自販機で何か飲み物でも買おうか、平塚先生がいなくなってから10分ほど続いた沈黙を破るように喜界島先輩はそう言った。
二階に位置する教室から、1階の自販機が立ち並ぶコーナーへ向かう。
リノリウム製の廊下には二人分の足音が鳴り響いた。
春休みということもあり、俺と喜界島先輩以外に生徒は見当たらない。
もちろんそれは見当たらないだけであり、耳を澄ませばどこかで練習をしているであろう、管楽器の音や、サッカー部や野球部の掛け声なんかが聞こえてくる。
「比企谷君は何か部活に入っていないのかい?」
同じことを喜界島先輩は考えていたのだろう。そんな質問をしてくる。
総武高は部活の強制加入などはなく、各々任意で入部するのだ。
「入学前は高校に行けば、けいおんに入れば放課後にお茶会をしている人たちがいたり、自らを演じる乙女たちがいたり、宇宙人や未来人を集めた部活があったりするんじゃないかと幻想を見ていましたよ」
現実はそんなに美しくはない。
部活内ですら、各々意識に差があり、グループができてしまっている。みんな仲良く、なんて言葉は偽物で、そんな場所は幻想だ。
「比企谷君は随分とまじめなんだね」
喜界島先輩の言葉がすとんと胸に収まる。
「きっと比企谷君は理想を求めているんだ。だからこそ、この世は君らのような人達にとっては生きづらい。正しいことが常に正しいとは限らないのが今のこの世の中だから。部活での温度差は私たちが経験しうるなかで最も身近なことの一つだろう。まじめに取り組めば、何マジになっちゃってんの、なんて冷やかす人が出てくる。周りの“みんな”ってやつを気にする。そんな社会だ。実につまらない。向上心のないやつほどつまらないやつはいない」
自分の言葉にすることができない思いを翻訳するかのように、喜界島先輩の言葉は俺の心を代弁してくれた。
「そして、こんな考えは思春期特有のものなのさ」
「それはどういうことですか」
そこまで話したところで自販機の前に着いた。
ガタンと小気味の良い音が二回なると、喜界島先輩はこちらに向かって黄色物体を放り投げる。
それをキャッチすると手のひらに温かさが広がった。
「ありがとうございます」
喜界島先輩はそう言う俺をみて満足そうに頷くと、細くきれいな指でプルタブを起こし、その手に持つカフェオレを口に運んだ。
手にある温かい缶を見ると千葉のソウルドリンクことマックスコーヒー。
さすが分かっているな、と俺もプルタブを起こし、口に広がる練乳を含むコーヒー独特の風味を楽しむ。
「さて、続きを話そうか」
近くにあった青いベンチに腰掛けると隣を指さす。
その指示に従うように隣に一人座れるほどの余白をあけて腰を下ろした。
「思春期特有の考え、というのは言葉の通り思春期の特有の考え方ということ」
「そのままじゃないですか」
その通り、と意地悪そうに笑った。
「大人になるとそういう風に考えられなくなる。というか、洗脳されてしまうんだよ。社会に出れば、暗黙の了解だとかいう謎のルールに縛られる。もちろん、これは学校生活においても言えるんだけれど、そんなのよりももっと汚い。そして、それを守らないと出世できないんだ。正しくあろうとするものが、この世界では淘汰されていく。そうやって、小賢しく、意地汚く生き残った者が上に立っている。だから、世界は変わらない。俺たちがこうしてきたんだからお前たちもこうあるべきだ、っていう」
馬鹿らしい、だからこの国は進歩しないんだ。
不愉快そうに、まるで自分が体験したかのようにそう語った。
「話を戻そう。高校生や大学生はこどもと大人の狭間にいる。純粋な目で世の中を見渡せるようになり始める時期。だからこそ、思春期特有の考えなんだ。これを大人に言えば、それは理想でしかない、現実はそんなに甘くない、とバッサリ切り捨てられるだろうね」
現実はそんなに甘くない。この言葉で何度自分を諦めてきただろうか。
自問するが自答は出ない。
理性で、現実的に考えて、最善だと思う行動をとってきた。
だが、理想を抑圧された世界は“本物”なのだろうか。
「難しい話はやめよう。せっかくの天気だ」
この時期はこうやって日向ぼっこしながら微睡むのが一番いい。
そういうと喜界島先輩は溶けるようにベンチの背もたれに身を預けた。
対照的に俺の背中は丸まっている。
「今更なんだけれどさ、比企谷君」
「なんですか」
後ろから聞こえる声に返す。
「どうして昨日会ったばかりの私にこんなにも付き添ってくれるのかな。もしかして私のこと好きなのかい」
「…まさか。それは、先輩が危険な状態で…」
「建前はいい。本音を聞かせてくれ」
曖昧な返事はバッサリと切られる。
なぜ、俺は喜界島先輩に付き添っているのか。
俺にしか喜界島先輩の思春期症候群に気づけていないから?違う、さっき平塚先生も気づいていた。
喜界島先輩が困っていたから?これも違う、喜界島先輩は別段困った素振りはみせていない。
俺が喜界島先輩のことが好きだから?これこそ可笑しい。昨日会ったような人を一瞬で好きになるような人間じゃないのは自分でもわかっている。
では、なぜ俺はこんなにもこの人が気になるのか。
「…わかりません。どうしてなんすかね」
振り返らずに自分の思いを正直に告げる。
「比企谷君、君は私たち人間の脳の構造を知っているかい?」
は?突然の質問に素っ頓狂な返事をしてしまう。
「いいから聞きたまえ。脳は大きく分けて大脳、小脳、脳幹という3つの部位から成り立っているんだ。そして記憶には、頭で覚える陳述的記憶と、体で覚える手続き記憶の2種類がある。この記憶というのはそれぞれ働く脳の場所が異なっていて、陳述的記憶は新しい情報を海馬に記憶し、そして長期記憶として残すと振り分けられたものが大脳新皮質に記憶される。手続き記憶というものは大脳基底核と小脳によって記憶し、刷り込まれる。だから私たちは普段自転車に乗っていなくても乗れるし、泳ぐこともできる。体で覚えた手続き記憶は、消えることなく、いつまでも私たちの脳に刻み込まれているわけだ」
きっとこれでも俺のためにいろいろと端折って説明してくれているのだろうが、如何せんそもそもの大脳や小脳などがどこをさすのかがさっぱりなので、話の3割も理解できない。
「これが、最大のヒントだ。記憶は脳のあちこちで分担されて記録されてる。だから、記憶喪失した人でも言葉は話せたり、歩いたりすることができる。以上だ」
× × ×
喜界島先輩と別れた後も、喜界島先輩の話した言葉の意味を考え続けた。
喜界島先輩は無駄な話はあまりしないタイプだろう。そんな喜界島先輩がわざわざヒントとまで言って俺に脳の構造と記憶について話した。
つまり、俺の記憶の違和感と、喜界島先輩の今までの行動の違和感の原因はここにあると考えていい。そしてやたら強調していた言葉。
“記憶喪失”
確かに俺は、一年の時交通事故にあっていて頭を打った。だが、それは意識の混濁程度ですぐに治ったし、医者にも特に問題はないといわれている。
本当にそうか?
