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スマホのバイブ音によって目が覚める。
昨日気づかぬうちに寝てしまっていたのか中途半端な姿勢で寝ており、体の節々がバキバキとなる。点滅を続けるスマホを手に取ると、画面に表示されているのは喜界島志貴の名前。
「あの人、いつの間に登録したんだよ」
溜息とともに着信に答える。
「おはよう、比企谷君!」
記憶の喜界島先輩の声と一致する。やっぱり喜界島先輩の番号で間違いじゃなかったか。
「今日も比企谷君とお話しがしたいと思ってね。どうせだから学校で待ち合わせしようか」
どうせだからの意味が分からんのだが、喜界島先輩の問題を放置するわけにもいかない。
「昼飯食ってからでもいいですか」
「勿論。それじゃあ2時に総武高の正門で待ち合わせで」
「了解です」
部屋の時計を見ると短針が9と10の間にある。もうひと眠りするには少し遅かったな。
仕方なしに、ベッドから這い出てリビングへと向かう。ドアを開くとミャアという声とともにカマクラが頭をすねに擦り付けてくる。
すねにスリスリしてくるこの毛むくじゃらは妖怪『すねこすり』なわけではなくただの猫。
「どした、飯もらってないのか」
ミャアと返事をするように鳴く。
おかしいな、この時間だったらもう誰か餌あげててもおかしくないはずなんだが。
そう思ってテーブルを見るとそこにはラップで包まれた朝食と置手紙。
書かれている内容は、小町と母ちゃんが買い物に行っているのでカマクラに餌をあげておいてほしいということ。
「ほれ」
カリカリをカマクラ用の皿に出し置くと、よほど腹が減っていたのかむしゃむしゃと食べ始めた。
「俺も食べるとするか」
ラップを剥き、盛られたスクランブルエッグとソーセージにケチャップをかける。
テレビをつけ、適当にチャンネルを回していると、勉強の効率、という番組がやっており、手を止める。
学習において、学習者は教育者の期待に応じて成績が向上していく。これは教育心理学における考えの一つであり、ピグマリオン効果というらしい。そしてその反面期待されないことによって成績が下がることをゴーレム効果という、か。
ピグマリオンって確か…、『マイフェアレディ』の原作だっけ。
期待されれば、その成果が出るってことか。まぁ何となく想像がつく。
俺の場合はゴーレム効果がバリバリに起こっていた可能性があるな。
ピグマリオン効果特集が終わると、東京の流行りのランチだとか今若者に流行のものだとかの特集が始まった。
「流行か」
他人の目を気にしすぎた結果が流行ってやつなのだろう。誰が何をしているかだなんて俺からしてみれば心底どうでもいいことだし、みんながやっているから~とかの頼み方もしたことがない。
まぁ、そんな風にいう“みんな”ってやつが俺にはいなかっただけなのだが。
―――“みんな”っていったい誰なんだろうね。
まただ。誰かの記憶が脳裏に浮かぶ。知っているけれど知らない。
確かに聞いたことのある言葉のはずなのに、これを聞いた時期や場所は記憶にないのだ。
ラノベとかアニメの見すぎか?
だとすれば俺はかなり痛いやつになるな。
それこそ、漫画の読みすぎで自分が勇者だと、選ばれし者だと勘違いするのに等しいだろう。
これ以上考えるのも馬鹿らしい。だが、簡単に忘れちゃいけない気もする。
「なんなんだ?」
そんな独り言に答えるようにミャアとカマクラが鳴いた。
× × ×
心地よい風を全身に受けながら、ペダルを漕ぐ。
やはり春風は気持ちいいな、などと考えていると、ふと一年前の記憶が甦った。
そういや、去年のこれくらいの時期に同じようなこと思っていたな。
あの時は、たしか入学式の朝だったはずだ。新しい環境に期待で胸を膨らませていた時期だ。
そして、人生二度目の入院を経験した日でもある。
あの日俺はバカそうな飼い主が手を離し車道に飛び出た犬を思わず庇い、足の骨を折る怪我をした。その時に頭を打った衝撃で一時的に記憶が混濁していたため、小町を泣かせてしまったのだ。
そのせいで俺は高校生活のスタートダッシュに失敗し、学校に行ったときには既にグループができており、ぼっち生活がスタートした。
そうだった。俺が学校に行けるようになったのはゴールデンウィーク明けだったのだ。
一つの違和感が記憶と繋がり始める。
だとすると何故喜界島先輩はそんな簡単な嘘をついていたのだろうか。
その疑問の答えが出る前に、俺は学校に到着した。
