「なぁ、小町。石像を本物の人間に変えるくらい理想を求めるってどうなんだろうな」
「なに、お兄ちゃん、唐突に。頭打った?しかも、言ってること意味わかんないし。まーた二次元の女の子に恋したの?」
小町の顔は見えないが呆れた顔をしていることは容易に予想がついた。
「ばか、ちげーよ」
「あ、でもでも、最終的に小町のところに戻ってきてくれるなら、小町はそれでいいよ。あ、今の小町的にポイント高い!」
「はいはい、かわいいかわいい。なんか最近いろいろあってだな」
なになに、とダボついた長袖に包まれた小町がソファから顔を出した。
「頭がいいけど少し変わっている人でな」
「お兄ちゃんに変わっているって言われるなんて余程変わってるんだね」
小町はうーんと腕を伸ばした。
「それで、その人の名前は?」
「喜界島、志貴」
小町はニッと笑うと聞き逃せない言葉を何気なく、ぽつりと漏らす。
―――懐かしい名前だね。
× × ×
春休み最終日。始業式を前日に控えた比企谷八幡と喜界島志貴は都内新宿のサンシャイン水族館の入り口に立っていた。
エレベーターに乗り込んだときのオフィス感は消え、都内のオフィスビルだというのに目の前には水が小さな滝のように流れるオブジェが、ライトアップによって雰囲気を醸し出している。
満足げな表情の喜界島先輩はチケットカウンターに向かう。
自動チケット販売機で発券する喜界島先輩を遠目で見ていると、喜界島先輩がこちらに向かって手招きをした。
「比企谷君、特別展でへんないきもの展もやっているらしいけど興味ある?」
ちらりとこちらを見上げる喜界島先輩からふわりと柑橘系の香りが鼻腔を擽った。
よく見ると、薄くだが化粧をしている喜界島先輩に気づく。
緊急という文面にて池袋駅に呼ばれたので何事かと構えていたら、いつもよりも着飾っている喜界島先輩が待っていた。
そして、何も説明されるわけでもなく連れられてきたのは、サンシャイン水族館。
まったくもって喜界島先輩の考えが読み取れなかった。
改めて喜界島先輩のほうを一瞥すると、こてんと小首を傾げた。
白ニットも相まって喜界島先輩の亜麻色の髪がふわりと映える。
「どうしたの?」
かわいい、あざとい、かわいい。そんな言葉は胸の底に飲み込む。
「…へんないきものなのは自覚しているので、見世物になる気はないです」
「そうか、確かに私も君も変な生き物だ。見世物になるのは可哀そうでもあるな」
成程、と咄嗟の言い訳に妙に納得した風にうなずく喜界島先輩は、そのまま2人、大人をタップし入場券を2枚購入した。
「あ、いくらですか?」
「呼び出したのは私だからね、今回はいいよ」
先輩だし。とぼそりと呟いた言葉は聞こえなかったふりをした。
というか、先輩サイゼで奢れなかったことまだ気にしてたんすね。なんて言えるような雰囲気でもなかった。
入ると出迎えたのはサンゴ礁の生き物たちであった。
薄暗い室内で証明によって照らされた水槽。その中を悠々と泳ぐ色とりどりの魚たち。
幻想的な、そして人工的な世界だ。
「ほら、比企谷君。マイワシだ。こんな水槽の中でもきちんと群がりを作るんだね」
そして喜界島先輩は、その手前にいたチンアナゴなどには目もくれず、イワシの群れの前で目を輝かせた。
「群がり、ですか?群れじゃなくて」
「群れといういうのは同一魚種の集まりをさすんだ。今回のように他の種も混じりながら泳いでいる場合は群がり。他にも進行方向のばらつきなんかでも呼び方は変わるのだけれども、今回は置いておこう。ほら、マイワシの中に少し大きい魚がいるだろう」
そういう喜界島先輩の指さす先を見ると、イワシよりも一回り大きな魚が確かに泳いでいる。これに気づいてよく見てみれば、イワシしかいないと思っていたこの水槽の中には、別の魚が何匹か混泳していた。
「ちなみにあの魚の名前は分かりますか?」
「うーん、多分マサバじゃないのかな。ゴマなら模様が出るんだけれどもまだ小さいから見分けが付きづらいんだよね。だから多分」
ほう、とよくわかってないのだが分かったようなふりをする。
難しい話をされているときってよくわからんけど曖昧に返事しちゃうよね。なんでか、よくわからんけど。いやそれ全然わかってないな。
「サバって切り身とかでしか見ないっすけど、こんな感じなんですね」
唯一理解できたサバという単語。そして純粋な興味。
