ドッペルゲンガー、バイロケーション。どちらも、根本は同じ人間が二人もしくはそれ以上が同時に確認される現象だ。この世には同じ顔をした人間が3人はいるという説話がある一方、ドッペルゲンガーに出会ったら死ぬという逸話が存在している。では、ドッペルゲンガーと同じ顔をした人間の違いは何か。
答えは明白。
自分か、そうでないか。
もう一人の自分。ここがドッペルゲンガーの肝になってくる。
医学的にドッペルゲンガーを説明したものでは、自己像幻視という脳の疾患による幻覚である、というのが通説になってきている。脳に腫瘍が出来ていることによる死亡と自己像幻視が関連付けられ、もう一人の自分を見たら死ぬという話になっていくわけだ。だが、自己像幻視とは、他人からは見えない自分が見えるということである。
これでは他者がもう一人の自分を見た事例に関しては説明がつかない。
他者がもう一人の自分を見た事例として有名なものはエミリー・サジェが挙げられる。
エミリーはフランス人の教師だった。
とある学校に赴任してから数週間が立つとある噂が流れた。それはエミリーが学校のあらゆる所で目撃されているということだった。
もちろん学校の教員なのであらゆる場所で目撃されてもおかしくはない。
しかし、さっき廊下ですれ違ったエミリーが外で花壇の手入れをしていたり、授業をしているはずの時間に職員室でお茶を飲んでいたりといったことが度々起こった。だが、これらはあくまでも噂程度、勘違いだろうということで済まされていた。
だが、決定的なことが起こった。
ある日、いつも通り授業をしていると黒板の前に立つエミリーが二人いたのだ。顔も服装も全く同じ。そしてそれは教室にいた生徒全員が目撃していた。
この決定的な出来事から様々な話が広がり、最終的にエミリーは退職せざるを得なくなった。
これはバイロケーションに分類される話であるが、同時に他の場所で複数の人から確認された事象として脳が見せる幻覚などでは説明がつかないケースである。
さて、ここで、少し話を戻そう。
この世には同じ顔をした人間が3人はいる。
ということは、他者がもう一人の自分を見たのは自分ではなく他人の空似ではないのか。この当然の疑問に対して、自身もドッペルゲンガーを見たことのある芥川龍之介はこう答えている。
「そう言ってしまうのが一番理解できるが、なかなかそう言い切れないのだ」
自分のことは自分が一番よくわかるというように、対面して自分を見ればそれは自分であることに気づいてしまうのだという。
これがもう一人の自分ということ。
「ふむ、成程…よくわからんということだけは分かりましたよ」
目の前のしたり顔をした志貴さんは雪ノ下の入れた紙コップ入りの紅茶を片手に持ち、優雅そうに口に運んだ。
あの日、由比ヶ浜結衣を二人見た日、いや、実際に同時に二人見たわけではないのだが。
しかし、あれは由比ヶ浜結衣であり、だが同じ由比ヶ浜結衣とは言えない状況であったのだ。
ということから至った結論。
総武高で噂になっているドッペルゲンガー現象は由比ヶ浜結衣が当事者ではないか。
その情報について意見を聞くため、雪ノ下が志貴さんに声を掛け、奉仕部に来てもらっていた。
案の定、志貴さんは既にドッペルゲンガーとして見られていた生徒が由比ヶ浜であることを知っており、そして先ほどのドッペルゲンガーについての蘊蓄を垂れていたのだ。
勿論、由比ヶ浜はここにはいない。
今、この奉仕部にいるのは目の前で紅茶を飲む志貴さんと、隣というには少し距離のある位置で何やら難しそうな顔をしている雪ノ下、そして俺の三人。
あの、とようやく顔を上げた雪ノ下。
「ドッペルゲンガーやバイロケーションなどの細かいところについて、今回は置いておくとして、この現象は思春期症候群によるものと考えていいのでしょうか」
「そうだね。古今東西、あらゆるところで報告のあるドッペルゲンガー現象が思春期症候群かと問われれば違うだろうが、今回に関しては思春期症候群だと思うよ」
「それはどうしてですか」
「さっきも言った通り、ドッペルゲンガーにしてもバイロケーションにしても、二人の人間がしっかりとした自我というか…、そうだな、ちゃんと人間とした活動とでもいえばいいのかな。これをする事例がほぼないんだ。ドッペルゲンガーならばもう一人の人間とは会話をすることができない、バイロケーションならば動きがぎこちなくなるなどといった違いが見られることが報告されている。勿論、一概に言うことはできないだろうけれどその他の状況なども鑑みると、思春期症候群として考えたほうが、辻褄が合いやすい」
そこまで言うと志貴さんがにこりと微笑み、
「結局のところは勘ということになってしまうけれど、でもそういうのって意外と重要だろう」
と元も子もない言葉で締めくくった。
× × ×
「それで、あなたはどう考えているの」
志貴さんが帰ってから、少しして雪ノ下が口を開いた。
「どうって言ってもな。仮に思春期症候群だとしても俺らに出来ることは何もない。あの後も普通に雪ノ下たちはクッキーを作っていったわけだし、特に問題もなさそうだろ」
思春期症候群は何かしらの精神的な問題によって発症することが多い。だとすれば、少し前に知り合った程度の人間にそんな複雑な内面を探られたくないだろう。