「お、やっほー、比企谷君。今日もよろしくねぇ」
校門の前ですでに待ち構えていたのは総武高の制服に身を包んだ喜界島先輩。
「え、制服?」
「おやおや、この美少女志貴先輩の制服姿に悩殺されちゃったのかな」
「いや、そうじゃなく…もしかして学校に入るつもりでしたか?」
勿論、と喜界島先輩。
しまったな、制服で来ている喜界島先輩に対して、俺はパーカーにジーンズ。一目で私服だとわかる格好だろう。さすがに春休みだからと言って私服で学校に入るのには気が引けるな。
「あぁ、服装のことか。ごめんね、もう少しちゃんと話しておけばよかった」
「まぁ、学校前集合ってとこから制服で来ることも考えるべきでした」
「多分私服でも気づかれないでしょ。もし気づかれたとしても、私が何とかするからさ」
意外と私教師からの人望あるんだよ、と嬉しそうに笑う喜界島先輩は昇降口へと進んでいった。
「いやぁ、やっぱりこの時期の教室はすっからかんだね」
終業式を既に終えている学校は生徒たちの学年が変わるため教室の掲示物から荷物まですべてが取り払われている。そのため、どこの教室も似たような雰囲気であり、これと言った特徴もなかった。
喜界島先輩は懐かしむように校舎を見回しながら2年生の教室がある階に上り、俺はその後ろをゲームの仲間のようにひたすらついていく。
立ち止まり、がらりと開いた教室の外には2-Fの掲示。おそらく今までの喜界島先輩のクラスだろう。
「おぉ、やっぱりなんもないや」
感動したように教室をぐるぐると回る先輩は少し年相応に見えた。
常に大人じみた雰囲気を纏っている先輩は俺の一つ上のようには感じなかったのだ。
「先輩の荷物はいつ持って帰ったんですか」
「あぁ、私置き勉とかしないから。むしろ教科書とかは全部家におきっぱだよ」
「喜界島先輩って実は不良少女だったんですか」
そういうと喜界島先輩は本当に面白いことを聞いたようにケラケラと笑う。
「工場なんかで言う不良品という言葉の意味ならば私は十分な不良品だよ」
「それはどういうことですか」
「比企谷君は数学とか生物は得意?」
「理系科目は大体苦手です」
「そうか、正規分布っていうのは知っているかな。別名をガウス分布ともいうね。平均値の付近に集積するようなデータの分布を表した連続的な変数に関する確率分布のことで、中心極限定理により、独立な多数の因子の和として表される確率変数は正規分布に従うというもの。このことから、正規分布というのは統計学や自然科学、社会科学の様々な場面で複雑な現象を簡単に表すモデルとして用いられているんだ」
まくしたてる先輩の言葉の波についていけず、眉をひそめていると先輩は黒板の前に立ち左手でチョークを握った。
「いいかね、比企谷君。正規分布とはこのような関数をさすことが多いのだよ」
先生のような口調を真似する喜界島先輩は黒板と向き合いながら手を動かす。
ぎこちなく黒板を白く塗っていく線を目で追うとどこかで見たことのある形になった。
俺がどこでこれを見たのだろうか…。記憶は新しい、そうだ今朝のテレビだ。
「人間の学力分布もこの形をとるって朝ニュースで見ました」
「おぉ。それなら話が早い。私たち人間は学力を調査するとこのような正規分布になるようになっている。そして確率密度として、多くの人たちはこの範囲に当てはまる」
そういうと喜界島先輩は山型の曲線の両端を切るように縦線を引く。
「大まかに8割がこの中に当てはまる。これがいわゆる普通」
そこまで言って、なんとなく喜界島先輩が何を伝えたいのかを察する。
普通の範囲はここ、つまりその範囲を逸脱しているものは普通ではない。
「あまりこういう表現はしたくないのだが、頭の悪い人間というものは存在する。そして日本政府はそれを認識しているし、対応している。例えば特別支援学級や学校などで、だ」
小中学校の記憶を遡る。受験という学力による選別を受けることなく入れる小中学校には高校なんかより学力の振れ幅が大きかった。勉強ができる奴もできない奴もごちゃ混ぜになって同じ授業を受けていた。
「だけれど、今の学校教育ではこちら側というのはさほど重要視されていない」
そういう喜界島先輩の指さす先は山の右側。つまり
「高い学力をもった人、ですか」
「あぁ、学力が高いため学校教育についていくことができないということはないからね。しかし、この枠の人たちも苦労は抱えている。周りとの違和感さ、周りの生徒たちと話が合わないんだ。特に年齢が低ければそれは顕著に出る。小学一年生に遺伝子工学の話をして楽しいと思うかい?」