テレビなんかで今の小学生は魚は切り身の状態で泳いでいるという風に考えているということを笑う大人たちがいた。
その時は今の小学生はバカだな、としか思わなかった。
だが、問題の本質はそこだけではないのだと今ならなんとなくわかる。
魚は切り身で泳いでいるわけではない。それがわかる大人はほとんどだろう。なら、実物を見てこれが鯖だ、鰆だ、鯵だ、ホッケだなんて見分けられる大人がどれほどいるのだろうか。
命をいただいているだなんて崇高な思想を常に持っているわけではないが、現代の生きている姿を見ないでも食べることができるというのは、随分とおかしな状態であるとは思える。
結局自分もそんなバカのうちの一人なのだと自覚する。
目に見える事実しか存在しないと考えるものは思考停止しているのだろう。
本当に大切なものは目には見えない。サン=テグジュペリはそう言った。
無知の知。ソクラテスはこれを大切にした。
知らないこと、わかっていないことがある。それは全ての事において言えるのだろう。
魚や人間関係や思春期症候群においても。
それを踏まえ俺はこれからどう選択をしていけばいいのだろうか。
「水族館は素晴らしいところなんだよ。私たちは知っているようで何も知らない。普段食卓に上がる魚だって泳いでいる状態を見たことがある人は少ないだろう。普段目にすることのない世界を特別なスキルなしに体感できるだなんて素晴らしい以外の言葉はないだろう」
うすら青い光を零す回遊水槽は喜界島先輩を優しく照らす。
「さぁ、次を見に行こうか」
振り返る喜界島先輩の足が縺れ、地面に吸い付けられるように倒れこんだ。
慌てて腕を出したおかげで喜界島先輩の頭は地面と激突せずに済んだ。それはよかった。
ただ、
「喜界島先輩。もしかして、右腕だけじゃ…」
思春期症候群の症状が悪化している。
「段々とね、右腕だけじゃない。左手や足なんかもたまに今みたいに動かなくなってきているんだ。前回の右腕のことから推測しても動けなくなるにはそう長くはないだろうね」
そう言う喜界島先輩は目を合わせてくれなかった。
「助けてくれてありがとう。でも、今日はそれ以上は聞かないでくれ。今は思春期症候群のことを忘れて純粋に楽しみたいんだ」
力なく俺の肩をつかむ喜界島先輩の手は今にも消えてしまいそうなほど儚く見えた。
その後は喜界島先輩は何事も無かったように振舞っていた。
大型水槽の前に立てば、サメの生殖器について蘊蓄をたれ、それから何故捕食者と被捕食者を同一水槽内で飼育可能なのかについて嬉々として語っていた。
ゆらりと舞うクラゲ水槽では、年相応の少女のようにはしゃいでいた。
そして最初のフロアに戻ってきた。サンシャイン水族館は入り口で右に行くと水槽展示、左に行くと海獣などのショーフロアとなっている。
薄暗い世界になれた目は、外の光に過剰に反応してしまい思わず目を瞑る。
目を開くと東京のビル街の空を泳ぐようなペンギンやアシカが映る。
天空のオアシスとはよく言ったもんだな。
まさに言葉を体現したような空間を眺めながら水族館の出口へと進んだ。
彼らは自分たちが囚われていることをよく理解しているそうだよ。
喜界島先輩がアシカショーを見ながら言った言葉がやけに耳に残っていた。
× × ×
「今日は付き合ってくれてありがとうね。…と言いたいところなんだけれどもう少し私の我儘に付き合ってもらってもいいかい」
「いや、今日はちょっとあれがこれの日なんであんまり遠出をするのもですね…」
「そうか、なら大丈夫そうだね」
いや、この人俺の話聞いてたのかよ。
とは言え俺も人の話は普段から半分くらいしか聞いてないし、何ならうまい話は話半分に聞いとけという親父の教えを守って、話四分の一程度にしか聞いてないまである。
「遠出じゃなく学校のほうに戻るわけだからそんなに遅くもならないよ。今日はもう一つ行きたいところがあるんだ」
まぁ、水族館代払ってもらったしそれくらいは付き添うか。
その魂を対価にして君は何を願う?なんていう宇宙人の悪質な取引を見てきたからな。
適切な対価に見合った行為はせねばなるまい。
「その顔は下らない言い訳でも考えているのかい」
隣を歩く喜界島先輩がくすりと笑った。
俺はその言葉が聞こえなかったふりをしながらポケットに仕舞ってあるICカードを探した。
× × ×