「まして、思春期症候群について由比ヶ浜から相談されたわけじゃない。俺らが相談されたのは美味しいクッキーのつくり方だ。だから、俺らがするべきことはおいしいクッキーのつくり方でも調べるのが合っているだろ」
軽々と踏み込んでいいものじゃない。思春期症候群について調べている雪ノ下ならそのことをわかっていないはずがない。
「そう…よね」
だから、このことはこれでおしまい。
だいたい、わざわざ志貴さんに聞く必要もなかったのだ。思春期症候群だろうがドッペルゲンガーだろうが俺らにはなにもできない。
いや、もしドッペルゲンガーで由比ヶ浜に死なれでもしたら夢見が悪いから、そこは声かけたほうがいいかもしれんが、急に「あなたのドッペルゲンガーがいるから気を付けて」なんて言われても「は、キモ」で終わるのは目に見えてるので、やっぱり夢見が悪くても、結局俺には何もできない。やむ、餃子つくろ…。
「だいたい、どうして雪ノ下は思春期症候群について調べているんだ?」
「それは…」
雪ノ下の口が続きの言葉を出す直前に、教室の扉がノックされると同時にガラリと開かれた。
「雪ノ下、比企谷、調子はどうだー」
「平塚先生、何度も言うようにノックと同時にあけるのであれば、何の意味もないと」
「そうか、なら次からはノックせずに開けることにするよ」
「それは教師としてどうなんすかね」
そんな感じにのらりくらりと言葉を受け流すと、平塚先生は教室の壁に寄り掛かった。
腕組をしながら、俺と雪ノ下を交互に見る。
そして、机の上に置かれた空の紙コップを見て、
「喜界島でも来ていたのかね」
「この状況だけ見てよくわかりましたね」
そうだろう、そうだろう。と言わんばかりの満足げな顔を浮かべる平塚先生。
「まぁ、実際はさっき喜界島とすれ違ったから、ここに来ていたことは既に知っていたんだがな」
がはは、知っていることを知られないようにするのは案外簡単なものなのかもな。
なんて変なテンションの平塚先生に、雪ノ下がため息まじりに問う。
「先生、それで用事はなんでしょうか」
平塚先生は「ふむ」と顎に手を当て、しばし思案顔になる。
「いやな、最近何やら思春期症候群のような事例を小耳にはさむことが多くてな。もしかしたら、君たちが何か聞いていないかと思ったんだが…その表情から察するに既に何か知っているようだな」
「はい、その件でしたら一つ」
雪ノ下の語りだしは淡々としていた。先日の出来事のあらましを先ほど志貴さんから教えてもらった知識を付け加えながら5分ほどかけて平塚先生に伝えた。
「なるほどな、どうやら私が聞いた内容と大まかには同じようだな」
「大まかには?」
「うむ。私が聞いたのは最近態度や雰囲気が変わった生徒がいる、ということだ。それも誰かが入れ替わっているように出会う度に変わったり戻ったり、という」
そりゃそうだ。ドッペルゲンガーやバイロケーションの可能性を考えるよりは、普通ならその可能性を考えるだろう。教師なら特に、生徒の内面の変化には敏感だ。
態度が異なれば精神的な問題、例えばいじめなどを考えるのが理にかなっている。
だからこそ、生徒指導を受け持っている平塚先生のところに話がいったのだろう。
「まぁ、話は分かりました。それで、平塚先生はそれを確認しにここに来た。まさか、この思春期症候群を解決しろ、だなんて言いませんよね」
「ん?いや、まさにその通りだ。なんだ、すでに雪ノ下から聞いていたのかね?」
「は?」
振り返り雪ノ下を見ると目を閉じながら
「聞かれなかったから、答えなかっただけよ」
と悪びれた様子をおくびにも出していない。
このアマ…。
「どうやらその様子だと雪ノ下は説明していないようだな。この部の目的は自己変革を促し、悩みを解決することだ。私は改革が必要だと判断した生徒をここへ導くことにしている。そしてその悩みに付随することがあるのが」
「思春期症候群、ってわけですか」
その通り、と平塚先生が首肯する。
「君も思春期症候群について何か知るところがあるのだろう。それを以てこの活動を一助してくれないかね」
「思春期症候群については少し知っていることもあります。だけど、それはほんの一例を知っているだけだ。それぞれの解決にはそれぞれのキーがある。何より、そのキーは人にとって知られたくないことのほうが多い」
「君の言うとおりだ」
「第一、俺は他人の思春期症候群をどうにかしたいなんて気持ちはない。ずけずけと他人の心情に入り込むなんて俺のポリシーに反します。話にならない!俺はもう帰らせてもらう!」
「比企谷、残念ながらその手は食らわないぞ。一度喜界島にやられているからな」
くそ、流石志貴さんだ。話の流れから逆鱗に触れたと思わせてそのままフェードアウト法を知っているとは。
「はぁ、分かりましたよ。けれど、今言ったことは本心でもあります」
「なら、助けを求められたときだけでいい。その時は、力を貸してやってくれないか?」
平塚先生は、そう言って優しく、そして少し困ったような表情を浮かべた。
「…分かりましたよ、本人から頼まれたとき限定で」
「あぁ、それで構わない。ありがとう」
差し込んだ西日は鋭く、手元のボールペンに反射して目を刺激した。
自粛でいろいろと気が滅入るなか、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
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