小学生どころか今の俺に説明されても理解できる気がしない。おおよそこの先輩は小学一年生の時に本当にクラスメイトに遺伝子工学とやらの話をしたのだろう。
「それどころか、小学校なんてのは児童の学力を一定の範囲にとどめようとしていた。比企谷君も覚えていないかい?習ってない漢字は使ってはいけないだとか、教科書を先に読み進めてはいけないだとか」
まったくもって不条理だ、と喜界島先輩は不満げに言う。言葉の通りに学力を抑圧されていた。
能力があるものに対し、その能力を使わせない学校教育に対する不満。
理解してくれなかった教員に対する不満。
そして、それに抗う術を持っていなかった自分に対する不満。
強く握りしめる左手にそんな思いが詰まっているのだろう。
「総武高でも、やっぱりそうなんですか?」
「高校はそうでもないよ。思っているより楽しめてる。中学とかに比べて割と自由な時間が多いからね、成績さえ出せばある程度のことは許される」
だから退屈だけれども、それなりに楽しめた。
昔を懐かしむような表情はどこか遠くを見つめている。
「ともかく、私は学力的に頭のいい、美少女天才JKってわけなんだよ」
今までの流れを断ち切るように唐突に振り返り、先ほどよりも大きな声で、まるで誰かに宣言するように言葉を出す。
「さいですか。そうなると美少女JKの先輩はさぞかし期待されているんでしょうね」
「あぁ、しているだろうね。周りはみんな私を天才だとまくしたてている。羨ましいと褒め称える。だけど、そんなのは幻想だ。勉強ができたところで幸せになれると確約されているわけではない。私はね、比企谷君。勉強が少しくらい出来なくても、私を理解してくれる、そんな優しい男の子に出会って、お互いを思いあう。そんな恋がしてみたかったんだ」
喜界島先輩は優しく、そして少し頬を赤く染めながら夢を語った。
そんな喜界島先輩をみてなぜか背筋が寒くなる。
まるでこの先輩はそれが叶うことのない夢のように、幻のように、どんな人も一度は夢見るであろう平凡な夢を語っているのだ。
「そんなの別に今でもできるじゃないですか。まだ、高校生だ。そんなのはいくらでも」
そういうと喜界島先輩は力なく首を横に振った。
その意味を聞こうとしたとき、教室の扉を引く音に遮られた。
「誰かいるのか~、って、おぉ、喜界島じゃないか、久しぶりだな。それに比企谷も。どういうつながりかね」
白衣に身を包む黒髪の女性。片手には資料が詰まっていると見える段ボールを抱えていた。
確か、この人は、現国の
「平塚先生、お久しぶりですね。あ、比企谷くんが私服なのはですね」
「いいさ、私はそういうことに関しては気にしない」
それは教師としてどうなんだ、と思わず口にしかけてしまう。
変わった先生だ、かと言って理解のない人ではなさそうだ。
「もちろんきちんとすべきところは注意するさ。だが、春休みに私服だからと言ってとやかく言うのはどうかと私は考えている。しかし、そういうことを気にする先生もいるから注意はするように」
びしっと指さすとふふんと満足げな顔を浮かべる。
なんだろう、このかっこいいのに少し残念な感じ。
「さて、まじめな話だ。喜界島その右腕動かないのか」
「あ、気づかれちゃいましたか?」
「勿論気づくさ。私は教師だぞ、舐めるな。…病気か?」
「病院にいきましたが原因不明、と。悪いところはないって言われました。おそらく思春期症候群じゃないか、ってのが私と比企谷君の見解です」
なんでもないように思春期症候群について平塚先生に話した喜界島先輩のほうを思わず見てしまう。
「あぁ、大丈夫。平塚先生は思春期症候群についてそれなりの理解があるんだ」
「なるほどな、それでこの組み合わせか。私に一人思春期症候群に詳しいというか、調べている奴がいるが紹介しようか?」
うーん、と喜界島先輩は考える素振りをみせるが
「大丈夫です」
とあらかじめ思いついていただろう言葉を返した。
「そうか、だが、どうしようもなくなったら…、いや、どうしようもなくなる前にきちんと相談しろよ」
そういうと平塚先生は教室を出ていった。
「…よかったんすか、なにか得るものがあったかもしれないのに」
「そうなんだけれどねぇ」
陽乃さんに借りを作るとあとがこわいからなぁ、と微妙な笑みを浮かべる。
この先輩にそんな風に思われるとは、陽乃さんとやらは一体どんな人なんだろうか。
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