喜界島先輩に引かれるがままついてきた場所は稲毛海岸。
なんだか、今日は喜界島先輩の後を何も言わずについていきすぎな気がするな。
俺が幼女だったら誘拐事件回避不可能。
ふぇえ、ここどこぉ。おかーさーん。
なんて馬鹿なことを考えていると喜界島先輩は砂浜に腰を下ろした。
「私はね、悩んだときはよくここに来るんだ」
夕日に照らされる先輩はいつかの日のように、どこからか切り抜いた景色を張り付けた様な印象を与える。そんな喜界島先輩の姿に見惚れる。
「さて、比企谷君。これまで付き合ってくれたお礼に答え合わせをしようか。君も大体のことは想像がついているんだろう?」
向かい来る波を見つめながら、喜界島先輩の隣にもう一人座れるほどの余白をあけて腰を落とした。
「これまで何度も違和感がありました。千葉駅であったとき喜界島先輩が俺に声をかけてきたことから今に至るまで何度も。喜界島先輩はあえて答えを出さずにいくつものヒントだけを俺に与えていたんですね。最初の矛盾は喜界島先輩が俺のことを入学式で知ったといったこと。それは無理な話なんです。なぜなら俺は入学式前に交通事故にあって入学式はおろか4月は丸まる入院していたから高校には行っていなかった。だから、名前は知りえど、顔までは知る機会はなかった」
口を開くと何も考えずに言葉が自然と出続けた。これまで感じてきた違和感の正体。そして今までこの事実を忘れていた愚かな自分に嫌気をさしながら。
「他にもヒントはたくさんあった。この前言っていた脳の構造なんかはまさにそれだ。何の脈絡もなくあの話をするはずがない。そう思っていたおかげである可能性にたどり着けた。俺の記憶が飛んでいる可能性だ。忘れているという事実を知らなければ思い出せない、いや思い出そうともしなかっただろう。だから俺はこの一年間記憶喪失に気づけなかった。そしてこの可能性が確信に変わったのは昨日、妹が喜界島先輩のことを知っていたことだ」
小町に言われなければ、きっと今も可能性の一つとしてとしか考えていなかっただろう。
「小町と話してやっと記憶が戻った。というか、抜け落ちていた情報がパズルのようにつながった」
喜界島先輩は、俺の考察を聞き続けた。
「あの時、俺と先輩は出会っていたんですね」
潮風が吹き付ける夕暮れのなか、彼女は微笑む。
「正直言って辛かった。君の記憶が欠落していることにはすぐに気づいたさ」
なら、その時に教えてくれれば。喜界島先輩は首を振る。
「それはできなかった。そんなことを急に言われて人は信じない。そして何より君の脳に重大な影響を与える可能性もあった」
記憶喪失状態の人に欠落した記憶を急に思い出させようとしたときの症例を喜界島先輩は語った。理解できた内容はわずかだったが、それでも喜界島先輩の葛藤の理由は理解できた。
「まったく、君という人間は何とも面倒だね」
「すみません、志貴さん」
その瞬間視界が空転した。気が付けば俺は志貴さんに抱きしめられながら、夕暮れ空を仰いでいた。
ちょ、え、これなんてエロゲ?
脳内は真っ白になり、いい匂いだとか、体を包み込む志貴さんの体温だとか、柔らかいだとかで埋め尽くされていた。いや、全然真っ白になってねーな、俺の脳内。
「怖かった。怖かったんだ。自分が消えていく中で、比企谷君の記憶からも消えていくんじゃないかって不安で仕方なかった。千葉駅であったとき比企谷君が私のことを覚えてないと分かったときは血の気が引いた。他の誰かに忘れられるのとは比べ物にならないくらいに。よかった、本当にっ」
嗚咽を漏らしながらの愚図った声。それでも、耳元で叫ぶ志貴さんの言葉は聞き取れた。
志貴さんは今思春期症候群と戦っている。
志貴さんは昔思春期症候群につぶされかけた俺を救ってくれた。
ならば、俺は同等の対価を払うべきだ。
やり場のない両手を空にやりながら決心する。
今度は俺の番だ。
不安と安堵から泣き続ける少女の体温から、確かにここに喜界島志貴がいるのだと感じながら。
そして、
この日を境に俺の前から彼女はこの世界から消えた。
八幡が八幡してないのは、導入のこの話が終わるまで許してください(汗
いろいろと他にも疑問点はあると思いますがその辺の伏線も回収していく予定なのでよろしくお願いします。
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