長けた彼女は、秘薬の作製にも通じているのではないか。
そして夢魔の秘薬を届けたのが彼女ならば、あるいは関係者だとすれば、突然の訪問も当然のことだ。
疑いを強めるが、しかし確たる証拠は何一つ無い。
思考の迷路をぐるぐると彷徨ううち、部屋の中の雰囲気が変わった。
夢魔の薬を飲んだ全員が、同時に目を覚ましたのだ。
ミューズ様に毒を盛った犯人は不明なままとはいえ、事態はひとまず解決した。
心配をかけたと謝るミューズ様、ベッドに抱きついて安堵の涙を流す子供たち。
不思議なことに、目を覚ますと同時に、弱かったミューズ様の身体も常人程に回復した。
まるで、最初から夢の中で何かが巣食っていたかのよう、とは穿ち過ぎな想像であろうか。
シャール師匠と情報を交換し、犯人の見当をつけたらしいウンディーネは、空気を読んでか屋敷を去った。
と思った矢先、今しがた閉じられたはずの扉を開けて、ひょこりと彼女は顔を出した。
そして、仲間になってくれないか、などと言い出したのだった。
アラケスと肩を並べる強大な三体の魔物、誰が呼んだか四魔貴族。
その全てを倒し
アラケスの実力を眼前で確かめたシャール師匠は、当然、簡単には頷くことが出来ない。
ましてや、壮健な身体を手にしたとはいえ、深窓の令嬢として生きてきたミューズ様に戦闘などさせられない。
だが、ウンディーネらがミューズ様の命を助け、恩があることも確かではあった。
さらに言えば、夢の中でシャール師匠は一度命を落としたのだという。
ウンディーネたちが夢魔を倒したから良かったものの、ミューズ様ともども夢に囚われていた可能性は高かった。
事実上、ミューズ様とシャール師匠、二人を助けたのは全て彼女らの功績であった。
聞けば、ユリアンの遺志を継いで世界を救うために、無謀な特攻は決してしないと誓っているとのことだ。
大した力量も無いまま四魔貴族に挑むような、身の程を知らないことは。
魔王殿に一人で足を踏み入れ、命を落としかけた俺は顔が熱くなる。
それは、夢の中で死を体験したシャール師匠も同じだったようだ。
苦々しい表情で拳を握り締める師匠…………その指には宝石が輝いているが、あんな指輪、持っていただろうか。
決め手は、正義感から発せられたミューズ様の鶴の一声であった。
結局、二人は意を決し、世界を救う旅に同行することとなる。
屋敷を子供たち、特に年長である俺に任せて。
そしてどれほどの月日が経ったろう。
屋敷にシャール師匠の訃報が届いた。
ミューズ様は、未だ帰らない。
***
槍を振るう。
無心ではいけない、思考を研ぐが如く振れ、と教わった。
師匠はもういない。
守るべき人も遠くへ行った。
それでも、と零れかけた弱音を、見えない敵を切り裂くように、槍を振るう。
もっと速く振るえる、もっと重く叩ける、もっと鋭く突き出せる。
決して届かない想像の中の最適を、一振りごとにさらに修正して。
まだ先がある。
もっともっと強くなれる。
遅々としてついて来ない己の身体に歯噛みしながらも、ただ、ひたすらに。
槍を振るう、槍を振るう、槍を振るう――――。
「そこの少年よ、少々尋ねたいのだが」
背に声を受けたのは、架空の相手に二段突きを射ち込んでいた時だった。
首にかけたぼろきれで額の汗を拭き、
そして、俺は自分の目を疑った。
俺に話しかけていたのは、人間ではなかったからだ。
鎧にも見える真っ赤な甲殻は、てらりと滑らかに光を反射する。
両腕の先は手のひらではなく、人間の頭くらいなら掴み取れそうな大きさのハサミだ。
足の間からちらりと覗いたのは、幾重もの段で覆われた、甲殻類特有の尾。
二足で直立している人間大のシャコもどきが、そこにはいた。
肩には杖を担いでいて、その先に唐草模様の風呂敷包みを括り付けているのがシュールだ。
「ミューズ、という女性の家は、この屋敷で間違いないかな?」
「ああ。
そして、俺がゴンだ。
ボストン、あんたも転生者なんだな?」
初対面の知人にして同郷の人外を、俺は屋敷の中へと迎え入れた。