今冷静になって考えてみるとおかしなことがいくつもあった。
自分の知らない誰かの記憶。それこそが俺の失ってしまった記憶なのではないだろうか。
こうしてほとんど記憶が正常のなか失ってしまった記憶があったとして、それに気づけるのだろうか。
それはシャープペンを買ったことを忘れている人にそのことを思い出せと言っているようなもの。辻褄の合わなくなるような重大な記憶出ない限り忘れた記憶など思い出すこともないのだろう。
では、俺の場合は?
本日二本目のマッカンを口にしながら考えていると、先ほど聞いた声で名前を呼ばれた。
「どうした、比企谷。喜界島とはもう別れたのか?」
先ほどと変わらぬ服装の平塚先生が不思議そうにこちらを見つめていた。
「さっき用事があるって言って帰りましたよ」
「そうか、比企谷は何をしているのかね」
「喜界島先輩の言っていた言葉の意味を考えていました」
なるほどな、と何かを納得した様子の平塚先生は俺の座っていたベンチの隣、つまり先ほど喜界島先輩のいた位置に座った。
「彼女は優秀だからな。いろいろなことが見えてしまうし、気づいてしまうのだろう。優秀なものは似ているのかね」
その言葉には喜界島先輩以外も含まれていた。もしかするとさっき言っていた陽乃さんとやらかもしれない。教師である平塚先生はあの喜界島先輩の考えを聞いたらなんと返すのだろうか。まぁ、この人教師という雰囲気ではないから、案外喜界島先輩の意見に賛同しかねない。なんなら一緒になって社会に対する不満をぶちまけるまでありそうだ。
ふと、朝の特集を思い出す。
「先生はピグマリオン効果って知っていますか?」
「おぉ、もちろん知っているぞ、どうした比企谷。教師に興味でもあるのか」
「そういうわけじゃないです。ただ、今朝特集でやっていて記憶にあってですね。喜界島先輩なんかは期待されているからピグマリオン効果で、より頭がよくなるのか、なんておもいまして」
ふむ、と腕を組み少し考える素振りを見せる。
「比企谷、ピグマリオン効果の名前の由来は知っているか?」
「ピグマリオン、戯曲ですよね、マイフェアレディの原作となっている」
「なるほど、では、マイフェアレディの内容は知っているかね」
「大まかにだけなら」
数年前に親父と一緒にみた記憶の糸をたどる。イギリスを舞台とした、ミュージカル映画。
主人公はコックニー訛りの強い女性だった。言葉遣いから出身がわかるという男に出会い、言葉遣いを変えることで女性としての魅力を高まるか、という実験に使われる。
最終的に、魅力は上がるが扱いに不満を抱いた主人公が男のもとを離れる、という落ちだったはずだ。
「ありがとう。ここで注目してもらいたいのは男が主人公を理想の女性に変えようとしたことだ」
「はい」
それがこの物語の中心であるだろう。
「ピグマリオン効果もマイフェアレディのほうも、ギリシア神話に出てくるピュグマリオーンが元となっている。この男は現実の女性に絶望し、石像を作ることで理想の女性を生み出そうとした。そして、その現状に見かねた神はその石像を女性に変えたんだ」
現実に絶望し、理想を求めた男。そんな哀れな男に神が手を差し伸べた。
「ピュグマリオーンもマイフェアレディもどちらも現実を変えようとした。だが一方はなしとげ、もう一方は挫折した。まぁ、これをどうとらえるかは君次第だね」
さぁ、と立ち上がると平塚先生は微笑んだ。
「もう遅い、比企谷、君も早く帰ったほうがいいだろう」
「うす」
最後に一つだけ。
ピグマリオンは自分自身が望んだものになるわけではなく、理想の押し付けでもあることを覚えておいてくれたまえ。
そういうと平塚先生は白衣の袖を翻し、校舎の中に入っていった。
理想の押し付け、か。
だとすると、一体彼女はどれほどの理想を押し付けられてきたのだろうか。
温もりを失った潮風が立ちすくむ俺の体に容赦なく吹き付け、体温を奪っていった。
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